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重慶のサッカー事件はなぜ起きたのか?日本と中国の理解のための日中戦争の問題点を検証する

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2006/11/07

日中戦争の問題点を検証する 第99話

 
      
                          日中戦争の問題点を検証する 
 
                       第99話 満洲国の終焉 その2


8月9日、国境警備隊がソ連軍と死闘を演じているとき、山田乙三関東軍総司令官は大連にいた。
再三引き伸ばしていた大連行きを8月8日に飛行機で大連に向かったばかりである。
8月9日午前1時、関東軍総司令部に宿直中の第2課の情報課・参謀鈴木恭少佐は第五軍
の情報主任参謀・前田忠雄中佐から「ソ連軍は、東寧、綏芬河(すいふんが)正面に向かって
攻撃を開始しつつあり」との緊急電話をうけた。
さらに「目下、牡丹江市街は敵航空隊によって空爆を受けつつある」との第2報が入った。
総参謀総長・秦彦三郎中将はじめ各幕僚たちは急遽登庁し、ソ連の参戦が予想よりもはるかに
早かったことに「騙し討ち」をくらったような気がしていた。
総参謀長は総司令官に代わって「満洲国防衛法」と「戦時防衛規定」を即時発令した。
東京の大本営からの命令は何もない。
満洲国の諸部隊に向けて命令を下した。
「それぞれ作戦計画に基づき、侵入し来る敵を粉砕すべし」
これが終わったとき、午前6時になっていた。
一方、総司令官に急遽帰庁してもらうために第2航空軍から新司偵を出す。
山田大将は午後1時に関東軍総司令部の総司令官室へ帰着した。
しかし強力な兵器と軍隊を持つソ連軍と五分の戦いができる関東軍ではないことは、南方に
部隊の抽出を認可した山田司令官はよく分かっていた。
そこでゲリラ戦法で後退しながら戦う作戦を決定した。

そして国境地域の邦人に対して後退するように通達した。
東安、東寧、牡丹江方面は図們(ともん)経由で北朝鮮へ
黒河、佳木斯(じゃむす)方面はハルピン経由新京へ
ハイラル、チチハル方面は奉天および四平街(しへいがい)へ
熱河方面は南満洲および関東州へ
それぞれ後退して、満洲が安全でないなら日本に帰ることを望んだ。
満鉄は開戦と同時に大陸鉄道司令官・草場辰巳中将の指揮下に入っていた。
満洲国の首都である新京だけは防衛戦をやることになり、老幼婦女子を速やかに非難させる必要から、
8月10日夕刻に民・官・軍の順序で列車の手配を検討した。

しかし、開拓民は苦労して開墾した土地に愛着があったし、民間人も商売をしているものは整理しなければ、いきなりやめるわけにもいかない。
家族を持つものはそれなりの支度が要る。土地や家の不動産を持つものは換金したいし、
「身一つで」と言われても、目の前にソ連軍の姿を見ていない時期に、資産を二束三文で
処分するのには、1、2時間で決められないのが人情である。
ところが軍人の家庭は日頃から「戦時の心得」を教えていたため、決断も早い。
「第一列車は新京駅8月10日午後6時発」と決まったのが、10日の正午である。
午後2時ころになっても民も官もいっこうに集まらない。
10本の避難列車を放置するわけにもいかず、軍は午後5時に忠霊塔広場に集合するよう
命令を出した。そして軍人軍属家族の集まった者から第1列車に詰め込んで出発させた。

8月10日、宮内府では緊急御前会議が開かれ、秦参謀長が皇帝に対して地形的に守りにくい
「新京」を放棄して朝鮮に近い「臨江(りんこう)」へ遷都するように要請した。
これに対し、皇帝はじめ満洲国要人すべてが反対した。
都を捨てては国民の信頼をつなぐことができない、というのである。
しかしそのまま新京に残れば野蛮なソ連軍によって殺害される危険性がある。
溥儀も溥傑も新京を捨てるくらいなら本心では親類が住む北京に帰りたかったが、蒋介石は
「漢奸(かんかん)」として日本に協力したことを許すはずがない。
しかし、満洲国は清の故地であり、漢民族にとやかく言われる筋合いではない。

溥傑は宮廷を立ち去りがたく、侍従たちの支度を呆然と立ち尽くす溥儀を激励して
溥儀の
妹たちの二格格(あーごご)夫妻、三格格(さんごご)夫妻、四格格(すーごご)夫妻、五格格
(うーごご)夫妻、溥傑の妻・浩と娘の嫮生(こせい)など皇帝の親族の支度を急がせた。
8月12日皇帝溥儀は溥傑たちを連れて清朝歴代の先祖の位牌を持って新京神社に行き、
旅路の無事を祈った。
それから隊列は新京駅に向かい、深夜、降りしきる豪雨のなか宮廷列車に乗り込んだ人々は、
溥儀皇帝、皇后婉容(えんよう)一行、皇弟溥傑、張景恵総理、各大臣、参議、祭祀府総裁・
橋本虎之助ら満洲国首脳部と200名の宮廷職員である。
一行は東新京駅を出発して南の通化(つうか)に向かった。
8月13日早朝、列車は満洲国臨時首都「臨江」に着いたが、臨江には臨時宮殿になるところが
ないので、列車はそのまま発車して東の大栗子溝(だいりっしこう)に着いた。
通化省臨江県大栗子溝は長白山と鴨緑江の間に位置し、朝鮮との国境に近い小さな山村である。
東辺道開発会社の大栗子鉱業所の所長宅が皇帝の仮りの住居、つまり臨時の皇居となったのである。
しかし大勢を収容できないので15日に張総理以下の満洲国首脳は通化にもどることになった。
関東軍の重ねての指示により満洲国政府の日系首脳部・武部総務長官以下も通化に移った。

また15日正午には天皇の重大放送が行われるという報告を受けた山田関東軍総司令官、
秦総参謀長、松村総参謀副長ら首脳部は8月14日夕刻急遽新京に立ち戻った。
溥儀と溥傑は15日の天皇の「終戦の詔勅」をラジオで聞いて、手を取り合って泣いた。
日本が降伏したのであるから「満洲国」もおしまいなのだ。
満洲国は関東軍に教育された「満洲国軍」を一応は持っていたが、まだまだ未熟である。
いつの世も自国の強力な防衛軍をもたない国が滅びるのは歴史の教えるところである。

8月17日に大栗子溝で満洲国の重臣会議が開かれた。
張景恵国務総理大臣、蔵式毅参議府議長、橋本虎之助祭祀府総裁兼参議府副議長、武部
六蔵総務長官、
煕洽(しーちゃー)宮内府大臣、各部大臣らは鉱業所の食堂に集まり、「満洲国」をどうするかに
ついて一晩中話し合った。
そしてついに18日午前1時、「満洲国」解体と皇帝が退位を宣言することに決まった。
溥儀は人生3度目の退位である。
「自分の無能のため、日本の天皇に迷惑をおかけした。天皇に許しを請う」と跪いた。
退位式は簡素ながら厳粛に執り行われた。
皇帝溥儀は退位詔書を読み終えたのち、参会者一人一人と静かに握手をしてひっそりと退場した。
日本兵も感激の涙を流した。
こうして建国から13年5ヶ月で満洲帝国は命を終えたのである
清朝歴代の先祖の位牌もここで焼却され、満洲国の高官たちも新京に引揚げた。
随行してきた関東軍警備隊も禁衛隊もすでに皇帝でない人物の警護は必要ないので撤退した。
残ったのは溥儀たち愛新覚羅一族と内廷職員、御用係・吉岡安直中将ら日本人職員だけである。

関東軍と大本営が相談した結果、溥儀たちは日本に亡命することが決まり、とりあえず
京都の
都ホテルを一行の避難先とすることが決まった。
溥儀は通化から飛行機で日本に行くことになる。荷物を含めて収容人数は12名である。
しかし、ソ連がすでに新京に入城していれば制空権を制圧されているはずであるから、空路は
危険であるのだが…。
この時、溥儀が持ち出したものは、大型トランク3個に宝石と絵画、骨董品である。
うずらの卵の大きさもあるダイヤモンド、翡翠の大瓶など、1個が数億円もするお宝ばかりである。
清朝時代からの由緒ある貴重なものであったが、ソ連抑留時にすべてソ連軍に取り上げられてしまった。

荷物係りに吉岡中将の従兵・田上伍長、もちろん吉岡中将、神体を捧持する祭祀府総裁・
橋本虎之助、祭務処長・外島瀏は欠かせないので皇帝一行は8名しか乗せられない。
溥儀が選んだのは、侍従武官である弟の溥傑、三格格の夫で婉容の弟・潤麒、五格格の夫、
甥の恭親王、侍医と召使2人である。
側室の李玉琴は自分も一緒に連れて行って欲しいと涙ながらに懇願したが溥儀は、
「飛行機が小さいのだ。おまえたちは汽車で行きなさい。2日もすればまた会えるよ、
大丈夫、大丈夫」
女たちをなだめて、8月18日深夜、大栗子駅から三両連結の列車で通化に向かった。

19日朝6時に通化に着いた溥儀たちは直ちに自動車に乗って通化飛行場に急いだ。
そこにはすでに3機のスーパーフォッカー機が待機していた。
最初の予定では通化から直接東京に向かう予定であったが、通化の飛行場は日本行きの
大型機の
離陸ができなかった。
そこでやむおえず中型飛行機で奉天に飛び、そこから満洲航空の大型機に乗り換えて東京に
向かう予定である。
溥儀、橋本総裁、外島瀏、吉岡中将と田上伍長は1番機に乗り込み、2番機、3番機には
溥傑とそのほかの人々と荷物を乗せて、1番機の40分後に離陸する。
1番機が奉天飛行場に着陸したのは午前11時過ぎであった。
溥儀一行を日本に運ぶMC機はすでに滑走路の一隅に待機している。
溥儀たち4人は満洲航空重役室で昼食をとりながら後続機の到着を待った。
すると廊下を走る足音と叫び声が聞こえた。
窓の外に目をやれば10数機の黒い輸送機が低空で飛行場を旋回している。
その上には戦闘機らしい姿が左右に飛走している。
ザバイカル方面軍司令部政治部長A・D・プリトウレ少将が指揮する降下部隊225人が
到着
したのだ。
溥傑たちの乗った2番機と3番機が到着したのは、予定より遅れてしまい、ソ連軍部隊が
着陸して飛行場を制圧したあとである。
ソ連軍は空港建物を占拠し、プリトウレ少将はおもわぬ大物を捕まえたことに喜んだ。
彼はすぐにザバイカル方面軍に連絡すると、司令部から溥儀らを直ちにチタへ輸送するよう
指令された。

通化から来た一行全員が1機の輸送機に乗せられて午後4時に奉天飛行場を飛び立った。
途中、通遼(とんりゃお)飛行場に着陸して、橋本、吉岡、外島、田上の日本人4人を降ろして
溥儀たち満人と分離してチタに向かった。

こうして旧満洲国の皇帝たちはソ連のチタに送られ抑留生活が始まった。
当初はチタからハバロフスク郊外の紅河子(クラスナヤレーチカ)畔の別荘に収容された。
ここで数ヶ月すごしたのち、ハバロフスク市内の第45特別収容所に移され、5年間
過ごした。
この間、溥儀と大臣には月30ルーブル、他は一律15ルーブルが支払われ、日課の「思想教育」さえ
クリアすればあとは何をしていても文句は出ない。つまり「軟禁」状態に置かれた。
一日3食のほかは散歩、将棋、麻雀、押宝などの娯楽に時間を費やした。
溥儀は旧皇帝としての威厳を保つことができ、再三スターリンにこのままソ連に永住できるよう
嘆願書を書いたのである。
しかし、1950年7月28日溥儀一行は中国共産党政府に引き渡された。

久しぶりの故郷に溥儀たちは喜んだが、中国共産党はかれらを撫順戦犯収容所に入れ、徹底的な
思想改造を行った。
9年間の獄中生活ののち溥儀は釈放され北京に移り住んだ。
日本人妻を娶った溥傑の釈放はさらに1年後となる。
溥傑は先に日本へ帰っていた妻・浩と娘の嫮生を日本から呼び寄せ、北京で暮らした。
その後嫮生は日本人男性と結婚して日本に住む。
長女の慧生(えいせい)は1957年(昭和32)年12月10日に同じ学習院大学の同級生・
大久保武道と天城山で心中した。時に19歳、父の帰りを待っていた時期である。

残された女性たちの運命はあまりにも悲惨であった。
皇后婉容は新京で側近の祚継忠(そけいちゅう)と不義密通をして子供を身ごもり、女子
を
産んだが、皇帝の怒りに触れ、以後は軟禁状態にあった。
その女児は生後30分で炎に焼かれてこの世から抹殺された。
孤独を紛らわすために吸い始めた阿片の量はさらに増え、もう完全に重症患者になっていた。
美貌の面影は消えて、歩行さえ困難で、精神は廃人同様である。
大栗子溝では宦官2人とばあや2人が婉容の世話をした。
側室の李玉琴は初めて婉容を見たが、幽霊のような姿に同情し、優しく接した。
溥傑の妻・浩や溥儀の妹たちは関東軍の指示をひたすら待っていたが、何もない。
関東軍はカリバチョフ大将に再三にわたって関東軍総司令部庁舎の明け渡しを迫られ、
ついに
8月22日午後、昭和6年以来住み慣れた庁舎を出て、海軍武官府に移った。
トラック一台しかない有様である。
以後の関東軍司令部はまったくその機能を失っていた。
おまけに9月5日には関東軍のおもだった将校50数名は新京からハバロフスクへ
捕虜と
して送られていたのだ。
消滅した関東軍で満洲皇帝の付属品の女たちを救おうという者は一人もいなかったし、
その余裕も
なかったのである。
9月21日、突然暴民たちが襲撃してきた。
皇帝の一族が隠れ住んでいるという噂が広まり、金品の強奪をたくらんだのである。

そこでこの危険な大栗子溝を逃れて臨江に移った。
時を待って親族のいる北京に行こうと決めたのだ。
ここでは朝鮮人の家を高値で一棟借り切って、それぞれの部屋を確保した。
しかし、すぐに八路軍が進駐してきて、身分がばれてしまい、監視下におかれた。
2ヵ月後の1946年1月、八路軍が通化に引揚げることになり、連行された。
こうして女性たちは通化の八路軍公安局の建物に保護軟禁された。
婉容は世話をするばあやも宦官もいなくなり、排泄物を垂れ流し、悪臭を発している。
おとなしいのは八路軍が阿片を与えるからである。
玉琴はあまりにも婉容が哀れで、世話をしてやった。

ところが2月3日午前3時、「通化事件」が勃発した。
通化にはもともと1万4千人の日本人居留民がいたが、このころは満洲各地から10万人以上の
避難民が集まっていた。
彼らは同胞の武装解除された日本兵が次々とシベリアへ送られていくのを虚脱した目でながめ
唖然とするだけだった。
ソ連兵は日本軍が武装解除して捨てた武器を、八路軍(共産軍)に渡し武装させていた。
中国共産党の根拠地延安では1940年(昭和15)から日本共産党の野坂参三が毛沢東の下におり、
日本人捕虜を教育するために「日本労農学校」を組織していた。
その日本労農学校を卒業して共産主義に思想改造された者たちが日本が敗戦すると満洲各地で
「日本人民解放連盟」のもとで、「帝国主義の打倒」を掲げて好き放題に振舞っており、
通化でも居留民の反発を買っていた。
要するに「虎の威を借る狐」で、罪もない日本人をいじめていたのである。
また金日成直系の李紅光に率いられた朝鮮人部隊(日本人は新八路と呼んだ)が、
「36年の恨み」を口にしながら、暴行、掠奪、処刑と残虐な所業で日本人を震え上がらせていた。
居留民の間では旧関東軍の藤田大佐が人気があったので、この暴虐非道な連中をやっつけて欲しいと
心では望んでいた。
しかし肝心の藤田大佐は「日本は負けたのだから治安は中国人に任せるべき」と八路軍に
恭順した。
ところがソ連軍の侵攻により満洲の争奪戦に出遅れた蒋介石軍は不満がくすぶる旧関東軍の
将校たちをそそのかし、共に八路軍と戦うことを持ちかけた。
旧関東軍の将校たちにしてみればこののち共産党よりも蒋介石が中国を支配する方が良いし、
現状の暴挙の根源は八路軍の圧政であったから共闘に応じたのである。
しかも天皇家に繋がる名門華族の嵯峨浩が八路軍に捕らえられているからこれを救出する
チャンスでもある。
日本人首謀者は柴田大尉、松倉大尉、佐藤少尉らである。

1月10日に逮捕された通化の有力者たちを奪還すべく、囚われていた獄舎を襲撃した
佐藤少尉
以下日本人は、入り口に据えられていた軽機関銃に射すくめられ全員戦死した。
八路軍はその後、軽機を獄舎に向け、140人全員を射殺した。
このほか司令部、県大隊、旧警察署、変電所、李紅光部隊などを襲撃した人々は、八路軍に
敗れた。
夜が明けると、八路軍は各戸別に日本人を襲い、16歳から60歳までの男子を逮捕した。
彼等はマイナス30度の厳寒の中、狭い獄舎に押し込められ、一人ずつ呼び出されては拷問された。
2月3日の蜂起で戦死した日本人はおよそ300人。事件後に殺された日本人は1000人に及ぶ。
溥傑の妻・嵯峨浩は自分の部屋に旧関東軍の中山菊松が救出に来たので、皇后を連れて逃げようと
したが、八路軍の攻勢で助けに来た日本人は皆殺しにあった。

後日、浩は自分の部屋の窓から川岸に並ばされた日本人が八路軍に後ろから射殺されるのを
目撃している。
また女だけの留守宅は、朝鮮の新八路軍に襲われ強姦されて自決した女性もいた。

この襲撃の首謀者とされたのが藤田実彦大佐で、終戦時第125師団の参謀長であった。
しかし藤田は足を怪我していてずっと民家の押入れに隠れていた。
味方を多く集めるために旧関東軍の将校が藤田大佐の名前を利用したのである。
無実の藤田も2月5日に逮捕された。そして処刑よりも惨い処罰を受ける。
藤田は、国民党通化県党部書記長・孫耕暁とともに、3日間にわたり百貨店のショーウィンドーに
立たされた。
藤田は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪を引いているのか始終鼻水を垂らしながら
「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けた。
心ある人たちは見るに忍びず、百貨店に背を向けた。その後間もなく、藤田は肺炎で急死した。
彼の死後間もなく、中共は方針を転換し、寛大政策をとるようになり、通化の治安も劇的に
良くなった。
日解連は八路軍によって殺害され、李紅光部隊は通化から追放されたからである。
そして夏にはついに、日本人に帰国の許可が出た。
この通化事件はスパイの暗躍で、日本人と蒋介石軍が襲撃する計画全容がすべて事前に
八路軍に
筒抜けであった。
密告を奨励した八路軍の戦略勝ちである。
八路軍は「反動勢力一掃」のためこれを利用したのである。
それに比べて関東軍はソ連に完全に武装解除されて兵器も持っていなかった。
スコップや鍬や鎌や鉈を武器にしたところで機関銃には勝てない。

しかし、婉容たち女性は4月になると八路軍に連行され長春(かつての新京)に向かった。
そこでの八路軍の取調べで側室である李玉琴は釈放された。
このとき動けないお荷物の婉容を引き取ってくれるように頼まれたが、玉琴の母親は一文にも
ならないので断った。
浩も釈放されたが、これは形式だけで、婉容、浩、娘の嫮生(こせい)、愛新覚羅家の学生
3名は吉林へ連行された。

吉林の公安当局は彼らを留置場に放り込んだ。
婉容の待遇は囚人同様で、食事も高粱飯とお湯のようなスープが与えられたが、婉容は阿片が
切れ禁断症状が出て「助けて!だれか、助けて!」と、終日狂気のように叫び、板敷きの上を
転げまわった。用便も一人ではできないので浩が世話をする。
そのうち郊外の刑務所に移された。
4月になると国民党軍は勢いづいて満洲を北上していた。
営口(えいこう)、本溪湖(ほんけいこ)、四平街(しへいがい)を制圧し、長春(旧新京)は間近かである。
そこで婉容たちは思い出多い長春にはわずか3日いただけで、さらに延吉に汽車で連行された。
歩くことさえできない婉容は椅子にくくり付けられ、長い棒を渡して6人の日本兵捕虜に
担がれた。
関東軍の日本兵捕虜800人も三等車の座席を取り払った軍隊輸送車に乗せられた。
彼らは後ろ手にくくられていて食事も食べられないので、浩たちは周りの人々に食べさせた。
列車が着いたのは朝鮮との国境に近い延吉(えんきつ)である。
なんのことはない、ぐるりと半周してまたしても朝鮮国境である。
延吉駅に着くと婉容と浩たちは一台の荷馬車に乗せられた。
それには大きな白い旗に『漢奸偽満洲皇族一同』の文字が書かれていた。
その後ろから後ろ手に縛られた800人の日本兵捕虜が続いて引き回された。
一行は延吉法務院裏の刑務所に収容された。
ここで浩たちと婉容は切り離され、別々に収容された。
日本兵捕虜たちはここで全員が銃殺された。
婉容はベットから落ちてコンクリートの床に落ちたまま身動きもしない。
親切な当番兵に頼んで浩は婉容の世話をしたが、すでに人の識別ができない。完全に狂っている。

6月中旬、八路軍は北満に移動するという。
ここで八路軍は婉容を朝鮮国境の図們(ともん)に運んだ。
途中で死なれたら始末が面倒だということである。
皇后婉容はこの町から敦化(とんか)に送られて、8月下旬ひとり淋しく41年の生涯を終えた。
浩たちは列車で佳木斯(チャムス)に送られ、衛戍監獄(えいじゅかんごく)に収容された。
7月になってやっと釈放されたのである。
そして最後の引揚げ船で日本に帰りついたのである。

731石井部隊の帰国も簡単ではなかった。
8月9日に関東軍からソ連侵攻の知らせを受けた東京市ヶ谷の参謀本部作戦課対ソ主任・
朝枝繁春参謀が真っ先に考えたのが石井部隊のことである。
あの部隊のことが明るみに出ると累が天皇に及ぶことを懸念した。
そこですぐさま自分で電文を書き、参謀総長名で石井四郎隊長に電報を打った。
「貴部隊の処置に関しては朝枝参謀をもって指示せしむので10日に新京軍用飛行場にて
待機せられたし」
朝枝は新京へ飛び、新京軍事飛行場の格納庫のなかで石井と1時間にわたって話した。
「貴部隊は全面的に解消し、部隊員は一刻も早く日本本土に帰国させ、一切の証拠物件は
永久にこの地球上から雲散霧消すること。
このため工兵1個中隊と爆薬5トンを貴部隊に配属するようにすでに手配済みである。
建物内のマルタは電動機で処理した上、貴部隊のボイラーで焼いた上、その灰はすべて
松花江
(しょうかこう)に流すこと。
貴部隊の細菌学の博士号をもった医官53名は貴部隊の軍用機で直接日本へ送還すること。
その他の職員は、婦女子、子供に至るまで満鉄で大連にまず輸送の上、内地に送還すること。
このため満鉄本社に対して関東軍交通課長より指令の打電済みであり、兵房店駅には
大連直通の
特急が待機している」
石井は「研究データだけでも持ち帰ってはならないですか?」と未練たっぷりである。
満洲で10年間もかけて研究したデータは医学者にとっては何物にもかえがたい。
「いや、ならない」
若き参謀はきっぱりと命令した。
しかし、石井はひそかに研究データを持ち帰り、アメリカに売るのであるが…。
ともかく、石井はこの指示に基づいて、8月12日と13日で施設を完全に焼却した。
残っていたマルタと呼ばれる人体実験用の約40人の満人を殺害して焼いた。
そして撤収直前に部隊員を集めて軍刀を抜き、仁王立ちになって訓辞した。
「731の秘密は墓まで持っていけ!」
石井部隊は総勢約1500名である。
医官たちを飛行機で日本に送りおえると、隊員を5グループに分けた。
野口列車…京都大学医学部出身の野口圭一少佐で、リケッチャ・ノミ研究者
鈴木列車…東北医大出身の鈴木秋男少佐
柴野列車…東北薬科大学出身の柴野金吾大佐・薬剤将校で資材部長
草味列車…草味正夫大佐・薬剤将校で薬理研究者
残りが東郷部隊、つまり自分が指揮する本隊であるが、石井は忙しいので、細菌研究者で
731部隊の第1部長・菊池斉少将に任せた。

ところが14日に先発した野口少佐一行は平房駅を出たものの大連には列車が不通で行かれず、
15日には通化、16日には北朝鮮の江界(かんけ)まで進んだ。
17日午後3時に江界を出発、18日午前8時に平壌に到着した。
それから列車を乗り継いで釜山まで一気に下った。
満洲でも朝鮮でもなにしろ混乱を極めていて列車の運行も少ないし、のろのろ運行で時間が
かかる。
釜山では船をチャーターして下関に渡り、ここで京都大学医学部出身で石井四郎の後輩
であり、
石井の幕僚を務めた増田知貞大佐のグループと分かれた。
増田グループはトラックにガソリンを積んで山陰を通って人々を降ろしながら自身は東京の自宅に向かった。
野口グループは門司から列車で新潟に向かい、その途中で一人ずつ降ろしていったのである。
石井自身は17日午後5時30分に満洲と朝鮮国境の安東(あんとん)から釜山に向かった。
そして釜山で6隻の貨物船の手配をしている。
もちろん、これは後続グループと本隊の連絡船の確保であるが、菊池グループに研究資料を
持ち出させて運ばせており、それを秘密裏に日本に持ち帰る算段をしているのだ。
研究資料の中にはあの4種類あった濾水機のうち一番大きいものも運ばせていたのだ。
8月23日石井四郎はチャーターした6隻のうちの「特寿丸」に乗船してひと足早く
内地に
帰り、研究資料の隠匿をおこなっておいて何食わぬ顔で8月26日、陸軍省医務局
を訪ねたものと思われる。
それはアメリカ軍が日本の占領をおこなう前にちゃんとしたところに隠すための時間が必要で
あったのだ。
石井は金沢陸軍病院と東京若松町の東京第一陸軍病院などに分散して隠匿した。
そして8月30日に横浜港に着いたアメリカ指令艦「スタージョン号」に乗船していた
「アメリカ陸軍太平洋司令部科学・技術顧問団」の一員である、細菌学者・マレー・サンダース中佐を
内藤良一に出迎えに行かせた。
そしてのちにアメリカとの闇取引が行われるのである。

石井四郎の失敗は731部隊の支所の撤収がソ連侵攻に間に合わなかったことである。
ソ連に抑留された細菌戦関係者は100人にも上った。
彼らはハバロフスクの収容所に入れられ、来る日も来る日もソ連側の執拗な尋問に会い、
ついに口を割る者が出てきた。
なかでも奉天で捕まった第4部「細菌製造」に所属していた柄澤十三夫は1年後の1946年
9月26日から30日までの間にすべてを供述した。
おまけにその上司である川島清まで抑留されていたのである。
柄澤の告白で部長の川島も観念し、詳細をソ連に語った。
ソ連はアメリカに石井たち3名の身柄の引渡しを迫ったが、アメリカは拒否した。
そこでソ連は1949年12月25日から30日にかけてハバロフスクの士官会館で6日間に
わたって抑留した12名の石井部隊を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。
しかし秘密法廷で、被告人には弁護士もつかず、自由を束縛されている状態ではとても民主的な
裁判とは言いがたく、世界は注目しなかった。

1956年(昭和31)10月19日、鳩山一郎首相とブルガーニン首相が「日ソ共同宣言」に署名し、
ソ連との国交回復がなると、長年抑留されていた日本人はやっと故国に帰されることになった。
10月20日、柄澤十三夫は収容所の洗濯場の梁に紐をかけて首吊り自殺をした。
柄澤の遺骨は今でもチェレンツィ村の俘虜収容所墓地に眠っている。

ちなみに石井四郎は昭和34年国立東京第一病院で喉頭癌のため死去した、享年67歳。
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「シベリア決死行」/岡崎溪子 出版:アルファポリス
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