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仏教の根本思想とは何なのか?仏教の歴史的展開において、失われたもの、また、得たものは何なのか?現代において、仏教はいかに実践されるべきか?すらすら頭に入る仏教入門。

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2008/05/11

目からウロコの仏教入門 ── 自殺について ──

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□□□     目からウロコの仏教入門       □□
□□     〜ひとりで学ぶ歴史と思想〜     □□□
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── 自殺について ──

最近、硫化水素自殺をはかる者が、大変に多くなっております。

硫化水素自殺で問題なのは、他人を巻き込む可能性があると言う事です。
にも関わず、このやり方を選択する者が多い。

自分の目的のためには、他人など、どうなっても構わないのでしょう。

また、自殺の低年齢化と言う事も言われております。

今年3月、区立小学校の男子児童(12)が卒業式で
「大嫌いな学校」と発言し、帰宅後、飛び降り自殺したという事件がありました。

わが国では、自殺者はここ数年で毎年3万人を連続しています。
自殺死亡率は世界でも10本の指に入っております。

これは世界中、どこでもそうですが、男性の自殺者は、女性の自殺者の倍以上です。

自殺者が多い国と言うのは、それだけ、「生きにくい国」であるという事です。
日本は、世界有数の生きにくい国なのです。

国民年金は最大で6万円しか貰えない。
国民年金受給者の4人に一人が4万円です。
当然、他に何か仕事をする必要がある。
ですが、都会はともかく、田舎では、老人の雇用など無いのです。
これで病気になり、多額の医療費がかかるようになったらどうするのか。

一例ですが、これだけ見ても、この国のひずみがわかります。

理想は、誰もが自殺など考えない、
ずっと生きていたいと思えるような国になる事です。
そういう国になるためには、一体、どういう努力をしなければならないか。

これを考え、具体的手段を講じることが、この国の近々の課題です。

まず、自殺したくなくなるような国になるのが第一。
しかしながら、今、現在、すでに自殺を考えている人もおります。

このメルマガを読んでいる中にも、おそらく、一人はいるはずです。

そういう人に対し、どういう言葉をかければ良いのか。

みなさんは「死にたい」と人から言われた経験はありますか?
その時、どのように答えましたか?

お子さんのいらっしゃる方。
自殺について、どのように教えられておりますか?

宗教の中には、
「自殺をすれば地獄に堕ちる」と言う教えを立てているところもあるようです。

仏教においては、私の知る範囲では、
自殺の是非について論じているお経と言うのは無かったと思います。
(もし、そういう経典をご存知の方は、教えてください)

ですが、「自殺をすれば地獄に堕ちる」とまでは言わないまでも、
それに近い事を説く者も、仏教の世界にはおります。

これは、この娑婆世界を「修行の場」と前提とするならば、
自殺とは、修行の中断、放棄でありますから、
少なくとも、あまりほめられたものではない、という事になるのです。

しかしながら、宗教的見解に基づき、
「だから自殺はいけないのだよ」と人に説く事は、
いかがなものかと私は思うのです。

なぜならば、宗教と言うものは、科学的なものでは無いのです。
証明し得ないものなのです。

証明し得ないものをもって、「だから」と、
死にかかわる重要な問題に結びつけるのは、おかしいでしょう。

自分がそう思っているだけならば良いのです。
しかし、それを人に教えるのは違うのではないかと言いたいのです。

そもそも仏教とは、「人の道」を説いているものです。
人として、正しく生きて行くことを説いているのが仏教なのです。

また、仏菩薩は、みな、過去に人として、正しく行き抜いたがゆえに、
仏菩薩となったのです。

「仏教」とは、人として生きるための知恵の結晶です。
何も特別なものでは無いのです。

仏教の教えを借りなくても、
人生、世の中に関する重要なことは説明できます。

なぜならば、誰もが知っている道理を、
ぎゅっと圧縮したのが仏教なのです。

自殺に関する事も、世間の道理で説明できるはずです。

「人の道」を貫くことが仏道であるならば、
自殺とは、一体、人の道を貫く行為と言えるのか。

「人の道」とは、人を利する道、少なくとも、人に迷惑をかけない道でしょう。

自殺は、家族や周囲を悲しませる。
そして、自殺現場に関わった人たち(通行人、警察等)に迷惑をかけます。

自殺は人の道に反しているのです。
だから、自殺はいけないのです。

しかしながら、人によっては、自殺はやむをえない場合があります。

たとえば、安楽死というものがあります。
状況によっては、本人の意思で、安楽死することができる。
これは自殺の一種です。

その他にも、誰から見ても、自殺、やむなしという状況があるでしょう。

こういう状況で自殺することは、「人の道に反している」とは言えません。
仏菩薩のおとがめも無いでしょう。
むしろ、慈悲にあずかることができるはずです。

ですが、ほとんどの場合は、「自殺、やむなし」という状況ではないのです。

自分が自殺したいと思ったならば、
その理由を克明に、人に説明してみれば良いのです。

それで「そんなことくらいで死ぬな」と言われるようならば、
それは自殺するに値しないことなのです。

他人からもし、「死にたい」と言われたら、
まず、その理由を聞いてみることが必要だろうと思います。

「死ぬな」と言っても、根本的な解決にはなりません。

まず、その理由、動機を聞く。
そして、もし、たった今、
その人と自分の身体が入れ替ったらどうするかと考えます。

自分だったら、ああするなあ、こうするなあと思い浮かぶはずです。
そのことを相手に伝えます。

自殺を考えている人の思考は、乱れております。
ですから、こちらのクリアーな脳で代りに考えてあげると、
自殺しなくて済むような手段がみつかる場合もあるのです。

中には、「自分もこの人の立場なら死んでしまいたくなるだろう」
と思うような状況もあるかも知れません。

もちろん、自殺を勧める必要はありません。
ただ、深く、深く、その人の苦悩を察し、共に涙することが大切だと思います。

場合によっては、さらに他の人の意見に触れさせることも必要でしょう。


  ≪前回の補足≫

前回、仏教と成功哲学について述べさせていただきましたが、
自分自身で再読しまして、気づいたことがありますので、補足いたします。

仏教と申しますのは、我執から離れる事を説いております。
すなわち「無我」です。

そのための具体的な方法が「戒・定・慧」でありますが、
仏教の入門者には、なかなかとっつきにくいわけです。

そこで、戒・定・慧の代わりに、私が考えたキーワードが、
「流れる心」「勝らぬ心」「求めぬ心」「無心」の4つです。
(これについては、下にリンクしているまとめページをご覧ください)

前回、成功哲学は自己責任観に立つと言う話をしました。
それに対し、仏教は縁起論であり、すべてが自己責任と言う見方はしないのだと。

この「自己責任」でありますが、私のキーワードの「求めぬ心」と、
意味として重なるところがあるのですね。
文字だけを見ますと、まるで同じようにも思えます。

「求めぬ心」とは、「他者に求めぬ心」ですから。

しかしながら、この言葉の思想的バックボーンがまるで異なるのです。

「求めぬ心」と申しますのは、本来、「自他」と言うものはないと言う、
「平等性智」と言う考え方から来ているのです。

たとえば、右足が故障すれば、左足がそれを自然に助ける。
右手が故障すれば、左手が自然にそれを助ける。
「右手、このやろう、ふざけやがって!」などと、左手がせめることはない。
(多少、無茶なたとえでご勘弁を)

人間もまた同じであり、人間は一見、バラバラでありますが、本来、同根です。
同根であると言う考え方に立つならば、
他人が弱れば、その分、自分がフォローすれば良い。
お互いに、持ちつ、持たれつです。

ですから、「おまえの働きが弱い」とせめるのではなく、
その分を、ひたすら、自分がカバーする。
自らの役割を果たす。

もちろん、場合によっては、相手をせめるべき時もありますが、
それは、自分が自分の持ち場において、やるべき事をやり尽くした後の事です。

自らの責務が果たせていない状態で、
他人を糾弾するのはおかしい、と言う話です。

成功哲学における自己責任論も同様であると言う人もいるでしょう。
それならば、それで結構です。

ただ、成功哲学の本などに見かける自己責任論を見ますと、
どうしても、私は冷たさを感じるのです。

もう一つ、補足します。

今を受け容れるのが仏教であり、
未来を切り拓くのが成功哲学であると言うお話をしました。

それに対し、密教寺院などでは、現世利益的な祈祷を行います。
「今を受け容れる」のであれば、こんな祈祷は必要ないはずです。
だから、矛盾していると思った人もいたでしょう。

「祈祷」と言うのは、そもそも、釈迦の時代にはなかったのです。
ですが、インド古来から、祈祷というものが存在し、
それが仏教に持ち込まれたわけです。

祈祷とは、神に対し「奇跡」を願うものです。
努力して、何とかなるならば、こんなことをする必要はありません。
努力では、どうにもならないことに対し、奇跡を願うのです。

たとえば、昔は、現在よりもはるかに、不治の病が多かったのです。

また、民主主義など存在しませんでしたから、
不当に政府に抑圧される民衆も多かったのです。

こんな時は、努力はほとんど役に立ちません。
そこで、祈祷により、奇跡が起こるのを期待するしかない。

釈迦、現実主義でありますから、祈祷など行わなかったのです。
ですから、努力ではどうにもならぬ問題を抱えている人に対しては、
なぐさめる以外に手段がなかったのです。

それでは無慈悲であるということで、
自然に、祈祷というものが仏教の中にも入り込んで来ました。

しかしながら、あくまでも「今を受け容れる」のが仏教です。
祈祷はオプションに過ぎません。

祈祷の専門集団である密教においても、
無常、無我、空という仏教の根本概念のベースの上に、
祈祷があるのだ、という前提になっているのです。

では、実際に、祈祷による奇跡はあるのか。
これについては、私は「否定はできない」と申すに留めたいと思います。
なぜならば、奇跡的な現世利益に対し、他人を過度に期待させてしまいますと、
それによって、かえってその人を不幸な目に遭わせる場合があるからです。

たとえば、叶わなくて失望したり、
また、祈祷ばかりに執心して、努力をまるでしなかったり等です。

ですが、ただ、一つだけ言えることは、
奇跡を信じない者には奇跡は起こらない、という事です。
奇跡というものは、それを信じる者にだけ生じる、という事です。

願えば、必ず奇跡が生じるというものではありませんし、
神仏は、奇跡を与えるための存在ではありません。
神仏とは、人の生きざまを正すためにあるのです。

それを前提とした上で、奇跡を願う者は、願えば良いと思うのです。


-【編集後記】---------------------------------------------------------------

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