渡部亮次郎の「頂門(ちょうもん)の一針」  RSSを登録する

私は「NHKらしくないNHK政治記者」として日本の高度成長期を見つめ、その後は外務・厚生大臣の秘書官として国際化時代を体験してきました。この間、政治・社会評論を書き続け、その原稿料が給料の何倍もありましたが、みんな呑んでしまいました。

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2009/11/04

渡部亮次郎の「頂門の一針」1716

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	         渡部亮次郎の「頂門の一針」1716号


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            平成21(2009)年11月4日(水)



                             虚像と実像…政治は変わる:古森義久

                           航空立国」の志~中島知久平:伊勢雅臣

                           印度で暴れる毛沢東主義者ら:宮崎正弘

                           エコライフは“哄笑”な趣味:平井修一

                               盲目で死んだ北原白秋:渡部亮次郎

                         話 の 福 袋
                         反     響
                         身 辺 雑 記


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虚像と実像…政治は変わる
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        古森 義久

「オバマ氏は自分がどんな人間であるか、わかっているのか」

こんな論評をみて、おやっと思った。リベラル系のベテランのコラムニ
スト、リチャード・コーエン氏が3週間ほど前にワシントン・ポストに
書いた一文だった。本来のオバマ支持者のコーエン氏が明らかに批判を
表明していたからだ。

このコラムは「オバマには気骨があるのか」というタイトルで、シカゴ
へのオリンピック招致にオバマ大統領が出かけたことを「愚行」と断じ
ていた。

そして同大統領がアフガニスタン平定作戦の苦境にあって米軍増派を求
めるスタンレー・マクリスタル司令官との協議を避けていることを批判
し、「オバマ氏は人々に好意を抱かせるが、国際問題では最重要となる
畏敬(いけい)の念を抱かせることがない」と、突き放していた。

同じ時期に無党派に近い長老政治評論家、デービッド・ブローダー氏も
ワシントン・ポストに「真の大統領は敢然と立つか」という題の評論を
書いた。

オバマ政権が必死で推し、猛反対にあった医療保険改革案について「オ
バマ大統領は自分自身の中枢の信念は一体なんなのかという国民からの
絶えない疑問に、ついに答えねばならない真実の時がきた」というのだっ
た。

同じ疑問は穏健保守と評されるコラムニストのデービッド・ブルックス
氏も提起していた。ニューヨーク・タイムズの10月30日のコラムで「不
屈への疑問」と題し、アフガン作戦にかかわる米国の軍部や政府の当事
者たちが「オバマ氏という人間」について深刻に懸念していると書いて
いた。戦争を進める際の最高指導者に不可欠な覚悟や不屈さがあるかど
うかが疑問だというのだった。

こうした疑念はバラク・オバマという政治指導者が一体、どんな人間な
のか、究極の核心がなおわからない、という落ち着かない気分から発し
ているといえそうだ。

オバマ氏は常に冷静である。感情に流されたり、乱れることがない。弁
舌はさわやか、理路整然、「変革」や「希望」や「核なき世界」という
理想のスローガンで世界を魅了する。服装も体形もマナーも最高に近い。

だが米国民として、職業人として、あるいは政治家として、どんな実績
を積んできたかとなると、明快な答えは出てこない。

その点をコーエン氏は「オバマ氏はこれまでの人生で成し遂げたことに
より敬愛されるのではないところが大統領としての弱点なのだ」と総括
する。

確かにオバマ氏は米国の歴代大統領に比べ、就任前の実績というのがき
わめて少ない。「共同社会の組織係」という難解な職業に加え、州会議
員、そして連邦上院議員を事実上、3年ほどというだけなのだ。先人た
ちが州知事や副大統領という行政の要職をこなし、着実な業績を残して
いたのとは対照的である。

オバマ氏のそんな短所も大統領就任当初はかえって新鮮さとして歓迎さ
れた。だが就任から9カ月、山積する難題を少しも解決できず、新しい
成果を残すでもない。

オバマ氏を支持してきた識者たちの間でも陶酔からさめたかのように、
彼の虚像と実像とをはっきり区分しようという動きが起きてきたような
のだ。

その背後には当然、一般国民の態度の変化がある。ラスムセン社の10
月30日発表の世論調査結果ではオバマ大統領を「強く支持」が30%、
「強く不支持」が39%だった。政権当初には夢想もされなかった数字
である。だが事は簡単、政治は変わるということだろう。
(産経新聞ワシントン駐在編集特別委員)2009.11.3 03:11



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航空立国」の志~中島知久平
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        伊勢 雅臣

■1.「あがらないぞえ中島飛行機」■

     群馬県は利根川の河川敷に作られた滑走路の片隅に、傘のお
    化けのような骨組みがうずくまっていた。「あれが中島の飛行
    機いうもんか?」「けったいな飛行機じゃなあ、発動機が前に
    ついとるやないか」 見物人たちはそんな事を言いあっていた。

     飛行士が操縦席に乗り込むと、プロペラが回り始めた。飛行
    機は地上滑走で滑走路の端まで行き、風上である北方の赤城山
    の方に機首を向けた。轟音とともに、飛行機は走り始め、全力
    滑走に移ると、機体がふわりと浮いた。「飛んだぞ!」見物人
    の間から拍手が起こった。

     ふいに機が左に傾斜した。北の赤城山から吹いていた風が、
    東風に変わったのだ。まだ浮力が十分についていない状態で横
    風を受けた飛行機は、そのまま横転墜落してしまった。

     一台の車が大破した飛行機に近づき、車から降りた人物が
    「おーい。佐藤君、大丈夫か」と声をかけた。幸い、飛行士の
    佐藤は軽傷であった。「いやあ、無事でなにより。機はまたで
    きる。わしも一号機で成功しようとは思わんじゃった」

     この人物が日本で最初に民間会社で飛行機開発に取り組んだ
    中島知久平であった。知久平は、その後、2号機、3号機と取
    り組んだが、いずれも失敗に終わった。

     当時は第1次大戦の末期で、日本は未曾有の好景気のもと、
    大インフレと米価高騰に見舞われていた。「札はだぶつく、お
    米はあがる、あがらないぞえ中島飛行機」という落首が流行り、
    これを耳にした知久平は苦笑して、「まあ、見ておれ」と設計
    図とのにらめっこを続けた。

■2.「満洲で馬賊になって、ロシアをやっつけてやる」■

     中島知久平は、明治17(1884)年、群馬県新田郡の富裕な農
    家に生まれ、当時の常として愛国少年として育った。ロシアの
    三国干渉に憤慨して、いずれ満洲に渡って馬賊になり、これを
    日本大陸義勇軍に発展させて、ロシアをやっつけてやると決心
    した。遠大な志を立て、それに向かって邁進するという知久平
    の性格は、この頃から現れていた。

     満洲の馬賊になるには、まず軍人になるのが近道だと考えて、
    明治33(1900)年、16歳になった知久平は東京に出て、独学
    で陸軍士官学校を目指した。「百姓の子はそんなに勉強しなく
    ともよい」と祖母が反対したため、2年分の生活費を家の金庫
    から無断で拝借して、上京したのである。「お金は何倍にでも
    して必ず返します」という置き手紙を置いて。

     東京での猛勉強の最中、志望を海軍機関学校に変えた。馬賊
    になるには陸軍の方が良いが、満洲に集結するロシアの大軍を
    討つには、兵員を運ぶ海軍が要ると意見されたからである。

     明治36(1903)年、無事に海軍機関学校に合格。反対してい
    た祖母も、「この中島の家は、元々新田義貞にもゆかりのある
    土地柄の家じゃ。海軍将校の卵が出たとは、お国にご奉公でき
    て、忠臣の義貞公もお喜びであろう」と相好を崩した。

■3.「よし、次は飛行機だ」■
    
     しかし、知久平が在学中に、日露戦争が勃発し、日本の陸軍
    がロシアの大軍を満洲の地から駆逐してしまった。「もう、
    おれが馬賊になる出番はない」と思った知久平は、不屈のアイ
    デアマンとしてすぐ次の夢を見いだした。「よし、次は飛行機
    だ。おれの手で日本の空に飛行機をとばして見せるのだ」

     その2年前、1903(明治36)年末に、アメリカのライト兄弟
    が人類で最初の動力飛行に成功していた。彼らの目標はアメリ
    カ陸軍に飛行機を採用してもらう事だった。フランスやドイツ
    でも、軍事利用を目的として飛行機の開発競争が始まっていた。

     日本海海戦の歴史的な勝利で、大艦巨砲主義が盛り上がって
    いたが、知久平はその先のことを考えていた。次の相手はアメ
    リカだと言われているが、アメリカ相手に建艦競争をしても敵
    うはずがない。しかし1隻8百万円の戦艦も、1機5万円の飛
    行機20機が魚雷攻撃で沈めてしまえば、差し引き7百万の得
    となる。

     級友達は「人間が乗るのがやっとの飛行機が、どうして何百
    キロもある魚雷を運ぶことができるんだ」と笑ったが、知久平
    は「おれがその魚雷を落とす飛行機を作ってやる」と答えた。
    
■4.飛行機の国産を目指す■

     明治40(1907)年、海軍機関学校を卒業した知久平は、少尉
    候補生として巡洋艦「明石」での実務練習についた。その後、
    様々な艦への異動を命ぜられながら、少尉、中尉と順調に昇進
    していったが、その間にも飛行機の研究は怠らなかった。

     明治43(1910)年、ロンドンで開催される日英博覧会の視察
    に巡洋艦「生駒」が派遣されることとなり、ちょうど「生駒」
    に勤務していた知久平は、この時とばかり、フランスの航空界
    を視察することを上官に願い出た。この頃は、フランスが飛行
    機開発の最先進国であり、アンリ・フェルマンが4時間6分で
    184キロを飛んで、速力と距離の世界記録を更新していた。
 
     艦長は知久平の願いを聞き入れ、マルセーユ入港後、行方不
    明として視察に行き、帰国途上で復艦せよ、という大胆な許可
    を出した。知久平も大喜びで「行方不明」となり、フランスの
    飛行機会社の機体工場や発動機工場を見学して、無事、マルセ
    ーユで帰艦した。

     帰国して間もない頃、陸軍の徳川好敏大尉がフランスから輸
    入した飛行機で、3.2キロを飛び、これが日本最初の飛行と
    認められた。知久平の飛行機熱に対して、同僚たちが「徳川大
    尉が飛んだと言っても、フランスの飛行機だ。日本が自分で飛
    行機を製造するには、まだ相当の時日がかかる」というと、知
    久平はこう答えた。

<日本が日清戦争で清国の海軍を破った時、国産の軍艦はほとんどなか
った。しかし、日本海海戦では国産の「明石」「須磨」が活躍し、その
後、戦艦に近い巡洋艦として、「筑波」「生駒」も呉の海軍工廠で建造
されるようになった。

我が国の造船能力は日進月歩で、これは飛行機にも当然言えると思う。
日本海軍にも国産の飛行機が採用され、 勇壮な戦隊を組んで、敵の戦艦
戦隊を空から攻撃する日もそう遠くないとおれは思う。>        
■5.飛行機開発に着手■

     こうした言動から知久平の名は、海軍で有名になっていった。
    一中尉の分際で、飛行機で戦艦を雷撃するなどと夢のようなこ
    とをいう飛行機狂としてだったが。

     しかし、陸海軍の中で飛行機に対する関心は少しづつ高まり、
    知久平は29歳にして、海軍機の国産を目指して新設された飛
    行機造修工場の主任に任命された。知久平は大正2(1913)年7
    月、海軍最初の国産水上飛行機を完成させ、自身で試験飛行を
    行った。

     翌年、第1次大戦が勃発すると、中国・青島のドイツ軍要塞
    攻撃に、飛行機からの爆撃を試してみようということで、4機
    の水上機を運搬船に乗せて近海まで運び、クレーンで海面に降
    ろして発進させた。4機は49回出撃して、約200発の爆弾
    を落とし、うち6発は確実に要塞に命中したということで、初
    戦としてはまずまずの成果を得られた。

     その後も知久平は飛行機の開発を続けた。特に、今までの飛
    行機のほとんどがエンジンを後部につけた方式であった所を、
    知久平は前部につけた牽引式を考案し、その後の航空界はこの
    方式が主流になっていった。知久平の先見の明が窺われる。
    
■6.民間事業として飛行機開発を進める■

     知久平はさらに重い魚雷を運ぶために2つのエンジンを搭載
    した双発水上機を開発し、また魚雷落射機も設計したが、上層
    部に却下された。知久平がことある毎に、大艦巨砲主義を批判
    していたので、不愉快に思う高官も多かったようだ。

     こうした事から、知久平は海軍を去って、民間の事業として
    飛行機製作を進めたいと考えるようになった。大正6(1917)年
    12月、知久平は30代なかばの若さで、予備役編入の願いを
    出し、海軍を去った。『退官の辞』と題した挨拶状には、こん
    な一節があった。

         我が目標は一貫して国防の安成にありて、野に下るとい
        えども官にあると真の意義において何等変わるところなし。
        吾人が国家のため最善の努力を振るい、諸兄の友情恩誼に
        応え得るの日はむしろ今日以降にあり。

     知久平は海軍で志を共にする数人の技術者と一緒に、郷里の
    群馬県太田の利根川の河川敷を借りて飛行場を作り、そこで飛
    行機の設計に取り組んだ。資金は自らの海軍の退職金と、知久
    平の心意気に感じた富豪からの出資のみだった。

     当初、飛行機研究所と名乗っていたが、大正7(1918)年には、
    会社名を中島飛行機製作所とした。知久平は、工場の2階の小
    さな部屋に寝起きし、酒も煙草もやらず、炊事婦の作る粗末な
    食事だけで、朝から晩まで設計に打ち込んだ。

     こうして出来上がった試作機は冒頭に紹介したように、失敗
    続きで、地元の人々からも「あがらないぞえ中島飛行機」と揶
    揄されたのだが、ついに大正8(1919)円2月、4号機が高度
    100メートルで飛行場の上を一周し、見事に着陸を果たした。

     この成功によって、知久平は陸軍航空部から一挙に20機の
    初注文を受けて、一息つくことができた。
    
■7.世界最大の飛行機メーカー■

     大正9(1920)年は中島飛行機製作所にとって飛躍の年だった。
    三井物産との資本提携が成立し、資金面の心配はなくなった。
    「ようし、日本一の飛行機会社になったるぞ!」と胸を叩いた
    ところに、陸軍から大正9年度分として、100機もの追加注
    文が入った。海軍も、水上機を30機買いたいと言ってきた。

     大正10(1921)年、ワシントン軍縮条約が成立して、当分の
    間、建艦競争は中止となり、飛行機の方は制限されてなかった
    ので、逆に集中的な開発が続けられた。中島飛行機は次々と名
    機の開発に成功し、大量の飛行機を陸海軍に納め続けた。

     陸軍最初の国産戦闘機として採用された91式戦闘機は、そ
    の後、97式、「隼」などにつながっていく。97式はノモン
    ハン事件の最初の6日間で、ソ連の最新鋭戦闘機175機を撃
    墜し、日本の飛行機の性能を世界に示した。

     海軍でも国産最初の90式艦上戦闘機を初めとして、65機
    種を開発した。大東亜戦争勃発と共に真珠湾の米大艦隊を壊滅
    させて、世界の航空常識を覆した「零戦」は、原設計は三菱で
    あるが、エンジンは中島製であり、また生産された合計1万余
    機のうち、6千5百機ほどは中島で作られたのである。

     中島飛行機製作所は、戦時中の昭和19(1944)年には、中規
    模以上の工場だけでも100カ所を超え、人員数は約26万人
    という世界最大の飛行機メーカーとなっていた。

     飛行機でお国のために尽くす、という知久平の志は、立派に
    実現されたと言える。
    
■8.「航空立国」■

     昭和5(1930)年、知久平は衆議院選挙に立候補し、群馬県で
    最高得票で当選した。「飛行機の中島」と言えば、群馬県で知
    らない者はいなかったので、選挙運動をする必要もなかった。

     知久平は政治の世界で出世しようという野心はなかった。米
    英など富強な白人帝国主義国から日本を護るには、大艦巨砲主
    義ではなく、あくまで航空戦力による国防でなければならない
    と訴えることが、政治家となった動機であった。そして、陸海
    軍から空軍を独立させ、世界一の航空戦力を持つ「航空立国」
    を訴えた。

     知久平の政治家としての活動のハイライトは、昭和17年
    (1942)秋に構想した『必勝戦策』であろう。これは後に「富岳」
    と命名される超大型重爆撃機を開発し、これをドイツ占領下の
    フランスから出撃させて、米国東部に集中する製鉄所、アルミ
    工場などを全滅させようという雄大な構想だった。すでに知久
    平の耳には、米国で開発されつつあるB29の情報が届いてお
    り、これで日本が爆撃される前に、米本土を叩こうと考えたの
    だった。

     軍部は、そんな夢のような飛行機は実現不可能ではないかと
    疑ったが、知久平は重役会議の席上、次のように言って、自社
    での開発を進めさせた。

        「中島飛行機は金儲けのためにあるのではない。国家のた
        めに存在しているのだ。軍のワカラズ屋どもが何をいおう
        とも、国が危機に直面している時、安閑として祖国の国難
        を傍観していることができるか! ・・・そのために会社
        は大損してもかまわぬ」。

     知久平は東条首相を直接説得して、「富岳」の開発をスター
    トさせた。しかし、この計画は新しくできた軍需省の航空兵器
    総局長官・遠藤三郎中将によって中止させられてしまった。遠
    藤中将は、飛行機を一機でも多く必要とする前線のために、現
    有機の増産を優先させたのである。

■9.「心理的な敗北感をいつまでも持たない」■

     知久平は戦後まもない昭和24(1949)年10月、享年66で世を去っ
   たが、その直前、次のような言葉を残していた。

        「日本は今は焼け野原である。・・・しかし、私は日本の
        復興は意外に早いと思う。日本の民族は優秀である。特に
        その科学的技術において、決して欧米のエンジニアに劣る
        者ではない。必ずや近い将来に日本の産業は復活する。

         何よりも大切なことは、精神的にまいらないことだ。
        ・・・もし対等の資源を与えられたならば、少なくとも中
        島飛行機の技術はアメリカには負けていなかったと思う。
        したがって、負けたからだめだ、というような心理的な敗
        北感をいつまでも持たないで、早く自分の気持ちを復興さ
        せることだ」。

     知久平の遺言に励まされた如く、その後、日本の産業は奇跡
    的な復興を果たし、その後の高度成長時代には、いくつもの分
    野でアメリカを凌駕していった。
                                         
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転載。



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 印度で暴れる毛沢東主義者ら
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  「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
      平成21年(2009年)11月2日(月曜日)貳
           通巻2760号 
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 インドで跳梁跋扈する毛主義者の暴力紛争参加は最下層の若者
  彼らに殺害された治安警察など900名余の血の犠牲
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マオイストの猛威はネパールで王制を転覆させた。

バングラデシュにおけるマオイストはダッカ大学(バングラの東大)に
公然と出現し、政治的影響力を無視できない。

インドではどうか?

この時代遅れのイデオロギーをまとった暴力集団が、貧困層には受け入
れられる。

経済発展と繁栄から取り残された最下層の国民がテロに走り、体制の転
覆を企図し、各地で暴力沙汰、鉄道破壊、爆破、鉄鉱石現場襲撃、そし
てパイプラインを奇襲する。過去四年間で犠牲になった治安部隊は90
0名。ちなみにアフガニスタンでの同期の犠牲は1100名。

彼らの武器と資金が中国からきているかどうかは不明である。

彼らは1967年頃、ナクサリバリ(地名)で結成され、その後、インド共
産党は合法政党を目指し野党として、それなりに影響力があるが、以後、
マオイストらは、地下に潜った。

いまやナクサリバリ地方は「マオイスト自治区」のおもむきがある。

各地では種族の自治、或いは地方の独立を求めたグループが合同し政党
を結成したが、マオイストらはどの派閥とも野合せず、1980年代からは
ひたすら暴力党争に走った。

貧困、カーストにおける差別、最貧の村々が全土に点在するが、なかで
もマオイストの猛威を振るうのは西ベンガル地域だ。

インド軍は70、000名を投入して警戒に当たっている。


 ▲かくて西ベンガル一帯は「赤い回廊」

本拠はチャティスガルにあり、隣接するオリッサ州とビハール州にまた
がり、拠点のハルハンド、マハラシトラを結ぶ地帯は「赤い回廊」と呼
ばれる。

学校までが襲撃され、西ベンガルでは警察署が襲われ、付近住民は「昔
は野生の虎、猪がこわかった。いまはマオイストの襲撃だ」と言う。
 
インド経済の発展ぶりも、裏面に回ると地域的には何時でもアフガン化
する場所がある。いずれもが鉄鉱石、銅などの産地で鉄道輸送に経済を
依拠する場所である。



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エコライフは“哄笑”な趣味
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         平井 修一

太陽光発電が人気のようである。今日はパナソニックから「モニターに
なりませんか」とお誘いがあった。ミサワホームも誇らしげにこう宣伝
している。

<ゼロ・エネルギー住宅は、日中太陽光発電によってつくり出す電気の
うち、余剰分を電力会社に送り(売電)、夜間や雨の日など発電できな
い時には不足分を電力会社から買うことで、生活にかかる電気代をトー
タルでゼロにする住宅です>

いいこと尽くめのようだが、本当か。

新エネルギー・産業技術総合開発機構によると、1kW当たりの総建設費が
100万円、償却年数を20年とした場合、

[1] 金利6%、修繕・保守費率1%/年とすると、発電コストは28円/kWh

[2] 金利4%、修繕・保守費率0%/年とすると、発電コストは21円/kWh

我が家の10月の電気使用料は369Kwh、8037円で、1Kwhあたり21円だった。
太陽光発電にしても節約にはならないから、設備投資をする意味はない。
エコライフをしているという満足感ぐらいだろう。

それにしても風雨にさらされた太陽光発電装置の耐用(償却)年数が20年
もあるなんて信じられないし、せいぜいが10年ではないか。パネルの汚
れが蓄積されるから発電効率も当然、衰える。

通常の家庭では3KWの発電能力が必要とされるから初期投資に300万円も
かかり、全然元が取れないことになる。アル・ゴア邸の発電コストはな
んと普通の家の50%増という。

エコライフを提唱するサイト「太陽光発電のエコ生活術」でも「とらぬ
狸の皮算用、元を取れると思うな」と警鐘を鳴らしている。

<補助金や助成制度もあって、こうした売電制度もあるなら、初期投資
は確かに高いが、いずれ元はとれるのではないか、太陽光発電の設置を
考える人なら誰でもそう考えるのではないでしょうか?

しかし、そんなに甘いものではないようで、試算では確かに15年程度で
初期投資は回収できる計算になるようですが、メンテナンスや消耗品の
交換など修繕にかかる分も考えなくてはなりませんし、また太陽光がエ
ネルギー源ですから、晴れていなければならないわけです。

地域によっては日照時間も違いますし、試算数値だけで判断するのは、
まさに“とらぬ狸の皮算用”ということになってしまいます。

地球環境の保全に協力する、自然保護に賛同するという意識に投資する
と考えていただく方が正解なのではないでしょうか?>

エコライフは高くつくということだ。冷静に考えればもはや「高尚かつ
哄笑な趣味の世界」で、それならば貶(けな)すのは野暮だからお仕舞
いにしよう。



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盲目で死んだ北原白秋
━━━━━━━━━━


    渡部 亮次郎

11月2日の払暁、ラジオを捻ると、深夜便が北原白秋を詩人として称え、
沢山遺した童謡の中から11曲を放送した。からたちの花、揺藍のうた、
砂山、この道、ペチカ、あわて床屋、待ちぼうけ、城ヶ島の雨などであ
る。

今どきの子どもたちが、唱歌や童謡を歌うかどうか知らない。担当者は
深夜便ファンたる老人たちは懐かしがるだろうと組んだ番組だったに違
いない。

童謡など歌ったこともないが、番組を聴くと初耳の唄は皆無。いずれも
いつかは聴いた事のある唄ばかりだった。北原白秋作詞とは知らずに耳
にしたのだろう。

だから、白秋が、若い頃、故あって姦通罪で訴えられたとか、3度も離婚
したとか、晩年は糖尿病に腎臓病を患って、眼底出血のため、盲目となっ
て死んだとの事実は知らないで育った。今どき、姦通罪なんて知る人は
少ない。昔は不倫は犯罪だったのだ。

北原白秋(きたはら はくしゅう)は1885年1月25日-1942年11月2日 )
は、日本の詩人、童謡作家、歌人。本名は北原 隆吉(きたはら りゅう
きち)。

詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)
の分野にも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い
継がれる童謡を数多く発表するなど、活躍した時代は「白露時代」と呼
ばれる近代の日本を代表する詩人である。

1885年1月25日、熊本の南関に生まれ、まもなく福岡の柳川にある家に帰
る。父・長太郎、母・シケ。北原家は江戸時代以来栄えた商家(油屋ま
た古問屋と号し、海産物問屋であった)で、当時は主に酒造を業として
いた。

1897年、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現福岡県立伝習館高等学
校)に進むも、1899年には成績下落のため落第。このころより詩歌に熱
中し、雑誌「文庫」「明星」などを濫読する。ことに明星派に傾倒した
とされている。

1901年、大火によって北原家の酒倉が全焼し、以降家産が傾きはじめる。
白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年はじめて
「白秋」の号を用いる。

1904年、長詩『林下の黙想』が河井酔茗の称揚するところとなり、「文
庫」4月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大
学英文科予科に入学。

上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。この頃、
号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に
「早稲田の三水」と呼ばれた。

1905年には『全都覚醒賦』が「早稲田学報」懸賞一等に入選し、いちは
やく新進詩人として注目されるようになる。このころ、少年時代南関の
家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父が亡くなる。

白秋は隣家にいた松下俊子と恋におちたが、俊子は夫と別居中の人妻だ
ったので、2人は夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置された。2
週間後、弟らの尽力により釈放され、後に和解が成立して告訴は取り下
げられた。

人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。俊子と結婚

1914年、肺結核に罹患した俊子のために小笠原父島に移住するもほどな
く帰京。父母と俊子との折合いが悪く、ついに離婚に至る。以後、さら
に2度離婚。

1921年(大正10年)、佐藤菊子(国柱会会員、田中智學のもとで仕事)
と結婚。1922年(大正11年)山田耕筰「詩と音楽」創刊。山田とのコン
ビで数々の童謡の傑作を世に送り出す。歌謡集『日本の笛』などを刊行。

1933年、行き違いから鈴木三重吉と絶交。以降「赤い鳥」に筆を執るこ
とはなくなる。1934年、『白秋全集』完結。歌集『白南風』刊行。総督
府の招聘により台湾に遊ぶ。

1937年、糖尿病および腎臓病の合併症のために眼底出血を引きおこし、
入院。視力はほとんど失われた。この病気を改善する為のインスリンは
15年も前に発明されていたが、日本の医学界では注射はまだ一般的では
なかったようだ。

白秋は盲目になっても歌作に没頭。1938(昭和13)年にはヒトラーユー
ゲントの来日に際し「万歳ヒットラー・ユーゲント」を作詞するなど、
国家主義への傾倒が激しくなったのもこの頃のことである。

1940年、日本文化中央聯盟の委嘱で交声曲『海道東征』(曲:信時潔)
の作詩にあたる。 1941年、春、数十年ぶりに柳川に帰郷し、南関で叔父
の墓参をし、さらに宮崎、奈良を巡遊。

またこの年、芸術院会員に就任するも、年末にかけて病状が悪化。1942
(昭和17)年、小康を得て病床に執筆や編集を続けるも、11月2日逝去。
享年57。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。09・11・3

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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話 の 福 袋
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 ◎宇宙のゴミ、英国ハル市の住宅に落下
 
【大紀元日本10月27日】英国ハル市の住民ピーター・ウェルトンさん
(Peter Welton)宅の屋根に今年7月、真っ赤に燃える金属の塊が直撃し
た。専門家が調査した結果、この物体は衛星の破片などの「宇宙のゴミ」
である可能性が高く、地球を回る軌道に乗って十年以上飛行し続けてい
たことが分かった。
    
英紙「デーリー・メール」(電子版)によると、ウェルトンさん(75歳)
の自宅に落ちた塊はフットボール程度の大きさで、重さは1・8キロ。発
見したウェルトンさんは火傷しないように手袋をはめて階下に持ってき
たという。その後警察に連絡し、物体は英国防省に調査のため委託され
た。綿密な調査の結果、謎の物体は老朽化した衛星の一部に酷似してい
ることが分かった。

宇宙のゴミの大半は、落下しても最終的に地球の大気圏で燃え尽きる。
しかし、時として大きな物体はそのまま太平洋あるいは人口密度の少な
い地域に落下するという。
   
  Wikipedia 091103現在の記述

 現にニアミスや微小デブリとの衝突などは頻繁に起こっており、1996年
にスペースシャトル・エンデバーのミッション (STS-72) で若田光一宇
宙飛行士が回収した日本の宇宙実験室 (SFU) には、500箇所近い衝突の
あとが確認された。

(デブリの) 直径が10cmほどあれば宇宙船は完全に破壊されてしまう。

カタログ登録されたデブリの数だけでも約9,000個に及び、1mm以下の微
細デブリまでも含めると数百万とも数千万個とも言われる。
   
その後、ハッブル宇宙望遠鏡の太陽電池パネル(1990年 - 1993年)、
SFU(1995年 - 1996年)などの同様の調査により、時代が下るにつれて
衝突頻度が加速度的に上昇していることも判明している。 つまり、現在、
微小デブリとの衝突はきわめて日常的な出来事になっている。(北海道)



 ◎ 「キリマンジャロの雪」2022年にも消滅

【ワシントン=山田哲朗】タンザニアにあるアフリカ最高峰キリマンジャ
ロの氷河が、地球温暖化の影響で消えゆく運命にあると、米オハイオ州
立大などの研究者が2日、発表した。

近く、米科学アカデミー紀要電子版に掲載される。

研究チームは、航空写真の分析や地上での計測の結果をもとに、1912年
から2007年の間に氷河の面積が85%も縮小したと推定。このままだと、
早ければ22年、遅くとも33年までに氷河は解けてなくなると予測した。

山頂付近の氷河や万年雪は1万年以上にわたって存在し、文豪ヘミング
ウェーの小説「キリマンジャロの雪」の題名にもなった。気温の上昇の
ほか、近年は降水量の減少にも見舞われ、縮小に拍車がかかっている。 
11月3日6時4分配信 読売新聞



 ◎「沈まぬ太陽」、社内報で批判=客離れ誘発に危機感-日航

経営再建中の日本航空が、同社をモデルにした公開中の映画「沈まぬ太
陽」(山崎豊子原作、若松節朗監督)を社内報で取り上げ、「当社を取
り巻く厳しい経営状況は世間の注目を浴びている」との認識を示した上
で、

「企業として信頼を損なうばかりか、お客様離れを誘発しかねない」と
批判していることが2日、分かった。混迷する再建をめぐる社内の危機感
が浮き彫りになった形だ。

社内報は映画公開直前の10月21日付。「心をひとつに立ち向かおう 風
評・批判に惑わず」と大見出しが躍る。

映画で描かれている社内の報復人事や役員の不正経理、政治家・旧運輸
省幹部らへの利益供与や贈賄について「こんな不正があるわけがない」
と一刀両断。

「国民航空」の名称やジャンボ機墜落事故の克明な描写から「『フィク
ション』と断っているが、日航や役員・社員を連想させ、日航と個人の
イメージを傷つける」と反発している。

また、事故をめぐって「作り話を加えて映像化し、商業的利益を得よう
とする行為は遺族への配慮に欠ける」と非難。さらに「しかるべき措置
を講じることも検討している」と法的手段も辞さない姿勢を見せている。
11月3日3時0分配信 時事通信



 ◎ゴンクール賞に初の黒人女性=仏

【パリ時事】フランスを代表する文学賞のゴンクール賞に2日、セネガル
系フランス人の作家マリー・ンディアイさん(42)の小説「トロワ・ファ
ム・ピュイサント(3人の強い女)」が選ばれた。同賞を黒人女性が受賞
するのは初めて。

受賞作は、アフリカと旧宗主国の困難な関係を二つの大陸にまたがって
生きる女性たちの姿を通して描いた。ンディアイさんは母がフランス人、
父がセネガル人。17歳で作家になり、脚本家としても活躍している。 
11月2日22時28分配信 時事通信



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反     響
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 1)一億総白痴化と言われていた時代がありましたね。その頃はそん
なものかとしか感じませんでした。紅白歌合戦も年末の楽しみでした。
歌われる歌も知っていました。

今は見ていませんし見ても知らない歌が多いと思います。

議員さんも様変わりしたのは当然と思います。

ワイドショーは時間があると見ますが貴メルマガを読んでいるうちにこ
れだけ見ていたら確かに白痴になるかと思うようになりました。

知人は国家公務員ですが現政権に説明するのに大臣 副大臣政務官 副
政務官一人一人にするそうです。官僚を使いこなす脱官僚といっても相
手の立場を考えるのが大人ではないでしょうか。中にはその質問から本
当に分かってもらえたか不安になるとも。

使いこなすなら合理的に聞いて説明を何回もさせないことこそ大事なの
ではないでしょうか。

援助についても初めから貰うのでは貰って当然という環境は人を育てる
でしょうか。

子育て支援を貰ってすき焼き食べられる 自転車買うと言う人の
生活は計画的なのでしょうか。(主宰者より:宗です、中東では、貰って
も絶対,礼は言いません。褒められた持ち物は相手にあげなければいけま
せん)。

携帯電話の通話料や雑誌 漫画を買うためにバイトをして赤点あるいは
出席日数不足 遅刻をしている生徒に授業料無料にすることは本当によ
い子に育つでしょうか。赤点をとらない 遅刻はしないとか対価に対し
て援助する方が良いのではないでしょうか。授業料無料だけでは足りな
いと言う議論もあります。

この国では既に高校卒業はこの国で生きていくパスポートのようなもの
で単位の上げ方も多様になり昔とは違います。

理系の大学進学でさえ理科の科目を一つくらい落としても進学でき教養
課程で補うやり方です。

中学卒業でもどうどうと親方としてやっていける技術者を大事にする国
にすることは無理でしょうか。大学までモラトリアムの方が良いでしょ
うか。

安い洋服が出て年金暮らしの私は助かっています。けれど高級の織物の
着物屋さんなど丁寧な技術者を排除しているような気がしてここに援助
するのも考えてほしいです。

鳩山政権に投票していませんが、つまらぬ揚げ足とりでない議論の場を
持ってほしいと思います。今のままでは民主党の人たちこそ不満を持つ
ような経営ではないでしょうか。

馬場様の母上様の短歌もっと読ませてほしいです。何度も読ませていた
だきました。(匿名希望)



 2)主宰者様の体調はいかがでございますか。このところお元気がない
ように感じます。投稿者の皆さんも元気がないようですよ。鳩山由紀夫
・民主党内閣の勢ですか?

幸(寝取った夫人)か不幸(母親の不祥事まで公にした)か鳩山民主党
内閣は短命に終わりそうだ!

米国政府をいらいらさせどうし、沖縄県民をカリカリさせどうし、中国
政府を浮き浮きさせどうし、リー・クァンユーをなげかせて、民主支持
者をあきれさせている。

後に控えしは、何おか況やの五人衆!マスクなしで顔を出してる一郎日
教組を大トラにする輿石、歯を剥き出して笑う菅、マルチの教祖の野田
イオンの代理人岡田。

統帥権の干犯をぶち上げて軍部を暴走させた一郎孫の由紀夫は友愛で不
良外人を暴走させるのか!

民主党政権早く終わらせなければならない。(一読者)

 

 3)アメリカからの我が国の輸入品目の変遷:

目下ある事情があって、アメリカからの輸入品目を調べてみた。結果と
して、その90年代との対比での変化にはいささか驚かされた。

それは1972年から1993年末まで対日輸出を仕事としてきたので、それな
りに何がアメリカ(特に西海岸)から日本に向けて輸出されていたかは
ある程度は心得ていたつもりだったからである。

1980年代のことだったが、アメリカ西海岸からの主な対日輸出品目はと
言えば、先ずは航空機、木材(丸太も含めてだった)、製紙原料として
の木材チップ、飼料用の干し草、フレンチ・フライ用の冷凍ジャガイモ、
食品容器用板紙、新聞用紙等々で、航空機を除けばいわば一次産品が圧
倒的だった。

私からこの話を聞いた大学教授にして著名なエコノミストのO氏は「それ
ではアメリカはまるで日本の植民地ではない」と言って驚きを隠さなかっ
た。

しかし、そうこうする間にアメリカも地元産業の振興を図って、丸太の
輸出を規制し始めた。当然であろう。その頃にはすでにインドネシアが
南洋材丸太の輸出を禁止して、ベニヤや合板の輸出に注力していたので
あるから。

90年代までは、我が国では製紙技術が優れていたので、製紙の原料とな
る豊富な森林を持つアメリカが誇る紙類の輸入を最低限に止めていた。
それだから、クリントン政権の頃には「原料ばかりではなく最終製品の
紙や板紙を買え」と迫ってきたのである。

確かな記憶ではないが、1990年初頭のアメリカからの輸出品目で最大の
ものが矢張り航空機で、第2位が木材と紙類で、対日輸出の何と10%を占
めていたことすらあった。しかも、対日輸出の総額も200億!)にも達して
いない年すらあったような記憶もあった。

アメリカ西海岸からの日本向け輸出品の輸送を手掛けていた船会社は紙
・パルプ、干し草、フレンチ・フライ用冷凍ポテトの獲得に懸命に努力
していたと聞いていた。

それが20年近くを経た現在では全く対日輸出品目の内容が変化して、
2008年のアメリカからの輸入は約660億!)で主な品目が航空機、半導体電
子部品、光学科学機器、穀物類となっていた。一方、2006年には総額約
600億!)で航空機、光学機器、薬剤、半導体、通信機器、穀物等となって
いた。

06と08年ともに90年代から続く穀物類が残っているが、材木や紙類が上
位には残っていない。すなわち、最早アメリカは我が国の植民地ではな
く、対等な貿易相手国となっていたのである。

民主党内閣もこういう時代の変化を捉えて、対米関係の平等化ないしは
対等化を促進し、厄介な存在などと誹られないようにして貰いたいもの
である。

参考資料:外務省HP。(前田 正晶)



 4)近頃 隣近所との付き合いにいささかまいってます 朝夕 いつと
はなしに家の前の往来を掃く役目を家内に仰せ付かりやっていると声が
かかるのですが どこの誰かよくわかりません 

「おはようございます」「いいお天気ですね」など頭を下げながらやって
いる内はいいのですがだんだんいわゆる世間話風になります 

花の咲き具合身体の調子 家族の状況 テレビの話題。。。どんどん広
がります 

立ち止まるといけません 知らん顔をして箒を動かし続けます しかし
 そのあとを追ってくるのがいます


相槌を打ったのが失敗 掃除はやめられずに 向こう三軒両隣から通り
いっぱいに広がります 終わるとクタクタです 話のお相手にです 

男も女も中年 老年 いやはやです

ときには遠くからビニール袋をかざして「これ お宅から」とわざわざ
届けにくるおばさんやらゴミのなかに変なものがあるがと店にくる古老
もいます 参ります

散歩ならさっさと歩いてくれよといいたくなりますがみなさん 立ち止
まって 群れるがとく佇んでひとときを過ごしたいのですね 

その群れは公園に向けて列となって移動していきますなにやら 独特の
グループが出来ているらしく NHKラジオ体操の後にベンチでお茶し
ているそうです ご近所付き合いとはいえすべてがおばさん化している
のはすごい光景です 

とてもではないが掃除をやめようとしましたが こんどは「病気」「喧
嘩」などうわさとか

しかし どうしてこんなに群れるのがすきなのか 誰が何をしていよう
といいではありませんか 普通のあいさつを交わす程度十分ではないの
か黙っていてはどうしていけないのか 

愛想がない つまらぬ人だ 

面白みのない人だ それでいいというのですが 近所付き合いはダメら
しいよせばいいのに家の前を幅広く掃くものだから 他の家の人は知ら
ん顔風が吹き抜けた後など早起きせねばならない  

家に入ってしまうと ほとんどが話をする環境にないという孤独 静謐
な日々に囲まれているからだろうか

饒舌な朝に生きがいを感じているのか 人間自身 群れることにこそい
きがいを持っているのか 孤独 静かな朝 ひとりに恐れを感じるには
あまりに枯れていないということなのか〔一〕



 5)無事、李登輝友の会の研修より帰ってきました。台湾の各界を代
表する方々のお話を沢山聞くことができました。本当に内容の濃い5日間
でした。また後日報告したいと思います。

一点、トイレ事情についてですが、TOTOが相当に市民権を得ているよう
でした。シェラトンホテルでさえ、地下共同トイレは全てTOTO製、おま
けに大きいほうの便器は、『流す』ボタンがそのまま日本語だけで表記
されており、漢字表記、英語表記いずれもありませんでした。

研修場所の台湾綜合研究院もTOTO製で、手洗い場所の液体石鹸が出ると
ころについても『おす』表記そのままでした。どこかで一か所INAXも見
ましたが、大抵はTOTO製か、台湾製と思われるHCGというところでした。
これからたまった5日間分の頂門を読んで、なんとか追いつこうと思いま
す。門 佳之(かど よしゆき)


主宰者より:TOTOとINAXはもとは同じ資本でした。よく調べてきてくだ
さいました。有難うございました、中国本土の最新情報を知りたいです
ね。



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身 辺 雑 記
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流石、浅草には美味いもの屋がいっぱいある。永年、観光客相手に舌を
鍛えてきたからだろう。先日、ふらりと入った洋食屋(レストランではな
い)のビーフシチューは、牛肉が上等、味は抜群、安価だったのでびっ
くり。

通によれば、「それで昔から有名なところなのよ」。こんどは焼酎でビー
フシチューを味わってみたが、合わなかった。昨夜の浅草は時代祭りの
後だったが、以外にひっそりしていた。

読者:4249人。

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御意見・御感想は:ryochan@polka.plala.or.jp
    HP: http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
    ブログアドレスは http://chomon-ryojiro.iza.ne.jp/blog/
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