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2008/08/27

【お城ファン倶楽部 No.148】日本100名城(その20)新発田城

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【お城ファン倶楽部 No.148】日本100名城(その20)新発田城
                              2008/08/27(Wed)
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 新潟県で100名城に選定されたのは、新発田城と春日山城である。新発田城は比
較的最近御三階櫓と辰巳櫓が復元され、また春日山城は上杉謙信の本城としてよく知
られている。選定としては、まあ順当なところでしょうか。
 今回は、新発田城を取り上げます。新発田城の本丸のほとんどが陸上自衛隊の駐屯
地となっているために入れないのが残念ですが、現存する本丸表門や旧二の丸隅櫓に
加えて天守に相当する御三階櫓と辰巳櫓が再建されて魅力を増している。本丸表門と
旧二の丸隅櫓は国の重要文化財にも指定され、新潟県内に残る唯一の江戸時代当時の
城郭建築として貴重な存在である。


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 新発田城
  所 在 地:新潟県新発田市大手町
  史跡区分:城跡は新発田市指定史跡
       表門・旧二の丸隅櫓(附表門板札、隅櫓棟札)は国の重要文化財
  入 場 料:なし、開門時期は4月〜11月(9:00〜17:00)
  交通機関:車の場合は日本海東北自動車道で聖籠新発田ICで下り、左折して国
       道7号線に入る。 1.5kmほど進んだ新栄町交差点を左折して、県道32
       号線を新発田駅方面に向かう。 2.5kmほど先の交差点を左折して、新
       発田紫雲寺線に入る。案内板にしたがって道なりに進むと、新発田城
       となる。堀端の城跡公園の所に駐車場があるので、これを利用する。
       公共交通機関の場合は、JR羽越本線新発田駅で下車する。駅前右手
       の道を1kmちょっと進んだレジャー会館先の交差点を右に折れ、その
       まま道なりに進む。市民文化会館に沿って右手方向に行き、その先の
       T字路を左に折れる。次の交差点を左に入ると、新発田城である。新
       発田駅から約2km、徒歩で2〜30分である。なお、駅前から新潟バ
       ス藤塚浜または中条行きを利用して、県立病院前で下りても良い。
 http://www.city.shibata.niigata.jp/html/index02/shibatajo/
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/siro3/shibata/index.html
 http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/koushinetu/c-1-3-4-1-siro-SHIBATA.html
 http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kosin/sibata.html
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mononofu/sibatazyou.html
 新発田城の幕末時における復元想像図は、下記で見ることが出来ます。
 http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Hokuriku/Niigata/Shibata/Photo/Zu1.jpg
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◆加地氏一族の新発田氏によって築かれ、北越に一大勢力を築く

 新発田城が最初に築かれた時期については、よく分かっていない。近江宇田源氏佐
々木盛綱は平治の乱の敗北により関東に落ち延びていたが、源頼朝の挙兵とともにし
たがって鎌倉幕府成立に大きな働きをする。盛綱はその功により越後加地荘を賜り、
その子孫は加地城を本拠として加地氏を名乗った。室町時代となって、この加地氏か
ら分かれた新発田氏が、現在の新潟市から三条市におよぶ地域を支配した。新発田氏
は新発田城を代々本拠としていることから、年代は不明確ながら新発田城を築城した
と考えられる。

 戦国期となると新発田氏は阿賀野川以北の国人領主の中でも独立性の強い存在とな
り、戦国大名に成長した越後守護代長尾為景に対抗するまでとなっている。しかしな
がら天文17年(1548)に為景の四男景虎(謙信)が家督を継ぎ、さらに2年後の天文19年
(1550)に将軍足利義輝によって越後国主として認められると、他の国人衆と同様に景
虎に服属するようになる。


◆御館の乱で景勝に与した新発田重家は上杉氏に反旗を翻すも敗れる

 この頃の新発田氏当主は長敦で、七手組大将として本庄繁長や柿崎景家らと並び称
されるほどの武将であった。また長敦は外交手腕にも優れ、謙信の側近として重要な
地位を占めるまでとなった。天正6年(1578)に謙信が急死すると、謙信の甥にあたる
景勝と北条氏康の七男で養子となっていた景虎の間で御館の乱と呼ばれる跡目相続が
勃発する。

 新発田長敦は景勝を支持し、武田勝頼との和議を結ぶなど景勝の勝利に大きく貢献
する。こうして多大な働きをした長敦であったが、上杉氏内部の対立などもあって恩
賞が与えられなかった。天正8年(1580)に長敦が病死すると、五十公野氏を継いでい
た実弟の重家が新発田氏の当主となった。この重家は大変に武芸に優れ、上杉家中に
もその名は轟いていた。

 重家も御館の乱では兄以上に大きな働きをしたが、結局恩賞はもらえず、不満を抱
くこととなった。重家は上杉攻略を画していた織田信長と結び、天正9年(1581)に一
門や景虎を支持していた国人衆を引き入れて景勝に反旗を翻す。翌年2月に景勝は攻
勢に出るが、あっけなく重家に撃退されてしまう。さらに中立を保っていた会津の蘆
名盛隆も織田側に付き、春日山城近くまで織田勢に攻められるまでとなる。

 同年6月2日に本能寺で織田信長が斃れると、状況は一変する。織田勢は一斉に引
き上げ、重家は孤立することとなる。一方の景勝は信長の後継を自認する羽柴秀吉に
臣下の礼をとり、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いなどに助力している。天正14年
(1586)には上洛して秀吉と会見し、越後一国を任されることとなる。こうして越後平
定の大義名分を得た景勝は、翌年には重家討伐を開始する。加地城、赤谷城そして五
十公野城などが落とされ、ついに居城の新発田城も落城し、重家は討たれてしまう。


◆景勝会津移封により溝口秀勝が入り、三代にわたって近世城郭に大改修

 このように越後をほぼ手に入れた景勝であったが、慶長3年(1598)に秀吉によって
会津に移されてしまう。替わって越後に入ったのは、豊臣大名である越前北庄城主堀
秀治とその与力である村上頼勝や溝口秀勝らであった。堀秀治は30万石で春日山城
に入り、村上頼勝は9万石で本庄城(のちの村上城)に入った。新発田城を与えられた
のは溝口秀勝で、6万石であった。秀勝は五十公野にひとまず館を設けて、新たに新
発田城を築城することとした。

 五十公野は羽前街道と会津街道が交わる陸上交通の要衝であったが、大きな山城で
あり近世城郭には向かなかった。また、当時は陸上よりも水上交通の方が重要なこと
から、家重の新発田城を大改修することとしたと思われる。また城の北には加治川が
流れ、周辺に深い沼沢があることから、防御にも優れていた。さらに、すでに城下町
がある程度形成されており、今後の発展を考えると最適と考えられた。

 家重時代の新発田城は現在残るものよりもかなり小さな規模であったと考えられ、
本丸北側に古丸と称するかなり大きな曲輪があるが、これが当時の本丸だったと考え
られている。溝口秀勝は本丸を中心に置き、その周囲をかなり大きな内堀で囲み、そ
の外側を二の丸で囲み、さらにその周囲に外堀を掘るという、いわゆる輪郭式の縄張
りを採用した。この築城は改修というよりも新たに城を築くことに等しく、完成した
のは3代宣直の時代であった。慶長3年(1598)に築城が開始され、最後の本丸書院が
完成したのが承応3年(1654)であるので、50年以上を要したこととなる。


◆江戸時代は災害と修復を繰り返すも、明治の廃城令により建築物は失われる

 新発田城完成のわずか14年後の寛文8年(1668)に三の丸を火元とする大火災で、鉄
炮櫓や丑寅櫓を除くほぼすべての建物を焼失してしまった。また、その翌年に起こっ
た大地震により、石垣も崩壊する。その翌寛文10年(1670)より復旧工事が開始され、
辰巳櫓から戌亥櫓(現在の御三階櫓)までがすべて切り込みハギの石垣となった。

 4代重雄となった延宝2年(1674)からは城内の建物再建が本格的になされ、同7年
(1679)には戌亥櫓のあった場所に御三階櫓が完成した。御三階櫓とは称するものの、
実質的な天守であった。さらに貞享2年(1685)に本丸表門が、続いて元禄元年(1688)
までに本丸の復旧がほぼ終わっている。享保4年(1719)には城下の託明寺より出火し
た火事により、二の丸と三の丸の主だった建物がほぼ焼失してしまった。また、同10
年(1725)には大雨によって、石垣、土塁および堀に大きな被害が出ている。

 その後も石垣の被害とその修復などが続くが、溝口家は一度も転封されることなく
12代続いて直正の時に明治を迎えている。なお溝口家は6万石であったが、干拓や治
水に力を入れて、実高はかなり大きなものとなった。11代直溥のときに10万石への高
直しが認められている。戊辰戦争に際しては新政府側の立場をとろうとしたが、周辺
諸藩の圧力に逆らうことが出来ずに奥羽越列藩同盟に加わっている。やむなく同盟軍
として兵を出したが、すぐに新政府側に帰順している。

 明治6年(1873)に新政府により出されたいわゆる廃城令により、新発田城は廃城と
なる。これにより、現在残る本丸表門と旧二の丸隅櫓を残して、城内の建物の大半は
破却されてしまった。住民からは建物の復元を望む声が多く、城下町四百周年記念事
業として検討されるも資金面などから実現されなかった。平成11年(1999)に新発田市
は「地域文化財・歴史的遺産活用による地域おこし事業」として新発田城の調査およ
び復元可能性について検討を行い、平成16年(2004)7月に御三階櫓と辰巳櫓の復元が
実現した。


◆復元された御三階櫓は天守相当で、T字型の屋根と3つの鯱が特徴

 新発田城は内堀より内部の本丸部分がよく残るが、本丸および古丸は陸上自衛隊の
駐屯地となっているために、見ることが出来る部分は限られている。しかし、近年三
階櫓や辰巳櫓が再建されたことにより、見どころは多くなっている。かつては本丸内
の公開も制限されていたが、現在では冬期を除いて入ることができる。ただ再建され
た三重櫓が自衛隊敷地内にあることから、非公開となっているのが残念である。新発
田市は公開を目指して自衛隊と交渉しているようであるが、難航していると聞いてい
る。

 車で行くと駐車場が御三階櫓の近くにあるので、まずはここから見る。これは御三
階櫓という名称となっているが、実質的には天守である。築城当初は二層の櫓だった
が焼失し、4代重雄の時代に三層の櫓として再建された。その後修復が繰り返された
が、幕末まで存在していた。明治6年(1873)の廃城令により、この御三階櫓も取り壊
されてしまった。しかし多くの古写真などが残っていたために、平成16年(2004)に在
来工法により復元された。

 この御三階櫓の特徴は、なんと言ってもT字型の屋根である。最上層の屋根が上か
ら見るとT字型となっており、それぞれに鯱も乗っている。このような例は他の城郭
では見ることが出来ず、おそらくは新発田城が唯一と思われる。ただ、なぜこのよう
な形となったかは、よく分かっていない。全体的に白漆喰で固められているが、各層
の下部は北国によく見られる海鼠壁となっている。堀に映る姿も、撮影ポイントであ
る。


◆堀に沿って御三階櫓、旧二の丸隅櫓、本丸表門、辰巳櫓を見る

 そのまま堀に沿って進むと、内堀の角に重要文化財に指定されている旧二の丸隅櫓
がある。この櫓はもともと二の丸にあったが、昭和34年(1959)から翌年にかけて行わ
れた解体修理の際に、現在地である本丸鉄炮櫓跡に移築された。その際に、一層目下
部が海鼠壁に復元されている。御三階櫓は非公開であるが、この旧二の丸隅櫓、本丸
表門および再建された辰巳櫓はそれぞれ内部が公開されている。

 この旧二の丸隅櫓から堀を隔てたあたりに土橋門があり、道の両側に石垣が残って
いる。もともとはこの土橋によって内堀と外堀が仕切られていたが、現在は外堀部分
は埋め立てられている。土橋門の左手の内堀に飛び出した部分が認められるが、その
名残である。この土橋門から内堀に沿って帯曲輪が置かれ、その外側を外堀が囲んで
いた。外堀部分は埋められ公園などになっているが、公園に堀部安兵衛の銅像が建っ
ている。安兵衛は溝口家家臣中山弥次右衛門の長男として生まれたが、母は初代藩主
溝口秀勝の孫であった。つまり、安兵衛は初代藩主の曾孫にあたる。その縁で、ここ
に銅像が建てられているわけである。

 堀に沿って帯曲輪跡を進むと、まず本丸表門が次いで辰巳櫓がある。辰巳櫓は御三
階櫓と同時に再建されたもので、もともとは築城時に創建されたが、寛文8年(1668)
に焼失する。その後元禄元年(1688)頃までに再建されたが、明治初めに取り壊されて
しまった。安兵衛の父中山弥次右衛門はこの辰巳櫓の管理者であったが、焼失の責任
をとって浪人したと伝わるが、定かではない。二層の櫓で堀に面した部分には石落と
しがあり、壁はすべて白漆喰で海鼠壁は用いられていない。


◆現存の本丸表門と旧二の丸隅櫓の内部が公開されているのは大きな魅力

 戻って、本丸表門より本丸に入る。現在は土橋をわたって表門となるが、本来は木
造の橋が架けられていた。かつてはこの表門も閉められ、日曜ぐらいしか入ることは
できなかった。なお、100名城のスタンプは、この表門受付に置かれている。桁行
九間、梁間三間の堂々とした櫓門で、全体は白漆喰で固められているが、ほかの櫓と
同じように下部は海鼠壁となっている。現存する多くの城門は内部が非公開となって
いるが、ここ新発田城の表門は中に入れるのが魅力である。また、表門を入った正面
に、藩祖溝口秀勝公の銅像が建っている。

 本丸表門の右手には復元された辰巳櫓が建つが、ここも内部を公開している。一階
部分は桁行三間×梁間三間で、外側を幅四尺五寸の武者走りが回っている。武者走り
との間には段差や敷居などがないので、畳は敷かれなかったようである。この辰巳櫓
が建っていた場所からは、発掘調査で礎石がいくつか出土した。そのうちの一つが、
床に設けられた開口部から見ることが出来る。なお、残りの礎石は盛り土をして保護
してあるとのことである。柱は太さが七寸五分もあり、二階までの通し柱である。ま
た、一二階ともに壁は真壁作りとなっている。

 本丸表門から続く土塁上を歩いて、旧二の丸隅櫓へと行く。ここも現存で重要文化
財に指定されており、内部が公開されているのはうれしい。外側(堀側)には一二階と
もに窓が開けられているが、城内側には窓が設けられていないのが目立つ。これは雪
国のためか、あるいは建築上の節約のためなのかは分からない。

 このように、新発田城本丸は歩ける部分は非常に少ないが、再建の辰巳櫓は当然と
しても、現存の本丸表門と旧二の丸隅櫓の内部に入ることができるのは大きな魅力で
ある。今後は新発田市に頑張ってもらって、御三階櫓を含めた本丸のもっと広い部分
をぜひ一般に公開して欲しいものである。なお、駐屯地内には現在史料館となってい
る白壁兵舎というのがある。これは明治7年(1874)に陸軍の兵舎として建設されたも
ので、国内に残る木造兵舎としては最も古いものと言われ、新発田城の廃材を一部再
利用している。この白壁兵舎を含めて、駐屯地祭の際には一般の人も敷地内に入れる
ようである。また、事前に見学申請をして許可を得れば、入ることもできるようであ
る。


◆新発田城以外では、清水園と足軽屋敷にもぜひ立ち寄りたい

 新発田城以外でぜひ立ち寄りたいところとして、清水園と足軽屋敷がある。いずれ
も新発田駅から、徒歩で数分のところである。清水園は溝口家の下屋敷として三代宣
直の時代に造られたもので、清水谷御殿とも呼ばれた。広い回遊式の庭園で、国の名
勝にも指定されている。幕府茶道方である縣宗知を招いて、近江八景をとり入れた純
京都風の庭園としたものである。溝口家では茶道に大変に力を入れ、現在でもこの清
水園などでお茶会が催されているようである。また園内には、三の丸の近くにあった
70石取の武士石黒家の居宅が移築されている。

 清水園の向かい側には足軽屋敷が現存し、清水園との共通券で見学できる。足軽が
居住した八軒長屋が江戸時代の姿のままに残り、木造萱葺の質素な建物だが国の重要
文化財に指定されている。現在残るのは天保13年(1842)の棟札が残る一棟のみだが、
全国的にもあまり例のない貴重な存在である。

▼清水園および足軽屋敷については、下記サイトを参考にしてください。
 http://www5d.biglobe.ne.jp/~maru0505/newpage125.htm
 http://masugatasou.jp/spoot/simizuen.html
 http://www6.ocn.ne.jp/~ncm/simizuen/shimizuen.htm


◆新発田城関係の参考書
 新発田城を散策するにあたって参考となる書籍には、以下のようなものがあります。
・歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城14 新発田城・松本城」(学研)  730円
・「甦る新発田城〜新発田城三階櫓・辰巳櫓復元の歩み〜」(新発田市)  1,000円
 書名のとおり御三階櫓と辰巳櫓の復元を記念して新発田市がまとめたもので、辰巳
 櫓内で販売している。新発田城の概要や復元過程が、詳しく紹介されている。また
 一般には非公開の御三階櫓の内部の写真が掲載されている。


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