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仏教の根本思想とは何なのか?仏教の歴史的展開において、失われたもの、また、得たものは何なのか?現代において、仏教はいかに実践されるべきか?すらすら頭に入る仏教入門。

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2008/06/08

目からウロコの仏教入門 ── あっという間にわかる禅思想 ──

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□□     〜ひとりで学ぶ歴史と思想〜     □□□
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── あっという間にわかる禅思想 ──

今日は、仏教にうとい人でも、あっという間にわかるように、
禅思想を噛み砕いてみたいと思います。

釈迦の説いた仏教思想とは、
無常や無我という真理を踏まえて生活せよということです。

神さまを信じなさいとか、仏さまを信じなさいというものではなくて、
あくまでも、真理に基づいて生活するのだ。
その結果、人は迷いを払拭(ふっしょく)して悟りを獲得する。
それが「仏」なのだ。
そういう思想です。

釈迦が入滅して数百年経った頃、
在家を中心とする仏教徒は、
何体もの「仏」「菩薩」というものを立てて、それを拝むようになります。
宗教的臭いが強くなるんです。
これが「大乗仏教」です。

その頃には、お経がいくつも、いくつも出来る。
大乗仏教の経典もあるし、大乗仏教以前に成立した経典もたくさんあります。
そして、それらのお経は、みな、説いていることが異なっている。
そのどれもが「釈迦の教え」とされているのです。

こうなりますと、人々は混乱します。
いったい、どれが釈迦の教えなのかと。

その中で、こういう考え方が出て来ます。

真理というものは、本来、文字で伝えることなどできないのだ。
経典とはたとえば、月を差す指の如きものなのだ。
その指をもって、ありがたい、ありがたいというのは間違っている。

別のたとえで言えば、経典とは、池に映った月のようなものである。
池に映った月は、決して、月そのものではないのだ。
それなのに、池に映った月を月だと思い、
すくい取ろうとしても、それは徒労に過ぎないのだ。

では、どうしたら本当の真理を獲得できるのか。
それは、師匠について修行する中で、自然に心の中に顕れるのである。
「ああ、これが真理か」と、思うようになるのである。

その修行とは、座禅や、問答である。

だから、仏や菩薩というものを有り難がっていても、しょうがないのだ。
そんなものをいくら拝んでも、悟れるというものではないのだ。

これが禅思想の根本です。

この禅思想は、達磨大師にはじまったとされております。

達磨大師はインド人とも、ペルシア人とも言われております。
達磨大師はインドから中国に渡って来て、禅思想を説いたのです。

禅思想には主に、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三つの系統があります。
この三つとも、日本に来ております。

黄檗宗は、臨済宗の系統ですので、
ここでは臨済宗と曹洞宗について言及します。

臨済宗は、「殺仏殺祖」と言います。

  仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。

これが臨済宗の思想を象徴しております。
仏や宗祖というものに執着している限り、
自分の中に眠っている真理に気づくことが無いのだ。

だから、仏や宗祖への執着から解放されなければならないのだ。

臨済宗の特徴として、霊魂の否定というのもあります。
臨済宗のすべての人が、霊魂を否定しているわけではありませんが、
霊魂を否定している人が多いんですね。

臨済宗の特徴として「現実主義」というのがありますから、
自然に霊魂の否定へと、考え方が行くのでしょう。

霊能者の江原啓之が臨済宗の僧侶の批判を受けまして、
その反論として、

「霊魂を否定しながら葬式をやっているのは矛盾ではないか」

と言う主旨のことを語っておりますが、これは当たっていると思います。

霊魂否定というのは浄土真宗でもそうです。

臨済宗にせよ、浄土真宗にせよ、本当は、葬式をやりたくないのでしょうね。
でも、それでは食えないという現実があります。

ここに矛盾が生じるわけですが、それを矛盾と思われないために、
さまざまな理屈をこねております。

その理屈については、臨済宗や浄土真宗の人に聞いてみてください。

日本では臨済宗が先に入って来て、その後で、道元が曹洞宗を持って来ます。

道元の思想が、中国の曹洞宗とまるで同じかと言えば、
必ずしも、そうではないようです。
道元のオリジナルの思想というものがあると思います。

ですから、これからお話しますのは、あくまでも道元思想です。

道元のテーマは「悟りとは何か」です。

道元は、こう考えたのです。

悟りとは、真理を把握することです。
その真理というものは、別に心の中だけにあるわけではありません。
世の中、すべてに真理は顕れているのです。

野に咲く花の中にも、人々の素朴な生活の中にも、真理は顕れている。
真理は、そこいらにあるのだ。

メシを食い、クソをして、寝る。
ここに真理が顕れているのだ。

ただし、人の行動のすべてが真理に即しているわけではない。
真理に逆らった行動もある。

だから、真理に即した行動をせねばならない。

「座禅」(曹洞宗では“坐禅”という文字を使います)というものは、
何も、悟りを開くための手段なのではない。

座禅とは、最も真理に即した行動なのである。

座禅にはじまる、仏教の諸々の作法というものは、
すべて、真理に即した行動として、先人より習い伝えられて来たものである。
だから、これらの仏教の作法のまま行動をすることが、
真理に即して生きるということなのである。

つまり、座禅などの仏教作法に従って生きるということが、
そのまま「悟り」なのだ。

悟りを観念の中に求めるのではなく、
先人から伝えられて来た、正しいふるまいに従う。
これは「悟り」の中に生きるということである。

座禅とは、悟りの中に生きているということなのだ。

平たく例を出しますと、
我々のほとんどはコンピューターのプログラミング言語を知りません。

プログラミング言語なんてわからなくても、パソコンを扱うことはできます。
パソコンは誰にでも扱えるように出来ているからです。

つまり、パソコンを操作しているということは、
結果的に、プログラミング言語を駆使しているのと同じです。

このパソコンというのが、仏教の諸々の作法であり、
プログラミング言語というものが真理です。

これでなんとなく、道元の思想について、ご理解いただけたでしょうか。

釈迦や宗祖の言葉ばかり追いかけている人がいますね。
釈迦か宗祖の亡霊を追いかけて生きているのと同じことです。
それでは、自分の人生を生きているとは言えないのではないかと思います。

そういう人にとっては、臨済宗の「殺仏殺祖」という言葉に、
学ぶべきところがあると思います。

また、悟りとは何かということについて、観念的になり過ぎている人もおります。
文章ばかり、求めている人ですね。

こういう人にとっては、道元の思想は、重要な警鐘になると思います。

いかがでしたでしょうか。
今日の話も、みなさまのお役に立てたら幸いです。


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