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重慶のサッカー事件はなぜ起きたのか?日本と中国の理解のための日中戦争の問題点を検証する

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2007/06/22

日中戦争の問題点を検証する   第104話


             日中戦争の問題点を検証する 
 
                   第104話 天皇の戦争責任  その2 帝王の時代


 天皇の権力強化を目指した天武天皇の目指す国家像は律令制の制定による法治国家である。
その根底には税の徴収と兵隊を組織するための戸籍が必要で、大化の改新の折に作られた
庚午年籍(こうごねんじゃく)の徹底を指示した。

租税の徴収基盤となる『班田収授法』は、簡単に言うと、「日本の土地はすべて天皇のもの。
それを国民にタダで貸すから収穫物の一部を税金として払いなさい。また労働の無償奉仕と
兵役もあります」ということだ。これは社会主義経済である。
班田収授は6年に1度行われた。同様に戸籍も同様に6年に1度作成されており、戸籍作成に
併せて班田収授も実施されていた。
戸籍において、新たに6歳になると受田資格を得て、田が班給されるとともに、死亡者の田は
国に返還された。 
戸籍作成の翌年から班田収授の手続きが開始する。戸籍作成翌年の10月1日〜11月1日
までの間に、都または国府の官司が帳簿を作成し、前回との異動状況を校勘する。そして、
翌1月30日までに太政官へ申請し、2月30日までに許可され、班田収授が実施された。 

律令において、口分田(くぶんでん)・位田・職田・功田・賜田が班田収授の対象とされ、
例外は寺田・神田のみとされた。
一般人が耕す田は口分田である。支給面積は、良民男子は2段、良民女子は 1段120歩である。
官戸・公奴婢たちにも良民男女と同じく口分田の支給があり、私奴婢までも良民男女の3分の1の
支給田があった。
ということは多くの奴婢を抱える豪族はそれだけ大規模農業を営むことができるのだ。
そもそも班田収受は、王族や豪族たちによる土地・人民の所有を廃止する代替案である。
それまで国内の土地・人民は天皇・王族・豪族が各自で私的に所有・支配しており、天皇・王族の
所有地は屯倉(みやけ)、支配民は名代(なしろ)・子代(こしろ)と呼ばれ、国造(くにのみやつこ)に
属していた地方の民を割取して、その労働・生産力を皇族の諸費用に充てていた。
また豪族の所有地は田荘(たどころ)、支配民は部曲(かきべ)と呼ばれていた。
班田収受はこのような土地・人民に対する私的な所有・支配を排除し、天皇による統一的な
支配体制への転換を図るはずであった。
しかし、実際には「班田収授の法」が開始されても、天皇の経済基盤となる屯倉も全国に
置かれていたし、豪族や伴造(とものみやつこ)、国造が所有する部曲や田荘が規模を縮小
したものの領有権は認められていた。
こうした「例外」を認めると社会主義経済はたちどころに崩壊する。
特に寺社領を無税としたことからのちに脱税のために寄進をする者が増え、「荘園」を発生
させる結果となった。
たとえば、茨城県の香島(かしま)神宮(現在の鹿島神宮)は天智天皇の時代に建立された。
神社の神戸(かんべ)は8戸与えられ、その租税で神社の経済を支えていた。
ここの氏族は中臣氏である。
大化の改新の折の中臣鎌足の功績を評価して、孝徳天皇の時代に50戸が加えられ、天武天皇も
9戸を追加して与えたので67戸となった。
当時の一戸は6人として計算すると400段となり、3%の国税がとれるものを失う。
律令で口分田制度を守ろうとした天武天皇みずからが「無税」の土地と住民を寄進したのである。
これは香島神宮が軍神である『武甕槌大神(たけみかずちのおおかみ)』を祭神とし、関東は
蝦夷に対する前線基地としての役目があったからである。
『経津主神(ふつぬしのかみ)』を祀る千葉の香取神宮も蝦夷に対する軍事基地であった。

743年(天平15)仏教に心酔した聖武天皇は東大寺大仏造立の詔(みことのり)を発した。
「国中の銅を使い果たしても大仏を建立しよう!お金を出せる人や労役に付ける人、一人一人が
大仏建立になんらかの奉仕をすることで、仏の霊力に守られようではないか」と国民に呼びかけた。
当時の日本の総人口が約560万人、工事開始から12年後に大仏は完成するのだが、これに
携わった人数は260万人にも上る。
乳幼児や老人、病人を除いたほとんどの日本人がタダ働きのために駆り出されたことになる。
農地は荒れ、庶民は食うや食わずの貧しい生活を送る羽目になった。
労働力不足の家庭は土地を捨てて逃亡し、流浪の民となって都市に流れ込む。
それでも日本全国に国分寺と国分尼寺を建立するというのである。
それに加えて天然痘が新羅より日本に持ち込まれ、あれよあれよという間に全国に広まってゆく。
ちまたには怨嗟の声が広がった。
聖武天皇はひたすら「疫病退散」の祈祷を宮中で600人の僧侶と共におこなったが、
効き目は
なかった。
朝廷を牛耳っていた藤原四兄弟も相次いで死んでゆき、有能な役人も病気に倒れた。
聖武天皇はそんなことはお構いなしで、大仏建立に功績のあった人々には大盤振る舞いで
官位を与える。
当時は官位には土地からの収穫物(おもに米)がつくから、口分田は不足する。
百姓たちは自分の農地ではないので土地に愛着もない。
国司や官吏の勝手で、はるか離れた所が口分田に割り当てられたりすると長年なじんできた
地域から引越しをさせられてしまう。
743年(天平15)「墾田永代私有令」を出すと、事実上口分田制度は崩壊する。
大きな利益を得たのは寺社と貴族たちである。
当時は日本を62カ国に分けていたのだが、それぞれの国に二寺ずつ建立するとなると
大出費である。
東大寺は大和国の国分寺であるとともに、日本の総国分寺と位置づけた。
ようやく大仏も完成間近かになったころ聖武天皇は娘の阿倍内親王に天皇の位を譲り(孝謙天皇)、
自分は「太上天皇」と称し、さっさと出家してしまった。
聖武天皇は恭仁京(くにきょう・現在の京都府木津川市)や信楽(しがらき・紫香楽)宮、
難波宮、和泉宮、などと渡り歩き、信楽宮が火災にあったので仕方なく平城京に舞い戻ってきたのである。
聖武天皇の悩みは大仏を覆う金が不足していることである。
そんな折、749年(天平21年・天平感宝元年・天平勝宝元年)4月23日、陸奥守(みちのくのかみ)
百済王(くだらのこにきし)敬福(きょうふく)が黄金九百両を天皇に献上したのである。
百済王敬福(697年〜766年)は日本に亡命した百済最後の王である義慈王直系の善光を
始祖とする氏族。持統朝に王姓を賜ったとされる。
当初より主たる者に従五位下以上が与えられ、中下級官人にとどまる者が多い帰化人のうち別格の地位にあった。
黄金は日本で産出しないものと諦めていただけに聖武天皇の喜びは大きく、陸奥国小田郡
(現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯)を管轄する国守である百済王敬福は従三位へ七階級特進し、
宮内卿河内守に任命され、金を貢献した地方官人らもすべて位階が進められた。年号は天平から
天平感宝と改められ、さらに天平勝宝と改められている。

7世紀頃には、蝦夷(えみし)は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の
大部分に広く住み、大和朝廷の支配下にはなかった。
新しい領土を獲得するため、蝦夷への侵攻が「討伐」という名で断続的におこなわれるのであるが、
最初の蝦夷と大和朝廷との大規模な交渉は658年(斉明4)から3年間、越(こし・現在の
福井県と新潟県をひっくるめた)国の国司である阿倍比羅夫が百八十艘の大船団を率いて日本海を
北上している。
658年4月、根拠地の福井県の敦賀市を出発して、まず現在の秋田市に向かう。
港で大船団を見せて土地の蝦夷たちの度肝を抜き、次は高価な物品を与えてご機嫌を取る。
なにしろ内陸の地理がさっぱりわからないのだから仕方がない。
恩荷(おが)という族長に下位の官位を与えて、郡司にしてやった。
さらに北上して能代と津軽の族長も郡司に任命していい気持ちにさせる。
北海道にも足を伸ばして渡島(わたりしま)の蝦夷を集めてもてなしをした。
おみやげに生きたヒグマ2頭とヒグマの毛皮70枚を貰った。
蝦夷は農業する者、狩猟生活の者、漁業する者、さまざまであるが、横のつながりがない。
つまり、強力な支配者がいないのである。
阿倍比羅夫は小グループを切り崩していく方法として交易を利用した。
大和朝廷で使用されている絹や酒は極上であったから蝦夷には垂涎の品である。
さらに比羅夫は彼らを船に乗せて実際の大和朝廷を見せてやったのである。
帰順した200人の蝦夷を船に乗せて当時の飛鳥岡本の宮に連れ帰り、大和朝廷の威厳を示し、
約束どおり官位を授けた。

斉明6年3月には軍船二百艘を率いて「粛慎(しゅくしん・日本では、みしはせと呼んだ)」
討伐に出かけて捕虜49人を連れ帰ったと、「日本書紀」に記事がある。
ここでいう「粛慎」とは紀元前ころから満洲や沿海州を中心に住んでいたツングース系の騎馬民族で、
698年にはその種族の流れを汲む「靺鞨(まっかつ)」族から大祚栄(だいそえい)が出て、「渤海国」を建国している。
したがって阿倍比羅夫が「粛慎」と戦ったというのは、もしも彼らが北海道のどこかに住んで
いたとしたら、古代から北の海路があったのだ。
阿倍比羅夫は基本的に蝦夷とは戦わずに鎮撫するつもりでいたから、「粛慎」側が戦いを
挑んできたと思われる。
言葉も通じないし、自由気ままに暮らしている「粛慎」にしてみたら比羅夫の大船団は、
現代の「バルチック艦隊」に見えたのであろう。自分たちが征服される対象であることに
気づいて、プライドが許さなかったと思う。
馬は古墳時代の中ごろに朝鮮半島から九州に船で持ち込まれたのであるが、北の海路からも
東北や北海道に騎馬民族の一団と共に輸送されてきたのではないかと思う。
彼らに武力の自信がなければ安易に戦闘行為には踏み切らない。

聖武天皇のころの東北の軍事拠点は宮城県の多賀城である。
『多賀城碑』には726年(天平寶字6年)12月1日付けの記事がある。
「多賀城は京(平城京)を去ること1500里。蝦夷国の国界(くにざかい)迄120里。
常陸(ひたち)国(現・茨城県)の国界迄412里。下野(しもつけ)国(現・栃木県及び福島県
白河市周辺)の国界迄274里。靺鞨(まっかつ)国の国界迄3000里なり。」 
この城は神亀元年歳次甲子、按察使(あぜち)兼鎮守将軍従四位上勲四等 大野朝臣東人(おおの
あそんあずまんど)の置く所なり。
天平寶字(てんぴょうほうじ)六年歳次壬寅 参議東海東山節度使 従四位上仁部卿兼按察使
鎮守将軍 藤原恵美朝臣朝 (ふじわらのえみのあそんあさかり)、修造する也。
天平寶字六年十二月一日」

当時の大和朝廷の北の国境を示すのに、わざわざ満洲の靺鞨(まっかつ)国を出してきたことは、その祖先の「粛慎」が北海道に住んでいることへの警戒心を感じる。
	
721年(養老5年)には陸奥国按察使は出羽国も管轄するようになった。
神亀元年(724)に大野朝臣東人がこの地の討伐が進んで、のちに呼び名が多賀城に変えられたので、
この時の建造は正式には「多賀柵」である。
蝦夷国境を、この多賀城から120里北方の桃生(ものう)郡の辺りとする。
按察使(あぜち)は、奈良時代に諸国の行政を監察した官で、721年(養老5)陸奥国按察使は出羽国も管轄するようになった。
 
727年(神亀4)10月4日、渤海国王の使節団が初めて日本にやってきた。
彼らは鹽州(えんしゅう・現在はロシア領)の港から船出し、一路東の越前地方を目指した。
ところが海流に流され、出羽(秋田県北部から青森県にかけて)に漂着してしまった。
当時の出羽は蝦夷の地で、大和の国の版図には入っていない。
蝦夷たちは24名のうち、16名を殺害した。蝦夷にすれば敵のお客であるから敵なのだ。
生き残った8名は、陸路を4ヶ月かけて命からがらの旅をして国書とお土産の貂(てん)の皮
300枚を平城京に持参した。
朝廷は彼らを大歓迎し、帰りは翌年船を新造して日本からも62名の使節団を編成して送っていった。
渤海国は唐と新羅の圧力に対抗して日本と軍事同盟を結びたいと思っていたのだ。
しかし異国の地でいきなり外交使節を無視して殺害するような蛮族がいることに驚いた
であろう。
それで次回の天平11年は人数を増やしたのだが、またしても出羽に着いてしまった。
その次の天平18年も出羽着。
2回とも殺害されずにすんだが、冷や汗ものである。
そこで出発港を南の新昌(現在の北朝鮮咸鏡南道)に移した。
752年にやっと佐渡に着いてからは能登半島や越前海岸にちゃんと着いている。
当時の造船技術や航海術では出発港から到着したい港へ、ポイントでは結べない。
なるべくその近所に漂着するように努力して、あとは神様の思し召し次第である。

大和朝廷にすれば大事な外国のお客を殺害されては黙っているわけにもいかない。
『蝦夷討伐すべし!』の機運が高まるのも当然である。

「鎮守府」は、蝦夷を鎮めるために陸奥国に置かれた軍政機関で、「鎮守(府)将軍」はその長官。
鎮守将軍は、按察使および陸奥守兼任が多かった。
 以後大和朝廷の蝦夷攻略は断続的におこなわれ、737年(天平9)の大野東人が陸奥国加美郡
から出羽国へ180里の大遠征をおこなっている。
海岸線を北上した比羅夫と違って内陸部を行きながら蝦夷を鎮撫して行ったのである。
「大野朝臣東人」は、元明、元正、聖武の三朝に仕えた武将であり、この功により、従四位上
勲四等と昇進した。
 
当時の東北地方は人口が少なかったので、東国から屯田兵として富裕農民が移住した。
蝦夷たちは彼らから進んだ農業のノウハウを学んで狩猟から農業に生活を切り替える
ものが多く出た。
土地の部族長には名前も与えた。大抵は帰順した蝦夷の族長の大伴氏か、安倍氏である。
大和朝廷は口分田を与えて税収のあがりを期待したが、現地の国司は慣れない『新国民』のために
租税の徴収を延期するよう中央に求めた。
人心を掴むまでは賢明な措置である。
しかし東北にはお宝があった。それは金と馬である。
現在でも東北のあちこちに隠し金山の話があるが、実際金鉱山がこの頃には多くあった。

蝦夷と本格的に戦争となったのは桓武天皇の時である。
光仁天皇の皇太子になった時が37歳、父帝はすでに65歳であったから、律令の長所も
短所も熟知していた。
781年(宝亀12)皇位をついで即位すると、やる気満々、新政策を打ち出した。
その根本の方針は仏教を政権から切り離すことである。
そこであらたな造寺と荘園の寺院への寄進を禁止した。
寺院に寄進された荘園はふくれあがり、南都六宗は国家の政治にまで口出す始末である。
桓武天皇の親政に対する寺院側の抵抗は強く、ならば思い切って遷都することにした。
そこで自分が生れた大枝(現在の京都市西京区・大原野神社 (おおはらのじんじゃ))に近いところで、
交通の便のよいところを物色して、長岡(現在の向日市)に決めた。
自分を推す帰化人の秦氏の勢力地であったから、新都の建設資金の調達に心配がない。
ところが30万人の役夫を動員して遷都の造営をしているさなか、その責任者である藤原
種継が暗殺された。犯人は大伴氏で、自白によると主犯は自分の弟の早良(さわら)親王であるという。
桓武天皇は早良親王を淡路島に流罪としたが、早良親王は無実を訴えて絶食死した。
その3年後から次々と近親者が急逝し、息子の新皇太子もノイローゼになってしまう。
おまけに集中豪雨で淀川が氾濫し、新都長岡も被害が大きい。
すでに10年も経っているというのに建設は思うようにはかどらないのである。
さすがの桓武天皇も『長岡京は呪われている…』と、長岡京を捨てた。
そこであらたに長岡の北の地に新都を造営することに決めた。これが平安京である。
建築に必要な材木は丹波国府(現在の亀岡)の御料林から保津川を筏に組んで下った。

桓武天皇は意志堅固で行動力もあり、武断派である。
蝦夷に対してもこれまでのなまぬるい懐柔策を止めて戦いで一気に勝負に出た。
蝦夷にもようやく組織ができ、その長が阿弖流為(アテルイ)である。
もともと狩猟を常とする蝦夷は強い。軍団が組織されると一騎当千の活躍をする。
789年(延暦8) 紀古佐美(きのこさみ)を征東大使に任じ、5万の大軍を動員し、アテルイの
軍を攻めたが、政府軍は惨敗してしまった。
延暦13年には大伴弟麻呂を征東大使として前回に倍する10万の兵を送るが、戦果は、
首級457、捕虜150人、獲得した馬85頭、焼いた部落75ヶ所のみである。
依然としてアテルイに率いられた蝦夷軍は健在である。
そこで桓武天皇はそれまでの蝦夷との協調派の軍人たちを総入れ替えして、延暦16年
1月、
征夷大将軍に坂上田村麻呂を任命した。
田村麻呂は武人の家柄に育った軍略の専門家である。
田村麻呂は5年間の十分な準備期間を設けて蝦夷の地理を研究し、前線基地として胆沢(いさわ・
現在の岩手県水沢)に城柵を作った。
『日本紀略』によると、東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、
下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4000人を胆沢城に配する勅が出された。
ついに延暦20年、田村麻呂とアテルイは激突した。アテルイは住民の戦争での悲惨な情況を
見るにしのびず、降伏することを決め、4月15日に、田村麻呂はアテルイの降伏を受け入れた。

田村麻呂は平安京に敵将アテルイと母礼(モレ)を連れ帰り、助名嘆願をしたが、朝廷は聞き入れず、
2人は河内国杜山(もりやま・現在の枚方市)で斬首された。
男同士の約束をたがえる結果になった田村麻呂も無念である。
連行された500人の蝦夷の捕虜たちは大宰府や中国地方(おもに広島・岡山)に口分田を
与えて住まわせた。
特に大宰府は新羅の海賊が頻繁に日本の近海を荒らすので、警察官の役目を与えて取締りの
任に当たらせた。
翌803年、北上川と雫石川の合流点に志波城柵を建設した。

平安京の建設と軍事により疲弊した国民の姿を見て、臣下の進言も聞き入れて、桓武天皇は
以後の蝦夷討伐を止めた。
嵯峨天皇の弘仁2年、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が陸奥出羽按察使征夷将軍に任ぜられ、
貳薩体(にきて・岩手県北部)と幣伊(へい・岩手県東部)を討伐すべく1万人の現地兵を招集した。
しかし、蝦夷の団結力は強く、やっとのことで2村を平定した。
綿麻呂は雫石川氾濫による水害のため志波城を10キロ南下させ、修復して徳丹城(とくたんじょう・
岩手県矢巾町)と名づけた。
774年(宝亀5)7月から811年(弘仁2)までの38年間の蝦夷との戦いはやっと終わった。
結局、北上川以北の蝦夷は大和朝廷に降らなかったのである。
とくに津軽は狩猟の民が多く、強固な蝦夷として以後も恐れられた。
東北が政権の中に組み入れられるのは、1056年の「前九年の役」と1083年に「後三年の役」
という蝦夷による朝廷への反乱がおこるが、結局は政府軍に平定された。
その後を取り仕切った奥州藤原氏は一定の租税を朝廷に納めて奥州を支配した。
青森県の平定は実に源頼朝の時代を待たねばならない。

もちろんだからといって蝦夷と中央が没交渉であったのではない。
武士の台頭で馬の需要は急増し、東北地方は脚光を浴びていたのだ。
朝鮮半島から船に乗せられて来た最初の馬は、馬飼いとともに河内におろされた。
当時の馬は蒙古系の小さな馬で、毛足が長く、体高が120cmほどである。
それでも馬は情報・通信・運輸で抜群の能力を発揮する。
蝦夷との戦いで東北の力強い馬を見た東国の武士たちは競って東北馬を入手した。

金は、749年、陸奥守在任時に陸奥国の小田郡から黄金が発見された。
752年(天平勝宝4)4月9日、金メッキを全身にほどこされた大仏はやっとできあがり、
開眼供養がおこなわれた。
黄金に輝くまぶしい巨大な盧舎那大仏像を見た人々は感嘆の声を上げたが、国家財政の浪費と
酷税に泣く庶民は土地を捨て、流民となり、奴婢に落ちた。

天武天皇が目指した法治国家を支える「班田収授法」は聖武天皇が大仏を建立するため、
多額の資金援助をした者に、「位田(いでん)、賜田(しょうでん)」を与えたし、農民たちが
土地を捨てて逃げて荒地が増えたことで、743年には、耕されない荒れ地が多いため新たに
「墾田永年私財法」を制定した。
つまり新に開墾した者にはその土地の私有を認めるというのである。
日々の暮らしにやっとの農民たちには開墾する手間もヒマもない。
有力な氏族たちが人夫を雇って開墾したので、公民制は一挙に崩れてゆく。
寺社も彼ら豪族たちから土地を寄進され、以後「荘園」となって土地の私有化に拍車がかかった。
おまけに「不輸(ふゆ)」の特権を得て、税金を免除させたのでますます貴族や豪族に富が集中した。
天皇の権威が脅かされる事態を生んだのがこの聖武天皇の大仏建立であった。

さて天皇の後宮は、大宝律令において「後宮官員令」が定められて後宮十二司が配置され、
宮中に七殿五舎が設置された。
皇后1人、妃(ひ・きさき)2名以内、資格は4品以上の内親王。夫人(ふじん・おおとじ)
3名以内、資格は3位以上の公卿の娘。嬪(ひん・みめ)4名以内、資格は5位以上の貴族の娘。
10名が定員というわけだが、天皇の中には艶福家もいて規則どおりにはおさまらない天皇
が出てくる。

仁徳天皇は、磐之媛(イワイノヒメ)を皇后とし、後に天皇となる皇子ら3人を含む7人の
皇子女を設ける。しかし日本書紀に書かれている以外にも多くの子がいたと思われる。
仁徳天皇は「恋する天皇」ともいうべき相当な艶福家で、妹でも身分の低い女であろうと、
自分が好きになった女性はこまめに足を運んでひたすら口説く。
何度も天皇が通ってきて愛をささやかれると女はつい、その気になってしまう。
天皇は女性を口説き落すと、また別な女性に恋をして獲得に邁進するのだ。
皇后のやきもちなんか気にしない。異母妹の矢田皇女を側室にと望んで、皇后と悶着を起こすが、
初志貫徹、宮中に入れておき、磐之媛皇后が死去すると矢田皇女を皇后に据えた。
さらに矢田皇女の妹(異母妹)・雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を後宮に入れようとしたが、
天皇の弟の隼別皇子(はやぶさわけのみこ)に奪われて、謀反の罪で二人を死罪にした。
人民の家のかまどから食事を作る煙が立っていないのに気づいて、租税を免除した逸話で
有名な仁徳天皇の女性に対する異常なまでの執着心の恐ろしさを知ると、同一人物ではないような
気がしてくる。

子沢山の天皇としては桓武天皇が傑出する。
記録にあるだけでも17人の親王、19人の内親王がいる。実際は50人は下らない。
皇位を継承するのはたった一人なのである。親王が多いことは皇位争いの種である。
桓武天皇が崩御して長男の安殿親王が即位する。これが平城天皇である。
この天皇はその名が示すように平城京が好きだった。
平城京は青春の愛の思い出の地なのである。天皇が愛した人は藤原薬子(くすこ)、中納言
藤原縄主の妻で三男二女の母である。自分の妃の母でもある大年増だ。
東宮時代から二人は不倫関係にあったので桓武天皇は薬子を追放した。
父桓武が平安京に遷都して皇族ももちろん付いていったのだが、東宮は薬子と密会していた。
自分が即位して天皇となると、早速薬子を召して尚侍となし、堂々と熱愛する。
すると薬子と兄は権威をふりかざし、専横ぶりが貴族たちの非難を浴びた。
平城天皇は病気になり、天皇位を弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して平城京に薬子と共に
帰ってしまう。そして平城京の上皇は810年(大同5)突然平安京にいる貴族たちに平城京への
遷都の詔を出し、政権の掌握を図った。上皇のクーデターである。
嵯峨天皇は坂上田村麻呂に命じて東国に向かう薬子と上皇をとらえた。
上皇は出家し、薬子は服毒自殺、兄は左遷されて事件は決着した。

この嵯峨天皇も子沢山で、皇族がどんどん増え、莫大な経費が必要となってしまった。
そこで嵯峨天皇の後を継いだ弟の淳和(じゅんな)天皇は、825年、桓武天皇の孫たちのうち
身分の低い者に、「平朝臣」を賜姓して臣籍に下した。
これが桓武平氏のはじまりである。
また嵯峨天皇も皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた。
嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。 河原左大臣源融は嵯峨天皇の
子の一人である。
嵯峨天皇の時代は平穏な治世を送り、宮廷の文化が盛んになり、嵯峨天皇も書道家として名を
馳せ、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに『三筆』の一人にあげられるほどの教養人である。
818年、天皇は宣旨を出して死刑を廃止した。京における死刑の廃止は以後保元の乱まで
347年間続く。嵯峨天皇は仏教に深く帰依して「殺生」を禁じたのである。
政治に政争はつき物であるが、政敵を殺すことなく、平和裏に解決しようという空気が
広まった
ことは立派である。
ただし、地方では武士が台頭して「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)」など続発する地方の戦乱への追討行動は行われていた。
嵯峨天皇の死刑廃止宣言は世界史上でも例のないことであり、天皇が慈悲深かったことは、
施薬院の設立も特筆すべきことである。
しかしその一方、凶悪犯は流罪にされ、受け入れた側は大変苦労したのも事実である。
流罪地はその罪の重さによって決まる。越前・安芸を近流、諏訪・伊予を中流、伊豆・安房・
常陸・佐渡・隠岐・土佐を遠流の対象国とされた。
遠流の罪人は凶悪犯や国事犯であるから、なるべく孤島に配するよう朝廷方も配慮した。
鬼界島(現在の硫黄島)に流された俊寛のように、遠島刑というものに刑期の設定がない以上
孤島での暮らしは考えようでは死刑よりも残酷である。
平和国家も財政難は深刻であったが、藤原氏の有力者4人が揃って封戸を1万5千戸も返上して
国税の収入を助けている。
地方の国司たちの中にも治水対策に懸命に働くまじめな官吏も出た。
嵯峨天皇は37歳で異母弟に譲位し、嵯峨院を新造して「山水に詣でて逍遥し、無事無為に
して琴書をもてあそぶ」文雅に明け暮れた。
朝廷は嵯峨上皇に二千戸、皇太后に一千戸の封戸(ふご)を与えた。
皇室の離宮として冷泉院、紫野院、朱雀院など寝殿つくりの大邸宅があった。
冷泉院には膨大な内外の書物が所蔵されており、教養人の嵯峨天皇らしい趣味である。
桓武天皇から醍醐天皇までの188年・11代の天皇は総じて子沢山で、記録にあるだけでも
298人の子供ができた。
大宝律令では天皇の兄弟姉妹と子供が親王で皇族は4世までである。
かれらの経済基盤は800戸〜300戸までの農奴が与えられる。その農奴からの貢物が
入ってくるのだ。内親王は半分。これに役職がつくと位階に応じてさらに口分田が付く。
当時の人口が400万人くらいだから、額面どおりに与えることは国家経済が破綻する。
そこでどんどん臣籍降下していった。
清和天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇なども子沢山であったから『源(みなもと)朝臣』
の姓を与えて臣下に降ろした。
それでも一時金や役職を与えなければならず、出費がかさむ。
そこでさらに出家させる。寺側は親王を頂くと「門跡寺院」となり、内親王を頂くと「比丘尼
御所」と呼ばれて箔が付くので歓迎したのである。
しかし、出家させられる者から言えば人権無視も甚だしい。10歳くらいでいやおうなく
寺院に閉じ込められて一生外の空気を吸うこともない空虚な生活を送らねばならない。
たった一人の皇位継承者を確保するために多くの皇族が犠牲になったのである。
未婚の内親王には伊勢神宮と加茂神社の「斎王(さいおう)」に占いで決められた。
天皇の譲位や身内の不幸がない限り、精進潔斎をし、巫女として神への奉仕生活をつとめなければならない。
ただ国衙からの収入も多く、斎王を辞したのちは結婚もできるだけ寺に入るよりはましかもしれない。

一条天皇から後冷泉天皇までの時代は70年の長きにわたり、道長・頼道(よりみち)父子の
天皇の外戚による専制政治を許し、公領の荘園化が進み、国家財政は危機に瀕していた。
それとともに外戚による繰り返しの近親婚で、劣性遺伝が発症し、奇形児や虚弱体質で夭折する
皇子・皇女が増え、3歳くらいまでに3割くらいは薨去した。
また御所での養育は形式にこだわり、奉仕する女房たちの化粧に使う白粉には鉛が含有されており、
入浴の習慣がないので匂いがきつく、不衛生で幼い子供が成長するのには不向きだ。
15歳の成人式まで育つのは半分以下である。
だから多くの妻妾を持ち、多くの子を作る必要がある。
のちに里子に出して幼児期を健康に送らせる方策が考えられた。

後三条天皇は摂関家を外戚に持たない天皇であったので、即位の翌年1069年(延久元)
「荘園整理令」を出した。
すべての荘園の詳細を証拠文書を付けて国司を通じて天皇に報告せよ。それが合法であるなら
天皇が認可するというのである。
実体のない名義貸しの荘園や肥えた田をやせてほとんど収穫物がないなどとの嘘を徹底的に
審査した。
岩清水八幡宮では34ヶ所の荘園のうち13箇所が停止され、21箇所の荘園の存続が認められている。
貴族たちの抵抗はあったが、後三条天皇は毅然とした態度で取締りをおこなった。
なにしろ内裏が火災にあって10年も経つのに修復ができないでいる。
内裏の周辺は荒れ放題である。
後三条天皇は貴族の邸宅を借りた里内裏で践祚し、臣下の家を転々として暮らしていた。
内裏再建の税は不輸の特権を持つ荘園でも賦課することができるのである。
英明な後三条天皇は「記録荘園券契所」を設けてビシビシと不法な荘園を国家に返させた。
税を徴収しながら荘園の検査も兼ねていたのである。
中流以下の貴族たちは天皇の親政が続くことを望んだが、糖尿病の悪化で譲位し、上皇と
なったが、半年後に薨去した。40歳であった。
あとを継いだ白河天皇は20歳で即位した。最愛の中宮・賢子(けんし)が28歳で病死すると、
賢子の生んだ8歳の善仁(たるひと・のちの堀河天皇)親王に天皇位を譲り、上皇となる。
これは弟の輔仁(すけひと)を即位させようとする母方の勢力を封じたのである。
幼少の堀河天皇には賢子の養父であった藤原師実(もろざね)が摂政として付いた。

上皇の家政機関を院庁(いんのちょう)と呼ぶ。天皇を引退しても元気なのだから、それまでの生活や貴族たちとの交際が途切れるわけではない。
暮らしの規模が縮小されるだけであるから使用人は必要である。
すでに嵯峨上皇の時代から院は始まっていた。
これは女性にもある。のちに「八条の女院」と呼ばれるのは、鳥羽天皇の皇女である。
鳥羽院の死後には出家したものの父の莫大な遺産や荘園のほとんどを相続した上に、皇太子
守仁親王の養育を任され、その異母弟の以仁王の養母となる。
有名な「以仁王の令旨」も全国各地にあった膨大な彼女の荘園に回されて現地の武士団に
よる反平氏蜂起が促されていったのである。

さて、白河上皇は京都の南、鴨川と桂川が合流して淀川になる辺りの鳥羽の地に離宮を建造し、
のんびり遊んで暮らすつもりであった。
現在城南宮のある辺りは京のはずれで、農家があるばかりでさびれていた。
ここに広大なスケールで鳥羽殿が造られた。
庭には神泉苑の6倍の池を造り、武者所、御厨、北面衛府、仏所、納物所、馬場に加えて
貴族の宿泊所を建てて、お気に入りの側近たちに邸宅をプレゼントしたのである。
鳥羽殿のすべての面積は東西1、5キロ・南北1キロにわたる、36万坪である。
京の都は海に面していないので税を国司が集めて淀や琵琶湖の大津まで運び、倉に入れておく。それから荷駄で京まで運ぶ。
時間のロ
スであるのは明白だ。盗賊の心配もある。
淀川で西から送られてきた税(米)を鳥羽で受け取ればスピイーディで確実である。
川をおおいに利用することに着眼した白河上皇は先見の明がある。

堀河天皇は29歳で薨去し、その子の鳥羽天皇が4歳で即位した。
ここに白河上皇は完全に権力を握り、本格的な院政が始まる。

京の東、鴨川を越えて二条大路の終点から現在は岡崎の地があるが、ここはかつては藤原道長の
領地であった。
道長の孫である師実(もろざね)は鳥羽天皇の側近に取り立てられ、実権を持つ白河上皇に
嫌われたくないので、大邸宅をあっさり献上した。
白河上皇は周辺をさらに開発して「六勝寺」と呼ばれる「勝」という字が入る6つの寺を建立し、
ここにも鳥羽と同じ規模の面積を手に入れた。
屋敷も白河北殿、白河南殿と造営された。
二条大路は、東は蹴上を越えて東国に向かい、西は御所の南面を通って太秦に向かう
重要な
道である。
鳥羽から鴨川を利用して二条まで来れば、白河の地は目の前である。
物資や人の移動が迅速におこなわれる利点がある。

また京の町中には内裏の近くに大炊殿(おおいどの)があった。
ここはもと藤原忠宗(ただむね)の邸宅であったものを伊予守・藤原国明(くにあき)が造進し、
調度品もすべて白河上皇に献じた。鳥羽天皇は幼時をここで白河上皇と共に住んだ。

「三条御所」は三条の北、烏丸小路をはさんで三条西殿と三条東殿があった。 
西殿は白河天皇の中宮となった関白藤原師実の養女・賢子(けんし)の里であり、白河天皇の
里内裏ともなった。 
白河上皇が溺愛した璋子(たまこ)は正二位権大納言藤原公実の娘であるが、7歳にして父を
失ったのを機に白河上皇に引き取られ、養女として育てられた。
『源氏物語』の光源氏が幼い若紫を見初めて自分好みの女に育てたように。
このとき、上皇には身分不詳の「祇園女御」と呼ばれる寵愛の女性がいた。
「女御」とよばれても正式な位を持ってはいない、あまりに寵愛が深いので人々は上皇の
ご機嫌取りのためにそう呼んだ。
ところが上皇は璋子が10歳くらいになると手をつけた。
そして17歳になった時、自分の孫の鳥羽天皇の女御として入内させる。
やがて中宮となり、璋子は鳥羽天皇との間に五男二女を儲けるが、長男はじめそのほとんどが
白河上皇の子供ではないかと疑われた。
のちに第一王子の顕仁(あきひと)親王が5歳で崇徳天皇になるのであるが、鳥羽天皇は崇徳
天皇の事を「叔父子(おじご)」と呼んで、生涯憎み続けたと伝えられる。
鳥羽天皇も上皇となり、二人の上皇が存在するので鳥羽上皇は「新院」と呼ばれる。
璋子も院号を得て待賢門院を名乗った。
「三条御所」はその後、白河上皇・鳥羽上皇・待賢門院璋子の御所となる。
鳥羽上皇は崇徳天皇を憎んでいたのになぜか自由の利く退位後も白河上皇と起居を
多く
共にするのだ。
しかも自分を裏切った璋子までもが住むというのに、不思議である。
鳥羽に行けば広大な邸宅があり、増築までさせているのだからなるべく二人と会わずに暮らす
ことはいくらでもできるのである。
その上、毎年三人で仲良く『熊野詣』に出かけている。
『熊野詣』は山岳信仰であるが、そこに至る道中の難行苦行が一切の罪業を消滅させるという
信仰でもあった。
表面上の仲良しの取り繕いでは1ヶ月の長旅はできない。
これが幼いころから白河上皇の「衆道」の相手をさせられて、その味を忘れられなかった
からだといわれるゆえんである。
祖父と孫の男色関係が事実とすればおぞましいかぎりである。
この時代には母親が違えば妹でも妻にしたし、叔父・姪の婚姻も多かった。
女性も奔放で、夫がいても他に恋人を持って恋愛を楽しむ貴族の女性も多い。
「妻問(つまどい)」という結婚形態が女性を活動的にした。
天皇の系図は常に男性中心に書かれているが、不倫の子が天皇の地位についていないとは
明言できない。生れた子の父親を知るのは母親だけである。

白河上皇は7200坪の六条院を造営し、院御所として使っていた。
さらに中院、中六条院、小六条院と、広大な屋敷を増やしている。
貴族のほとんどが四条から北の二条、三条に住んでいたので、六条界隈は急に脚光を浴び、
院の御所を警備するための北面の武士の需要が増し、近畿周辺の在地武士や受領層からの
武士が送り込まれ、最大時には1000人にも及んだ。
これが、のちに平家の台頭を生む。
平正盛は隠岐の国司であったが、伊賀の所領を白河上皇の六条院という御堂に寄進したことで、
収入の多い若狭守に任じられた。
当時は、東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺などの僧兵による強訴を御所や院の御所に押しかけさせ、
自分たちの主張を押し通したのであるが、白河上皇は数には数をという考えで、武士の数を
増やし、僧兵に対抗した。
また守旧派の国家仏教に対して自分個人の幸福を願う密教に心酔していたので、御室
仁和寺や
東寺に財政援助をし、宋との貿易で入手した高価な仏教用具や経文も寄進した。
仁和寺や東寺に権威付けをして、東大寺や東福寺などに対抗させようと意図したのである。

歴代の天皇の中で、白河上皇ほど金と権力を握った人はいない。
上皇のお金のでどころは受領(ずりょう)層である。
中央から任命される国司には、守(かみ)、介(すけ)があったが、このうち守は任命されても
ほとんど現地には赴任せず、京にいて官職に伴う給料だけを受け取っていた。
赴任するのは次位の介である。任期は6年。
官位が低く、中央で出世の望みがない彼らは、現地に赴いて欲しいままに私服を肥やした。
中央に定額の税だけ納めれば、あとは思いのままである。
これを受領(ずりょう)と呼んだ。
彼らの補佐官を務めるのが、掾(じょう)、目(さかん)である。
受領たちは白河上皇の権勢におもねって邸宅の造営を競って願い出た。
さらに荘園を寄進し、高い官位や国司の留任を白河上皇に願い出る。
中には赴任した土地に離れぬように留任を願った結果、土着する貴族まで出た。

白河上皇は日宋貿易に目をつけた。
遣唐使が廃止されて15年後、唐は滅んだ。しかし宋がおこるとかえって中国大陸との貿易は
広がった。
貿易は大宰府が監督し、鴻臚館(こうろかん)貿易が行われていたが、平安時代には大宰府の
機能は残っていたものの、大宰府は衰微する。
正式の外交貿易は行われず、一般人の渡航は禁止され、宋の商人は主に博多や越前敦賀へ
来航し、私貿易が行われていた。
博多では11世紀の終わりごろから、中国人街が形成されはじめている。
宋の商人は多くの寺社や貴族と結び付いていく。
筥崎宮(はこざきのみや)や香椎宮(かしいのみや)など積極的に貿易をした。
白河上皇は有明海沿岸の神埼荘(佐賀県神埼郡)を所有していたので、おおいにここを利用して
貿易をおこない蓄財した。
輸入品は宋銭、陶磁器、絹織物、書籍や文具、香料や薬品、絵画などの美術品。
輸出品は銅や硫黄などの鉱物や木材、真珠、日本刀などの工芸品。
もちろん唐物(からもの)とよばれる品物も自身が欲しかったのもあるのだが。
仁和寺の荘園の怡土荘(いとそう)の今津港、肥前の平戸、薩摩の坊津(ぼうのつ)など、
九州沿岸の各地で貿易が行われはじめた。
やがてアジア諸国の人々が居住するほどの活況をみせる。
白河上皇が薨去すると神埼荘は鳥羽上皇の手に移ったので、北面の武士として平正盛が神崎荘の
荘官に赴任したとき、瀬戸内海や九州の海賊を配下に治めて、のちに平家の隆盛の経済基盤を作る。

『加茂の流れとさいころの目、それと僧兵以外に自分の思い通りにならぬものはない』
と
豪語したように、71歳の時には、33歳の鳥羽天皇を譲位させ、その子5歳の崇徳天皇を
皇位につけた。
熱心に仏教を信じ、1096年(嘉保3)には皇女の病没を機に出家し法名を融観とし、法皇と
なった。77歳で薨去する。
非常に好き嫌いの激しい性格で、性生活も派手であった。
男色も好み、男色相手を国司に任命したり、官位を与えたりした。

白河上皇が薨去すると、鳥羽上皇は院政をしいて巻き返した。
40歳をすぎて新しい恋人も見つけた。
17歳の藤原得子(なりこ)である。天性の美貌の持ち主であった得子を召し、寵愛した。
やがて皇后に冊立し、得子は美福門院(びふくもんいん)の院号を宣下され、中宮・璋子(待賢門院)を
凌ぐ権勢を持つようになる。

1139年(保延五)、鳥羽上皇は得子が生んだ生後三ヶ月の第八皇子・躰仁(なりひと)親王が
生まれると、これを次代の天皇とするためにむりやり世継ぎの無かった崇徳天皇の養子にした。
ところがその翌年崇徳天皇に皇子が生まれ、躰仁親王の廃太子をおそれた鳥羽上皇は、今度は
崇徳天皇の皇子を自分の養子とした。
躰仁親王はわずか3歳で「近衛天皇」となるが、幼時より病弱で、17才の時眼病が元で崩御する。
近衛天皇が崩御すると、父の崇徳上皇は美福門院のもとで成長した重仁親王の即位を望む。
しかし、宮廷には崇徳上皇が藤原頼長と結んで近衛天皇を呪い殺したという噂が流れ、これに
激怒した鳥羽法皇は重仁親王ではなく、上皇の弟である雅仁親王を即位させてしまう(後白河天皇)。
崇徳上皇がこれに強い恨みを持ったことが保元の乱の原因となる。


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   岡崎けい子のホームページhttp://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/
      メールアドレス okazaki88@mocha.ocn.ne.jp
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「シベリア決死行」/岡崎溪子 出版:アルファポリス
http://item.rakuten.co.jp/book/1665296. 


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