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2008/03/26

【お城ファン倶楽部 No.136】日本100名城(その8)会津若松城

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【お城ファン倶楽部 No.136】日本100名城(その8)会津若松城
                              2008/03/26(Wed)
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 福島県の最後は、会津若松城です。総石垣造りの若松城は東北随一の堅城と言って
もよく、会津戦争では一ヶ月の籠城にも耐え、熊本城などともに実戦を経験した数少
ない近世城郭の一つです。外観復元された天守に続いて、最近では干飯櫓と南走櫓も
復元されています。また、周辺にも見どころが多く、じっくりと時間をかけて見て欲
しい城です。


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 会津若松城
  所 在 地:福島県会津若松市追手町1−1
  史跡区分:国指定史跡(昭和9年12月28日指定)
  入 場 料:鶴ヶ城博物館となっている天守は500円(8:30〜17:00、無休)
  交通機関:車の場合は磐越自動車道を会津若松ICで下り、国道 121号線で会津
       若松市内に向かう。そのまま市内を南下すると、ICから5kmほどで
       会津若松城に着く。駐車場は西出丸、三の丸および南口にあるが、い
       ずれも有料である。
       公共交通機関の場合は、JR磐越西線会津若松駅で下車する。駅前か
       ら会津バスの西若松駅東口駅行きなど鶴ヶ城まわりで、鶴ヶ城北口で
       下車する。バス停から天守までは、徒歩で5分程度である。
       会津バスの路線図および時刻表は、下記サイトをご覧下さい。
       http://www.aizubus.com/
       会津市内を周遊するバス「ハイカラさん」もあって、市内観光に便利
       である。
       http://www.aizukanko.com/haikarasan/index.htm
       レンタサイクルが1日500円で借りられるので、お薦めである。
       http://www.tsurugajo.com/access/cycle.htm
 http://www.tsurugajo.com/turugajo/shiro-top.html
 http://www.uraken.net/museum/castle/shiro03.html
 http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/c-1-3-2-1-siro-AIDUWAKAMATU.html
 http://www10.ocn.ne.jp/~naga/sub5.html
 http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/touhoku/aiduwakamatu/aiduwakamatu.htm
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◆室町期に蘆名盛直が館を構え、戦国期に盛氏が大改修して黒川城とする

 現在残る会津若松城は戦国末期から江戸初期に蒲生氏郷や加藤明成によって造られ
たものであるが、もともとこの地には蘆名氏の城があった。蘆名氏は桓武平氏の系統
である三浦氏の一族で、現在の神奈川県横須賀市芦名の相模三浦郡蘆名に由来すると
いう。三浦氏では保元・平治の乱で源義朝に従った義明や頼朝に従って鎌倉幕府の礎
を築いた義澄が知られるが、義明の七男で義澄の弟にあたる佐原義連が奥州合戦の功
で会津を与えられたのが蘆名氏の始まりである。

 義連自身は会津には下らなかったようであるが、異説はあるがその孫である光盛の
時に蘆名姓を名乗ったという。室町時代には、伊達氏や南部氏などとともに足利将軍
と直接の主従関係を結んだ京都御扶持衆となり、会津地方の支配者として会津守護を
自称していた。永徳4年(1384)には蘆名氏第7代の盛直が当時黒川と呼ばれていた会
津若松に館を造ったといわれ、東黒川館や太田垣館と呼ばれた。

 戦国時代には第16代となる蘆名盛氏が現れ、現在の福島県中央部にあたる中通りに
も勢力を伸ばした。この盛氏の時が蘆名氏の全盛期で、それまでの館を大改修して黒
川城を築城した。この黒川城が、現在の会津若松城の原形となるものである。永禄4
年(1561)に盛氏は隠居して岩崎城に移り、家督を嫡男盛興に譲った。天正3年(1575)
に盛興が後継ぎのいないまま病死してしまうと、盛氏は人質としていた二階堂盛義の
長男であった盛隆を養子として家督を継がせた。

 天正8年(1580)に盛氏が亡くなると、蘆名氏は衰退の道をたどる。第18代当主とな
った盛隆はもともと人質の子であったために家臣団との間はうまく行かず、天正12年
(1584)に家臣によって暗殺されてしまった。跡を継いだ嫡子亀王丸はまだ生後2ヶ月
でしかなく、盛隆の未亡人(もともとは盛興の正室)がその代役を果たした。その亀王
丸も3歳で亡くなると、後継ぎをめぐって家中が混乱する。結局、盛隆の婿養子とな
っていた蘆名義広(常陸の佐竹義重の次男)が、第20代を継承する。

 家督を継いだ義広はまだ12歳と若年だったこともあって、家中の統率はうまく行か
なかった。天正17年(1589)には勢力を拡大してきた隣国の伊達政宗と摺上原で決戦を
行うが、大敗して黒川城も落城してしまう。義広は本家に当たる佐竹氏を頼って、常
陸に逃れた。ここに蘆名氏は事実上滅びることとなり、替わって政宗が黒川城に入城
する。しかし翌年の豊臣秀吉による奥州仕置きによって会津は取り上げられ、秀吉の
重臣蒲生氏郷が92万石を与えられて会津に入った。

 蘆名義広は秀吉に家名再興を願うが許されなかったが、常陸江戸崎(茨城県稲敷市)
に4万5千石を与えられて大名に復帰した。しかし兄の佐竹義宣が関ヶ原の戦いで明
確な態度を示さなかったため、兄とともに秋田に移らされた。秋田に入った義広は義
勝と改名し、佐竹家家臣として角館に1万6千石を与えられた。しかし、義勝が亡く
なると息子たちも相次いで亡くなり、第21代盛俊が慶安4年(1651)にわずか19歳で病
死すると名実ともに蘆名氏は滅亡となる。


◆蒲生氏郷が織豊系の近世城郭に改め、加藤明成が現在残る形に再改修

 天正18年(1590)に伊達政宗に替わって会津92万石を与えられた蒲生氏郷は、文禄元
年(1592)からその石高に相応しい城郭へと大改修を行う。それまでの中世城郭をいわ
ゆる織豊系の近世城郭に改めたもので、合わせて城下町の整備にも着手した。翌年に
は七層の望楼型天守も完成し、その名を鶴ヶ城と改めた。これは氏郷の幼名であった
鶴千代にちなむとともに、空高く翼を拡げたような天守の形に由来するといわれる。
さらに城下町も整備され、これまでの黒川という地名を若松に改称した。この若松と
いう町名は、蒲生氏の氏神である馬見岡綿向神社の参道周辺にあった「若松の辻」に
由来するという。

 文禄4年(1595)に氏郷が亡くなると、嫡男秀行が跡を継いだ。しかし重臣たちの争
いをまとめることが出来ず、慶長3年(1598)に秀吉によって12万石に減封されて宇都
宮に移された。あとには上杉景勝が 120万石で入ったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の
戦い後に30万石に大減封の上で米沢に移された。翌年に徳川政権下で初めての城主と
なったのは、もとの蒲生秀行である。宇都宮にあって上杉景勝を牽制した功により、
60万石に加増されての入封であった。

 秀行治世下の慶長16年(1611)に震度6強から7もあったと推定されている大地震が
会津地方を襲い、父氏郷が建てた七層の天守も傾いてしまった。この地震による被害
の心労などもあって、秀行は翌年に30歳の若さで亡くなってしまう。あとをわずか10
歳の忠郷が継ぐが、寛永4年(1627)に後継ぎ不在のままに26歳で若死にする。弟の忠
知が家名を継ぐことを許されるが、26万石に減封の上で伊予松山に移された。

 蒲生氏のあとには伊予松山から入れ替わりで、加藤嘉明が40万石で入る。寛永8年
(1631)に長男明成が二代目を継ぐと、同16年(1639)には会津地震で傾いていた七層の
天守を五層に改める改修を行った。これが、現在外観復元されている天守である。明
成は西出丸や北出丸を増築することも同時に行い、ここに近世若松城の完成をみるこ
ととなる。さらに城下町の整備も積極的に進め、江戸時代から現在へと続く会津若松
発展の礎を築いた。明成は家臣団との対立などがあって、寛永20年(1643)には改易さ
れてしまう。このため明成の評価は悪いが、前述のようによく治世を行っておりもっ
と評価されてもよいのではないかと思われる。


◆会津戦争で二度目の落城となるが、一ヶ月の猛攻に耐える

 加藤氏改易ののちに会津に入ったのは、三代将軍家光の異母弟であった保科正之で
ある。23万石の親藩として代々襲封して、9代容保の時に幕末を迎える。正之は松平
姓を名乗るように勧められたが、養家の保科氏の恩義に報いて終生保科姓であった。
ちなみに、松平の姓と葵の紋が正式に認められたのは、3代正容のときである。

 最後の藩主となる松平容保は家臣の反対を押し切って、文久2年(1862)に京都守護
職に就任する。これがのちの会津戦争の悲劇を引き起こすこととなるが、初代正之が
残した「会津家訓十五箇条」の第一条に「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列
国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ちわが子孫にあらず、面々決
して従うべからず」(保科正之言行録:中公新書)とあり、それに忠実に従っただけで
ある。

 慶応4年(1868)に鳥羽伏見の戦いで幕軍が敗れると、容保は会津に帰る。新政府軍
の会津攻撃に対して、会津若松城に籠城して対する。攻めるは土佐の板垣退助であっ
たが、薩摩の援軍を得ても容易に落ちなかった。会津武士の奮戦もさることながら、
この城の堅城さが証明されたと言える。しかし大勢理に合わず、一ヶ月後の明治元年
(1868)についに開城する。ここに、会津若松城は伊達政宗以来、二度目の落城を味わ
うこととなる。

 開城の翌年には新政府兵部省の管轄となり、若松県庁が本丸内に置かれると若松県
の管理となった。明治5年(1872)にデンマーク領事を兼ねていた生糸輸出商エドワー
ド・バヴィエ一行が函館に向かう途中に会津若松に寄り、同行していた日本人写真師
によって取り壊し前の会津若松城の写真が撮られた。砲火に耐えながらも無惨な姿を
さらしている天守の写真がいろいろな本に掲載されているが、その写真はそのときの
ものである。翌年のいわゆる廃城令によって天守を初めとする城内の建物が破却され
ているので、この写真は大変に貴重なものと言える。

▼天守の古写真は、下記会津若松市の公式サイトで見ることが出来ます。
 http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/fukugen/fuku22.htm


◆氏郷による梯郭式の縄張が、明成による北・西出丸増設でより堅固に

 会津若松城は本丸を中心に、その東側に二の丸が、さらにその東に三の丸が配され
たいわゆる梯郭式の縄張りである。前述のように加藤明成の時代に本丸の北に北出丸
が、西に西出丸が築かれて、守りが一層堅くなり、南に流れる湯川を外堀としたまさ
に堅城である。現在二の丸はテニスコートなどになり、三の丸には県立博物館や陸上
競技場が造られているが、その縄張はよく残っている。

 本丸に入るには東の二の丸から廊下橋を渡るルートに加えて、北出丸と西出丸から
の3つのルートがある。どのルートをとってもよいが、駐車場やバス停に近い西出丸
からのルートで見ていきたい。西出丸のほとんどは駐車場となっているが、出丸を囲
む石垣や櫓跡はよく残っている。北側にある門が西追手門とも呼ばれた搦め手で、南
が内讃岐門である。本丸へは梅坂(知期理坂)を登り、西中門(弓門)から入る。左側に
は鐘撞堂が残っているが、会津戦争の時には砲火が集中したのに最後まで正確な時を
告げて、会津兵の士気を鼓舞したと伝わる。

 タクシーを利用すると、乗降場のある北出丸に着く。東側にあるのが追手門跡であ
るが、これは加藤明成時代以降のことである。蒲生氏郷が近世城郭に大改修したとき
には、二の丸から廊下橋を渡るルートが大手だったと思われる。北出丸は西出丸に比
べると一回り小さいが、三方から敵を攻撃することが出来たために「みなごろし丸」
とも呼ばれた。北出丸からは、椿坂を登って本丸に向かう。坂を登ったところが太鼓
門があったところであるが、右手には遊女石と呼ばれる大きな石が石垣に使われてい
る。いわゆる鏡石で、遊女の歌や踊りに励まされて運んだことに由来するという。

 梅坂や椿坂を登って本丸域に入ると、天守などがあるところよりはまだ一段低い位
置である。帯郭と呼ばれる部分で、西出丸や北出丸とともに本丸を守備する役割であ
る。石垣とともに天守を仰ぎ見る形で、なかなかによい姿である。鉄(くろがね)門か
ら狭い意味での本丸へと入る。この鉄門は天守およびそれとを結ぶ渡櫓とともに、昭
和40年(1965)に外観復元された。この門は死角になっていたために、会津戦争時には
ここで作戦会議などが開かれたという。


◆天守、鉄門に続いて干飯櫓と南走長屋が木造で再建、現存建物は御三階と鱗閣

 本丸に建つ五層の天守は、加藤明成によって改修されたものを鉄筋コンクリート製
で外観復元したもので、内部は郷土博物館となっている。平成13年(2001)には鉄門に
連なる南走長屋と干飯櫓が、本格的な木造で復元されている。城内には11の櫓があっ
たとされるが、この干飯櫓はそれらのなかでも最大のものであったという。また、こ
の干飯櫓から南走長屋、鉄門、渡櫓を通じて天守までつながっているのは、全国的に
見ても大変に珍しいものである。

 本丸内は大変に広い広場となっているが、かつてはここに当主の住居兼政庁であっ
た本丸御殿が建てられていた。本丸を囲む石垣は急傾斜の芝土居の上部だけに築かれ
ており、鉢巻土塁と呼ばれるものである。これは、蘆名氏時代の中世城郭の縄張を生
かしているためと思われる。南端にあるのが月見櫓跡で、この周囲の堀幅は広く、鉄
砲などの射程距離を意識しているものと思われる。

 このすぐ近くには、麟閣と名付けられた茶室がある。これは千利休の養子少庵が蒲
生氏郷のために建てたもので、明治5年(1872)に城外に移されたために破却を免れて
いる。平成2年(1990)に、もともとの位置であった現在地に再移築された。蒲生氏郷
は利休七哲にも数えられた茶人で、利休が秀吉によって切腹させられたときに氏郷に
預けられ、のちに許されて京千家を興している。

 この麟閣の北には御三階跡という櫓台のような石垣が残っているが、ここには氏郷
時代のものとされる三層の櫓が建っていた。明治に入ってJR只見線七日町駅のすぐ
近くにある阿弥陀寺に移築されたために、破却を免れた。現在も阿弥陀寺にあるが、
望楼式で古い形の天守を思わせる雰囲気である。また玄関部分は本丸御殿の内玄関を
取り付けられたものと伝わり、麟閣とともに現存する数少ない遺構である。なお、こ
の阿弥陀寺には会津藩士などの会津戦争での東軍の戦死者の墓所がある。是非とも、
足を伸ばして訪れたいところである。

 麟閣の裏側の月見櫓から続くあたりにあったのが茶壺櫓で、ここから北側の廊下橋
にかけての石垣は高さが20mもあって忍者落としとも呼ばれた。二の丸と本丸をつな
ぐのが廊下橋で、氏郷時代の大手であった。この部分の石垣も高さがあり、見事なま
での桝形である。二の丸には東門と南門以外に目立った遺構はないが、こちら側から
見る本丸の姿もよいものである。


◆総構えを初めとして、市内および近郊にも見どころが多い

 会津若松は主として武家地を取り込んだ総構によって守られていたが、其の一部外
までも残っている。代表的なのは甲賀町郭門の石垣と天寧寺町の土塁で、いずれも国
の史跡に指定されている。北出丸のすぐ北には会津戦争での悲劇の舞台の一つとなっ
た西郷頼母邸跡があるが、その脇をまっすぐ北に6〜700mほど進んだところにあるの
が甲賀口門跡で、石垣の一部が残っている。また北出丸から東に8〜900mほど進み、
浄光寺のある交差点を左折して少し歩いた左手にあるのが天寧寺の土塁である。

 会津松平家では他藩に先駆けて藩校日新館をお城のすぐ西隣に建てたが、会津戦争
で焼失してしまった。現在は天文台跡が残るのみだが、昭和62年(1987)に校外の河東
町に「会津藩校日新館」として復元されている。また西郷頼母邸(復元)や国の重要文
化財である旧中畑陣屋などを移築したテーマパーク「会津武家屋敷」も市内東山町に
開設されているので、興味のある方は行ってみてもよいでしょう。

 蘆名氏時代に薬泉が湧いて別荘が建てられ、保科正之が再建して保養所として歴代
当主が利用した御薬園が市内に残っている。3代正容の時に朝鮮人参の栽培を行った
ことからその名が付き、江戸中期には山水の庭園も造られた。現在は国の名勝にも指
定されているので、こちらにも是非足を伸ばしたい。

 会津といえば白虎隊で知られるが、その自刃の地飯盛山も寄りたいところである。
ここには国の重要文化財・さざえ堂もあって、見どころのひとつである。飯盛山の北
には会津と白河を結ぶ重要な白川街道が走り、滝沢峠入口には本陣が設けられた。会
津戦争の時には松平容保はここに陣を敷き、前線の藩士を激励した。この本陣の建物
のあちこちにはそのときの弾痕や刀傷が残っており、会津戦争の激しさを物語ってい
る。

 このように会津若松城だけではなく、市内や近隣にも多くの見どころがあるので、
是非ゆっくりと時間をとって見てまわって欲しいものである。

▼会津藩校日新館の詳細については、下記公式サイトをご覧下さい。
 http://www.nisshinkan.jp/

▼会津武家屋敷の詳細については、下記公式サイトをご覧下さい。
 http://www.bukeyashiki.com/

▼御薬園については、下記サイトを参考にしてください。
 http://www.tsurugajo.com/oyakuen/index.htm
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/oyakuen.htm

▼滝沢本陣については、下記サイトを参考にしてください。
 http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/kanko/kanko/iimori/honjin.html
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/takizawahonjin.htm
 http://inoues.net/club/aidu_honjin.html


◆会津若松城関係の参考書
 会津若松城を散策するにあたって参考となる書籍には、以下のようなものがありま
  す。
・小学館ウィークリーブック「週刊名城をゆく第4号 会津若松城」     560円
・歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城17 仙台城・会津若松城」(学研)  780円


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