目からウロコの仏教入門 ── ──
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□□□ 目からウロコの仏教入門 □□
□□ 〜ひとりで学ぶ歴史と思想〜 □□□
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── 仏教と成功哲学 ──
今日は久しぶりに、成功哲学についてお話させていただきたいと思います。
成功哲学と言いますのは、成功するための理論ですね。
この理論は色々な人によって発表されています。
ここでは、特定人物の理論を示すのではなく、
アバウトに、成功するための理論を「成功哲学」と呼んでいます。
インフォシークの辞書で調べると、「成功」の意味は、
(1)仕事・計画などがうまくいくこと。目的を達成すること。⇔失敗
(2)相当な地位や財産を得ること。
(3)功を積むこと。年功。
とあります。
三番目の「功を積むこと」と言う意味では、ほとんど使いませんよね。
主に、一番目か、二番目の意味で使います。
広い意味では、「願望を実現する事」。
狭い意味では、「富と名声を得る事」。
このように思っていれば、間違いないと思います。
仏教と言うのは、富や名声と言うものとは無関係な、
心の充実、と言うものを説いているものです。
ですから、仏教と成功哲学とは別次元のものであり、一緒には語る事ができない。
ですが、一緒にしてしまっている、と言いますか、
仏教を成功哲学的に解釈している宗教団体があります。
それが創価学会です。
創価学会の池田名誉会長の話の中には、
「勝利」「仏法は勝負である」「勝ちまくれ」
などと言う言葉が非常に多く出て来ます。
これらの言葉が象徴する通り、創価学会の思想は、
いかに、世間のさまざまな闘争に勝利するかというところに照準が置かれています。
では、仏教と言うのは、闘争に勝負する方法を説いているものなのか。
仏教とは、決してそういうものではないのです。
小乗(原始仏教、上座仏教)の人からすれば、
大乗の私が「仏教とはそういうものではない」などと、
良く言えたものだと思うかも知れませんが、
大乗とは、小乗の「無常、苦、無我」の理念の上に立つ教えです。
大乗は確かに外道的要素に満ちておりますが、
その根底に流れている部分は、小乗と共通していると思います。
だからこそ、大乗“仏教”と名乗っているわけです。
もし、「無常、苦、無我」の理念を踏み外せば、これはもう、仏教ではない。
この信念を、大乗仏教者は持ち続ける必要があります。
我々は観音に手を合わせる事もある。
不動尊のお護摩に参加する事もある。
ですが、それらの方便(手だて)の根底にあるのは、
あくまでも「無常、苦、無我」の教えを我が身に焼き付ける事なのです。
外道から神々を輸入し、仏教の仏菩薩とする。
恐るべき逸脱かも知れませんが、
大乗にとってそれらの諸尊は、
我等衆生に「無常、苦、無我」の真理を知らしめ、
煩悩からの解脱へと導く存在なのです。
では、大乗仏教の旗をかざす創価学会もまた、同様の信念に立っているのか。
どうも、そうではないようだと、申し上げたいのです。
勝負、勝負と連呼する創価学会の思想は、これは仏法ではなく、世間法でしょう。
本来、仏法とは、「勝つ」「負ける」と言う次元を超えたものです。
前回、空諦は仏教的真理で、
仮諦が現実であると言うお話をさせていただきました。
他に仏教では「真諦」「俗諦」と言う言い方もあります。
これは、空仮二諦に結びつけて考える事ができます。
空諦・・・真諦(仏法)
仮諦・・・俗諦(世法)
空諦とは、真理を表わしておりまから「真諦」です。
仮諦とは、現実世界の事。現実世界を生きるための、世間的な知恵であります。
これが「俗諦」です。
世間における競争に勝つ、と言うのは、これは「成功哲学」です。
成功哲学は「俗諦」なのです。
創価学会は、真諦ではなく、俗諦を説いているように思えます。
もちろん、真諦(仏教)を知っていれば、俗諦(成功哲学)は知らなくてもいい。
そういうものではありません。
住宅に例えるならば、真諦とは基礎です。
その上に、俗諦が建てられるのです。
仏教と成功哲学は、自転車の両輪の如きものです。
どちらも生きて行く上で、不可欠です。
仏教を知らなくても、成功している人もいます。
でも、そういう人は、「基礎」が弱いですから、いつか崩壊してしまう。
ライブドアの堀江貴文や、村上ファンドの村上世彰を思えば良いでしょう。
村上世彰が記者会見で「金儲け、悪いことですか」 と言っておりました。
金儲けが悪いのではなく、そのやり方が問題にされているのです。
成功哲学しかないと、こういう考え方になってしまうのです。
仏教はブレーキです。
成功哲学はアクセルです。
アクセルしかない車を想像してみてください。
とんでもない大事故を生みます。
「行け!行け!」が成功哲学です。
仏教は時々、立ち止まって、「ちょっと待て」と考えるのです。
無反省にどんどんアクセルを踏んで行くと、
人とひいてしまったり、道を間違えたまま、突き進んでしまう事があります。
ですから、時々、ブレーキを踏んで、
このまま行って大丈夫なのだろうかと確認する必要があるのです。
人生には「負けたほうがいい」場合もある。
具体的には言いませんが、わかりますよね。
そういう考え方は、成功哲学にはない。
仏教にしか無いのです。
阿弥陀さま。観音さま。お不動さまなどの諸仏諸尊とは、
「本当にそれで良いのか?」と
声ならぬ声で、常に問い掛けてくださっている存在なのだと、
私は思っております。
私達は、ふと、「本当にこれで良いのか?」と思う事があります。
そのよう思うのは、背後から諸仏諸尊が、
そう、問い掛けているからなのではないかと思うのです。
その時、自分の行動に不安を覚えたならば、
よくよく、熟慮して方針を検討し直す必要がありますし、
もし、「これで大丈夫。大丈夫なのだ。」と確信できるのであれば、
そのまま直進すれば良いのです。
諸仏諸尊の話はともかく、仏教とは、
このように、自らの行動を、真理に照らして戒めるためにあります。
「勝て」「勝て」と連呼するのは成功哲学です。
これはまったく、別ものなのです。
基本的方向性が異なるのです。
にも関わらず、仏教を成功哲学と混同して語りますと、
仏教を矮小化させてしまうのです。
「断じて勝て!」「勝ちまくれ!」なんてやると、陳腐になっちゃうのです。
創価学会に川田洋一と言う人がおりますが、その人が
「運命は変えられる セルフ・コントロールのパワー」と言う本を書いています。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31578351
アマゾンのレビューを見ると、
『仏法とは、「成功・幸せ」をつかむための心の科学だったのだ。』
なんて書いている人がいますね。
こういうふうに、多くの創価学会員に仏教を誤解させて行くわけです。
一般の読者もいたらしく、
『私には、本の前半は必要なく、後半の運命転換方法が知りたかったのですが、
それが御本尊に「南無妙法蓮華経」を唱題とは・・・・。思い切り脱力しました。』
普通の人が、この本を手にしたのが間違いでした。
ちなみに、川田洋一は、日本印度学仏教学会の理事ですよ。
どうなっているんでしょうか。
それでも創価学会の思想で、本当に「成功」できるならば良いのです。
ですが、創価学会では、信者の貴重な時間を「活動」に費やさせるのです。
普通、成功哲学では、時間管理をすっぱく言うのです。
会社から帰った後の時間は大切だから、飲み付き合いなどせず、まっすぐ帰れ。
そして、勉強せよ、と。
ところが、創価学会では、その貴重な時間を、活動のために費やさせる。
日中、時間の余っている主婦に対しては、
お金が欲しければパートするよりも、活動しなさい、と言う指導まである。
結局、創価学会にとっての成功って、選挙とか、拡大なんですよね。
「成功」するのは、創価学会であって、会員個人ではない。
「勝つ」と言うのは、「選挙」に勝つ、「信者集め」に勝つと言う事なんですね。
成功哲学は、「あきらめない」思想です。
一方、あきらめさせるのが仏教です。
あきらめるというのは、漢字では「諦める」と書きます。
これは、真実を明らかに観ると言う意味です。
己のありのままの現実、ありのままの現在を観る。
これを「如実知見」と言います。
そして、それを受け容れるのです。
最もわかりやすく言えば、
今を受け容れるのが仏教であり、
未来を切り開くのが成功哲学です。
私たちは、たくさんの「残念だった過去」を抱えて生きています。
「残念だった過去」とは、思うようにならなかった事とか、
起こって欲しくなかったハプニングなどです。
これらの事が、ふとした時に、頭をよぎって、自分を苦しめます。
これを、「すでに起こってしまった事、過ぎてしまった事は仕方ないんだよ」
と受け止めるのが仏教です。
成功哲学とは、「では、これからいかに、自らの理想を実現して行くか」
と言う方法論を説いたものです。
仏教には「けしの実」と言うたとえ話があります。
あるキサーラ・ゴータミーと言う女性が、子供を失ってしまった。
以前には夫を失っていたのですが、今度は子供を失ったのです。
悲しみのあまり、死んだ子供を抱え、ゴータミーは釈迦を訪ねます。
そして、「お釈迦さま。どうか、この子を蘇らせてください」と頼むのです。
釈迦は「世の中は無常だから、生き返らせることはできない」
などと、冷たい真理を突きつけて終わりにするような事はしない。
「ゴータミーよ。子供を生き返らせてあげよう。
そのためには、けしの実が必要だ。
ただし、そのけしの実は、普通のやつでは効果が無い。
今まで、死人の一人も出ていない家にあるけしの実でなければならない。」
と、こう言うわけです。
それで、ゴータミーは、村じゅうの家を訪ねるのです。
ところが、死人の出ていない家など一軒も無かった。
ゴータミーは、釈迦の意図を理解し、釈迦の弟子となったという話です。
夫が死んだ。
子供も死んだ。
孤独の身となった。
その事実を受け容れるのが仏教です。
「あきらめる」思想と、「あきらめない」思想ですから、
一見、矛盾なのですが、これはそうではありません。
仏教の「あきらめる」と言うのは、今現在に至るまで、
起きてしまった事を「あきらめる」のです。
成功哲学の「あきらめない」と言うのは、
まだ来ぬ、未来について「あきらめない」のです。
仏教と成功哲学は全然違うのだ。
役どころが違うのだ。
そこがわからないと、仏教の魅力もわからなくなってしまうのです。
創価学会からは、連日、脱会者が出ております。
そのほとんどの人は、創価から学んだものを
仏教であると勘違いしたまま辞めて行くのです。
これゆえに、創価学会の脱会者の多くが、
仏教アレルギー、宗教アレルギーとなっております。
これは非常に残念な事です。
何度も申しますが、世間における闘争、競争に勝つという事は、
「成功哲学」であって、仏教ではありません。
仏教と成功哲学は、根本的に別々のものです。
このメルマガをお読みの中には、
仏教に「成功」を期待している人がいらっしゃるかも知れません。
ですが、それはまるで、犬がニャーと鳴くのを期待しているようなものです。
私は昔、デール・カーネギーの「道は開ける」と言う本を読んだ事があります。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=18944337
その頃の私は、成功哲学の魅力にとりつかれておりました。
「道は開ける」も、タイトルから成功哲学の本だろうと思って読んだのですが、
なぜか、ピンと来ないわけです。
数年後、仏教思想をある程度、理解してから、
この本を再読して、ようやくわかりました。
「道は開ける」を成功哲学の本として読んだから、理解できなかったのです。
「道は開ける」は成功哲学ではなく、むしろ、仏教に近いのだ。
そう思って読むと、内容が良く理解できたのです。
仏教の役どころは、「成功」(願望の成就)ではありません。
間違って、そこを期待すると、裏切られた気分になります。
そうは言うものの、観音経などを読みますと、
なんでもかんでも、観音さまを信じると上手く行くと言う事が書いてあります。
ですから、人が仏教を「成功」に結び付けて考えてしまうのは、
やむをえないところもあるのです。
私は現世利益を完全否定するわけではありません。
人知ではわからぬような、不思議な事も世の中にはあるでしょう。
ですが、仏教の本義は即物的な現世利益をもたらすということではない。
この事は、はっきりとさせておかねばならないと思います。
仏教の本義は、人々の煩悩を菩提へと転じさせ、
人生の軌道を修正させるところにあります。
私のメルマガも、一環して、そういう立場で書いて来ました。
「成功」と言う文字ばかりが頭をかけめぐっている人にとっては、
私のメルマガは、たぶん、つまらないものでしょう。
私は、人生には成功哲学も必要である事は理解しております。
ですから、たまに「どうすれば成功できるか」と言う話を書いても
良いのかも知れませんが、
そうしちゃうと、仏教が誤解される可能性があるし、
そもそも、そういう事は、「成功した人」が書くべきですよね。
むしろ、私の場合、
「なぜ、人は、成功哲学の本を読んでもなかなか成功できないか」
と言う話をしたほうが説得力があると思いますし、
この話のほうが大事だと思います。
私が始めて成功哲学に触れたのは、大学4年の頃です。
近所の書店で謝世輝と言う人の「信念の魔術」と言う本を見つけ、
レストランでメシを食いながら読んで、驚嘆しました。
色んな成功哲学本から、いいとこ取りしたような本ですが、
わかりやすくて、言葉も情熱的で、非常に素晴らしい本でした。
この本は絶版になっていますが、
「「信念の魔術」の真理」と言うタイトルの本が出ています。
おそらく内容はほとんど同じだと思います。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31849089
その後、まだどこかの本屋で、偶然、
ナポレオン・ヒルの「成功哲学」と言う分厚い本を発見したのです。
ナポレオン・ヒルはもともと新聞記者でしたが、
鉄鋼王アンドリュー・カーネギーにインタビューしに行った時、
「20年間無償で500名以上の成功者の研究をして、成功哲学を体系化してくれないか」
と頼まれます。
それから20年間、ナポレオン・ヒルは各界の成功者を取材し、
その秘訣をまとめて本を出版します。
私の買った本は、産能大学出版部から出ていたものですが、
現在、絶版となっております。
http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=32268
別タイトルで、「きこ書房」から田中孝顕訳が出ています。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30529081
私は読んだ事が無いのですが、
他にも、成功哲学では、ポール・J.マイヤーが有名です。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31121415
最近では、ジェームス・スキナーが活躍していますね。
伝統的な成功哲学をベースにした上で、特に健康を重視しているようです。
http://www.jamesskinner.com/present.html
あちこちで、やたら本をみかけるのは、斎藤一人ですね。
ほとんど新興宗教の教祖のようになっていて、
声質も、なんとなく幸福の科学の大川隆法に似ていますが、面白い話をします。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31120082
http://www.geocities.jp/tsuiteru_masao/id/index.html
それ以外にも、アマゾンで「成功」と検索すると、いろいろな本が出て来ます。
成功哲学は今や、人口に膾炙(かいしゃ)し、
常識に溶け込んでしまっておりますから、
どのような本を読んでも、「こんな事わかってるさ」とお感じになると思います。
ですが、20年前では、こういう本は画期的だったのです。
成功した人というのは、とにかく、がむしゃらに努力して、
結果的に成功したのであり(環境に恵まれて苦労せずに成功する人もおります)、
成功するための「理論」と言うものを意識しているわけではないのですね。
何となく、漠然と、信念や方法論を持っている。
その信念や方法論を言語化、体系化したのが
ナポレオン・ヒルに代表される「成功哲学」なんです。
この成功哲学は、この20年くらいの間に、大衆に浸透して来ました。
「成功哲学」と言う言葉すら使わないだけで、
その内容は、自然に、人から人に伝わって来ました。
ですから、今の時代の人が、成功哲学の本を読んでも、
まったく、刺激を受けないと思います。
すでに、どこかで聞いた話だからです。
また、ほとんどの人は、受験やスポーツなどで、実体験しています。
成功哲学の本には、だいたい↓のような事が書いています。
1.目標の明確化
「成功」と言うのは、何かを成就すると言う事である。
「成功したい」と思う以上、必ず、そこに目標がある。
(「成功するのに目標はいらない!」と言う本があるが、タイトルからして矛盾)
その目標は、最初は漠然としているかも知れない。
その漠然とした目標を、できるだけ明確にする。
どんな目標も立てれば良いと言うものではなく、
達成可能な目標と、不可能な目標がある。
50歳の男が、小学生作文コンクールに応募して、優勝しようとしても、
それは決して「達成不可能」である。
このように「誰の目にも明らかに不可能」な事ならば、
あきらめがつくが、可能か不可能か、微妙なラインがある。
「微妙だな」と思ったら、それはチャレンジしてみる価値がある。
チャレンジして、やっぱりダメだったと思ったら、あきらめがつく。
チャレンジもしないで、チャンスを逃してしまうと、後悔する。
2.メンタルブロックを破る
メンタルブロックとは、精神的な壁である。
「だめだ、できない」「無理だ」と思う心である。
成功を阻む最大の壁は、このメンタルブロックである。
誰がどう見てもできない事がある。
だが、中には、自分ができないと思い込んでいるだけの事もある。
少しでも可能性があると思ったならば、
チャレンジしてみる事が大事である。
メンタルブロックを破るには、メンタルブロックであると見破る事。
見破ってしまえば、すでに壁でも何でもない。
単に過去の失敗経験から、自分が臆病になっているだけだ。
それがメンタルブロックをもたらして来たと気づけば、あとは前進するのみ。
3.中間目標を立てる
マラソンだと、10キロ地点とか20キロ地点とか、
そういうところを中間目標にして走るわけである。
願望成就についても同じで、
最終目標以外に、いくつかの中間目標を立てる。
4.モティベーションを高める。
自分がその夢を実現すると、どんなに素晴らしいか、
どんなに幸福かを想像し続ける。
5.専門知識を持つ
自分がその夢を実現するには、いかなる知識が必要か。
その知識を本や講習などで貪欲に学習する事。
6.人脈を築く
自分がその夢を実現するために有益となる人々とつながりを持つ。
反対に、有害、無駄な人間関係を持たぬようにする。
7.健康に留意する
健康あってこその成功である。
8.時間管理を行う
無駄な時間をはぶく。
9.潜在意識を活用する。
潜在意識の中に願望を植え込めば、畑に種を植えるように、
自然に願望は現実化しはじめる。
以上の文章は私が今、色んな本で読んだ事を思い出して適当に書いたのですが、
だいたい、こういうウンチクを述べているのが成功哲学関係の本です。
これらの本には「この通りに実践すれば必ず成功できますよ」と、
バラ色のような事が書いています。
ですが、必ずしもそういうわけではない事は、
こういう本に飛びついた多くの人が実感するところでしょう。
成功哲学と言うのは、大変に美しい思想ですが、
現実と言うのは、文字に書かれた成功哲学どおり、
すんなり行くものではありません。
私もまた、成功哲学によって、上手く行った事もあるし、
上手く行かなかった事もあります。
成功哲学を実践しても、上手く行かないと言うのは、どこに原因があるのでしょうか。
単に努力不足で上手く行かないと言うのは、問題外です。
たとえば、英語をマスターしようとする。
毎日、仕事に行く前に、30分、英語の勉強をする。
これを3年やり遂げようと決意する。
そう思ってやってみると、一ヶ月も続かなかった。
これは単なる努力不足です。
ですが、中には、本当に努力しても、上手く行かない事がありますよね。
仏教から考えると、まず、縁起と言う真理があります。
人は、まっすぐ歩こうをしても、人が邪魔したり、
上から何かが落ちて来たりして、なかなかまっすぐ歩けない。
将来の青写真を描いて、意気揚々と歩んでいても、
突然、交通事故で亡くなったり、大怪我をす場合もあります。
「縁起が良い」「縁起が悪い」と言う言い方があります。
本来、これらの言葉の意味は、
物事がトントン拍子に運んで上手く行く事が「縁起が良い」、
多くの邪魔が入って、上手く行かぬ事が「縁起が悪い」という事です。
「良い縁起」と「悪い縁起」。
これに何か原因があるのか。
仏教の業論に照らせば、良い縁起が生じるのは、善業のため。
悪い縁起が生じるのは、悪業のため、となります。
善業とは、言い換えれば「福徳」であり、幸運を入手するための魂の預金です。
これが五円の人と、一千万円の人では、当然、「果報」が違う。
人生において、良い事が次々に起こると言う人は、
それだけたくさんの福徳を持って生まれて来たと言う事なのでしょう。
「善因善果」「悪因悪果」、すなわち、
善い行いが善い結果を生み、悪い行いが悪い結果を生みます。
ですから、
諸々の悪をなすことなく、衆々の善を奉行し、
自らのこころを浄める、これ諸仏の教えなり。(法句経)
なのです。
どんなに幸せになりたいともがいても、
それに見合う福徳がその人になければ、その幸せを掴み取る事ができない。
もし、叶えたい夢があるならば、
自分の事ばかりではなく、普段から他人を助けるような事を
やり続ける必要があると言う事です。
もちろん、そんな事などしなくても、すんなり成功する人もいる。
それは、その人が福徳があると言う事なのです。
ですから、いくら努力しても成功しないと言う人は、
福徳が足りていないのかも知れない。
このように考えますと、成功哲学だけを実践してもダメなのですね。
必ず、「利他行」を伴い、日頃から他者のために貢献しなければならないのです。
ですが、縁起は必ずしも、業によって生じるわけではない。
相手の気まぐれで突然に後ろかか刺されたり、
ホームから突き落とされたりと言う事もあるんです。
道を歩いている時に、アリを踏み潰す。
(できるだけ、踏み潰さないようにしましょうね)
この場合、踏み潰されてしまったアリは、業の為か。
そうじゃないですよね。
だって、こっちはこっちの気まぐれで歩いているのですから。
ちょっと風が強くなった、弱くなった、人とすれ違ったというだけで、
足の踏み出す位置は異なってしまう。
ですから、アリが踏み潰されたのは、「偶然」ですよね。
「仏教は偶然と言う事を説かない」と思っている人は、首をかしげたかも知れません。
原因がなくて結果が生じる事を「偶然」とすれば、確かに偶然ではありません。
歩いている時に、前から人が来て、
仕方なく、左よりに歩いた時に、踏み潰してしまった。
そういう原因と結果があります。
ですが、「業と無関係に結果が生じる」事を偶然と言うならば、偶然はあるんです。
過去の業だけが、将来の運を決定するなどと、
仏教のどこにも説明されておりません。
偶然不幸になった人。
偶然幸福になった人。
いくらでもいるんです。
業だけが世の中を支配しているわけでは無いのです。
すでに存在している業もあれば、これから生み出される業もあるのですから。
すべて、世の中で起こる事を「自らの業」に帰結させて考えると、
とんでもない思考になってしまいます。
死に顔が良いとか悪いとか言う宗教団体がありますが、
それはその信仰が原因ではありません。
苦しんで死ねば、苦しい表情になるでしょう。
穏やかに死ねば、穏やかな表情になる。
どういう薬を使ったかとか、処置の内容によっても、表情は変わるでしょう。
業や生き方とは関係なく、いきなり悲惨な死に方をする事も世の中にはあるんです。
「縁起」と言うのは、そういうものなんです。
真面目に生きていても、日頃から他者の為に尽くしていても、
ある日、突然、車にひかれて死んでしまう。
寝ている時に地震が起きて、屋根に潰されて死ぬ。
それは業でも何でもない。
「どうしようも無い事」なんです。
成功哲学の通りに努力していても、
事故や病気、家族の問題などで、夢をあきらめざるをえなくなった。
そういうことは、いくらでもあるんです。
世の中には、思うように行く事よりも、思うように行かない事のほうが多い。
成功哲学の本には決して書いていない真理です。
日蓮もこう言っております。
よからんは不思議わるからんは一定とをもへ(聖人御難事)
さらにもう一つ、大事な真理があります。
仏道修行と言うのは、「仏に成る」ための修行です。
仏に成るいうことは、衆生を救う立場になるということです。
衆生を救うには、衆生の苦しみがわからなければならない。
つまり、仏になるには、あらゆる衆生の苦しみを経験する必要がある。
ですから、すんなり、思い通りの人生が展開したのでは、
「仏道修行」にならないのです。
何事もそうですが、修行と言うのは、だんだん、きつくなって行くんですね。
そう考えると、「成仏」に近ければ近いほど、
「きつい」人生が用意される、とも考えられるわけです。
主人公が塔の上に登って行く。
各フロアーに武術の達人が待ち構えていて、対戦しなければならない。
上に行けば行くほど、強い相手が待っている。
昔、そんなカンフー映画がありました。
仏道修行と言うのは、人生を修行の場とするわけです。
この世の中に生まれて来る事は、喜びでもあり、修行でもある。
仏になる修行でありますから、修行が進めば進むほど、難易度が上がる。
そんな事があっても不思議ではないですね。
あの世で仏陀が、
「君はいよいよ、修行の最終段階だから、
今度は、思い切り、大変な人生を歩んでもらうよ。」
「ハイ、わかりました!」
なんてね。
成功しないのは、必ずしも「福徳が足りない」のではなく、
福徳はたくさんあるが、「仏道を成ず」ために成功できない、
いや、成功しないのだ、と言うことなのかも知れないのです。
十字架にかけられる運命が待ち構えているイエス・キリストは、
少し進んで行って地面にひれ伏し、もしできることなら、その時が自分から過ぎ
去るようにと祈った。 彼は言った。「アッバ、父よ。あなたにはすべて
のことがおできになります。この杯をわたしから取り除いてください。それで
も、わたしの望むことではなく、あなたの望まれることを」。
(マルコによる福音書)
と祈ります。
「この杯」とは、キリストが今おかれている困難、つまり、処刑される事です。
この状況から、どうか神を、私をお救いください。
それが私の望みでありますが、もし、神さまが、
私がこのまま死ぬ事を望まれるのであれば、死を受け容れます。
このような意味です。
結局、キリストは十字架の上で死んでしまう。
もし、ローマ政府に服従していれば、このような目には遭わなかったでしょう。
でも、もし、そうならば、今日のキリスト教もなかった。
今日、キリスト教があるのは、キリストが十字架の上で死んだからです。
キリストが連行された時、弟子達はみな逃げたのです。
孤独のうちにキリストは死んだ。
たった一人「悪者」にされて死んだのです。
キリストの壮絶な死にざまを知って、
悔恨した弟子達が、命がけでキリスト教を広めたわけです。
イエス・キリストは極端な例ですが、
神仏に近い人と言うのは、それなりの苦労をするものだと思います。
私の勝手な考え方ですが、神仏と呼ばれている存在のほとんどは、
人間であった頃、壮絶な苦境を味わい、
その上で世の中に尽くされたのではないかと思います。
世の中には、本当に不幸な思いをしている人がたくさんおります。
成功どころか、色んな状況によって、普通の生活すら困難な人もおります。
「なんで私ばかり」と鳴きたくなるかも知れませんが、
そういう人こそ、神仏に近い位置にあると言う事です。
「社会的成功」などと言う野心に情熱を燃やしている人は、
もしかしたら、神仏から遠い場所にいるのかも知れません。
ですから、自分の不運を嘆くのではなく、
その不運を社会の為に、世の中のために逆に生かすような事を
考えたら良いのではないかと思います。
「苦難即仏道」なのです。
明治の中ごろに生まれた方で、大石順教尼と言う人がおりました。
17歳の時、養父の凶刃に一家6人が殺され(妻に男を作って家出されて逆上)、
自身も日本刀で両腕を切り落とされ、
その後、見世物小屋に売られ、芸者をさせられながら、苦難に絶えました。
45歳、高野山で出家得度し、
その後の生涯を障害者の福祉の為に捧げ尽しました。
http://www.yy007.com/ohishi/
http://www.kamitv.ne.jp/~kanakura/kamibukkyou189minami.html
自らの「不運」「不幸」と言うものが過酷であればあるほど、
利他と言う目標に向かった時に、とてつもない力を持つのです。
こういう生き方に目覚めた人は、
「社会的成功」と言う文字が、非常に空虚に感じられるはずです。
世の中には、色々な人々いて、構成されているわけですから、
成功できる人は、成功すれば良いと思います。
決して、それが「つまらない事だ」などと言っているわけではありません。
ですが、そんな事よりも、仏教から見れば、
もっともっと大事な事があると私は言いたいのです。
「壮絶な人生の価値」
この言葉を、時々、思い出してみてがいかがかと思います。
≪補 足≫
成功哲学について、今まで、人が触れた事の無いような話をします。
「成功哲学」と言いますと、立派なイメージがあり、
あまりこれを批判する人はいないわけですが、
成功哲学にもデメリットがあります。
このデメリットが、日本社会にとってマイナスの働きをしてる部分があるんですね。
成功哲学のデメリットとは何かと申しますと、3つ考えられます。
まず第一に、これはさっきの話と直結するのですが、
「成功こそがすべて」と言う思考に陥りやすい。
人生と言うのは、成功よりも大切な事がある。
その事に気づかないんですね。
日蓮もこう言っております。
蔵の財(たから)よりも身の財(たから)すぐれたり
身の財(たから)より心の財第一なり(崇峻天皇御書)
また、「成功こそがすべて」と言う思考で世間を見ますと、
成功していない人が、まるで人間として劣っているかのように思えてしまう。
中には、自分は父親の企業を受け継いだだけなのに、成功者面する人もおります。
自分の成功と言うものは、成功していない人たちも含めて、
多くの人たちに支えられている。
その事に気づかないで、大変、おおへいな物の考え方をするようになる。
第二に、「すべてのことは自分に原因がある」と言う思考に陥る。
仏教の考え方は「縁起論」です。
縁起論と言いますのは、物事は、関わり合いの中で生じる。
ですから、「自分が原因」の場合もありますが、「他人が原因」の場合もある。
あらゆるところに原因を見て行くのが仏教のあり方です。
創価学会では「すべては自己の業より起こる」と教えているのですが、
これは唯識を間違って解釈しているのです。
業が煩悩を形成し、煩悩が間違った行動を引き起こすというのが唯識ですが、
たとえば、通り魔に遭ったとします。
創価学会の考え方では、通り魔に遭うのは「自分の業のせい」と解釈します。
もちろん、その可能性もありますが、犯行を起こしたのは通り魔なのです。
通り魔の煩悩が原因なのです。
自分の中に「通り魔に遭う」と言う業が無くても、
世の中は縁起でありますから、通り魔に遭う時は遭うのです。
せっかく、この世に生まれて来るために、母の胎内に宿ったのに、
母が邪魔だと言って中絶されてしまった。
これは業でも何でもないのです。
生まれて来るために、宿ったのですから。
中絶で死ぬと言うのは、まったく、他者責任です。
(日本では、年間30万人以上の胎児が中絶により殺されています)
成功哲学と言うのは、自己責任と言う考え方を好みますが、
「他者責任」と言う事もあるのだと認識しないと、妙な事になります。
たとえば、電車で痴漢に遭った。
これは痴漢した男が悪いわけです。
他者責任です。
なのに、成功哲学の「自己責任」と言う視点で考えてしまうと、
「私がヒラヒラのミニスカートをはいて来たから悪いのだ」
「私が胸の谷間が見えるような服を着て来たから悪いのだ」
「美し過ぎる私が悪いのだ」
「だからこの人に罪は無い」
「警察に突き出すのはよそう」
こうなってしまいます。
悪いのは痴漢なんだから、突き出せば良いのです。
それが普通の考え方です。
「すべてのことは自分に原因がある」と言う思考は、「一因論」です。
原因を、一つのところに持って行ってしまう。
こういう考え方は大変に危険です。
仏教の縁起論は「多因論」です。
原因となっているものは、無数にあると考えるのです。
すべての事は「複合的原因」によって生じるととらえるのです。
他人にばかり責任を押し付けるのも間違ってますよ。
でも、自分ばかり責めるのも、間違っているのです。
自己責任論は、権力側がよく利用しますね。
まず、政府とか行政です。
政府や行政は、困っている市民を救うために存在するのに、
「あんたの努力不足のつけを、我々にもって来てもらっては困る」
と、突き放してしまう。
そのくせ、公務員はメチャクチャ保護されております。
企業でもそうです。
よく、社長が朝礼で、こんな話をしているでしょう。
「会社が何もしてくれないなどと愚痴を言う人がいます。
会社が何もしてくれないと考えるのではなく、
自分が会社に対し、何ができるのかを考えなさい。
自分が会社に尽くせば、会社はその分だけ、その社員に報いるでしょう。
何もしない社員の待遇を良くするほど、うちの会社は甘くない!」
一見、正論ですね。
でも、結局、「逃げ」ですよね。
すべてを社員の「自己責任」とする事で、経営者としての責任を放棄している。
成功哲学は経営者にとって、こういう意味でも大変に重宝しております。
成功哲学の論理によって、経営者が責任を逃れる事が出来る。
第三に、成功哲学は「マイナスの言葉」を嫌いますね。
「できない」とか「やれない」とか「気が重い」とか「苦しい」とか言う言葉です。
マイナスの感情はマイナスの結果を引き起こす。
だから、マイナスの言葉を吐くなと、成功哲学に類する本には、
必ずと言って良いほど書いています。
ですが、人と言うのは、
愚痴を言ったり、弱音を吐きながら、歩いて行くものですよね。
それが「人間らしさ」でしょう。
相田みつをの詩に
愚痴をこぼしたっていいがな
弱音をはいたっていいがな
人間だもの
たまには涙をみせたっていいがな
生きているんだもの
と言うのがありますね。
たまには愚痴を言い、弱音を吐き、それでも、
一歩、一歩と歩き続ける。
それが人生でしょう。
一方、同じ相田みつをの詩で
なみだをこらえて
かなしみにたえるとき
ぐちをいわずに
くるしみにたえるとき
いいわけをしないで
だまって批判にたえるとき
怒りをおさえて
じっと屈辱にたえるとき
あなたの眼のいろが 深くなり
いのちの根が、深くなる
と言う詩もありますね。
ここでは「ぐちをいわずに」とあります。
一見、矛盾なんです。
相田みつをには、良くある事なんです。
潔癖な人は許せないかも知れませんが、
この二つは矛盾では無いのです。
なぜ矛盾ではないか?
ここで私が、言葉を尽くせば説明することもできますが、
本来、詩は魂の奥で感じ取るものです。
魂の奥で、この詩を感じ取れた人は、
矛盾ではないと自然に気づくはずなんですね。
なんて言って流すのは卑怯な感じになるので説明しますと、
「愚痴」をダラダラ並べるのは、あまり良くない。
歯を食いしばりながら頑張るところに、人としての成長もある。
けれども、人間である以上、時には愚痴をこぼしたっていいじゃないか。
そういう事なんですね。
愚痴を言ったって良いのです。
弱音を吐いても。
仏教と言うのはそうですよね。
阿弥陀さん、観音さんの前で、おもいっきり愚痴を言い、弱音を吐く。
でも、そうやって行く中で、何か光が見えるわけでしょう。
「愚痴を言うな」と言う教えは、会社にとって利用しやすいですよね。
営業マン「すいません。一日50件なんて、回れませんよ〜」
営業部長「愚痴を言うな!やろうと努力すればできるんだ!」
よくある光景ですよね。
成功哲学に変に染まりますと、
「マイナスの言葉を一切許さない」と言う人格になりやすいです。
自分がマイナスの言葉を吐かないと言うならば、まだいいですよ。
でも、他人にまで、それを要求してしまうんですね。
こういう人は、本当に嫌われます。
息苦しいですよね。
先に、成功哲学が人口に膾炙して、常識化していると申しましたが、
経営者とか、企業の幹部とかは、成功哲学にかぶれている人が大変に多いのです。
ですから、今の企業の中では、愚痴など言えませんし、
会社の悪口なんか言いますと、自己責任論で逆に責められてしまう。
成功哲学の蔓延している企業って言うのは、本当に息苦しいわけです。
職場では、社員はみんな、目をキラキラさせているんですよ。
暗い顔を一切するな、って言われてますから。
でも、一歩会社を出たら、ドヨ〜ンとした表情になります。
それが「ありのまま」「如是相」なんですよね。
こういう人たちは、知らず知らずのうちに、
うつ病に向かって、一歩ずつ、歩んでいるんです。
年収億も稼いでいる経営者は良いのです。
なんぼ自分にプレシャーをかけても、発散できるから。
会社で社員を前に、好きな事も言えるし。
でも、僅かな月給で首になわをつけられている社員は大変です。
昔、「マネーの虎」って番組がありましたね。
経営者がずらっと並んで、ベンチャーを起こしたい人に偉そうな事を言います。
あの番組観て、「何か嫌だな」と思ったのは私だけでは無いでしょう。
でも、ああいうタイプの人、最近、本当に増えましたよね。
「成功」って事しか頭にない人たちって言うのは、
どうしても鼻持ちならなくなってしまうんです。
その上、自分ではその事に気づかないんですから、救いようがないです。
嫌われても気づかないのだから。
彼らはマイナス思考しないから「自分が嫌われている」と思わない。
目がギラギラしていて、言葉が自信に満ちていて、とても暑苦しい。
暑苦しくて、周囲を息苦しくさせてしまう。
亭主が成功哲学にかぶれている場合。
これも女房にとっては辛い状況です。
女房「やっぱりダイエットできないよ〜」
亭主「“できない”じゃなくて、やるんだ!」
女房「今の政府っておかしくない?」
亭主「政府を悪く言ってもはじまらないだろう!」
こんな生活、耐えられませんよね。
うつ病が多くなったと言う原因の一つが、
実は成功哲学の蔓延なのではないかと私は考えております。
成功哲学は上手く使えば効果的なのですが、
特に最近の成功哲学の傾向として、
上記にあげたデメリットの部分が強調されて来ている。
ですから、成功哲学関係の本を読んだりCDを聴くと、
ものすごく違和感を感じる人がいるはずなんです。
そういう人のほうが、私は「普通」だと思います。
普通の感受性を大事にしないといけないと思うんです。
「成功」にむかってまっしぐらな人は、
「普通の考え方では成功できない」と言うかも知れませんが、
仮にそんなに成功できないとしても、
普通の考え方、普通の感性をたもち続ける事が大切だと思っております。
でなければ、気づいた時には、
周囲には誰も居なくなっていたと言う状況になるでしょう。
成功と言うのは、お金を儲けたり、有名になったりするという事ばかりではない。
いい友人関係に恵まれたり、安らいだ時を過ごすと言う事も、成功なんです。
お金を儲けたり、有名になったとしても、
何か大切なものを失ってしまったとしたら、
それは本当の「人生の成功」と言えるのか。
今、出版されている成功哲学の本やCDには、
こういう視点に立っているものが少ないのですね。
平然とデメリットを垂れ流しているものが多いのです。
その点、よくよく注意する必要がありますね。
わざわざ本を買って勉強するまでもなく、
成功哲学は今や、常識の中に溶け込んでいて、誰もが知っているのです。
ですから、自分の常識の中に入っている、成功哲学と申しますか、
「成功のコツ」に従えば済む話なんですね。
それでなかなか成功しないとするならば、
それは自分の中の「成功のコツ」に問題があると言うよりも、
それくらい難しい課題にチャレンジしている、と言う事なんです。
例えば、ダイエットをしたいと思う。
特別、そのためにダイエットの本を購入しなくても、
どうすれば痩せるかくらいの事は、大人であればわかるはずです。
ですから、その通り、実践すれば良いのですよ。
それでも、途中で挫折したり、なかなか上手く行かない。
それくらい、ダイエットと言うのは難しいと言う事なんです。
ノウハウの問題では無いのです。
自分の頭の中にあるよりも、
もっと凄いノウハウがあるかも知れないと考えてしまうと、
それこそ、何かを売りつけようとする人達のカモになるんですね。
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