2009/12/20
神々とガラス玉遊戯
□ ■― □― ■ | ガラス玉遊戯 | ■ ―□ ―■ □ 今年の八月くらいから、精神的に非常につらい状態になっていた私です。 時間感覚も狂い、前回のメルマガの発行からずいぶんたっていたことに、 気づきませんでした。 現在取り組んでいるのは、神道とガラス玉遊戯の関係の明確化です。 神道のさまざまな儀式のなかには日本人の潜在意識に宿るものが眠り、 ガラス玉遊戯で可能性を展開する時に、日本人の潜在意識にそうと、 人々に受け入れられる物事の発見が容易になると感じております。 注意しなければならないのは、神道の侮辱にならないようにすることと、 ガラス玉遊戯の宗教化を防ぐことです。基本的立場としては、 「神道から学んでも、ガラス玉遊戯を神道の手段とはしない。」 となるかと存じます。 将来のガラス玉遊戯の国際化の時に備える意味での注意でもあります。 神道に取り組むうちに感じたことをいくつか述べます。 神道では天上の神と地上の神と人間との関係における様々な儀式があります。 私が感じるところでは、この儀式は天の神々と地の神々と人間との接続式で、 例えば大祓詞(おおはらえのことば)により、天のさまざまな事象、 地のさざまな事象との関係に、自己を置くことで、個別的自我を超越すると、 存在しうるものに開かれた意識が、まだ見い出されていない発展の方式への、 予感を受け取ることになる、そのような印象があります。 この予感が私にのみ起こるのか、人々一般にも起こるのかは、まだ不明です。 しかし、「予感」でも、ガラス玉遊戯を知る者にとっては、 ただちに可能性に置換されうるのに十分です。それで、私にとっては、 十分に実利的な取り組みとなるのです。 もっとも、実利のみを求めて神道に接しているのではありません。 ガラス玉遊戯による可能性で、人生の苦難を乗り越えることはできますが、 常に創作状態にいられるほど人間の精神はタフではないと、経験したのです。 「どこかで休みたい」そう思った今年の夏に、本棚の神道の本の大祓詞から、 しばしの安らぎを得ることができました。 問題を解決は自分の努力から始まるもので、奇跡を懇願しはしませんが、 先達の人々の英知に安らぐのも良いのでは、と感じるところです。 □ ■― □― ■ | ガラス玉遊戯 | ■ ―□ ―■ □ 私たちの世界で別々に変動している、 精神の平面と現象の平面と自己の平面の間で、 人生を楽しむ技芸があります。 著者 西庄 響 発行者 西庄 庸勝 メール spieler@magicandbeauty.com HP http://www.magicandbeauty.com 配信登録解除は以下から、どうぞ。 http://www.mag2.com/m/0000160054.html (C)Copyright 2009 Kyou Nissho. All rights reserved.


