2008/04/30
広原盛明のつれづれ日記
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 2008/4/30 広原盛明のつれづれ日記 vol.116 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ http://www.hirohara.com/ ◆目次◆ つれづれ日記 ・08年4月4日:いまどきの学生気質、学生事情 (新年度を迎えて、その1) ・08年4月8日:社会人大学院生の論文の書き方(その1) (新年度を迎えて、その2) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 08年4月4日:いまどきの学生気質、学生事情 (新年度を迎えて、その1) 3月半ばに学部と大学院の卒業式が終わってホッと一息をつ いたと思ったら、もう新学期が始まる時期となった。春休みは ないのも同然だ。私学では早くも4月1日に入学式があり、以 後、オリエンテーションなどの行事が延々と続く。そして来週 からはいよいよ講義やゼミがスタートする。 例年この時期になると、卒業していったゼミ生のことが気に かかる。ゼミ生の進路は様々だが、民間企業にせよ公務員にせ よ、この頃は「終身雇用」が死語になっている時代だから、3 年も経てばどんな事態になっているか想像がつかない。転職を してより良い職場にめぐり合えればそれに越したことはないが、 まだスキルや知識が充分備わっていない段階で転職を繰り返す のは危険極まりない。当分は慎重に行動して、職場の実態をよ く見極めてほしい。 一方、論文指導した社会人大学院生は元の職場に帰るか、春 の人事異動で新しい職場に変わるかのどちらかなので、あまり 心配していない。社会人として仕事をバリバリとこなしながら、 なお大学院で勉強しようという人達だから、意欲も能力も充分 に備わっている。私の下で3月に修士論文を提出した2人の社 会人大学院生は共に公務員で、都市計画と社会教育の専門職で ある。その点で仕事に系統性と安定性があるので、今後きっ と新しい視点でいい仕事をしてくれることと期待している。 学部のゼミ生の指導方針は教員によって相当違う。私のゼミ 生は政治学科と法律学科の両方から来ているので、たとえば弁 護士や裁判官出身の教員の場合のように、法律実務を叩き込む わけではない(法律知識がないのでできない)。また政治学専 攻の教員のように、政治理論や政治史を教えるわけでもない (これもできない)。ならばどうするのか。 私のゼミの売りは、「まちづくり」と「フィールドワーク」 だ。この2つのキーワードに興味と関心を持つ学生たちが私の ゼミを選択するのである。有体にいえば、「法律が嫌いで政治 にも馴染めない」学生たちが私のゼミに来るというわけだ。3 月に卒業したゼミ生7人の内訳は法律学科4人、政治学科3人 だった。1人は単位不足で留年した。 こんな混成軍団の学生たちの指導は、とても「やり甲斐」が ある仕事だ。確立した教授法もマニュアルもないから、その年 のゼミ生の顔ぶれをみて、徐々に指導法を考えていくのである。 しかしこのことは毎年指導方法が変わるということではない。 2年生の後期にゼミに入ると、すでにそこには3年生、4年生 の先輩たちが待ち構えているから、それはそれなりにゼミの 雰囲気ができている。その中でのバリエーションの選択であ る。 「まちづくり」というテーマは、「何でもあり」の世界なの である。自分たちにとって住みやすいまち、惹かれるまち、愛 着の持てるまちなどなど、学年によって関心を持つテーマが随 分と異なる。思い切り主観的な世界なのである。だから漠然と この言葉にひかれてゼミに入ってきた学生は、そこで自分の主 観や気持ちと真正面から向き合うことになる。「七転八倒」の 時間が始まるというわけだ。 こうして半年後ぐらいには何とかテーマを見つけて「いざや ろう」ということになると、次は「どんな方法でやるのか」が 問題になる。そこで出てくるのが「フィールドワーク」の世界 である。この世界もまた学生たちにとっては未知の世界らしい。 大げさに言えば「未知との遭遇」が始まるわけだ。 教科書中心の受験勉強をしてきた学生たちは、「フィールド ワーク」といってもからしきイメージが湧かない。それはそう だろう。いままでやったことがないのだから実感が伴わないし、 そこからアイデアが生まれてくるはずもない。想像力あるいは 創造力は、「経験」や「体験」のなかから初めて生まれてくる ものなので、「経験的想像力」や「体験的創造力」のストック がないのである。 だから最初から「社会調査法」のレクチャーをしても反応が ない。そこで数グループにわけて、自分たちでいろんな手法を 試してみることから始める。どのような場所に行って、何を調 査するのか。何を観察して、何を聞くのか。どんな方法で、ど んな人に会い、どのような資料を集めるのか。 どうやら学生たちは、見知らぬ他人に会い、話を聞き、意見 を引き出すようなことは非常に苦手らしい。相手の眼をしっか り見つめて、調査の趣旨や目的をわかりやすく話すことはなか なか難しいのだ。でもそれをやらないと「フィールドワーク」 にならないのだから、最初は苦手でも仕方なくやらざるを得な い。こうして学生たちは少しずつ前へ進んでいく。(続く) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ・08年4月8日:社会人大学院生の論文の書き方(その1) (新年度を迎えて、その2) 仕事もバリバリこなすし、その上研究意欲もある社会人大学院 生を指導することは、学部学生とはまた異なった格別の緊張感が ある。彼・彼女たちは現場での知識や経験が豊富で、問題意識も あり、自分の意見をしっかりと持っている人達だから、専門的な 分野での勝負は最初から私が叶わないことがわかっている。それ でいて「論文指導」なんてできるのか、と読者の方はきっと思わ れるのではないか。 まったく「その通りだ」と答えるしかないのだが、しかし彼・ 彼女らにもやはり弱点がある。それは「論文」の書き方には独特 の訓練とノウハウが要求されるからだ。山ほど現場情報をもって いる人でも、いざそれをまとまった論文に仕上げるとなると、そ うは簡単にいかないのである。 このことは、私自身が大学院生の時からいつも痛感してきたこ とでもある。研究室で教授や助教授などの先生たちと議論してい るとき、どうしてそれほど込み入った討論内容を明晰に整理がで き、また行き詰まった論点を見事に解きほぐして次の段階にステッ プ・アップできるのかといつも絶望的なほど羨ましく思っていた。 「きっと頭脳が抜群に優れているので、凡人ではいくら努力して も無理だ」と、当時はまったく諦めていたのである。 でもあれから随分の時間が流れて、私自身が当時の先生たちの 年齢を追い越している現在、研究テーマについての議論の仕方や 論文の書き方には独特のノウハウがあり、凡人でも努力すれば 「相当のところまで行ける」と思うようになった。だから、私の 社会人大学院生たちに対する指導方法の重点は、このことをいか に上手に伝授するかということに置かれている。 話を具体的に進めよう。ある社会人が私の研究室にきたとする (今年度も交通関係の大手企業を定年退職した人が、まちづくり と交通政策の関係について論文を書くために、私のところへ来る 予定になっている)。彼・彼女らは論文を書こうというのだから、 当然書きたい研究テーマを持っている。またそれに関する知識も 情報もふんだんに持っている。だから「直ぐにでも書ける」と思 いがちだ。 でもよく聞いてみると、その研究テーマが極めて大きなテーマ であったり、一般的、抽象的であまり整理されていない場合が結 構たくさんある。また、すでに他の人が手を着けているテーマで あったりする場合もある。だから最初のハードルは、「テーマ選 び」が関門になる。 でも、これがなかなか厄介な仕事なのである。いろんなことを調 べなければならないし、他人が書いた論文も数多く読まなければ ならない。いままでは自分の仕事(だけ)に集中してきた人が、 他の人の仕事についても理解したり考えたりするのはそう簡単な ことではないからだ。そうこうしているうちに、半年ぐらいの時 間はあっと言う間に過ぎてしまう。 第1ハードルと矛盾するようだが、第2ハードルはこのように して分け入った「研究の森」からいかに脱出するかだ。自分以外 の仕事のことや他の分野の勉強に頭を突っ込むようになると、そ の膨大な情報の蓄積に必ず圧倒されるようになる。自分の知識や 経験がどれほど「ちっぽけなもの」かを嫌というほど思い知らさ れるのである。今までの自信や意欲は一挙に瓦解してしまい、自 分がいかに「井のなかの蛙」であるかを徹底的に思い知らされる のである。 そうなると、研究熱心な人ほど「あれも読まなければ」、「こ れも読まなければ」という思いから抜けられなくなる。そしてど んどん「研究の森」のなかに深く分け入り、そしてついには元の 場所に帰って来られなくなる。やがて自分が何のために研究を始 めたのかという原点を見失い、止めどもなく次から次へと研究分 野を広げていって、「勉強のための勉強」という「迷路」から抜 けられなくなってしまうのである。 これは社会人大学院性にとっては「危険信号」ともいうべき状 態だ。社会人大学院生が論文を書くことは、必ずしも「プロの研 究者」になることが目的ではない(なかにはそういうケースがな いこともないが)。現役の公務員であれ、民間企業の社員であれ、 また定年後の人であれ、論文を書くことの当初の動機は、大抵の 場合、現場での自分の仕事を見つめ直すこと、そのことを通して より深く自分自身の能力や自分の仕事に磨きをかけることである。 そうであれば、いったんは「研究の森」に分け入っても、適当 なところで引っ返して来なければならない。腰に縄を着けて元の 場所を見失わないようにしながら、ある時点まで行ったらその先 にどんな魅力的な場所があると思っても引っ返す勇気を持たなけ ればならない。そうでなければ、登山と同じように遭難してしま う恐れがあるからだ。 では、その場合の「腰の縄」とは何か。それは論文を書くため に与えられた「研究期間」という時間的制約である。「締め切り 日のない原稿は書けない」ように、研究期間を限定しない論文は 絶対に書けない。大学院生という限られた時間内で書けるだけの 論文を書くのである。「もっと時間があったらいい論文が書ける」 というのは幻想に過ぎない。「論文を書く」ということはそうい うものなのである。しかし、そのことが納得できるまでにまた時 間がかかるのである。(続く) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 本メールマガジンは、HP「広原盛明の市民フォーラム」にて 掲載された「つれづれ日記」をまとめて、 週1回配信しております。 発行:広原盛明 メールアドレス:hirohara@skyblue.ocn.co.jp URL:http://www.hirohara.com/ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



