2008/06/04
【お城ファン倶楽部 No.142】日本100名城(その14)武田氏館
===お=し=ろ=ふ=ぁ=ん=く=ら=ぶ================== 【お城ファン倶楽部 No.142】日本100名城(その14)武田氏館 2008/06/04(Wed) ==================お=し=ろ=ふ=ぁ=ん=く=ら=ぶ=== 山梨県で100名城に選定されたのは、武田氏館と甲府城です。順当な選定かと思 いますが、今回は武田氏館を取り上げます。歴史や城郭ファンにとっては、武田氏館 というよりも躑躅ヶ崎館と言った方が通りが良いかも知れません。山梨県の民謡で三 橋美智也さんの歌で大ヒットした「武田節」にも、「躑躅ヶ崎の月さやか」とありま す。また「人は石垣、人は城」とも言いますが、実態はどうでしょうか。 ────────────────────────────────────── 武田氏館 所 在 地:山梨県甲府市古府中町・屋形三丁目 史跡区分:国指定史跡(昭和13年5月30日に指定) 入 場 料:なし、武田神社宝物館は300円 交通機関:車の場合は東京方面からは中央高速道路を利用し、甲府昭和ICで下 りる。ICを出たら国道20号線を一旦東京方面に戻り、荒川に架かる 彩火橋を渡るとすぐに左折して国道 358号線に入る。そのまま北上し て甲府駅方向に向かい、3kmあまり先の甲府署前交差点を右折する。 すぐ次の交差点を左折して、舞鶴通りを北上する。オーバーブリッジ でJR中央線を越えるとすぐに左折し、甲府駅北口を右折して武田通 りに入る。そのまま2kmほど行った突き当たりが、武田神社のある武 田氏館である。突き当たりを左折して堀に沿って進むと左に相川小学 校があり、その先に駐車場がある。 公共交通機関の場合は、JR中央線甲府駅で下車する。北口から武田 神社方面行きの山梨交通バスが出ているので、それに乗ると10分ほ どで着く。なお、武田神社も含んだ武田氏の史跡をめぐる「風林火山 号」も運行されているので、ご検討下さい。詳細は下記参照。 山梨交通バスの時刻は、下記サイトでご確認下さい。 http://yamanashikotsu.co.jp/ http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/takedaji.htm http://www.city.kofu.yamanashi.jp/contents/content/category/46/348/233/ (甲府市のサイトで、発掘調査の結果などを見ることが出来ます。) http://www.bekkoame.ne.jp/~fk0985/kai/tutuji/tutuji.html http://www.tt.em-net.ne.jp/~t3yk/kojousi.tsutsuji.htm http://joe.ifdef.jp/yamanashi/009takeda.htm http://www.takedajinja.or.jp/(武田神社の公式サイト) ────────────────────────────────────── ◆清和源氏の代表・甲斐武田氏の居城として信虎が築城 武田氏館(躑躅ヶ崎館)は、武田信玄に代表される甲斐源氏の館跡である。現在は武 田氏を祀る武田神社が鎮座するが、遺構はよく残っている。ただし武田氏滅亡後に織 豊系の城郭にかなり改造されている部分があるので、注意が必要である。また、最近 甲府市教育委員会による発掘調査が精力的に行われ、武田氏時代の様相がかなり分か って来て、城郭ファンには目が離せないところである。さらにこうした成果に基づい て、平成31年(2019)度を目標に復元などの整備を進めている。ちなみに平成31年はの ちに述べるように、武田信虎が館を築いてから丁度500年目にあたる。 武田氏はよく知られているように清和源氏を代表する氏族のひとつで、八幡太郎義 家の弟である新羅三郎義光をその始祖とする。この義光が甲斐守として現在の山梨県 に入部したと伝わるが、否定的な見方が強いようである。義光の三男(次男とも)義清 とその子清光は常陸国勝田郡武田郷(現在のひたちなか市武田)に土着して、武田氏を 名乗った。義光が常陸の有力平氏である吉田一族から妻を娶っていることから、常陸 に勢力を伸ばしていた。 大治5年(1130)に清光が佐竹氏と争いを起こし、その結果朝廷より甲斐国八代郡市 河荘(現在の山梨県市川三郷町)へ流された。清光には11人もの男子があって、甲斐に おいても着実にその勢力を伸ばした。次男信義が当主となり、現在の韮崎市のあたり に館を構えた。この館のあったところは韮崎市の武田東畑遺跡と考えられてきたが、 つい最近になって信義時代の青磁や水晶が出土したことからほぼ間違いないと思われ る。なお、信義が元服した武田八幡宮(韮崎市)は、以後武田氏の氏神となっている。 信義は甲斐のみならず駿河にも勢力を伸ばし、源頼朝の挙兵にあたっては早い段階 から参画している。東国においては頼朝、義仲と並んで武家の統領としての地位にあ ったが、結局鎌倉幕府の御家人の地位に甘んじざるを得なかった。その後の武田氏は 信光、信政、信時、時綱、信宗と続き、信武の時に南北朝時代を迎える。信武は一貫 して北朝方で、足利尊氏の信任も厚かった。信武のあとは嫡男の信成が継ぎ、次男の 氏信は安芸武田氏の祖となっている。 さらに信春、信満、信重、信守、信昌、信縄と続いて、第18代当主となるのが信虎 である。信虎は対立していた叔父の武田信恵を滅ぼし、さらに甲斐東部に力を有して いた小山田氏を屈服させるなどして、甲斐一国をまとめ上げる。またそれまで代々居 館としていた石和から、少し西の川田(石和温泉近く)に館を構えた。この川田は近く を笛吹川が流れ、氾濫が度重なったためか、永正16年(1519)に躑躅ヶ崎に館を移した。 ▼川田館については、下記サイトを参考にしてください。 http://joe.ifdef.jp/yamanashi/031kawada.htm http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/kawadayakata.htm http://1st.geocities.jp/minohazz/shiseki-shousai/kawada/kawada.html ◆新府城を築城するも、勝頼の時に名門武田氏は滅びる 甲斐をまとめ、さらに信濃にも手を伸ばした信虎であったが、天文10年(1541)に嫡 男晴信(信玄)によって追放されてしまった。その理由については親子不仲説などいろ いろとあるが、度重なる出兵によって国人衆や農民らに大きな負担を強いていたこと が大きな理由ではないかと考えられる。 信玄についてはあまりにも有名であるので、ここではあえて言及しない。元亀4年 (1573)には遠江に侵攻し、三方原の戦いで徳川・織田軍を破る。しかし、甲斐に引き 返す途中、駒場にて死去してしまう。たびたび喀血していることから、労咳(肺結核) がその死因と思われる。信玄の死後は四男の勝頼が跡を継ぎ、高天神城を奪うなどす るが、天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川軍に大敗してしまう。この戦いで山 県昌景、内藤昌豊、馬場信春や真田兄弟など、信玄以来の有力家臣の多くを失い、一 気に勢力が衰退する。 力を弱めた武田氏に対して、織田・徳川両氏は攻勢を強める。天正9年(1581)に高 天神城が落城すると、織田・徳川軍の来襲に備えて、守りやすい韮崎の地に新府城を 新たに築いた。しかし翌年にはついに織田・徳川軍が甲斐に侵攻し、戦いらしい戦い もせずに多くは織田・徳川軍に投降している。そのようななかで、唯一抵抗したのは 勝頼の次弟である仁科五郎信盛が守る高遠城であった。新府城は未完成であったため に郡内の小山田信茂を頼るが、その信茂にも裏切られて、天目山で新羅三郎義光以来 の名家甲斐源氏は滅びてしまった。 ▼新府城については、下記サイトを参考にしてください。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingen/joukanyamanasi/sinpu/sinpu.html http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/sinpu.htm http://www5d.biglobe.ne.jp/~hatabo/meijyou/siro3/shinpu/index.html 武田氏滅亡後の甲斐には、織田信長の家臣川尻秀隆が22万石を与えられて入った。 秀隆は躑躅ヶ崎で政務を執ったとみられるが、3ヶ月後には本能寺の変が起こり、秀 隆も旧武田家臣による国人一揆により殺害される。その後甲斐をめぐって徳川氏と小 田原北条氏の争いとなるが、結局徳川のものとなる。天正11年(1583)に家康は家臣の 平岩親吉に命じて、甲府城の築城を開始させる。甲斐にはその後豊臣系の大名が入っ て甲府城を完成させるが、これは次回に述べる。 江戸時代になると甲府城も完成し、甲斐の中心は甲府となる。躑躅ヶ崎館跡は、お そらくそのまま放置されたのではないかと考えられる。大正8年(1919)に館跡の地に 武田信玄を祀る武田神社が創建され、現在に至っている。遺構がよく残り、甲斐源氏 の歴史を刻む地として、昭和15年(1940)に国の史跡に指定された。現在発掘調査が進 められ、信虎による館創設から 500年となる平成31年(2019)度目指して、復元整備が 進められているのは先に述べたとおりである。 ◆大手は東側で、三日月堀が見つかった 甲府駅から北にまっすぐ伸びる、その名も武田通りを20分ほど歩くと、突き当たり が武田神社となっている武田氏館(以後、躑躅ヶ崎館で通す)がある。館というと室町 時代の方形館を思い浮かべるが、この躑躅ヶ崎館は立派な城である。甲斐武田氏は勝 頼まで20代続く名門であるが、躑躅ヶ崎館が使われたのは永正16年(1519)から天正10 年(1582)に新府城に移るまでの60年あまりとそれほど長くはない。 すり鉢状になった甲府盆地の北に位置し、すぐ南側一帯に家臣の屋敷地を配し、さ らにその先に城下町が築かれていた。「人は石垣、人は城」ということで武田氏は領 内に城らしい城は築かなかったとよく言われるが、それは誤解である。躑躅ヶ崎館は 平城であるために守りにくいが、それでも西側や北にある深い堀と高い土塁は中世山 城を思わせるものがある。さらに、北には詰城となる要害山城(積翠寺城)があり、西 には湯村山城が、また南にはのちに甲府城が築かれた一条小山にも出城が築かれ、館 を中心とした支城ネットワークが構成されていた。 躑躅ヶ崎館の遺構はかなり良い状態で残っていると思われるが、武田氏滅亡後に織 豊系大名が入っていることや、大正時代の武田神社建立にともなって、かなり改変さ れている部分があると思われる。武田神社の正面となる南側の入り口には立派な橋や 石垣があるが、これは神社建立時に創られたものである。武田時代の大手口は南側で はなく、東にあった。発掘調査の結果、新府城や諏訪原城などにみられる武田系城郭 に特徴的といわれる三日月堀をともなった丸馬出が検出された。また石垣も見つかっ ているが、これは徳川氏以降のものと考えられている。まだ発掘調査は続いており、 今後の成果が期待できる。 この大手から土橋を渡って館に入ることとなるが、右手の堀は空堀で、左は水堀と なっていることに注意したい。これは傾斜地であるために、低い方だけが水堀となっ ていると思われる。また土橋には武田氏時代にも石積みがなされていたが、現在二段 となっているのは徳川氏時代以降の補強と考えられる。大手口の両側の土塁はよく残 り、往時を偲ばせてくれる。 大手を入ったところには御番所が、また右手には毘沙門堂や不動堂が建っていたよ うである。正面には武田神社があるが、この辺り一帯が主殿となる建物が建っていた と考えられる。その手前には、昭和47年(1972)に開館した宝物館がある。国の重要文 化財に指定されている吉岡一文字の太刀のほか、金小実南蛮具足、七星軍扇、武田二 十四将図などの武田氏ゆかりの品々が展示されている。この宝物館の受付に日本10 0名城のスタンプが置かれているので、出来れば見学したい。なお余談ながら、信玄 正室は京都の三条家から迎えているが、明治の元勲三条実美太政大臣はその後裔であ ることから、武田神社建立を祈願するとともに吉岡一文字の太刀を寄贈している。 武田神社境内には、信玄公ご使用の井戸と姫の井戸がある。前者は丸い石組みの井 戸で、濁り水ながら今でも水がたまっている。また後者は信玄に娘が誕生した際に産 湯に使ったことにちなんで、姫の井戸とも呼ばれている。現在もきれいな水が出てお り、勝頼が茶の湯に使ったとも言われる。この井戸から見つかった茶釜などが、先ほ どの宝物館に展示されている。ちなみに、信玄産湯の井戸は、この館の北東約2kmの 積翠寺にある。 ◆天守台は平岩親吉時代か、西曲輪には中世山城の趣が 拝殿の左手奥に天守台があるが、現在は立入禁止となっていてわずかに見えるだけ である。もちろん武田氏時代のものではなく、平岩親吉時代に造られたのではないか と考えられている。とても立派な天守台で、是非公開して欲しいものである。この天 守台のあるあたりを右にみながら行くと、土橋を通って西曲輪となる。この曲輪は、 信玄の嫡子義信が今川義元の娘と結婚した際に造られたとされる。 この土橋がある堀は大変に規模の大きなもので、特に右手に見える本曲輪の土塁も 高く、かなり防御を意識していることが分かる。この西曲輪一帯は武田氏時代の面影 がよく偲べるところで、堀と土塁はまさに中世山城の趣である。西曲輪を右(北)に進 むと、虎口がある。この部分も、見どころのひとつであろう。西曲輪の北側は畑地と なっているが、ここには味噌曲輪と隠居曲輪が置かれていた。味噌曲輪の名の由来は 分からないが、信玄の弟信廉(逍遙軒)の屋敷があった。また隠居曲輪は、信虎が追放 となったあと、その夫人が隠居して住んだことにその名が由来する。 以上のほかに南側にもいくつかの曲輪が置かれていたが、現在は埋もれてしまって いる。梅翁曲輪などで発掘調査を進められており、今後かつての姿が明らかになって くると思われる。また、甲府駅へ向かう武田通りの両側には、有力家臣団の屋敷があ った。遺構は残っていないが、甲府市によって説明板が数多く立てられている。これ らを見ながら、駅まで歩いて戻るのも良いのではないでしょうか。 躑躅ヶ崎館は平城であるために、防御的には弱いといわざるを得ない。そのため、 詰城である要害山城が設けられている。要害山城は前述の積翠寺のさらに北にあり、 積翠寺から歩いて30分ほどである。ここは完全な山城で、躑躅ヶ崎館もよく臨め、詰 城として最適である。本曲輪には、東郷平八郎元帥による城址碑が建っていることで も知られる。この要害山城にも石垣が使用されているが、これは武田氏時代のもので はなく、徳川氏時代の改修と思われる。躑躅ヶ崎館だけではなく、是非ともここまで 足を伸ばして欲しいものである。なお、要害山城は信玄が生まれたところでもある。 ▼要害山城については、下記サイトを参考にしてください。 http://web1.aaacafe.ne.jp/~yataro/yougaijyou-1.htm http://oscillo-scope.com/details/article.php?key=yogaizan http://homepage2.nifty.com/siro6966/umanen3yamanasi04yougaizan.html ◆武田氏館関係の参考書 武田氏館を散策するにあたって参考となる書籍に、以下のようなものがあります。 ・小学館ウィークリーブック「週刊名城をゆく第29号 躑躅ヶ崎館・高遠城」 560円 ・「戦国武田の城 武田戦略と城塞群の全貌」(中田正光著、有峰書店新社) 1,890円 武田氏の城の紹介書ではなく、信虎、信玄そして勝頼三代の戦略と城郭との関係や 役割を述べた書です。ただ、城が好きな人には、興味深く読めると思います。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 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