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2008/02/08

日中戦争の問題点を検証する 第108話 天皇の戦争責任  その6 御所人形の時代



                         日中戦争の問題点を検証する 
 
               第108話 天皇の戦争責任  その6 御所人形の時代


1590年(天正18)4月、秀吉は小田原の北条氏を攻めた。
この時、現在の岩手県を基盤としていた南部氏から独立して青森県地方に勢力を得ていた
津軽為信が伊達政宗に先んじて秀吉の元を訪れ、参陣をした。
そして北条氏が秀吉に降ると関東平定が成り、津軽為信は秀吉から領土を安堵された。
秀吉は前田利家に命じてこの際奥州の検地をすべく、津軽まで足を運ばせた。
この時、北海道の松前慶広(まつまえよしひろ・当時は蛎崎(かきざき))が津軽海峡を渡って
津軽の利家に会いに来た。
利家は蝦夷地の武将を秀吉に謁見させるべく、そのまま連れて京都に帰り、聚楽第で秀吉と
会見させた。
これによって松前氏は秀吉に認可された正式の大名となったし、北海道に大名が誕生したのである。
松前慶広の軍はアイヌの部下をもち、毒矢を使って強力であった。
秀吉が肥前名護屋に朝鮮出兵の陣を敷くと、わざわざ九州まで旅をして秀吉を訪ねた。
喜んだ秀吉は松前慶広に朱印状を与え、島主の地位を与えた。
「アイヌを和人と差別して非道を行う者は罰する」という規定があるのは、当時本州から
商人が北海道の産物に目をつけて渡ってきて、労働者をアイヌに求め、酷使することが多
かったので、家来にアイヌを持つ松前氏はアイヌを保護したのである。
松前氏は家康をも訪ねていたので、秀吉の死後は家康よりアイヌ交易の独占権を公認され、
さらに従五位下、伊豆守に叙位・任官された。大坂夏の陣には徳川方として参陣した。
北海道では米が採れないので、本来は無石であるが、家格として1万石である。

江戸幕府を創設した徳川家康は天皇家の外戚になろうとした。
家康は秀忠の五女・松姫を御所風の名前・和子(まさこ)と変えて政仁(ことひと)親王(のちの
後水尾天皇)の妃にするべく入内の支度をさせた。
ところが1609年(慶長14)に「猪熊(いのくま)事件」が発覚した。
後陽成天皇が寵愛した5人の女房たちが若い公家たちと姦通する事件が発覚したのである。
秀吉時代の自由な風潮が宮廷生活にも及び、規律がゆるんでいたのである。
山科家から分家して猪熊家をおこした猪熊教利(のりとし)は札付きのプレイボーイで、後陽成天皇が
寵愛した女房たちと姦通していたが、他の若い公家たちをも牙医(歯科医) 兼安(かねやす)
兄妹を使って取り持たせた。
7月に天皇に発覚し、激怒した天皇は関係者全員を死罪にしようとした。
側近はあわてて京都所司代・板倉勝重に相談した。
そこで大御所・家康は京都所司代板倉勝重に命じて所司代による処分を実行させた。
左近衛少将・猪熊教利と牙医・兼安備後は死罪。公卿5人、女官5人は流罪となった。
家康はすでに戦国の世ではなく、規律と秩序が求められていることを公家たちに認識させるべく、
1613年(慶長18)6月16日には、「公家衆法度(くげしゅうはっと)」「勅許紫衣法度
(ちょっきょしえはっと)」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定めた。
公家と共に僧たちも風紀が乱れていたし、高位の僧位を天皇がじかに与えていたことにストップを
かけた。
位を与えるのはその礼金が天皇家の副収入であったのだ。
それでも不行儀な公家たちは相変わらずである。

そこで、2年後の慶長20年7月17日、二条城において家康(大御所)、将軍・秀忠、前
関白・二条昭実の3名の連署をもって「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」が
公布された。この法律は江戸幕府滅亡の時まで一度も改定されなかった。
17条からなる漢文で書かれた「掟」であり、公家たちの勝手な行動を禁じ、僧の身分に
ついても朝廷が任命する前に幕府の許可を得なければならないと決めている。
この第一条に、
『天子諸芸能ノ事、第一御学問也。(天皇はまず学問をしなさい)』
と書かれているが、武家政権が公式に天皇に命令したのはこれが初めてである。
江戸時代の天皇家の収入は、慶長6年に徳川家康が進献した1万15石4斗9升5合の領地を
本御料とし、2代将軍・秀忠が献上した1万石の新御料、のちに5代将軍・綱吉が献上した
1万石1斗あまりの地を増御料と称した。
総計3万130石余である。
皇室の御領は幕府の役人が管理し、領民から米穀を徴収して皇室に献納した。
公家たちは五摂家の近衛家が2860石、九条家3052石(幕末は2044石)、二条家
1078石、一条家2044石、鷹司家1500石である。
大臣家で400石〜500石で、下級の公家は30石3人扶持である。
ただし、役職につくと手当てが支給された。
身から出た錆とはいえ、儀式に出席し、家人を養うだけで精一杯である。
以後は公家たちの素行に京都所司代がしっかりと監視の目を光らせていた。
公家たちは幕府の許可なくしては勝手に旅行もできなくなった。
家康は天皇家を御所人形のように京都の一画に隔離したのである。

後陽成天皇は譲位し、秀吉に押されていた第1子の良仁(ながひと)親王を廃して仁和寺に入れ、
1611年(慶長16)3月、政仁親王に譲位して仙洞御所へ退く。
家康と懇意であった近衛前久の娘・中和門院・藤原前子から生れた第3子の政仁親王を皇位
につけた。これが後水尾(ごみずのお)天皇である。

大阪の陣が終って完全に徳川の時代になった1616年(元和2)4月17日午前10時、
家康は駿府城において死去した。享年74歳
翌年の元和3年8月26日には後陽成上皇も47歳で崩御している。

和子の入内は延び延びになっていたのであるが、家康が死ぬと秀忠は和子の入内を断ってきた。
かかあ天下の妻のお江の意思とみるべきであろうが、御所の風紀の乱れを嫌がって娘を安心
して嫁がせられない、というのが風聞として伝わってきた。
猪熊事件もさることながら、このとき、30歳の後水尾天皇にはすでにご愛妾の四辻与津子
がおり、皇子と皇女をもうけていたのが将軍家の耳に入ったのである。
これでは先帝と家康の約束をほごにすることになると朝廷方は慌てた。
幕府と敵対する形になるのがなんともまずい。
そこで藤堂高虎と近衛信伊(このえのぶただ)とが相談した結果、後水尾の側近、万里小路充房
と四辻与津子の2人の兄を流罪にし、3人の公家を出仕停止処分にした。
四辻与津子とその子2人は里に帰らせた。
こうして1610年(元和6)14歳になった和子は亡き家康の信頼厚い阿茶の局が付き添って、
京に上って女御として入内した。
この結婚は「70万石の嫁入り支度」とよばれるほどの豪勢なもので、京都の住民たちは
おおいに潤ったので大喝采を浴びた。
天皇に夏・冬の装束50領と銀一万両、生母の中和門院にも衣装50領と銀五百枚が献上された。
もちろん、公家衆や女房衆にも金品が贈られた。
和子のための女御御所を内裏の北に小堀遠州に命じて新築させ、華麗な花嫁道具や衣装は
多くが京都に注文されて京の商人は大もうけをした。
和子の化粧料は年間20万石にものぼり、家康が貯えていた金を使い果たす一因になったのである。
堅苦しい御所の暮らしのうさばらしに贅沢三昧の生活に加えて着物道楽であった。
ところが天皇はひそかに四辻与津子の産んだ男子・加茂宮を御所に住まわせていたのだ。
和子が入内して2年後、加茂宮は御所の池に落ちて死んだ。5歳であった。
翌年、和子は女子を出産した。女一宮興子(おきこ)内親王である。
その後、女二の宮、そして待望の男子・高仁(すけひと)親王を出産した。
ところがこの高仁親王は数え年3歳の夏に天皇とかき氷に蜜をかけて食べて病死した。
和子はその時すでに4人目の子を懐妊しており、幕府はあえて死因を詮索しなかった。
秋に皇子を出産したが、8日目に夭折した。
1629年(寛永6)11月8日、天皇は突然、譲位を表明し、女一宮が皇位を継ぐと発表した。
幕府へは「背中に腫れ物ができて灸治療したい」と申し出た。
天皇位のままでは玉体に傷をつけることになるので譲位するのだと押し切った。
天皇の狙いは譲位して女帝を立てておいて、上皇となって幕府の監視がゆるんだら、世継ぎの
皇子を女官に産ませようという魂胆である。
案の定上皇となってからは女官たちに次々と子供を産ませ、ついに皇子も誕生した。
和子は女子を産んだのちは上皇からの夜のお召しは途絶えた。

ここに女一宮は7歳で即位し、明正(めいしょう)天皇となり、叔父に当たる一条兼遐(かねとお)
が摂政に付いた。
770年に称徳天皇(孝謙天皇の重祚)がその座を降りてより853年ぶりの女帝が誕生したのである。
だが実際は後水尾上皇の院政である。
上皇は仙洞御所へ、和子は東福門院となって大宮御所に入った。
朝廷が皇統に徳川の血が入るのを嫌ったといわれているが、もしも家康が天皇家を簒奪する
決意であったら、徳川一門の姫を必ず天皇の正室に入れよと遺言を残すはずである。
3代将軍家光にその気配がまったく感じられないのは家康の「密命」がなかったのであろう。
家康の時代は平和な世をだれもが望んでいた。
そのためには朝廷が以前の歴史のように武家に勝手に「勅命」を出さないように、幕府が
監視する必要があるし、そのためには徳川の血が入った天皇がしばらくは必要だと判断した
のであろう。
断然天皇家を簒奪するつもりなら用心深い家康が何らかの策を講じていたはずなのだ。

またこの明正天皇についてもなにも独身を通さなくても良い。
かつての女帝たちには、推古、皇極、斉明、持統、元明、のように天皇や皇太子の妻であった
人もいる。
たまたま、元正、称徳の2人が未婚で通しただけである。
それを朝廷が「女帝は結婚してはならぬ」というのは筋が違う。
幕府が強引に明正天皇を結婚させることもできたのである。
もちろん相手は皇族でなければならないが、後水尾の兄の八条宮智仁親王は桂の宮を創設
したが、その子・智忠(としただ)が後を継いだ。
明正天皇より4歳年上で、お似合いの相手である。
1624年(寛永元)、4歳のときに後水尾天皇の猶子となり、寛永3年には親王宣下を受けている。
名目上は明正天皇の兄に当たるが、その後、寛永6年には父・智仁の死により桂宮を相続
して天皇家から独立している。
だから幕府が強引に押せば明正天皇も智忠親王と結婚できたはずである。
しかし、時の3代将軍・家光は後水尾上皇の院政を許し、朝廷方の「女帝は結婚できない」
という言い分を認めた。
家光の時代は完全に徳川幕府の天下であり、天皇家の反乱を心配する必要がなかったし、
乳母お福が和子の様子を見に朝廷に参内した時に無位無官であるから無礼であるとの叱責を受け、
金に物を言わせて「春日局」の称号と従三位を買い、形式を整えた。
これは実は後水尾天皇が病気を理由に譲位をほのめかしたことに対して、お福の偵察であったのだ。
お福は公家の名門三条西家の縁戚であったから三条西実条の妹分として拝謁を願い出たので、
それが無礼になるとは幕府は考えなかった。

また家光自身も1623年(元和9)7月に父・秀忠に次いで上洛し、7月27日に伏見城で
将軍宣下を受け、正二位内大臣となり、後水尾天皇や入内した妹和子とも対面している。
なにかにつけてしきたりにこだわる朝廷をうとましく、縁を持ちたいとは思わなかったのであろう。
また、家光の将軍宣下ののち、幕府はお礼として天皇家一万石の加増をしているが、とにかく
天皇家と付き合うと金がかかるのも痛いところである。
それでも家康を尊敬していた家光が『天皇家に徳川の血を入れよ』と厳命されていれば必
ず守ったはずであるが、家光が紹仁(つぐひと)親王(のちの後光明天皇)への女御を立てる
朝廷工作の形跡がない。
そして1644年(寛永21)秋、21歳の若さで後水尾上皇の命令で明正天皇は退位させられた。
新院御所が明正上皇のために建てられ、女一宮は少なくなった侍女を連れて移った。
天皇の位を退いてもなお父・後水尾は結婚を許さなかった。
新院には化粧料として幕府から5千石が与えられた。

皇位を継いだ後水尾上皇の子・11歳の紹仁(つぐひと)親王が践祚して後光明天皇となった
のだが、徳川家の姫を入内させることはなかった。
松平忠直の長女・亀子は二代将軍・秀忠の養女として高松宮妃に、次女の鶴子は家光の養女
として九条家の妃とした。
前田利常の娘・富姫を東福門院(和子)の養女にして八条宮智忠に娶わせた。
彼女たちは東福門院の姪に当たる。
つまり、天皇家の外堀を埋めようとしたのである。
一方将軍家光の正室には鷹司家の娘・孝子を娶わせた。
以後将軍家の正室には代々五摂家の姫を迎えたが嫡子は生れなかった。
「徳川将軍に公卿の血は入れない」
女たちの陰湿な戦いが大奥や宮廷で繰り広げられた結果である。

明正天皇が退位して118年後の1762年(宝暦12)7月27日、最後の女帝が出現する。
後桜町天皇である。時代は8代将軍・吉宗の子・家重の時代である。
後桜町天皇は桜町天皇の第二皇女で、22歳で即位したが、もともと異母弟の桃園天皇が
薨去したとき後を継ぐべき皇子・英仁(ひでひと)親王(のちの後桃園天皇)が5歳で幼少で
あり、強力な後ろ盾がなかったこともあって、中継ぎとして即位した。
このころは天皇家と摂関家が仲違いしており、中立の立場の成人女性で、知性もある後桜町
天皇が選ばれたのである。
在位9年の後、1770年(明和7)、予定通り後桃園天皇に譲位する。しかし、この御代は
長く続かず、9年後、皇子を残さぬまま後桃園天皇が崩御した。
後桜町上皇は廷臣の長老と相談の上、閑院宮から9歳の師仁(もろひと)王(のちの光格天皇)を
後継に決めた。
江戸時代には天皇家も後継者不足であったので、従来の3宮家に加えて新井白石の提案で
1710年(宝永7)8月に新宮・閑院宮の創設を行った。
このころは天皇家の男子が少なく、皇統が絶える危険があったのだ。
5代将軍・綱吉は天皇家を崇拝して所領を一万石加増し、公家達の所領についても倍増している。
また大和国と河内国一帯の御陵を調査のうえに修復が必要なものに巨額な資金をかけて計
66陵を修復させた。

これまでは宮家は、伏見宮、と秀吉が創設した桂宮があった。
2代将軍秀忠は和子の入内と共に三女・勝姫の娘・亀姫を養女にし、寧子と名を変えて後陽成
天皇の第7皇子・好仁(よしひと)親王の妃とした。そのためあらたに高松宮を創設した。
和子に男子が誕生しなかった場合の予備としての政略結婚である。
ところが二人の間には嫡子ができず、明子女王が生れただけである。
せっかく新設した高松宮は甥にあたる後水尾天皇の第6皇子・良仁(ながひと)親王が継いで
第2代となり、明子女王と婚姻する。やがて良仁親王が後西天皇として即位することになり、
後西天皇の第二皇子・幸仁(ゆきひと)親王が後を継いだ。そして宮号を有栖川宮に変える。

若き頃から儒学を好んだ綱吉は多くの学者を重用したが、新井白石の言を取り入れて
新に
閑院宮を創設した。
東山天皇の実子で第6皇子の直仁(なおひと)親王が初代である。所領は千石。
師仁王は第二代典仁(すけひと)親王の第6王子である。
光格天皇は傍系であるため後桃園天皇の皇女・欣子(よしこ)内親王を中宮に迎えた。
これは欣子内親王からみれば臣下に嫁ぐことになる。
明正女帝も同じケースであるのに結婚が許されなかった。
徳川の血が濃いとされたからである。

光格天皇は補佐するべき九条関白が病気がちであったから幼いときから政務に慣れ、
自分の
意見を持つようになっていく。
特に「天皇の正しいあり方」をまともに考えた人で、人々に尊敬され、伝統儀式を復活させ、
世の人々に天皇を必要とするよう努力したのである。
後桜町上皇はなにかと相談相手になり、また学問も教えた。

1782年(天明2)より天明の大飢饉がはじまった。
天明3年には岩木山・浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。さらに日射量低下による
冷害となり農作物に壊滅的な被害が生じ、東北・関東は深刻な飢饉状態となった。
当時の幕府は、田沼意次時代で重商主義政策が取られており、米価の上昇に歯止めが掛からず、
飢饉は全国に波及した。
餓死者は50万人を越えていた。そして故郷を捨てた農民が都市に流入して江戸・大阪で
米屋の打ち壊しがおこるが幕府の対策は功を奏さない。
この責任を取って田沼意次は失脚し、天明6年から松平定信が老中首座となり、田沼色を
一掃して重農主義を基調とした「寛政の改革」に取り組むのである。

天明7年ごろから「御所千度参り」が始まった。
誰が言い出したのかわからないが、御所にお賽銭を投げ入れて神社にもうでるごとくに
民衆が
御所を拝んだのである。
初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月18日頃には7万人に達したという。
京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来るのである。
御所近辺は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のりんごが配られた。他にも、有栖川宮家
や一条家などでは茶が、九条家や鷹司家からは握り飯が配られた。
この事態を憂慮した光格天皇が京都所司代を通じて幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。
これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為である。
そのため、天皇の叔父でもある関白・鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。
これに対して幕府は米1500俵を京都市民への放出を決定、法度違反に関しては事態の
深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
それはこの年に徳川家斉が将軍に就任したので、幕府がご祝儀として応じたのであるが、
天皇が幕府に命令して事実として米が出たのであるから、民衆は「天皇」の存在に驚いた。
そして天皇はありがたいものだと思いはじめたのである。

天明8年には御所が炎上した。
光格天皇は天台系修験道の総本山である聖護院を仮皇居とし、3年間ここで政務を行った。
後桜町上皇は青蓮院に移られ、仮上皇御所とされた。
御所
の再建を任された松平定信は上洛して光格天皇に拝謁し、天盃を賜い、後桜町上皇にも会ってくれぐれも古式に近い御所の再建を頼まれる。
倹約を旨とする定信ではあるが、皇室に対しては朱子学の影響で、幕府は朝廷から委託されて
政権を執っているのだという認識が武士の間に広まっていた。
定信も例外ではない。
したがって天皇・上皇から直に頼まれて感激し、2年間で光格天皇の意見を取り入れた御所を再建する。
総費用は10万両。それを有力大名数人と幕府で分担するのである。
しかし、再建係を命じられた直接の大名こそ大迷惑な話である。
参勤交代による国元と江戸との2元生活は多額の出費を要し、各藩共に借金財政で悪戦苦闘していた。
どの藩も借りる商人もいなくなり、財政改革は死活問題であったのだ。
そこへ一万両も負担させられてはたまらない。
結局庶民への重税というしわ寄せでまかなわれることになる。

光格帝は父、典仁親王に「太上天皇 」の尊号付与を 議奏の中山愛親と武家伝奏の正親町
公明らを通して松平定信に申し入れた。
父は親王のため摂関家より格下扱いなのが許せないのである。
しかしこれは東照神君家康が決めた幕府の「禁中並公家諸法度」に背くものであるから松平
定信は却下した。
諦めきれない光格天皇は側近の公卿たちと謀って勝手に父を上皇に決定した。
既成事実を作ってしまえば御所再建の折に見せた皇室尊敬の松平定信なら認めてくれるだろう、
と光格天皇の甘い認識であった。
なにしろ前の老中・田沼意次は朝廷からの要求はすべてうやむやにしてまともに取り上げては
くれなかったから、定信におおいに期待した。
松平定信はもともと8代将軍吉宗の次男・宗武の子であり、自分が将軍になっていてもおかしくない
との自負がある。
このプライドに光格天皇の独断専行が傷をつけた。
定信は高圧的になり、高位の公卿といえども遠島処分も辞さない構えである。
将軍→老中→京都所司代→禁裏付→武家伝奏→関白→天皇
当時の幕府と朝廷との正式なルートのどこが勝手な判断をしたのか、詳細に検討した。
驚いた朝廷方は光格天皇の叔父である前関白、鷹司輔平が乗り出し、光格天皇に諫言し、
定信とも交渉し、朝幕間の争いを回避する。
光格天皇は後桜町上皇による説得をも受け、実父への尊号付与を断念した。

「光格天皇」との称号は、崩御後に贈られたものである。これは当時の人々を驚かせた。
江戸時代、天皇のことは通常「主上」、「禁裏」などと称し、死後は「院」をつけていた。
「天皇」号の復活は、57代約900年ぶりのことであった。

勤皇思想にとりつかれていた徳川御三家の一つである水戸家の水戸光圀が藩主を退いてのち、
『大日本史』を編纂していたが、家臣・佐々宗淳(さっさむねあつ)を後醍醐天皇の親政に
尽くした楠木正成を顕彰すべく兵庫の死地に派遣した。
佐々宗淳は京都の妙心寺の僧で大論争のすえ寺を追われたのを還俗させ家臣としたのだが、
仏教以外にも見識が高いのをかって、楠木正成の顕彰碑の建設を任せた。
水戸家は見栄を張って公称35万石としたが実質は25万石で、御三家のうちでは一番貧しい。
しかし光圀は100人に及ぶ学者を高給で雇い、『大日本史』の編纂事業に惜しみもなく金を
つぎ込んだため、高い年貢が払えず、農民一揆や逃散がしばしば起こった。
そして元禄6年10月、ついに湊川に碑は完成する。
碑の表には「嗚呼忠臣楠子之墓」と光圀の文字で彫られ、裏には当時、明が滅んで、日本に
亡命して水戸藩が雇っていた儒学者・朱舜水(しゅ しゅんすい)の文を彫った。
こうして水戸藩はのちの勤皇思想に固まった「水戸学」を形成していく。
西国の大名たちは参勤交代の折にはこの湊川を通るので、自然にお参りする者も出てくる。
そして「天下の副将軍」が皇室を尊崇していることに感化されていった。
幕末「勤皇の志士」と自称する者たちが西国の諸藩から出た一因でもあるのだ。

一説には家康が将来の天皇家に対して徳川家のうちの水戸家を味方につけておいて、いざと
いうときにも徳川家が朝敵にならずに生き延びることができるようにしたという。
確かに明治維新でも徳川将軍は許されて、のちに華族に列せられている。
しかし、この時代の天皇家は北朝である。
わざわざ南朝の後醍醐天皇を賞賛するのは胡散霧消した混乱の種を探し出すような危うさ
を感じるのである。
しかも後醍醐天皇の恣意的な、政治とも呼べない身内贔屓を「親政」というのは歴史の改竄である。
光圀死後も『大日本史』編纂事業は多くの民の汗を吸い込んで続けられた。
家康がいかに策略家といえども表立った反幕府派を御三家に育てるとは私は思えない。

さて、光格天皇は70歳と長命であったので、断絶した皇室の儀式の復活に情熱を注いだ。
特に石清水(いわしみず)八幡宮と加茂神社の臨時祭が応仁の乱以後中断していることを憂い、
再興を幕府に何度も懇願した。
石清水八幡宮は山城国(京都府)綴喜郡男山の山上にあり、八幡大神・大帯姫命(おおおびひめの
みこと)・比め大神を祀っている
例祭は八月十五日の石清水放生会(ほうじょうえ)だが、それに対しての臨時の祭という意味で、
三月の中の午の日に行なわれる。
賀茂臨時祭を北祭と呼ぶのに対して南祭と呼ばれた。
二月中に、 蔵人・使(し)・舞人・ 陪従等と楽所の場所を選定し、 歌舞の練習を行う。
祭の当日には清涼殿の額間(がくのま)に、天皇の座を南向きにしつらえ、天皇は 位袍・
 束帯で出御する。さらに衣服を改めて一同に宴を賜い、 三献もしくは五献の儀がある。
つまり公家たちの宴会である。
一行に 挿頭を賜り、使には藤花・舞人には桜花・ 陪従には山吹という例だった。
式が終ると使以下は装束を改め、列を正して八幡宮に向かい一泊して帰京するが、これに
対して饗宴を催してその労をねぎらうことがあるこれを還立(かえりだち)という。
伊勢神宮に次ぐ国家の宗廟とされ、天皇のたびたびの行幸(ぎょうこう)があった。
八幡神が源氏の氏神であるところから多くの武将も参宮している。室町時代には足利将軍
がしばしば参宮し、織田信長・徳川家康も参詣した。

『枕草子』には「なほ世にめでたきもの」に、石清水・賀茂の臨時祭と試楽・還立の事が
書かれている。
「賀茂の臨時の祭は、還り立ちの御神楽なとにこそ慰めらるれ」
「八幡の臨時の祭の名残こそ、いとつれづれなれ。などて還りて又舞ふわざをせざりけむ。
さらばをかしからまし」

葵祭は、宮中儀・路頭儀・社頭儀の3つに分かれているが、葵の花を頭上の冠に飾って下鴨
神社から上賀茂神社へ公家たちが着飾って歩く路頭儀が昔から人気があった。
『源氏物語』の「葵」ではこの葵祭の路頭儀(行列)を見物に出かけた六条御息所が光源氏
の正妻・葵上と混雑が原因で牛車をぶつけてしまい、喧嘩となる場面が描かれている。

上賀茂神社と下鴨神社は、もともとはこの地の豪族・賀茂氏を祭る一つの神社であったが、
奈良時代に分立した。
桓武天皇が平安京に遷都すると、加茂神社は皇城鎮護の神を祀り、国家の重大事には、かならず
皇室から奉幣、御祈願の勅使が派遣される。
賀茂祭は四月中の申酉日を用いた。勅使が弊及び走馬を奉り、斎院が下上両社に参じて祭り
に仕え奉った。
810年(弘仁元)嵯峨天皇は伊勢の神宮の斎宮の制に準じて、賀茂の神に御杖代(みつえしろ)
として皇女を斎院にし、この制度を設け、祭にも奉仕させた。 

この葵祭が恒祭であり、これに対する冬の祭りとして臨時祭があって、11月下の酉日に
上下両社で挙行した。
葵祭は1694年(元禄7)東山天皇が幕府に願い出て認められて再興していた。
光格天皇はこの2社の臨時祭の復興を外国船の退散祈願と合わせたのである。
幕府は費用がかかるので渋ったが、鎖国政策を続ける幕府の根底を揺るがす外国の圧力に
困りきっていた時であったため、神にも祈りたい心境であったから許可した。

まことにたわいのない神社の祭りの復活ではないか、と俗人は思うのだが、そうではない。
なにしろ400年間途絶えていた祭りを復活させることは、京都の人々に「天皇が健在である」
ことのアピールになる。
どちらの臨時祭にも勅使が派遣される様子が祭りの中で眼に見えることは重要である。
祭りは毎年行われるから徐々に協力する地元の勢力が増す。
京都に住む人々でも天皇は「御所人形」のようなもので、儀式の折の飾り物くらいにしか
認識していない時代である。
日本中に「天皇」の存在そのものを知らない人々が多かったのである。
光格天皇の作戦は長い年月をかけてじわじわと「天皇」の存在を知らしめる行為である。

平和の夢を見ていた極東の小島にも近代文明の嵐が吹いてきた。
1792年(寛政4)ロシア帝国は日本人漂流民・大黒屋光太夫の一行を返還する目的でアダム・
ラクスマンが根室を訪れた。
通商を求めたが、松平定信から長崎に回るように指示され、結局松前藩に出向いただけで
帰国した。
1804年(文化元)ロシアは事前に周到な準備をした正式な通商使節レザノフを長崎の出島
に派遣してきた。しかし責任者の松平定信はすでに失脚していた。
そこで半年待たされた上、長崎奉行に通商の拒絶を通告され、カムチャッカに去る。
これに対してロシア艦隊が樺太・択捉・利尻の日本側施設や船を攻撃する。
この報告を幕府は朝廷に行った。今にもロシアが日本に攻めてくるといったような、流言蜚語が
飛び交っていてそれを否定するためであったがこれを前例にして、朝廷は対外情勢の報告
を幕府に求めるようになり、やがて外交に口を出すことになる。

後を継いだ仁孝(にんこう)天皇は父・光格上皇の意をうけて朝儀復興に尽力した。
皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、武家伝奏・徳大寺実堅に幕府との折衝
を命じた。幕府の了承を得てその構想が現実のものとなった矢先、崩御した。
享年47歳であった。
崩御の翌年にあたる1847年(弘化4)天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所
として学習所が設立された。現在の学習院の前身である。

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「おんな独りアフガニスタン決死行」/岡崎溪子 出版:アルファポリス
http://item.rakuten.co.jp/book/1557590/
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