2008/05/21
【お城ファン倶楽部 No.141】日本100名城(その13)小田原城
===お=し=ろ=ふ=ぁ=ん=く=ら=ぶ================== 【お城ファン倶楽部 No.141】日本100名城(その13)小田原城 2008/05/21(Wed) ==================お=し=ろ=ふ=ぁ=ん=く=ら=ぶ=== 前回は「戦国の終わりを告げた」八王子城でしたが、今回はその本城となる小田原 城です。小田原城は小田原北条氏の本城という中世の城と、徳川時代の主として大久 保氏の近世城郭という2つの面を持ちます。どうしても天守をはじめとした近世城郭 としての小田原城に目が行きがちですが、市内には北条時代の小田原城の遺構が数多 く残ります。とりわけ、小鐘台の大堀切は必見です。 ────────────────────────────────────── 小田原城 所 在 地:神奈川県小田原市城内 史跡区分:国指定史跡(昭和13年8月8日に指定) 入 場 料:城内はなし 天守は400円、見聞館は300円、共通入場券は600円 交通機関:車の場合は東京方面からは東名高速道路および小田原厚木道路を利用 して、箱根口ICを下りる。ICを出たら右折して、国道1号線を小 田原市内方面に向かう。東海道新幹線および東海道線の高架をくぐる と、500mほどで箱根口交差点となる。ここを左折した突き当たり 一帯が、小田原城である。駐車場は突き当たりのあたりに観光用があ るので、それを利用する。 公共交通機関の場合は、東海道新幹線、JR東海道線あるいは小田急 小田原線小田原駅で下車し、東口(海側)に出る。改札を出たらそのま ま右手に進むと、旭丘高校となる。ここを右に曲がり道なりに案内に したがって坂道を登っていくと、天守に着く。銅門から入りたい場合 には左に曲がり、そのままお堀に沿って行けばよい。 http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/Leisure/Castle/tennsyukaku.html http://www.uraken.net/museum/castle/shiro11.html http://www.siromegu.com/castle/kanagawa/odawara/odawara.htm http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/odawara.htm http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/odawarajou.htm 下記サイトで、今年小田原市が製作した「3次元コンピュータグラフィックスによ る江戸時代の小田原」を見ることが出来ます。 http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/culture/3dcg_odawara.html ────────────────────────────────────── ◆土肥氏、大森氏によって築城された小田原城を、早雲が計略により奪取 小田原に最初に築城したのは土肥遠平で、平安時代末期と言われる。この遠平は相 模国に大きな勢力を有していた実平の嫡男で、鎌倉幕府が開かれると安芸国沼田庄の 地頭職を与えられて安芸に移住した。これが、のちに戦国大名に成長する安芸小早川 氏である。この遠平が築城したというのは、いわゆる居館程度のものと考えられる。 室町時代前半の応永23年(1416)に起きた上杉禅秀の乱でこの土肥氏は上杉方につい たが、駿河に本拠を持つ大森氏によって乱は鎮圧される。このため大森頼春によって 禅秀方の土肥氏は滅ぼされ、小田原は大森氏のものとなる。土肥氏時代にどの程度小 田原城が整備されていたのかは不明であるが、この大森頼春によってある程度城郭と して整えられたものと思われる。 永享9年(1437)に起きた永享の乱で関東は混乱するが、大森氏は何とか生き延び、 多くの国人が衰退する中で勢力を保った。その後大森氏内部で対立が生じるが、太田 道灌の助力もあって大森氏頼が大森氏をまとめる。氏頼は小田原城を本拠として本格 的に整備するとともに、城下町を形成して小田原を発展させた。氏頼自身も扇谷上杉 定正の重臣として上杉家中に重きを置き、道灌暗殺後は第一の家臣となった。 氏頼の跡は次男の藤頼が継いだが、この頃北条早雲(伊勢盛時)が隣国伊豆を手中に 収める。早雲は藤頼に度々贈り物を贈ったために、最初は警戒していた藤頼も早雲に 心を許すようになる。あるとき早雲が箱根山での鹿狩りのために大森氏の領内に勢子 を入れることを願い、藤頼はこれを許諾する。早雲は屈強の兵士を勢子に仕立てて箱 根山に入れ、一方で牛の角に松明をつけた早雲の兵が小田原城に迫った。数万の兵が 攻めてきたと勘違いした小田原城は大混乱となり、藤頼は城を脱出して、早雲は小田 原城を手に入れたという。 以上は小田原北条五代の盛衰をまとめた「北条記」によるもので、明応4年(1495) 9月のこととされている。ただ資料によりこの年月は異なり、実際にこのような城取 りが行われたかは疑問である。明応10年(1510)に小田原城下にあった伊豆山神社の所 領を早雲が自分の所領と交換した文書が残されていることから、これ以前に小田原城 を奪取したことは間違いない。早雲のあとは氏綱、氏康、氏政そして氏直と五代にわ たって小田原城を居城として関東に一大勢力を有することとなるが、早雲自身はずっ と伊豆の韮山城を居城としていた。 ◆北条氏滅亡後は大久保氏に与えられ、さらに堀田氏時代に近世城郭に大改修 このように五代約百年間にわたって小田原を中心に栄えた北条氏であるが、天正18 年(1590)に豊臣秀吉によって滅ぼされたのは前回の八王子城でみたとおりである。こ のとき、秀吉軍の来襲に備えて氏政・氏直親子は城下町をすっぽりと包み込む大外郭 (総構え)を築いた。この外郭は総延長9kmにもおよび、「めぐり五里」とも呼ばれた 中世城郭史上比類のない大城郭となった。北条氏滅亡後の関東は周知のように徳川家 康に与えられ、小田原城には重臣の大久保忠世に4万5千石を与えて入れた。 文禄3年(1594)に大久保忠世が亡くなると、6万5千石に加増されて嫡子忠隣が跡 を継いだ。この忠隣は慶長19年(1614)に起きた大久保長安事件で讒言があって、改易 となってしまう。これにより小田原城は幕府直属の番城となり、同年に起きた大地震 の被害もあって大部分が破却されてしまう。元和5年(1619)に阿部正次が上総大多喜 から5万石で入城するが、同9年(1623)に岩槻へ転封となり再び幕府の番城となる。 寛永9年(1632)に稲葉正勝が下野真岡から8万5千石で入城し、正則、正往(正通) と3代続く。正勝は春日局の実子で老中を務め、また正則、正往もともに老中となっ ている。正勝が入城した翌年に再び大地震が小田原を襲い、城に大きな被害をもたら している。このようなこともあって、稲葉氏時代に大々的な改修が行われ、現在のよ うな近世城郭に生まれ変わっている。 天和3年(1683)に稲葉正往が越後高田に移ると、翌年に大久保忠朝が10万3千石 で下総佐倉から小田原城に入った。大久保氏は忠隣失脚後嫡孫の忠職に武蔵騎西2万 石が与えられて蟄居となるも存続し、寛永2年(1625)にはその罪も許されている。寛 文10年(1670)に忠職が亡くなると弟の忠朝が唐津9万3千石を継ぎ、老中になるとと もに佐倉に移っている。さらに父祖の地である小田原に戻り、以後大久保氏が代々襲 封して明治を迎えている。 ◆明治初めの廃城で多くが失われたが、近年小田原市が積極的に復元を進める 明治2年(1869)の版籍奉還を経て、翌年には廃城となる。この年に天守と櫓4基が 売却処分になり、さらに明治5年(1872)までに城内のほとんどすべての建物が破却さ れてしまった。明治34年(1901)には城内に小田原御用邸が設置され、同42年(1909)に なると唯一残った二の丸平櫓の修復工事が行われた。しかし大正12年(1923)に起きた 関東大震災によって御用邸が大破するとともに、二の丸平櫓も石垣とともに倒壊して しまった。 昭和4年(1929)から翌年にかけてこの石垣の修復が行われたが、以前よりも低く積 まれてしまった。さらに昭和9年(1934)に二の丸平櫓の復旧が行われたが、予算の関 係で本来の半分の大きさとなってしまった。また戦後の昭和25年(1950)には関東大震 災で崩れたままになっていた天守台石垣の整備も始まった。修復された天守台には昭 和35年(1960)に小田原市によって鉄筋コンクリート造りの天守が外観復元されたが、 観光用ということで最上階に本来なかった高欄が取り付けられてしまっている。 昭和46年(1971)には、本丸への正門となる常磐木門が木造で復元された。長らくこ の状態が続いたが、昭和58年(1983)から小田原市は本格的な発掘調査を行い、その調 査結果や資料に基づいての忠実な復元整備を始めた。平成9年(1997)にはその第一陣 として、銅門とその周辺部が復元された。同時に近くには小田原城歴史見聞館が設け られ、小田原城の始まりから現在に至るまでの歴史を模型や映像を使って分かりやす く展示している。なお、平成14年(2002)に常磐木門内に小田原城ミューゼという名の 美術館が開設され、西洋ガラスを主とした美術品の展示されるとともに、郷土の工芸 品などのお土産品が販売されている。 小田原市では「史跡小田原城跡本丸・二の丸整備基本構想」を平成5年(1993)に定 め、これに基づいて発掘調査と復元整備を続けており、平成17年(2005)からは馬出門 桝形と馬屋曲輪の復元に取り組んでいる。馬出門は大手門から二の丸に入る正式な登 城ルートで、これが完成すると馬出門→馬屋曲輪→銅門という往時の登城ルートが整 備されることとなる。さらに小田原市では北条時代の小田原城の中心であった八幡山 についても、公用地化するべく準備を進めている。 ◆見どころの第一は復元された銅門、現在馬出門が復元中 小田原駅東口を右に出てお城通りを進むと、突き当たりが旭岡高校となる。このあ たりは弁財天曲輪があったあたりで、蓮池弁財天が勧請されていることにその名が由 来する。道を右にとるとすぐ左側は以前に野球場があったところで、御用米曲輪跡で ある。そのまま道を上っていくと天守のある本丸へと通じるが、旭岡高校のところで 道を左にとる。 弁財天通りを東に進むとお堀端通りにぶつかるので、ここを左に曲がって少し戻る と幸田口門跡となる。ここは三ノ丸を守る城門の一つで、4代氏政の永禄4年(1561) に上杉謙信が、また同じく12年(1569)に武田信玄が小田原城を包囲したときに、この 門まで攻めたという。現在はちょっとした公園風となっているが、ここから小田原郵 便局の裏手にかけて土塁と堀の名残がよく残っている。 お堀端通りを戻ると右手に水堀があるが、二の丸の堀である。堀の向かいが二の丸 跡で、かつては二の丸御殿が建っていた。北東と南東の角にはそれぞれ隅櫓が建って いたが、南東の平櫓は前述のように唯一残った櫓であった。関東大震災で倒壊したた めに、その後半分の大きさで復興された。 堀にかかる学橋を右に見て少し先の道を左に入ると、大手門跡と鐘楼がある。この 鐘楼は、朝夕に時の鐘として用いられたものである。もとに戻って少し進むと、馬出 門土橋がある。この橋を渡ったところが馬出門があったところで、内側が馬屋曲輪と なる。現在この馬出門と馬屋曲輪の復元整備工事が行われており、完成が待たれる。 馬屋曲輪の内側にある堀が住吉堀で、発掘調査によって堀底に北条氏の城に特徴的 な障子堀が見つかっている。この障子堀は箱根にある山中城などで実物を見ることが 出来、北条時代の小田原城はこうした障子堀で囲まれていたと考えられる。馬屋曲輪 から堀を渡ったところにある小さな曲輪が御茶壺曲輪と呼ばれるところで、宇治から 将軍に献上される御茶壺が置かれたところで、御茶壺屋が建てられていた。 馬屋曲輪や御茶壺曲輪の堀を隔てた三の丸側には三の丸小学校があるが、ここは城 郭風の建物でなかなかに良いものである。三の丸小学校に沿って左回りに進むと、箱 根口門跡がある。ここには桝形の一部である石垣がよく残っており、必見である。こ のまま国道1号線(旧東海道)に出て、左に少し行くと彦根城天守に似た建物が目につ く。ここは、現在でも営業する「ういろう」屋である。ういろうは本来は中国の外郎 家が伝えてきた薬で、南北朝期に渡来して朝廷に仕えていた。小田原の外郎家は第5 代藤右衛門定治が北条早雲に招かれて小田原に移り住み、それが現在まで続いている ものである。 ▼小田原の銘菓「ういろう」については、下記公式サイトをご覧下さい。 http://www.uirou.co.jp/kaisya.html 馬屋曲輪から住吉橋を渡ると、銅門の桝形となる。平成9年(1997)に史実に基づい て復元されたもので、復元当時はまさに赤く輝いていた。この桝形は一ノ門が櫓門で 二ノ門が高麗門という一般的なものであるが、高麗門が変わっている。ここの高麗門 は石垣の上に設けられた塀の中に埋め込まれた形となっており、穴門と呼ばれるもの でほかにあまり類例がない。銅門をくぐると二の丸となるが、小田原城歴史見聞館が 建てられており、時間があれば入りたい。 ◆常磐木門はまだしも、天守の外観は頂けない ここから常磐木橋を渡り石段を登ると、本丸の正門となる常磐木門となる。昭和25 年(1950)に関東大震災で崩れてしまった石垣が復旧され、昭和46年(1971)に櫓門と南 多聞が木造で復元された。現在はすっかり周囲の景観に同化しているが、是非とも北 多聞も復元して欲しいものである。 この門を出ると本丸で、現在は動物園となっている。小田原市では動物園を撤去し て本丸を本来の姿に戻したいとの考えだが、動物(特に象)がいる間は無理のようであ る。本丸の周囲はいわゆる鉢巻土塁であったが、関東大震災ですべて失われてしまっ た。この本丸には三代将軍家光が上洛の際に宿舎とした本丸御殿があったが、元禄の 大地震で倒壊・焼失してしまった。 本丸にそびえる天守は昭和35年(1960)に鉄筋コンクリートで復興されたもので、前 述のように外観はだいぶ異なる。小田原城の天守は北条時代の天正年間(1573〜92)に すでに上げられていたという説があるが、詳細は分からない。北条氏に替わって入っ た大久保忠世の時代(慶長年間:1596〜1615)には、望楼型の天守が存在した可能性が 高いという。正保城絵図などのその後の絵図には層塔型の天守が描かれているので、 稲葉氏時代の寛永年間(1624〜44)に再建されたと考えられる。しかし元禄16年(1703) に起こったいわゆる元禄の大地震によって倒壊・炎上してしまい、宝永3年(1706)に 再建され明治初めまで存続している。 天守内には小田原城に関連した資料や小田原の物産などが展示されているが、見る べきものとして宝永年間に再建された天守のひな形がある。一つは大久保神社蔵のも ので、もう一つは以前に東京大学で保管されていたものである。この両者の違いや、 現在の天守との相違点などを見てみるのも良いと思われる。天守最上階には本来なか った高欄が付けられているが、皮肉なことにここからの眺めはとても良い。眼下には 小田原市内や相模湾が一望され、天気が良いと伊豆半島や伊豆大島が綺麗に見える。 小田原は大変に地震の多いところで、城が大きな被害を受けたものだけでも慶長19 年(1614)、寛永10年(1633)、元禄16年(1703)、天明2年(1782)、嘉永6年(1853)など の大地震があった。さらに宝永4年(1707)の富士山の大噴火でも大きな被害を受け、 大正12年(1923)の関東大震災でも石垣が崩れるなどしている。本丸南側の石垣はこの 関東大震災で滑落した姿がそのままで見ることが出来るが、小田原城本来の石垣の形 をとどめていることで貴重な存在でもある。 ◆北条時代の遺構として、小峰小鐘ノ台の大堀切は必見 小田原城というとどうしても天守の建つ近世城郭中心となってしまうが、北条時代 の遺構も各地に残っている。北条時代には現在の本丸周辺には居館が置かれ、中心と なる曲輪は小田原高校があるあたりで八幡山古郭と呼ばれる。残念ながら、明確な遺 構は残っていない。 見どころは小峰小鐘ノ台に残る大堀切で、大外郭を形成する部分である。小田原城 から小田原競輪場の方へと道を登ると、右手に小田原高校が次いで城山公園となる。 そのまま道を少し登るとアジアセンターというバス停があるあたりの右をみると、大 きな堀切があるのが分かる。この堀底は歩けるようになっており、是非散策したい。 この部分はかなりよく残っており、北条時代の小田原城がどのようなものであったか が実感できるところである。この大堀切は城山公園を取り巻く形で残っており、特に 北側にある稲荷森総構堀は取り分けよく残っており必見である。 北条氏の城では虎口のことを「戸張」と称するが、その遺構があるのが早川口であ る。小田原市内から国道1号線を西に箱根方面に向かい、東海道線の高架の手前を左 折して伊豆方面に向かう。200mほど行くと案内板があるので、それにしたがって 小さな道を入ると現在は公園となっている早川口二重戸張がある。土塁が二本並行に 築かれて構えを堅固にしているが、土塁がかなり低くなってしまっている。 市内にも大外郭の名残が残っており、その代表的なものが蓮上院の土塁である。小 田原駅前から左に線路に沿った細い道を進み、駅を過ぎたあたりの東通入口の交差点 を右に曲がる。そのまま道なりに進むと新玉のT字路となるので、ここを右に行く。 すぐに左の道に入り、また次の角を右に入る。そのまま200mほど行くと、右手に 土塁が見えてくるのがそれである。途中に大きな穴が開いているが、これは太平洋戦 争時の爆撃の跡である。 なお、江戸時代末期の嘉永3年(1850)に、海岸線沿いに幕府代官であった江川太郎 左右衛門の指導のもとに3基の台場が設けられた。万町台場、代官町台場と荒久台場 がそれであるが、現在その遺構はまったくというほど失われてしまっている。 小田原攻めに際して豊臣秀吉が石垣山一夜城を築いたことはあまりにも有名である が、可能であれば足を伸ばしたい。最寄り駅はとなりのJR東海道線の早川で、車で なければタクシー利用が便利である。ここも地震の影響で多くの石垣が崩れたままに なっているが、その中でもほぼ完全な形で残っているのが井戸曲輪である。中心には 今でも水が出ており、おすすめのところである。 ◆小田原城関係の参考書 小田原城を散策するにあたって参考となる書籍には、以下のようなものがあります。 ・小学館ウィークリーブック「週刊名城をゆく第5号 小田原城」 560円 ・歴史街道スペシャル「名城を歩く18 小田原城」(学研) 540円 ・歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城2 江戸城・小田原城」(学研) 780円 ・「箱根をめぐる古城30選」(小田原城郭研究会編、かなしん出版) 950円 20年ほど前に出版された古い本なので現在でも入手できるかどうか不明ですが、小 田原城、石垣山一夜城や山中城などタイトルどおり箱根を取り巻く北条氏ゆかりの 城についてコンパクトにまとめられています。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ お城に関する最近の話題、新刊書の案内、発掘情報、学会・セミナーや現地説明会 などの情報をお届けするメールマガジン『城郭ニュース』も、発行しています。お城 についての最新情報が得られるとともに、お城めぐりにも役に立つと思います。登録 は、下記からお願いいたします。 http://www.mag2.com/m/0000169418.html ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ************************************** * 「お城ファン倶楽部」ホームページ(http://www.castle7.org)では、城郭ニュ* *ース、国宝・重文一覧、史跡一覧、韓国に残る倭城などのお城に関する情報を発* *信しています。このメールマガジンと併せて、ホームページもご覧になっていた* *だけると幸いです。 * ************************************** ===お=し=ろ=ふ=ぁ=ん=く=ら=ぶ================== ◆発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/ ◆配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000168576.html ◆発行者:お城ファン倶楽部 ◆ご意見・ご感想は castle7@yahoo.co.jp ◆HP: http://www.castle7.org/ ==================お=し=ろ=ふ=ぁ=ん=く=ら=ぶ===


