2009/12/17
日中戦争の問題点を検証する 第112話
日中戦争の問題点を検証する 第112話 天皇の戦争責任 その10 大元帥への道 1882年明治15年1月「陸海軍人に賜りたる勅諭」が発布された。 いわゆる「軍人勅諭」である。 これの元になったものが、明治11年10月12日、陸軍のボス・山県有朋によってださ れた「軍人訓戒」である。 明治11年8月23日午後11時30分、竹橋西詰にあった近衛砲兵営から皇居に対して 大砲を撃ち込むという信じられない事件が起きた。 いわいる「竹橋事件」である。 事件を起こした近衛兵の不満は西南戦争で激戦を戦ったのに他のものに比べて恩賞が少な いこと、俸給が減額されたことへの不満が爆発して武力の行使となった。 天皇を護衛するべき近衛砲兵大隊の兵士ら300人余が蜂起して、竹橋の兵営から、天皇 に強訴するため、仮皇居になっていた赤坂離宮に迫ったのである。 兵たちは大隊長・宇都宮少佐と週番士官・深沢巳吉大尉らを殺害し、行賞削減を企図した といわれた大蔵卿・大隈重信公邸に砲撃を加え、周辺住居数軒に放火、さらに天皇のいる 赤坂仮皇居に進軍し、集まる参議を捕らえようとしたが、近衛歩兵隊、鎮台兵により鎮定 されるという一大騒乱である。 本来天皇を守るための近衛兵が皇居を襲撃したのである。しかも事件は計画的で、合言葉 まで決められていた。 これは日本陸軍史上に残る唯一の兵士の反乱である。 驚いた山県有朋は事件を2ヶ月でスピード解決し、暴動兵士らは10月15日、銃殺刑 53名、流刑118名、その他の刑で263名への処罰が下った。 明治6年に徴兵令が施行されたが、各家の長男は兵役を免除され、国民にはまだ「兵役」 の義務感がなく、出稼ぎ感覚であった。 そこで山縣は兵隊を教育し、国民にも理解させるため「軍人勅諭」を発布したのである。 これによって軍隊を指揮・統率する大権は天皇自らが握っていること、つまり日本の軍隊 は天皇がその長にあることを明記している。 しかも天皇は軍人の最高位である「大元帥」でもあることが強調されている。 近世では後醍醐天皇が軍を指揮したことはあったが、軍人天皇はいない。 これまでは「君臣共治(くんしんきょうじ)」の思想が古代から連綿として受け継がれ、もし も天皇が「悪王」であれば、臣下のものが廃位してもかまわないとされていた。 日本初の元号「大化」を定めた孝徳天皇は『君主として万民を治めることは独り制むべ からず』として君主の独裁を否定し、臣の翼(たすけ)を得て共に治めることで初めて神 (天照大神ら皇祖)の護りの力が得られるとしている。 しかし武家の棟梁たちは天皇に不満があっても決して自らが天皇になろうとはしなかった。 唯一皇位を狙った足利義満も生前には皇位を簒奪できず、死後家族や周囲から否定された。 天皇の権威が堕ちた戦国時代においても皇位を奪うものは一人も出なかった。 『大切な日本国のお守り』として保護する立場を通してきた。 明治政府はこれを否定して天皇を神格化して固定し、さらに軍人にしてしまったのである。 「天皇の軍隊」という思想を国民に浸透さすため歌にしたのは文部省である。 明治21年5月14日に発行された『明治唱歌 第一集』には「皇国の守」が載っている。 作詞をした外山正一は東大の文学部長で、明治15年に西南戦争のときの官軍の抜刀隊の 奮戦をうたった「抜刀隊」に続く軍歌である。 「抜刀隊」の作曲は陸軍軍楽隊教官のフランス人シャルル・ルルーで、日本で最初の軍歌 として爆発的にヒットした。 「皇国の守」は外山正一の作詞に文部省の「音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)」初 代所長の伊沢修二が作曲した。 一、き( )たれやきたれやいざきたれ皇國(みくに)をまもれやもろともに よせくる敵はおほくともお( )そるゝなかれおそるるな。 し( )すともしりぞくことなかれ。皇國(みくに)のためなり君(きみ)のため。 二、 い( )さめやいさめやみないさめ。つ( )るぎもたまもなんのその。 皇國(みくに)をまもるつはものゝ身(み)は鐵(てつ)よりもなほかたし。 死(し)すともしりぞく事(こと)なかれ。皇國(みくに)のためなり君(きみ)のため。 三、ま( )もれやまもれやみなまもれ。他國(たこく)の奴隷(どれい)となることを おそるるものは父母(ちちはは)の墳墓(ふんぼ)の國(くに)をよくまもれ。 死すともしりぞく事なかれ。皇國(みくに)のためなり君(きみ)のため。 四、す( )ゝめやすゝめやみなすゝめ。皇國(みくに)の旗(はた)をばおし立(た)てゝ す( )ゝめやすゝめみなすゝめ。先祖(せんぞ)の國(くに)をまもりつゝ 死すともしりぞく事なかれ。皇國(みくに)のためなり君(きみ)のため。 大元帥とは国家の兵権を取りしきるという意味だが、「軍人勅諭」発布の段階ではまだ理念 を越えていない。 明治31年に天皇の軍事最高顧問機関として「元帥府」が設けられて具体化する。 元帥は陸・海軍の大将のうち、特に軍功のあった者にのみ授けられた。 元帥になった者は終生現役でいることができた。 天皇の諮問に答えるのが「元帥府」であり、最高位が天皇であるから天皇は大元帥なので ある。元帥第一号は明治5年に西郷隆盛陸軍大将に与えられている。 以後陸軍では17人、海軍では13人であるが、死後追贈された者が6人いる。 存命中に元帥の称号を得た皇族は以下の5名である。 小松宮彰仁親王(1846-1903) 1898年(明治31)1月20日受 伏見宮貞愛親王(1858-1923) 1914年(大正3)1月9日受 閑院宮載仁親王(1865-1945) 1919年(大正8)12月12日受 梨本宮守正王(1874-1951) 1932年(昭和7)8月8日受 海軍では、伏見宮博恭王(1875-1946)1932年(昭和7)5月27日受 ≪おもな皇族軍人≫ ☆有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう) いわずと知れた明治維新の皇族のヒーロー。 東征軍が江戸に向かう時に楽隊に合わせて歌った、 「宮さん、宮さん、お馬の前でひらひらするのはなんじゃいなトコトンヤレ トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ」 と歌にでてくる「宮さん」こそ、鳥羽伏見の戦いを勝って、東山道をゆく東征大総督・有 栖川宮の勇姿である。 幕末の動乱期には孝明天皇の意思に背いて薩長と組んだため、謹慎処分になって不遇な時 を過ごしたが、討幕の意志は固く、明治天皇の践祚によって再び脚光を浴びた。 明治2年に欧州を視察し、帰国後は陸軍卿に就任する。 福岡県知事の任を果たし民政にも秀でていた。 西南戦争では鹿児島県逆徒征討総督として薩摩に赴き、かつての同志であった西郷隆盛と 敵対し、戦争の非情を痛感する。 敵も味方も関係なく負傷した兵隊を助けようと、赤十字の創設の陳情を即決したことは 立派である。当時はまだまだ薩長の旧幕府への恨みが根深く残っていた。 その後再び西欧旅行し、帰国後、皇族初の参謀本部長に就任する。 明治27年に勃発した日清戦争において陸海軍の総司令官として広島大本営に下るが、 この地で腸チフスを発症し、神戸の有栖川宮舞子別邸にて静養に入る。 症状は一旦軽快したものの翌年に入って再び悪化し、治療もむなしく、明治28年1月1 5日、熾仁親王は終戦を待たずして舞子別邸にて61歳で薨去。 ☆小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう) 慶応3年、仁和寺の門跡であったのを還俗した。 明治3年には東伏見宮と称を改めイギリスへ留学し、明治5年に帰国すると、「皇族は欧州の例にならい幼年より軍務に服すべき」ことを上書。 明治6年12月、皇族は陸海軍の軍人となるべき沙汰が下る。 小松宮の進言で無能な皇族軍人や権威で軍を動かす「害」が生じたことは残念である。 また軍人のなかには「虎の威を借る狐」がいて、皇族軍人を利用した事例も多い。 明治23年には陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総 督に任じられ旅順に出征した。 明治31年に元帥府に列せられ元帥の称号を賜る。 ☆閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう) 伏見宮邦家親王の第16王子。3歳で出家し真言宗醍醐派総本山三宝院門跡を相続したが、明治4年伏見宮に復籍のうえ、閑院宮家を継承する。 明治10年に上京し、陸軍幼年学校に入学する。 明治16年、幼年学校を卒業すると、フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランスの陸軍大学校を卒業し、軽騎兵第7連隊付を経て明治24年帰国して三条実美の二女・智恵子と結婚する。26歳であった。 日清戦争では満洲で伝令将校として勇敢に戦い、日本の命運をかけた日露戦争・本溪湖の戦いでも、その剛勇が日本軍の勝利に寄与した。 美男子の上に皇族には珍しく戦場を駆け巡って功績を挙げたので人気も高く、中将に昇進。 1912年(大正元)11月27日に陸軍大将となり、軍事参議官となる。 大正8年12月12日元帥・免軍事参議官となる。 軍事参議官 は1903年(明治36)勅令第294号に基づいて設置された。 これは日露戦争に備えて陸海軍の利害の調整を目的として設置されたが、のちに古参将官の名誉職の扱いとなる。 元帥、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長及び特に軍事参議官に親補(しんぽ)された陸海軍将官。特に親補された軍事参議官には副官として佐尉官1人が付された。 軍人は天皇じきじきに宮中において任官される「親補職」を望んだ。 本来は陸海大将が就くのだが、中将以下が就いたときは、在職期間中のみ親任官としての待遇を受けるので、宮中の席次が他の中将よりは上になる。 連合艦隊司令官や鎮守府長官などが親補職である。 しかし実際には少将以下が任命されたことはない。 閑院宮は大正11年3月3日より同年9月3日まで、皇太子・裕仁親王(のちの昭和天皇)の欧州外遊を補導すべく随行した。 裕仁皇太子は母・貞明皇后や頭山満・北一輝ら右翼の反対を押して外遊した。 3人の元老たち・松方正義・山県有朋・西園寺公望と首相・原敬も天皇になる皇太子には世界情勢を自分の目で見ておいて貰いたいと思っていた。 そこでフランス外遊経験の長い閑院宮載仁親王が責任者として随行した。 小松宮依仁親王も海軍少佐で供奉員に加わった。 東宮職の者が多かったが、軍人の供奉者をあげると、 東宮武官長・奈良武次陸軍中将、東宮御用係・山本信次郎海軍大佐、東宮武官・及川古志郎海軍中佐、浜田豊城陸軍少佐である。 小栗孝三郎海軍中将の指揮の下、イギリスで建造された軍艦「香取」に皇太子が乗り、随艦が「鹿島」である。 実はこの2隻のほかにドイツからの戦利品・商船「クライト号」が2日前に出港しており、全行程ついていた。 これに島津忠重少佐、原六郎少佐、佐藤三郎少佐ら多くの海軍軍人が乗船していた。 皇太子一行の先々の警備を受け持っていたのである。 「香取」「鹿島」が寄港地に到着する前日までには必ず入港しておき、警備情報を得ることが任務である。 この船には日本の新聞記者3名も乗船しており、皇太子の外遊報告を本社に送った。 『時事新報』の後藤武男が皇太子に供奉して特ダネを得た。 アメリカ訪問を外したのは、アメリカには皇室がないので、皇太子の扱いが粗雑になるのではないかと恐れたためである。また日程の長期化も懸念された。 この時期アメリカでは日本人移民の禁止を画策していた。 特にカリフォルニア州では日本人への反発が強かった。 当時の東洋人移民は日本人がほとんであったが、日本人は米国人と結婚するのを嫌い、日本本土からの写真見合い結婚が流行した。 しかも勤勉な日本人は稼いだお金をせっせと日本に送金していることが嫌われたのである。 ついに1924年(大正13)の移民・帰化法改正が成立する。 この背後には第一次世界大戦で敗れたドイツ領をアジアでは日本が受け継いだことへの危惧である。 1922年、ヴェルサイユ条約によって南洋諸島の赤道以北を委任統治することとなった。 つまり日本の新領土である。 日本では南洋群島とよんでいたが、この中のグアム島だけが、アメリカ領土であったのだ。 アメリカと日本との摩擦解消のためにもこの時、皇太子がアメリカを訪問していたら、 事態は変わっていただろう。 アメリカの訪問要請に対して大正天皇は「御親電」をハーディング大統領に打電して丁重に断った。 そんなことは知らず、裕仁皇太子は食事のマナーから挨拶の仕方まで徹底的に教育され、最初の訪問地・イギリスに着き、外遊は大成功のうちに半年後の9月3日無事帰国した。 当時20歳の皇太子は55歳の閑院宮からみれば親戚の世間知らずの子供である。 老いていく者は甥っ子が大正天皇のあとを受けて昭和天皇となり、数々の苦難に遭って 成長した姿を見ても幼い皇太子の残影が邪魔をして正確な人物評価ができない。 2・26事件は閑院宮が皇道派に利用されたのである。 昭和天皇に呼び出され、「反乱軍である」と厳正な粛清を求められ、叱責を被ってもなお 35歳の成長した昭和天皇を軽んじていたのではないか。 1931年(昭和6)12月23日参謀総長に就任。 1940年(昭和15)1月16日、欧米との戦争の危機が迫り、これを回避するために 昭和天皇は海軍大将の米内光政を内閣総理大臣に就任させた。 米内は第一次近衛内閣のときに海軍大臣で入閣しており、近衛総理の「蒋介石を相手にせず」と、支那事変を終結するチャンスを逃したのに同調したのであるが、さすがに米国相手に戦争をするには日本海軍の軍備では無理であり、飛行機や石油の不足が決定的だと戦争に反対していた。 ところが半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。 当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた。 畑を動かしたのは陸軍参謀総長だった閑院宮載仁親王である。 皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断れない。 しかし閑院宮を動かしているのは東条英機ら戦争をやりたい連中である。 どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、米内は辞表を受理した。 米内もまた陸軍の閑院宮・海軍の伏見宮という皇族の元帥に反抗できなかった。 米内内閣が倒れると案の定再び近衛が内閣総理大臣についた。 欧州でのドイツの破竹の勢いでの連勝に浮かれた陸軍は三国同盟を締結し、第2次世界大戦と突き進んでいく。 74歳の老齢の閑院宮の責任は重い。 1945年(昭和)20)5月、81歳で薨去。翌月国葬を賜る。親王宣下による親王では最後の生存者であり、また大日本帝国最後の国葬となった。 もう少し長く生きていたら東京裁判のA級戦犯として被告席に立っていたことは間違いないだろう。 ☆伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう) 陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、昭和7年2月、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である軍令部長に就任させた。 海軍軍令部長を、陸軍「参謀総長」と対応させて「軍令部総長」と改めたのは伏見宮軍令部総長の時代である。 海軍軍令部長・軍令部総長を9年間務め、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王は皇族の威光を利用して艦隊派寄りの政策を推進し、日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持っていた。 反英米・親独伊派の代表であり、艦隊派・アンチ軍縮条約派として戦争への道を開いていった。 陸軍に比べて比較的リベラルな人物が多い海軍で、タカ派の最右翼であり、元帥・永野修身大将とともに日本海軍を潰した張本人である。 太平洋戦争中になっても、大臣総長クラスの人事には伏見宮の了解が必要とされていた。 軍令部総長の永野修身大将は 「海軍が戦争できないと言ったら、陸軍や右翼が内乱を起こす。内乱になると海軍は負ける。どうせ、戦争をするなら勝ち目があるうちに」 と語っていた。そこには海軍という組織を守るばかりで、日本を守るという考えはない。 このメンバーは、別の場所でのインタビューでは、「アメリカとの対立をあおって軍事予算を獲得し、組織を拡大した上で、アメリカとの妥結を目指す」という趣旨の発言をしているが、こんな子供だましの策略がアメリカに通じるわけがない。 日本の天皇家は南北朝が統一された第100代の後小松天皇の子、102代の称光天皇に継嗣がなく、伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさしんのう)の子を後花園天皇とした。 以後この皇統が現在まで続くのであり、伏見宮家が『裏天皇家』と呼ばれるゆえんである。 江戸時代の光格天皇は、新井白石の建言で立てられた閑院宮家の出身であるが、 伏見宮家は、江戸時代には皇統から遠ざかっていたが、幕末には閑院宮家第5代愛仁親王には嗣子がなかったため、愛仁親王没後は実母・鷹司吉子が当主格に遇されていた。 その後、明治5年に、伏見宮邦家親王第16王子・載仁親王が還俗して継承した。 伏見宮邦家親王は子沢山で、第14王子が貞愛親王で、閑院宮載仁親王とは兄弟であり、 伏見宮博恭王とは叔父・甥の間柄である。 GHQによって皇籍離脱させられた旧十一宮家は全て伏見宮邦家親王が源流である。 そのためか、昭和天皇を軽んずるところがあり、天皇が欧米との和平を説いても柳に風と受け流し、自説の反英米主義を変えることはなかった。 しかもことごとく天皇の意思を蹂躙し続けた。 天皇を補佐するべき立場の人間が軍事に身をおいて本来の「祈り」と「文化」を忘れて 戦争に狂奔するあさましい貴族のなれの果てである。 軍人としても精神主義で、戦器の技術革新を無視して人間の命を軽視した。 昭和天皇が何度も「支那事変を解決してから」と軍人たちを諭したが、無視したのである。 貴族たちは軍人にならず、文化人として各国との交流に勤めるべきであった。 第一級のA級戦犯。 ☆朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう) 昭和12年12月10日、南京城をぐるりと囲んだ日本軍総司令官・松井岩根はひたすら 支那軍の軍使を待っていた。 それは12月8日に蒋介石・南京政府に対して中国語で書かれた「降伏勧告文」を南京 上空から何千枚も軍用機でばら撒いたのである。 無駄な戦いはしたくはなかった。 しかし、新任の朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)殿下中将には敵を目の前にして 松井がただぐずぐずと、にえきらない態度でいるのがもどかしい。 松井に「墨守するに及ばず」「みすみす敵を逃がすのは残念なり」と抗議していた。 ついに正午、日本軍は南京城外で戦闘に突入した。 支那軍は訓練のなされていない雑兵ばかりで、南京防衛司令官・唐生智将軍は敗残兵を銃 殺し、自分は11日の夜8時ころ、いずこにか逃げてしまった。 蒋介石と妻の宋美齢は12月7日にすでに飛行機で逃げていた。 日本の「降伏勧告文」を見たのは軍を預かる唐生智将軍であったが、蒋介石の逃亡ですで に支那軍には戦う気力もなく前夜からわれ先に逃げようとして味方同士で殺し合い、7千 人の死体がすでに城内にはあった。 おまけに兵たちは逃げる最中に商店から略奪し、軍服を脱ぎ捨て便衣に着替え、暴徒化し ていた。 さらに支那軍は日本軍の進撃を阻止するために焦土作戦に出て7日から南京郊外の総理陵 苑のかなたの低地は一面の火の海と化していた。 勝負は小さな小競り合いだけで決していた。 13日の午後、南京入城をした松井岩根大将は城内の惨憺たる様子に驚き、清掃に時間を かけ、外国の租界に逃げ込んだ一般人のなかに、なおも居残る便衣を着たゲリラの見分け の必要を感じた。 そこで方面軍参謀・長勇は16師団と相談して入城式は20日以降がよいだろうと考えた。 しかし松井が、17日を主張し、決定した。 これは一つには20日には松井が上海の参謀本部に戻らなければならなかったことと、 初陣の朝香宮鳩彦王殿下の意見を取り入れたからである。 もしも城内がゆっくりと落ち着くまで待っていたら、外国人記者たちが城内のおびただし い死者が日本軍の手によるものではないということを実際に見たであろう。 すると今日、中国が捏造する「南京大虐殺」がなかったことを各国が照明してくれたはず であった。 朝香宮はこの南京攻略を評価され、階級は陸軍大将に昇った。 大東亜戦争の終盤においても、終始強硬な主戦論者として本土決戦に備えた陸海軍統合 (統帥一元化)を主張・力説していた。 ☆三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう) 三笠宮は陸軍士官学校、陸軍騎兵学校、陸軍大学校と進んで、総司令部勤めになった。 陸軍士官学校時代には、辻政信が願い出て教育を担当した。辻とは後に同じ支那派遣軍で勤務している。 1943年1月から44年1月までの1年間、南京にあった支那派遣軍総司令部に一参謀として勤務した。 陸軍少佐に昇進し、正義感に燃える27歳の青年士官である。 一参謀として勤務するため「若杉」という偽名を用いた。 天皇の弟君であると明らかにすれば、共に働く兵が遠慮して軍律を守れないと判断し、 自分の印の「杉」から「若杉」と仮の名前を決めた。 日本軍は南京攻略を果たして重慶に逃げた蒋介石を追撃しようとしていた。 そして支那は日本の傀儡・汪兆銘政権にゆだねていた。 しかしいつの時代でも戦争で規律がゆるむのはこうした勝ち戦の時である。 しかも広大な中国大陸の奥深くに逃げ込んだ蒋介石を果てしもなく追えという指令に戦争 の長期化を誰しもが憂鬱な思いでいたのである。 実際日本軍も軍紀がゆるみ、徴用という名目の略奪や強姦も起こっていた。 すでに米英に宣戦布告して太平洋での戦いは始まっている。 一刻も早く中国大陸から兵隊を引き揚げさせて米英の方に回したいのだ。 そのためには無駄な争いは避けて早急に汪兆銘政権に治世を任せたい。 支那人の民意を汪兆銘政権に向かせるためには支援する日本軍が人々に信頼されなければ 安心して兵を削減できないと考えていた。 1943年の暮れ、尉官教育の実施が通知された。テーマは、「何故に支那事変の解決が遅れるか」ということで、担当は若杉こと三笠宮であった。 三笠宮の参謀としての主要な任務は、第一課の教育担当である。三笠宮は支那における 1年間の戦地視察、研究をもとに、思い切ったことを講演した。 講演に際してまず先に尉官たちに回答を求めておいた。 その回答に対する講評を話のきっかけにした。 「米英の後援が重慶政府にあるから」「汪政府が無能だから」「重慶が頑迷だから」「わがほうの物資が不足しているから」などの回答が紹介された。 「汪政府が無能だから」という回答に対して、三笠宮は、「虎造の浪花節にもある如く、道に咲いていても花は花、一夜添うても妻は妻、無能なりといえども汪政府をいまさら袖にするわけにはいかぬ。あくまで添いとげるべきだ」と浪花節を引用した。 「支那事変なるものは、現地軍が勝手に謀略戦争を行い、その後で、陛下に尻ぬぐいをさせたものと断ぜざるを得ない」と結論し、堂々と軍部批判をやってのけた。 その上、「陛下は支那事変の早期終結については、ことのほか心を労せられ、余が南京在勤のわずかな期間中においてすら、3回にわたり親書をくださったほどである」と、その親書をポケットから取り出して見せた。親書には、「対支新政策をなし遂げる以外に日本の生きる道はない」という趣旨の昭和天皇の痛切な気持ちが書かれていた。 この時点で若杉の正体を三笠宮であると自ら告白したのも同然である。 尉官たちは「神聖にして犯すべからず」の大元帥・天皇の真意をはからずも知り、天皇が 戦争を好んで拡大したのではないと知った。 三笠宮は講演の主旨を徹底させるため「支那事変ニ対スル日本人トシテノ内省(幕僚用)」というタイトルで、便箋27枚をタイプ印刷して、総司令部の参謀以上に配付した。 軍の上層部はこれを焼却処分にしたが、焼却を免れたレポートが現在でも残っている。 ともかく軍法会議にかけられるべき講演であったが、天皇の弟宮であるから上層部はなにもできない。 そこで軍は現地から追い出すように1944年1月13日、三笠宮は大本営陸軍参謀を命じられ、東京に帰っていった。 帰国後、日米開戦に踏み切った東条英機を削除しなければ戦争は終結しないと思いつめた。 三笠宮は支那で辻正信の部下の津野田知重少佐と胸襟を開いて語った。 三笠宮と津野田とは、士官学校時代からの知り合いで、三笠宮の講演記録を配ったのが津野田である。 津野田は前任の北支山西駐屯の第36師団参謀時代、参謀長の今田新太郎大佐の影響を受け、石原莞爾の東亜連盟思想の信者になった。 そこで石原莞爾が引き込まれた。 石原はもともと満洲時代から上司の東条のずるがしこいやり方を憎んでいた。 1941年に中将で第16師団長を率いていたのを東条に罷免されて、立命館大学の講師になったが、これも嫌がらせを受けて辞退する羽目になった。 東条は宮中の女官たちに賄賂を贈って取り入り、天皇を信用させ、まんまと首相の座につくと、天皇の戦争不拡大の方針を裏切って米英との戦争に踏み切った。 そして日本国民は次々と戦地で悲惨な死を遂げている。これは断じて許せない。 三笠宮が同士ならこの暗殺計画は実現できる。 そして内閣を刷新し、停戦する決意であった。 ところが石原は当時、持病の膀胱炎が悪化しており、石原と旧知の上海で事業を手広く行う浅原健三を参加させた。 すると、東条だけでなく、その他の軍人100名も暗殺せねばならないと、話は大きくなった。 これが三笠宮に持ち込まれると、宮は自分がテロリスト集団の首領になることに驚いた。 宮は東条とその取り巻き連中の数人の軍人たちを左遷するか無役にすればいいと考えていたのだ。 三笠宮はこの案を秩父宮、高松宮、そして三笠宮の3人は密かに箱根に集まり、検討した。 東条暗殺決行の準備のため津野田は上海に行くと言う。 銃器の用意のためである。 恐れをなした宮は自分から当局に通報し、津野田と浅原は憲兵隊に逮捕され軍法会議にかけられた。 石原も事情聴取を受けた。 東条内閣打倒後の青写真もできていたらしいが、「幻の閣僚名簿」を見ると、首相には東久邇宮、陸相には石原莞爾、参謀総長には小畑敏四郎、文相には竹田宮、三笠宮には、「支那派遣軍総司令官」の席が用意されていたようだ。 宮の正義感には同感してもあまりに考えが浅はかで坊ちゃん育ちの未熟さが露呈した。 戦争という命のやり取りの現場を指揮する軍人が罷免される時は仲間が黙ってはいない。 ましてや東条は一国の内閣総理大臣である。しかも陸軍大臣も兼ねている。 彼を罷免すれば参謀長はじめ戦争の指揮系統は麻痺し、混乱する。 津野田少佐や石原莞爾らの考えるように主戦論者たちをまとめて一掃しなければ戦争は 終わらない。 少なくとも参謀本部を乗っ取って指揮下に置かねばならない。 これはあきらかに2.26事件を越える大クーデターなのである。 三笠宮も事件を思い出し、「平時でもあれだけ混乱したのだから、戦時下の今は もっと戦地で士官たちは混乱するだろう。さてその収拾策はいまだできていない。 だから止めた」というのだから呆れる。 この時期日本はすでに手負いの虎であった。死に物狂いで戦う兵隊たちを終戦に導くためには血を流す覚悟が必要である。 千年以上ものらりくらりと日和見主義で暮らしてきた貴族のDNAは簡単に治らない。 ワインと浪花節を愛した三笠宮のお粗末な一席である。 ☆東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう) 敗戦から2日後の1945年8月17日、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。 いまだに本土決戦を主張する陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもある東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。 副総理格の国務大臣には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一が任命された。海軍大臣には米内光政元首相が三度目の就任した。 陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間、総理が陸軍大臣を兼務し、1945年9月2日のポツダム宣言(降伏文書)の調印を無事に終えた。 東久邇宮は若い頃パリでそうとう遊んだようで、それが自由主義者とよばれた一因なのであるが、敗戦という前代未聞の最悪の国難に及んでも旧来の政治体制を変革しようとは考えていなかった。 皇族の立場から思考におのずから限界がある。 したがって10月4日GHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられた時には、あまりの変革の要求に驚いて内閣は翌日総辞職した。 たった53日の短命内閣であった。 ただ降伏文書の調印、武装解除・軍部解体、民主化など、敗戦処理全般を主たる任務としてこなしたことは、陸軍を押さえ、内戦を防止できたことに大きな評価が与えられる。 それにしても近衛文麿は3度の失政にもかかわらず国民に人気があったというから驚く。 国民の貴族様への憧れと尊敬の念は異常に高い。 ______________________________ ※みなさんからのご意見をお寄せください。 岡崎けい子のホームページhttp://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/ メールアドレス okazaki88@mocha.ocn.ne.jp _______________________________ 「三仙洞探検記」「シベリア決死行」 「おんな独りアフガニスタン決死行」/岡崎溪子 出版:アルファポリス http://item.rakuten.co.jp/book/1557590/


