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2008/08/13

【お城ファン倶楽部 No.147】日本100名城(その19)高遠城

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【お城ファン倶楽部 No.147】日本100名城(その19)高遠城
                              2008/08/13(Wed)
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 長野県の最後は、高遠城である。高遠城は高遠小彼岸桜で大変に有名で、花見時に
は全国から花見客が集まり、ラッシュアワー並みの混雑となる。大変に綺麗ですが、
のんびりとお城を見て歩くことは出来ず、この時期を避けるのが賢明です。高遠城で
思い出すのは、仁科五郎盛信の奮戦です。勝頼の次弟であった盛信は高遠城を任され
ますが、織田信忠率いる大軍に攻め立てられます。武田氏滅亡にあたっては多くの一
族が織田方に投降し、戦いらしい戦いは唯一この高遠城攻めです。その後、江戸時代
は内藤家が長く治めることになりますが、近世城郭に改修することなく、武田時代の
面影を今も色濃くとどめています。池波正太郎さんの「真田太平記」はこの高遠城攻
めから始まるのですが、そうした時代へと思いを馳せながら散策したいものです。

 長野県ではあと松本城が100名城に選定されていますが、すでに第3回(2005/09
/07)で取り上げています。松本城については、下記バックナンバーをご覧下さい。
 http://archive.mag2.com/0000168576/20050907010000000.html?start=140


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 高遠城
  所 在 地:長野県伊那市高遠町東高遠
  史跡区分:国指定史跡(昭和48年5月26日指定)
  入 場 料:なし、ただし花見期間は500円となる。
  交通機関:車の場合は、中央自動車道伊那ICまたは諏訪IC利用となる。伊那
       ICの場合はICを出たら左折して県道87号線を進み、突き当たりを
       右折して県道 146号に入る。伊那北駅前を過ぎた坂下入船交差点を左
       折し、国道 361号線を高遠方面へと進む。そのまま道なりに進むと、
       9kmほどで高遠町の市街に入る。正面に見える小山が高遠城なので、
       案内板にしたがって山道を登る。駐車場は高遠城の周辺に何ヶ所かあ
       るので、それを利用する。ただし、花見の時期は渋滞が激しく、また
       駐車場も大混雑となるのでバスを利用する方が無難である。
       諏訪ICの場合はICを出たら、右折して国道20号線に入る。 1.4km
       ほど南下した新井交差点を右折して、国道 152号線に入る。そのまま
       道なりに進み、杖突峠を越えると高遠となる。
       公共交通機関の場合は、JR飯田線伊那北駅で下車する。ここからJ
       Rバス高遠行きに乗ると、30分ほどで高遠に着く。高遠城へは案内に
       したがって、10分ほどである。なお、花見のときには中央本線茅野駅
       との間にバスの便があるが、本数はとても少ない。
       高遠方面のJRバスについては、下記サイトでお確かめ下さい。
       http://www.jrbuskanto.co.jp/bus_etc/timetable.html
 http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/koushinetu/takato/takato.htm
 http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kosin/takato.html
 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/takatou.htm
 http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage53.htm
 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4393/nagano/takatoomati.htm
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◆築城の経緯は不明であるが、戦国期に甲斐武田氏が本格的に築城

 高遠城が初めて築城されたのはいつのことかはっきりとはしないが、平安時代末期
の治承3年(1179)に平清盛の命によって平氏一族の笠原頼直が築いたと言われる。あ
るいは、南北朝期の暦応年間(1138〜41)に木曾義親が築いたとも言われている。史料
から確実に言えるのは、武田信玄の側近高白斎が記した「高白斎記」に、「高遠山の
城鍬立」という記載が天文16年(1547)の項にあるものである。この記述により武田氏
によって高遠城が築かれたことは間違いないが、全く新しい城を築いたのか、それま
であった城を改修したのかは分からない。

 中世におけるこの地方一帯は南信濃の名族諏訪氏が一大勢力を有しており、その一
族である高遠氏がこの高遠城を居城としていたと考えられる。信玄の時代の諏訪氏の
当主は頼重で、武田氏とは同盟関係にあった。しかしながら、信濃侵攻を目論む信玄
は、天文11年(1542)同盟関係を破って頼重を攻撃し自刃に追い込む。このとき諏訪氏
の一族で高遠城に居たとされる高遠頼継は、信玄に与して諏訪氏の本拠上原城攻めを
行っている。

 高遠頼継は諏訪総領家の当主となるべく高遠で挙兵するが、安国寺合戦で武田氏に
敗れて高遠に退く。天文14年(1545)に武田氏との講和が成立すると、高遠城を明け渡
している。こののち、前述のように武田氏によって本格的な築城が行われたわけであ
る。したがって、新たに城を築いたというよりは、それまでの城を大々的に改修した
と考えるのが妥当であろう。この新しい高遠城の縄張は、山本勘助によってなされた
という話がある。実際本丸西側に勘助郭という名が残っているが、確証はない。

 武田氏は積極的に信濃攻略を進め、高遠城は伊那地方への進出拠点として重要な城
であった。弘治元年(1547)には木曽氏を抑えて、ほぼ信濃を手に入れている。翌年に
は武田二十四将の一人に数えられる秋山信友が、伊那郡代として城を預かっている。
永禄5年(1562)になると、信玄の四男四郎勝頼が諏訪氏を継いで、高遠城主となって
いる。なお、「甲陽軍艦」によると、勝頼入城に際して改修が行われたという。


◆織田信忠に攻められ落城するも、仁科五郎盛信の奮戦は語り継がれる

 永禄8年(1565)に信玄の嫡男太郎義信が廃嫡されると、勝頼は後継者的な立場とな
り躑躅ヶ崎に呼び戻された。替わって高遠城に入ったのは、信玄の実弟信廉である。
なお、信廉が高遠城主になったのは元亀元年(1570)という説もある。この頃から武田
氏と織田氏は対立するようになり、高遠城は対織田の戦略的な拠点として重要な位置
を占めるようになっている。信玄没後に実質的な武田家当主となった勝頼は、天正9
年(1581)に実弟の仁科五郎盛信に高遠城を預けた。

 翌天正10年(1582)に織田信長は武田攻めを企て、長男信忠に5万の大軍を与えて伊
那方面を攻めさせた。このとき盛信が守る高遠城の城兵はわずか3千であったが、織
田方の降伏勧告を退けて徹底的に抗戦した。しかしながら劣勢は如何ともしがたく、
5百あまりの家臣とともに討ち死にし、高遠城は落城する。享年わずか26歳であっ
た。その後の武田氏は抵抗らしい抵抗もなく、織田氏によって滅ぼされるが、この高
遠城の戦いが唯一目を引くものであった。「信長公記」にも「比類なき働き、前代未
聞の次第なり」と、盛信が絶賛されている。

 高遠城が織田氏のものとなると、高遠攻めに戦功のあった毛利長秀(秀頼)に預けら
れた。しかしそのわずか3ヶ月後に本能寺で織田信長が斃れると、織田氏に内通して
いた武田氏の旧臣であった木曾義昌が攻め込み、奪ってしまう。その後、信濃に入っ
てきた徳川家康に義昌は追われ、深志城に戻っている。これにより高遠城は徳川氏の
城となり、保科正直が城主となった。天正18年(1590)に小田原北条氏が豊臣秀吉によ
って滅ぼされ、徳川家康は北条氏の旧領を継いで関東移封となった。これにより高遠
城は豊臣方の城となり、飯田城主となった毛利秀頼が城代を置いて支配した。秀頼が
文禄2年(1593)に亡くなると、遺領の大部分は娘婿の京極高知が継いで飯田城主とな
り、高遠城には城代を置いた。


◆江戸期には保科氏、鳥居氏と入り、以後内藤氏が8代続く

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は東軍についた保科正光(正直の長男)が旧領に復す
る形で2万5千石を与えられて、高遠城主となった。寛永8年(1631)に正光が亡くな
ると、養子となっていた正之(三代将軍家光の異母弟)が5千石を加増されて3万石で
あとを継いだ。寛永13年(1636)に正之が山形20万石を与えられると、替わって鳥居
忠春が3万2千石で入った。元禄4年(1641)には鳥居氏に替わって、内藤清枚が3万
3千石で富田林から高遠に入った。以後内藤氏が代々続いて、8代頼直の時に明治を
迎えている。

 高遠城は武田氏によって本格的な城として整備されたが、江戸時代に入ってもその
縄張などは改変されることはなく、中世の城がそのまま近世にも使われたという珍し
い例である。織豊系の大名が城主となると、中世の城をいわゆる織豊系の城に大きく
改造する例が多い。前回みた小諸城などが、その典型である。大手口などに一部石垣
が築かれているが、本丸をはじめとする主だった曲輪は土造りのままである。内閣文
庫に残る「正保城絵図」に収められている「信州高遠城之絵図」を見ると、本丸が丸
く描かれ、大手、搦め手や二の丸門前には丸馬出状の構造が描かれており、いかにも
武田の城という感じである。


◆現存の建物は藩校進徳館のみ、二の丸の高遠閣は登録文化財

 高遠の町から東の方を見ると、こんもりとした小山が高遠城である。春の桜の季節
になると、この高遠城全体がピンク色に染まり、全国から花見客が押し寄せる。つづ
ら折りの坂道を登っていくと、最初に迎えてくれるのが大手門である。門そのものは
失われてしまっているが、桝形を作っていた石垣がよく残っている。ただかなり孕ん
だりしており、金網に囲まれているのが悲しい。そのすぐ左手に城門があるが、これ
はかつての追手門を3/4の縮尺で復元したものである。

 そのまま進むと、左手に進徳館がある。最後の城主内藤頼直によって設立された藩
校で、建物が現存している。ここはすでに城内で、三の丸である。明治4年(1871)に
廃藩となり、翌年には高遠城も破却されてこの藩校の一部も取り壊された。しかし、
大部分は今に残り、高遠城唯一の現存建物として貴重な存在である。

 堀を渡ると、本丸の北側に位置する二の丸である。現在は完全に城址公園となって
いるが、かつては倉庫、役所、馬屋や馬見所があったところである。ここには高遠閣
という由緒のありそうな建物が建てられているが、これは町民の集会や観光客の便宜
を図るために昭和11年(1936)に建てられたものである。木造総二階の入母屋造りで、
昭和初期の希有な建物であるとして、平成14年(2002)に国の有形登録文化財に登録さ
れた。なお、100名城のスタンプはこの高遠閣の入口に置かれている。


◆武田氏時代の名残を随所に見ることが出来る

 二の丸の南側にあるのが本丸で、仁科五郎盛信が3万の大軍を相手に戦ったのがこ
こである。この本丸と二の丸の間に架かっているのが桜雲橋で、桜の季節には絶好の
ポイントとなる。この橋の橋台や本丸側には石垣が築かれており、この部分だけを見
ると近世城郭の趣が濃い。また門は問屋門といい、もともとは高遠本町にあったもの
が昭和23年(1948)に移築されたもので、高遠城の城門ではない。問屋とは、人馬伝送
や宿泊をはじめとした駅務を行った役人が居たところである。

 本丸は一辺がおよそ100mほどの不定形で、眼下を三峰川が流れている。この落
差はかなりのもので、高遠城は三峰川を背にした後ろ堅固の城であることが分かる。
また本丸内には新城藤原神社があるが、内藤家7代頼寧が文政11年(1828)に仁科盛信
の霊を祀ったのが新城(盛信)神社である。これとは別に6代頼以が藤原鎌足を祀った
藤原神社が城内にあり、明治になって合祀したのが現在の新城藤原神社である。この
神社の宝物として内藤家寄進の甲冑などがあるが、これらは高遠町郷土館に保管され
ている。

 本丸の一角に太鼓櫓と呼ばれる小さな櫓があるが、これは明治45年(1912)に建てら
れたものである。江戸時代には搦手門内に太鼓が置かれ、偶数時に鳴らして時刻を知
らせていた。廃城となったときにこの太鼓は一時城外に移されたが、明治8年(1875)
に現在地に戻された。このときに大太鼓も張り替えられ、現在は高遠閣の2階に保管
されている。また太鼓櫓のある一角の下には、笹郭と呼ばれる小さな曲輪が置かれて
いる。このように主要な曲輪の下に小さな曲輪が置かれるのは、武田氏の城郭に時折
見られるようである。

 本丸をめぐる堀は幅も深さもかなりあり、大変に見事なものである。堀底を歩くこ
とも出来るので、下から眺めてみたい。本丸の西側下には現在グラウンドとなってい
る広い曲輪があり、勘助郭と呼ばれている。前述のように、高遠城を縄張したのは山
本勘助という言い伝えに通じるものである。


◆近くにある絵島囲い屋敷も見どころのひとつ

 本丸の東側には南郭が、さらにその東側には法憧院郭と呼ばれる曲輪が並んで置か
れている。南郭は本丸を取り囲む二の丸の南側が堀によって切られて独立した曲輪と
なったもので、建物などはなかったようである。また法憧院郭にはもともと法憧院と
いうお寺があり、築城の際に移転させたことにその名が由来する。また法憧院郭の北
側には大きな堀が残っているが、ここは織田軍の滝川一益が攻めたところで、織田信
長をして「渡辺の槍こそ日本一」とうならせた槍の名人渡辺金太夫が善戦及ばず討ち
死にしたところでもある。

 白兎橋を渡って法憧院郭を出ると、目の前に奇妙な形の三重の櫓が見える。もちろ
んまがい物であるが、それにしてもあまりにも細長い櫓である。ところで白兎橋であ
るが、これは江戸末期の文政年間に高遠で酒造業を営んでいた広瀬次郎左右衛門の俳
号白兎に由来する。百姓一揆が高遠で起こったときに、自分の米蔵を開いて押し寄せ
た一揆衆に与え、大事に至らずにすんだ。孫の省三郎は法憧院郭を買い上げて、公園
として寄付した。その際に橋を架け、祖父の俳号にちなんで白兎橋と名付けた。

 高遠で忘れてはならないのは、絵島生島事件である。正徳4年(1714)に大奥御年寄
だった絵島は、月光院の代参として芝増上寺へ参詣する。その帰途、山村座で生島新
五郎の芝居を見、門限に遅れてしまう。これが問題となり、生島との密会を疑われた
絵島は、評定所の裁決で高遠に流罪となった。一方の生島は、三宅島に遠島となって
いる。結局絵島は高遠で生涯を終わるが、幽閉されたという絵島囲い屋敷が原図をも
とに昭和42年(1967)に復元された。興味のある人は、訪れてみると良いでしょう。

 江戸時代初めの高遠城主は保科正光であるが、そのあとを継いだのは養子の正之で
ある。この正之は前述のように三代将軍家光の異母弟で、のちに会津松平家を創設し
て家光と四代家綱を補佐して、幕閣に重きを置いている。正之は末期養子制度の緩和
や殉死を禁止するなど、文治政治を進めている。また、玉川上水の開削、火除け地と
しての広小路の設置など、江戸住民のための施策も行っている。さらに、明暦大火後
の江戸城天守の再建が持ち上がったときに、もうそのような時代ではないと無駄な出
費を避けたことはよく知られる。しかしながら一般に広く知られた人とは言い難く、
高遠町では何とか大河ドラマに取り上げてもらおうと運動を行っている。もし賛同さ
れるようでしたら、署名してあげて下さい。


◆高遠城関係の参考書
 高遠城を散策するにあたって参考となる書籍には、以下のようなものがあります。
・歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城14 新発田城・松本城」(学研)  780円


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