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2008/03/19

【お城ファン倶楽部 No.135】日本100名城(その7)二本松城

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【お城ファン倶楽部 No.135】日本100名城(その7)二本松城
                              2008/03/19(Wed)
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 東北地方の最後は福島県で、二本松城、会津若松城と白河小峰城の三城が選定され
ています。このうち白河小峰城については「平成の四天守」の項で紹介していますの
で、二本松城と会津若松城を取り上げます。今回は、少年隊でも知られる二本松城で
す。山麓と山上の曲輪からなる典型的な平山城ですが、特に山上の石垣群がすばらし
い城です。

 白河小峰城については、第15号(2005/11/30)で取り上げていますので、下記のバッ
クナンバーをご覧下さい。
 http://archive.mag2.com/0000168576/20051130030000000.html?start=100


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 二本松城(別名:霞ヶ城、白旗城)
  所 在 地:福島県二本松市郭内
  史跡区分:国指定史跡(平成19年7月26日指定)
       大手門跡と戒石銘碑も国指定史跡
       城内の茶亭洗心亭は福島県指定文化財
  入 場 料:な  し
  交通機関:車の場合は東北自動車道二本松ICで下り、ICを出たら左折して県
       道 355号線に入る。そのまま直進し、二本松駅入口の次の交差点を左
       折する。そのまま道なりに進むと、1kmほどで二本松城の駐車場とな
       る。なお、山上の本丸へはそのまま山道を案内にしたがって登ればよ
       い。本丸近くには、駐車場も用意されている。
       公共交通機関の場合は、JR東北本線二本松駅で下車する。バスなど
       はないので、徒歩かタクシー利用となる。駅から山麓の箕輪門までは
       約 1.4kmで、徒歩で20分程度である。お薦めはタクシーを利用して山
       上の本丸まで行ってもらい、歩いて山麓部に至る方法である。
 http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/kanko/kanko/meisho1.html
 http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/c-1-3-2-1-siro-NIHONNMATU.html
 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/nihonmatu.htm
 http://www.asahi-net.or.jp/~de3m-ozw/shiro/nihon/nihon00.htm
 http://homepage3.nifty.com/otakeya/ouu/nihonmatu.htm
──────────────────────────────────────


◆奥州探題二本松畠山氏第7代満泰によって15世紀前半に築城

 二本松城は15世紀の前半に、二本松畠山氏第4代の畠山満泰によって築かれたとい
う。二本松畠山氏は室町幕府三管領の一人であった畠山宗家とは同族で、河内源氏の
名門である足利氏の支流にあたる。足利義兼の庶長子であった良純を初代とし、室町
時代初めの貞和2年(1346)に四代畠山高国が奥州管領に任ぜられて、陸奥国に入った
のが二本松畠山氏の始まりである。ちなみに、良兼の三男義氏がのちの足利将軍家の
祖となっている。

 足利直義と高師直との間の幕府内での権力争いに端を発した「観応の擾乱」の余波
は奥州にも波及し、尊氏派であった高国・国氏親子は直義派の吉良貞家に攻められて
敗死する。その子国詮は二本松に戻り、奥州探題を世襲した。しかしながら、その地
位は一国人としてのものであり、奥州探題は自称であって、家格は高いものの実力は
ともなっていなかった。この頃までの二本松畠山氏は、現在の二本松市立塩沢小学校
あたりに居館を構えていたといわれる。

 次の満泰の代となると畠山氏も力をつけはじめ、居館のほぼ南2kmほどの所にある
標高345mの白旗ヶ峯に城を築いて二本松城と名付けた。築城したのは応永21年(1414)
とされるが、嘉吉年間(1441〜43)とする説もある。このときの二本松城は白旗ヶ峯の
山頂一帯に縄張された山城で、もちろん土造りの城であった。おそらくは、いざとい
うときの詰め城としての役割を担うために築いたのではないかと考えられる。

 満泰の頃から二本松氏と呼ばれるようになり、持泰、政国、村国、晴国、家泰、義
氏さらに義国と続くが、伊達氏や蘆名氏などの有力大名に挟まれて、勢力は振るわな
かった。第14代義国の時には会津の蘆名盛氏に攻められ、その結果盛氏の臣下となっ
て、わずかに安達半郡と安積半郡だけを支配するようになったようである。

 天正13年(1585)に伊達政宗と田村清顕は陸奥小浜城主大内定綱の支配する小手森城
を攻め、女子供も含めて城内にいたものすべてを殺戮する。これは「小手森城の撫で
斬り」と称されて、後々まで語り継がれることとなる。これに対して、定綱に頼られ
た蘆名氏とともに義国の子義継は伊達政宗を攻めるが、かえって本拠の二本松城を攻
められて降伏する。しかし政宗は二本松のわずかな所領しか認めず、これを恨んだ義
継は和睦の際に政宗の父輝宗を拉致して逃亡しようとした。しかし逃げ切れずに、輝
宗と刺し違えてしまう。

 二本松氏の跡を継いだ第16代義綱は父輝宗の敵とばかりに政宗の猛攻を受けたが、
近隣の反伊達勢力の加勢もあって何とかはね返した。しかし翌天正14年(1586)に再び
政宗に攻められると持ちこたえられず、相馬義胤の斡旋もあって二本松城を無血開城
する。これによって、事実上二本松氏は滅亡することになる。義綱は会津の蘆名義広
を頼ったが、天正17年(1589)にはその蘆名氏も政宗に摺上原の戦いで大敗し、蘆名氏
も滅亡する。この際に義綱は殺害されたといい、弟義孝が二本松氏を継いでいる。二
本松畠山氏が正式に二本松氏を称したのはこの義孝の時で、蒲生氏郷や加藤嘉明らの
客分となって庇護を受けたのちに、徳川譜代の山形水野家に仕えた。

▼陸奥小浜城については、下記サイトを参考にしてください。
 http://castle.slowstandard.com/post_377.html
 http://homepage2.nifty.com/nihon-castle/TOUSANDOU/obama.htm

▼小手森城については、下記サイトを参考にしてください。
 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/otemori.htm
 http://www.geocities.jp/michi_road01/fukushima_odemori.html
 http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/kanko/kanko/towa-3.html


◆二本松氏滅亡後は、伊達、蒲生、加藤氏が入り、近世城郭へ改修

 二本松畠山氏の滅亡で二本松城は伊達政宗のものとなり、はじめ腹心の片倉景綱が
入り、次いで政宗の従兄弟である伊達成実が城代として二本松を治めた。さらに短期
間ではあったが、石母田景頼、大篠宗綱や柴田宗義が城代を務めた。しかし天正18年
(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きによって会津領は没収され、蒲生氏郷が42万石で
会津に入った。二本松城は会津若松城の支城となり、もともと柴田勝家の家臣であっ
た蒲生郷成が城を預かった。次いで町野幸仍、幸和親子が城代となったが、慶長3年
(1598)に秀吉の命で上杉景勝が会津に入ると、家臣の秋山定綱が、次いで下条忠親が
城代を務めた。山頂の本丸には慶長期あるいはそれ以前のものと思われる穴太衆積み
の石垣が残されているが、これはこの氏郷時代のものと考えられる。

 関ヶ原の戦いののちに上杉景勝は米沢に移り、慶長6年(1601)に会津には蒲生氏郷
の嫡男秀行が60万石で入る。慶長17年(1612)に秀行が若くして亡くなると、嫡男忠郷
がわずか10歳で当主となる。この忠郷も寛永4年(1627)に、26歳の若さで亡くなって
しまう。本来であれば無嗣断絶なるところであったが、母が家康の娘であったために
弟の蒲生忠知を後嗣として伊予松山24万石が与えられた。この間二本松城には、梅原
弥左衛門、本山安政・安行、外池良重、門屋助右衛門らが城代として務めた。

 蒲生氏転封ののち二本松は幕府預かりとなって、酒井右近太夫と太田原晴清が在番
した。幕府預かりはわずか一ヶ月だけで、同年(寛永4年)加藤嘉明が蒲生忠知と入れ
替わりに40万石に加増されて会津に入った。二本松城には嘉明の娘婿であり与力でも
あった松下重綱が、下野烏山城から5万石に加増されて入部した。重綱は同じ年に亡
くなり、跡を嫡男長綱が継ぐ。しかし若年であることを理由に、翌年には幕府によっ
て3万石に減封されて三春城に移されてしまう。

 松下氏移封ののちは、二本松城には加藤嘉明の三男明利が3万石で入城する。寛永
8年(1631)に嘉明が亡くなると、長男明成が会津40万石を襲封する。明利は寛永18年
(1841)に亡くなり、その後2年間は代官支配となった。家督を継いだ明成は家臣団と
の衝突などがあって、寛永20年(1643)に改易となってしまう。加藤氏改易にともなっ
て二本松は三ヶ月ほど幕府領となり、相馬義胤が在番した。そのあとに入ったのが、
丹羽光重である。

 二本松市教育委員会による発掘調査の結果から、中世城郭を近世城郭へと改修した
あとが至るところで見つかった。例えば、井楼櫓の取り付いた掘立柱塀から屏風折の
礎石建の塀への改修、搦手門の掘立柱式冠木門から礎石式の櫓門への改造、切岸を石
垣で補修して整えていることなどである。さらに、急峻な地形を削平・盛り土して高
石垣を築いて三の丸を造成したり、蒲生時代の本丸石垣を拡張して積み直したりした
のは、加藤氏時代の改変であることが分かった。


◆丹羽長秀の孫光長が入って大改修、以後丹羽氏が続いて戊辰戦争へ

 丹羽光重は織田信長や豊臣秀吉の重臣として活躍した丹羽長秀の孫にあたり、寛永
20年(1643)8月に白河小峰城から10万石あまりで移ってきた。以後明治を迎えるまで
丹羽氏が二本松を治めることとなるが、その初代となる光重は二本松城の大改修や城
下町の整備を積極的に進めた。現在白旗ヶ峯の山頂一帯に壮大な石垣が組まれている
が、これはこの光重の時で三層の天守まで上げられたという。ただし発掘調査の結果
では建物跡は見つかっておらず、天守があったことは疑問である。こうした石垣や堀
などを改修するとともに、観音丘陵を境として武家地と社寺・町家地とを分離し、前
者を郭内、後者を郭外とするなどの城下町の整備を行った。

 戦国末期から江戸時代初めにかけてめまぐるしく城主が交代した二本松城であった
が、丹羽氏が入ってからは安定した。第9代藩主丹羽長富の天保3年(1832)の時に幕
府の許しを得て、城の南西6〜700mのところに大手門(通称坂下門)を新設した。二本
松城の南には東西に奥州街道が走っているが、その街道から郭内に入る城門の一つで
ある。櫓門は失われてしまったが、門台石垣と桝形および前面の堀にともなう石垣が
JR二本松駅から二本松城に至る途中の歴史資料館のあたりに残されている。

 第10代丹羽長国の時に戊辰戦争が起こり、奥羽越列藩同盟に加盟して新政府軍と戦
った。しかし各地で敗れてしまい、明治元年(1868)7月に藩主長国は米沢に敗走し、
二本松城は陥落する。9月に長国は降伏して隠居し、養嗣子の長裕に相続が認められ
たが5万石に半減された。明治2年(1869)の版籍奉還で長裕は二本松藩知事となり、
さらに明治4年(1871)の廃藩置県で二本松藩は消滅した。翌年には廃城令を待たずに
廃城となり、城内の建物はすべて破却されてしまった。

 戊辰戦争ではことごとく敗戦の憂き目をみた二本松藩であるが、忘れてはならない
のは「少年隊」である。会津白虎隊は人口に膾炙しているが、二本松少年隊のことを
知る人は少ない。少年隊とは12から17歳の二本松藩士の子息からなる少年兵部隊で、
62名が出陣している。なかでも西洋砲術師範として江戸留学の経験もあった22歳の木
村銃太郎が指揮する25名が特に有名で、大壇口での戦いで薩摩軍と対戦し木村をはじ
め多くが戦死している。

 大壇口はJR二本松駅の西方1kmあまりの東北本線沿いにあり、「木村銃太郎戦死
之地」の石碑が建てられている。戦死した少年隊隊士の墓所は、藩主丹羽氏の菩提寺
でもある大隣寺にある。二本松駅から歩いても15分程度のところであるので、出来れ
ば寄って欲しいところである。また、二本松城内にも群像彫刻と顕彰碑が建てられて
いる。

▼大隣寺については、下記公式サイトをご覧下さい。
 http://www10.ocn.ne.jp/~dairinji/


◆箕輪門の復元に続いて、本丸・天守台も修復・復元

 二本松城は山麓部と山頂部からなる典型的な平山城で、全体が霞ヶ城公園として整
備されている。山麓部には昭和57年(1982)に箕輪門とそれにつながる附櫓が復元され
ており、周囲の石垣とともに良い景観を生み出している。丹羽光重による二本松城改
修の際にこの城門が造られたが、旧箕輪村にある山王寺山のご神木である樫の木を用
いたことから箕輪門と命名されている。この箕輪門周辺の高石垣も、光重時代に築か
れたものと思われる。

 JR二本松駅から二本松城に来る途中に大手門跡があることはすでに述べたが、二
本松城のいわば惣構えである郭内を守る城門は全部で5つあった。東を守る竹田門、
南には大手(坂下)門と池ノ入門、西の松坂門と北の搦手門である。さらに大手門の内
側には、久保丁門があった。北の搦手門跡には門台石垣と門柱を建てた礎石が残って
いる。また、発掘調査の結果で、加藤氏・丹羽氏以前のものと思われる掘立柱式の冠
木門の柱穴も見つかっている。

 箕輪門の前の駐車場となっている広場は千人溜と呼ばれる空間で、その東側には国
の史跡にも指定されている戒石銘碑がある。これは丹羽氏5代高寛が寛延2年(1749)
に、藩の儒学者岩井田昨非に命じて刻ませたものである。藩士の通用門にあたるとこ
ろに置いて、戒めとしたものである。この戒石銘碑前の坂道を登っていくと、山頂部
の本丸へ至るが、車でも登ることが出来て駐車場もあるので大変に便利である。

 山頂の本丸部は壮大な石垣で造られ、ここを見なくては二本松城に来た意味がない
と言っても過言ではない。慶長期あるいはそれ以前から江戸時代初めにかけて、蒲生
氏、加藤氏および丹羽氏によって順次整備されたものである。本丸はほぼ正方形の石
垣に囲まれ、北東部に一段高い天守台が築かれている。この本丸および天守台の石垣
は発掘調査などの結果に基づいて、平成5年(1993)から7年(1995)にかけて修復・復
元されたものである。


◆城内唯一の建築遺構の洗心亭や日本三井の一つ月影の井戸も見どころ

 本丸石垣の南側の一段低いところに、高さが13mにも達する高石垣が残っている。
この石垣はいわゆる穴太衆積みと呼ばれる野面積みで、蒲生氏郷時代に積まれたもの
と考えられる。ここから西に進むと、搦手門跡となる。見事な桝形が残っており、初
めは氏郷時代に造られ、その後加藤氏や丹羽氏によって改修されたものと思われる。
この搦手門の南側一帯が少年隊の丘と呼ばれているところで、日展彫刻家橋本高昇制
作のブロンズレリーフ「二本松少年隊奮戦の図」や顕彰碑「二本松大壇口弔少年隊戦
死墓」が建てられている。

 搦手門や少年隊の丘の西側を流れているのが二合田用水で、丹羽氏入部後間もない
頃に造られた。安達太良山麓より尾根伝いに延々18kmもの距離を城内に引水した用水
で、幕府には内密だった。のちには、農業用水や城下町の生活あるいは防火用水とし
て用いられている。

 道を東にとって進むと、ちょうど本丸から下りてきた道と交わるあたりに石組みの
「日影の井戸」がある。深さは16mほどもあり、さらに井戸底の岩盤をえぐって北に
14mも掘られている。説明板によると、千葉県印西市の「月影の井戸」や神奈川県鎌
倉市の「星影の井戸」とともに「日本の三井」といわれているようである。

 そのまま山を下りると、るり池という池がある。これは丹羽氏初代光重時代の庭園
の名残りで、小規模ながら回遊式庭園となっている。るり池近くにある建物は、洗心
亭と命名されている茶亭である。城内に唯一残る江戸時代の建物で、福島県の文化財
に指定されている。これも光重時代に建てられ、「墨絵の御茶屋」として光重が愛用
したと伝わっている。戊辰戦争当時には城外に移築されていたために戦火を逃れ、明
治40年(1907)に城内に戻されたものである。上方の洗心滝に感じ入った丹羽家16代当
主が、洗心亭と改称している。

 山麓部は二の丸と称され、藩主の住まいであり政庁でもあった二の丸御殿が建てら
れていた。また、その奥には新御殿(大御所様御住居所)や御部屋住居(御前様住居所)
などもあった。この二の丸中央に設けられた箕輪門から千人溜へと通じるが、両側の
石垣は本当に見事なものである。東北地方には石垣造りの城はとても数少ないなか、
石垣造りで典型的な平山城形式の二本松城は大変に貴重な存在と言える。


◆二本松城関係の参考書
 二本松城を散策するにあたって参考となる書籍には、以下のようなものがあります。
・歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城17 仙台城・会津若松城」(学研)  780円


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