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重慶のサッカー事件はなぜ起きたのか?日本と中国の理解のための日中戦争の問題点を検証する

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2006/09/29

日中戦争の問題点を検証する 第97話

                         日中戦争の問題点を検証する 
 
                         
             第97話 樺太・千島列島での日ソ戦争


 1945年8月8日、ソ連は日本に宣戦を布告し、満洲国に奇襲攻撃してきた。
ドイツが5月7日に無条件降伏すると、兵をシベリア鉄道で満洲国境に送り、戦争に
参加
することを決めていたのだ。
7月1日、大本営が入手した情報によると、ソ満国境の周辺に増強されたソ連軍は約55万。
戦車2千輌、飛行機4千機、各種火砲7千門。
なおもシベリア鉄道で大兵力の移動が続いている。
どうみても日本との開戦が狙いである。
終戦の仲介をソ連に頼んだ鈴木貫太郎内閣も同意した海軍も驚いたが、「火事場泥棒」を
国是とするソ連が、日本が敗北しようとしているのに何の収奪物もなしにおとなしくしているはずがない。
終戦になる前に獲れるものは実力で占拠するのがソ連のやり方である。
日本を占領してドイツのように割譲して欲しい。
狙いは満洲、樺太、千島列島、そして北海道だ。
アメリカ大統領トルーマンに北海道の割譲を求めたが、トルーマンは拒否し、「日本民族を
奴隷化しない」と明言した。
しかし、スターリンも引き下がらない。『こうなれば実力で奪うのみ』と決意した。
ソ連は三方に別れて満洲、樺太、千島列島に怒涛の進軍をしてきた。

樺太の日本軍は常にソ連に対しては警戒してきた。
昭和17年には「樺太特務機関」を豊原に新設した。敷香(しきか)と恵須取(えすとる)にも
支部をつくった。
ソ連の情報獲得や軍用有線の傍受を研究していた。
7月中旬、日本陸軍北部は樺太国境にソ連大部隊が国境線付近で演習を行っているのを
監視哨が
発見し、師団司令部に報告してきた。
師団からの報告を受けて樋口は近いうちにソ連軍が攻めてくることを確信した。
上敷香(かみしきか)は国境線に近い。
第八十八師団参謀長・鈴木康生大佐は樋口の命を受けて防衛戦闘の準備に入った。

樺太の歴史を簡単に記すと、原住民はツングース系の人々である。
南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族はオロッコと呼んだ)、北部にニヴフ民族
などの北方少数民族が先住していた。
アイヌは本州東北部から北海道、千島列島、樺太を生活圏としていた。
「からふと」の名は、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ」と呼んだ
ことに因んでいる。
アイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江の河口からみてその先に位置することに由来する。

清朝はおなじ狩猟民族であるから樺太の存在を認知したが、清国領とは見なさなかった。
貢物を貰って満足した。
日本では江戸時代の1636年(寛永13)、松前藩主松前公広が甲道庄左衛門を樺太に派遣し、
調査する。
このころ帝政ロシアはシベリアのツンドラ地帯からカムチャッカ半島にまで清の様子を見ながら
次第に領土を拡大していた。
そして樺太は囚人の流刑地とし、監獄を建設し、事実上の占領をしてきた。
これに危機感をもった幕府は1808年(文化5) 最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで
樺太に派遣。松田伝十郎が北緯52度の樺太最西端ラッカ岬に「大日本国国境」の標柱を建てる。
間宮林蔵は樺太が島であることを確認した伝十郎が帰ったあと、単身、海峡を渡って黒竜江下流を
調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されている。
間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトはのちに作成した
日本地図で、樺太・大陸間の海峡をマニワノセトと命名した。
日本の地図では「間宮海峡」と表記されているが、現在のロシアの地図では「タタール海峡」と
書かれている。
幕府は樺太の呼称を北蝦夷(きたえぞ)と正式に定める。また、アイヌの山丹貿易を幕府公認とし、
アイヌを事実上日本人として扱った。
1855年2月7日(安政元年12月21日)に伊豆下田の長楽寺において日本とロシア帝国の
間で「日魯和親条約」が締結された。
日本(幕府)全権は、大目付格筒井政憲・勘定奉行川路聖謨。ロシア側全権はプチャーチン提督である。
北海道が日本領、得撫(うるっぷ)島以北の千島列島がロシア領に決まる。ただし、樺太では
境界線を決めないことになった。
これはすでに樺太にロシア人が多く住み、無視できない状況をつくりあげていたことを
意味している。
 
日本は明治2年になって外務権大丞・谷元道之に樺太駐在を命じた。
翌年には樺太開拓使設置、公議所をクシュンコタンに、トンナイ、シララカ、シラヌシに
出張所を置く
つまり、樺太にはロシア人より古くから日本人が住んでいることを正式に表明し、役人を
置くことでロシアに領土権を主張されないようにしたのである。
ところがロシアは樺太が欲しくて仕方がない。
せっせと兵士と移民を送り込んでいた。
そこで1875年(明治8)に樺太千島交換条約調印、8月22日に批准書を交換した。
樺太アイヌ845名は北海道の石狩に移住させられた。
これは北海道開拓長官であった黒田清隆の指示による。札幌本庁を預かっていた松本十郎は、
強制移住に反対して辞任した。
黒田の考えは樺太よりもまず北海道の産業振興を図るべきだとして樺太を見限ったのだ。
しかし、アイヌはもとより、豊臣秀吉時代から300年間営々とこの極寒の地に産業振興に
汗を流した先人たちの努力は水泡に帰したのだ。
また交換で得た千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)はロシアと向き合う最前線となり、
国境警備の拠点として日本軍が駐屯、居住していたアイヌは色丹島などに移住させられた。
しかし、居住環境の急な変化についていけず、多くのアイヌが死亡した。

ところが日露戦争で日本が勝利したことで再び樺太は日本の領土となった。
ロシアは北樺太にロシア人が多く住んでいるのでこれを要求した。
一つの島に2つの国が存在するのは紛争を招く危惧はあったが、日露戦争は日本の辛勝で
あったから明治政府も断乎とした態度を取れない。
おまけに30年の空白でロシア人が大幅に増えていた。
そこで樺太の北緯50度を国境として南北に分割し、南樺太を日本の領土とした。
すなわち、ポーツマス条約によりロシアから割譲を受けた北緯50度以南の地域及びその
付属島嶼を指す。
面積は36090、3平方キロ(海豹島・海馬島含む)である。
以前北海道に強制移住させられた樺太アイヌのうち336人が故郷に戻った。
1907年(明治40年)3月15日、樺太庁官制により樺太民政署が改組され4月1日発足。
 当初は、大泊に置かれていたが、翌年8月13日に豊原へと移転した。

1920年(大正9)5月、尼港事件(にこうじけん)により北樺太も占領したが、1925年に
撤兵する。
尼港(にこう)とは、黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港のこと。
間宮海峡をはさんで、樺太と向い合った大陸の、黒龍江の河口にある最果ての小市街である。
人口は約1万5千でこの方面における漁業の中心地であり、サハリン州庁、領事館などもあり、
政治の中心地として、夏季は相当に活気を呈していた。
しかし冬季には外部との交通が遮断され、孤島のような状態となるのである。
ここに居留する日本人は約440名、ロシア人のほか、満人、朝鮮人、英国人など約4500名が
住んでいた。

1917年(大正6)2月革命と10月革命によって、ロシアは帝政を廃し、社会主義国家が
出現した。第一次世界大戦の末期である。
その後しばらくは反共勢力と内戦状態が続いていた。
凶暴な共産パルチザン(ゲリラ)がニコライエフスクの街に入り込み、次第に勢力を増した。
そこで9月、海軍陸戦隊が上陸して占領したのち、第十二師団の一部がこれと交代し、ついで
第十四師団の一部(石川正雅少佐の指揮する歩兵第2連隊第3大隊の主力、兵力は188名)が
守備にあたっていた。
なにしろ地球上に初めて出現した共産主義国である。
危機感を抱いた欧米諸国、アメリカ、日本の連合国は、ロシアの極東ウラジオストックに
「チェコ軍捕囚の救出」を名目にシベリア出兵に踏み切った。
できうるならば、圧力をかけ、共産主義を打倒したいのである。
連合国の干渉に怒った共産武闘派は日本人が多く住んでいて軍隊の手薄なニコライエフスクを
狙ったのである。
2月5日、赤軍系パルチザンと韓人教師朴エルリアが組織した「サハリン部隊」とが連合した
過激派軍は、近郊にあるチヌイラフ旧要塞を奇襲占領し、海軍無線所を破壊した。
このため守備隊と外部との通信連絡は全く遮断された。
石田虎松領事の報告を受けた政府は、2月13日になり、ようやく尼港救援隊派遣を決定した。
しかし、当時の国際社会は日本がロシア革命のどさくさにまぎれて領土的野心をもっているのではないか
と疑っていたから、救援派遣を一時は思いとどまった。

シベリア出兵中の1920年(大正9)3月、過激派は日本守備隊を襲撃した。
守備隊は人数がすくないので過激派に対して一旦降伏した後、日本陸軍側が再度攻撃したものの敗北する。
生き残った日本人は軍人であるか民間人であるかを問わず捕虜とされた。
そして、5月に日本陸軍がニコライエフスクへ援軍を送ったのを知ると、過激派は捕虜を
殺害した上で逃亡した。
また、日本人以外の市民も殺害した上、街を焼き払った。
旭川の多門二郎大佐が救援隊を率いて6月4日ニコライエフスクに到着すると、全市は満目荒涼と
した焼野原と化し、惨憺たる光景を呈していた。
日本軍は、せっかく救援に向かったが、ただの一人も救出できず、ただ同地に残留したキリスト教徒
50名と、恨みを呑んで虐殺された屍体を見出すのみであった。
憤激した日本軍は樺太北部の占領を開始し、1925年まで日本軍の駐留が続いた。

のちにパルチザンの責任者はソビエト連邦政府により死刑になった。この事件による日本人犠牲者は
約700名に上り、その半数は民間人であったため、国内世論は憤激の声が渦巻き、反共機運が
強まった。
日本陸軍がシベリア出兵を延長したのは、この事件によるロシアの邦人居留民の護衛も大いにあった。
1918年からのシベリア出兵の主力はアメリカ軍と日本軍であったが、地理的に近い日本軍が
簡単に撤退できる情況ではなかったし、満洲国に過激派が流れ込んでいくかどうか、その警戒にも
1922年までの4年間の駐留は長くはない。
また国土が地続きである南樺太の保護のために1925年まで北樺太に駐留した。
大体がシベリアは流刑地であり、囚人は開拓農民として戸外に出て労働していたから
凶暴な
者が多く、油断ができないのである。
常に領土を拡張し、南下して良港を求めて実力行使で略奪する。ついには共産化して
軍事力を
さらに強める。野蛮な上に約束を守らない。
ロシアの行動をみれば日本人がロシア人を警戒するのは当然のことである。

広島に原子爆弾が落とされると、樋口将軍の予想どおり、ハゲ鷹は弱りきった日本にとどめを
刺そうとやってきた。
侵攻してきたソ連軍最高司令官は、A・M・ワレンスキー元帥である。
ザバイカル方面軍司令官はマリノフスキー元帥、攻撃目標は大興安嶺山脈から満洲国の
首都新京方面。
第一極東方面軍はメレツコフ元帥が指揮をとり、吉林、ハルピン攻略を目指す。
第二極東方面軍はブルカエフ大将が指揮して黒竜江、ウスリー河を渡河し、東満洲を制圧し、
その一部は太平洋艦隊と協力して、樺太を攻撃する。
その兵力は130万、狙撃師団50個師、機甲師団15個師、戦車4千輌、車輌2万5千台、
航空機5500機。

マリノフスキー軍は、侵攻第1日目に早くも150キロを突破、
メレツコフ軍は牡丹江付近まで進出した。
ブルカエフウスリー河、黒竜江を強行渡河し、満洲国国境守備隊は随所で孤立し、壊滅状態に陥った。

8月10日、午後10時、ソ連軍最高統帥部は満洲における奇襲侵攻作戦が予想どおりに
進捗しつつあるのをみて、樺太侵攻作戦を発令した。
北樺太の第十六軍司令官チェレミソフ少将は、
「8月11日10時を期し、樺太国境を突破、北太平洋艦隊と協力し、8月25日までに
全樺太を占領せよ」
との命令を受領した。
樺太に侵入したソ連軍は、第十六軍の主力である第56狙撃軍団2万で、戦車旅団1個
と
独立戦車大隊2個を持つ強力な機械化部隊であった。
ソ連軍がくりだした戦車は、独ソ戦でタイガー戦車と互角に戦い、すばらしい機動性を
発揮した
T34中型戦車で、重量32トン、85ミリ砲を備えていた。

しかし、日本軍にはこの戦車群に立ち向かえる戦車は1輌も配置されていないばかりか、
対戦車砲もなかった。
国境陣地で最初にソ連軍と接触したのは8月11日午前5時である。
8月10日午後10時、北樺太の第16軍司令官・チェレミソフ少将は、
「8月11日10時を期し、樺太国境を突破、北太平洋艦隊と協力し、8月25日までに
全樺太を占領せよ」との命令をソ連軍最高統帥部より受領した。
国境からわずか4キロの半田には小規模の日本軍陣地があり、大国武夫少尉、泉沢少尉らの
2個小隊が防備にあたっていた。
主力の第125連隊は半田から8キロ後方の八方山陣地、さらに5キロ後方の古屯にあった。
尖兵となって突入してきたソ連軍は戦車5輌、火砲五門を持つ一個中隊であったが、大国・
泉沢小隊は速射砲で応戦し、ソ連の進撃を阻止した。
ソ連軍は500名の兵力を守備隊に補強し、攻撃を強化し、大国小隊は奮闘及ばず、夜間に
負傷者を後方に離脱させたのち、玉砕した。
ソ連軍は戦車を先頭に南下を開始してきたので、八方山の山砲陣地はこの戦車群に猛攻を加えた。
先頭の戦車が炎上すると後続が立ち往生する。そこを狙い打ちに攻撃する。
さすがのソ連軍も森林地帯に遁走した。
しかし12日にはさらに兵を増強して南下を開始したので、小林連隊は速射砲と山砲で攻撃し、
進出を阻止した。
ところが大本営から「第一線部隊はあくまでも防御戦闘を行い、攻撃はなすべからず、やむお
えざる場合は積極的防御をなすべし」という命令が届いた。
これはモロトフ外相から宣戦布告書を受け取った佐藤駐ソ大使からの連絡がまだ到着していなかったので、
大本営はバカ正直にソ連の正式な宣戦布告を待ったのである。
タス通信は8月9日の午前4時に「ソ連参戦」ニュースを伝えたが、この真偽を確かめるために
大本営はこの2日間待ったをかけていたのである。
マリク大使から公式文書を受け取った8月10日になって大本営は正式に対ソ連作戦行動を
開始したが、前線に伝わったのは8月12日であった。

第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官・樋口季一郎は8月12日、「積極的戦闘禁止」を解除し、
直ちに戦闘行動に入るよう訓令した。
「宿敵ソ連軍、我に向かって立つ。怒髪天を衝く。…断乎仇敵を殲滅し、もって宸襟を
安んじ
奉らん」
この檄文で将兵の士気は鼓舞された。
8月12日朝、半田西方12キロにソ連軍が侵攻してきた。この地域は幌内川に沿って
茫漠たる
ツンドラ地帯が続いている。そのため防御も手薄であろうとソ連軍は読んだ。
しかし、樋口は予想していたので、現地の岡島小隊に幌内川の橋梁を破壊させ、道路に
障害物として
倒木を設けて置いた。
ソ連軍は進軍を阻まれたが13日には北緯50度線から南に17キロの古屯(ことん)に達した。
古屯陣地の第八十八師団小林連隊との攻防戦が以後4日間続くのである。
戦況は五分五分で、戦車隊にひるまず日本軍はよく戦った。
札幌から援軍も派遣されようとしていた。
しかし8月14日ポツダム宣言の受諾、15日の終戦の詔勅が出されて、この訓令が17日に
前線に伝達され、八方山陣地で交戦中の小林連隊は戦闘をやめた。
ところがソ連軍は攻撃を強化し続けた。
それどころかソ連軍最高統率部は千島、南樺太への侵攻作戦を8月15日に発令している。
アメリカ軍が8月15日をもって戦闘をぴたりとやめたのに対して、樺太では8月28日
まで戦闘が続いていたのである。

日本が降伏して士気が衰え、混乱している隙に乗じて北海道目指して怒涛の進撃が可能であると
「火事場泥棒」は例のごとく実力行使にでたのだ。
第八十八師団の主力は既定計画どおり、樺太南部確保のため動かず、第七師団から歩兵3個大隊、
砲兵1個大隊を基幹とする一支隊が出動準備を終え、第一飛行師団も持てる戦力を動員し、
樺太作戦に出動する態勢を整えていた。
8月15日の終戦の詔勅が出て大本営は即時戦闘行動を停止するよう、各方面軍司令官に
対して命令した。
第5方面軍司令官としての樋口は直ちに全軍に訓示を発し、将兵の軽挙妄動を戒め、内外に
対して日本武士道の真髄を発揮するよう要望した。
豊原にあった峯木師団長は各部隊長にこれを伝え、戦闘中の前線にも伝令を送った。
しかし、ソ連軍は八方山陣地で戦う意思をすてた小林連隊に攻撃を続けた。
これに怒った木下大尉は8月16日、北極山陣地で独断出撃し、戦死した。
ソ連軍は南下を強行し、8月16日は恵須取(えすとる)と塔路(とうろ)に空襲と艦砲射撃を行った。
8月20日、樺太西岸の日本海に面した港町「真岡(まおか)」(現在は「ホルムスク」)に、
ソ連の軍艦が現れ、艦砲射撃を始めた。このとき各部隊は武装解除の準備にかかっていた。
日本軍は反撃に出るわけにもいかず、対応に苦慮することになる。

真岡の荒貝沢にあった歩兵第二十五連隊第一大隊は、大隊長命令で将校斥候として岩瀬少尉が
兵を率いて出ていった。
同少尉らはその後ついに戻らなかったが、真岡の状況は連隊砲の広瀬分隊などからくわしく報告された。
しかし、仲川大隊長は発砲を厳にいましめるだけであった。
避難民が右往左往するのを喜ぶかのようにソ連軍は街中に機銃掃射を浴びせた。
火災がいたるところで発生し、住民に死傷者が続出している。
しかし、仲川大隊長は交戦を許さず、現場待機を命じ続けた。
ついに上陸して戦闘を続けるソ連軍に対して、停戦軍使を派遣することを決定した。
軍使に決定したのは村田徳中尉と随員・前岡軍曹(大隊本部書記)、通訳金山軍曹(朝鮮出身者)、
護衛兵7人、軍犬一匹。この軍犬は不測の事態が起ったとき放つためのものであった。
一行を本部前に集合させ訓示のあと水盃を交わして送り出した。
軍使の口上文は日ソ両国語の二通りを通信紙に記述し、白旗も濃霧の中で軍使であることを
たやすく確認できるように敷布大のものを携行せしめるなど、万般の準備をした。
ときに20日午前3時半だった。

軍使のソ連軍への申し入れは以下の通りである。
一、我々は大日本帝国天皇の軍隊なり。
一、八月十五日正午、終戦の大命降下し、日本軍は自主的に戦闘行動を中止した。
貴軍隊はこれを知らないのか。
一、我々は戦闘をする意志がない。よって貴軍隊は直ちに戦闘行為を中止して欲しい。
一、直接、指揮官相互において話し合いを行い、平和裏にことを運びたいので貴意を得たい。

連隊本部への有線電話は砲撃のためか切断されていたが、そのころようやく補修され、軍使の
出発を報告した。
午前9時、仲川大隊長がソ連軍の動静と軍使のことを心配しつつ、本部にて図上の諸計画を
考えていた時、周囲の静けさを破り、突然、自動小銃の断続音が3、4回、沢の入り口方向でした。
濃霧はいまだに晴れず、視界ようやく二百メートル程度であった。 
不安がかすめた。
午前10時、軍使の護衛兵であった松木一等兵が第一線の兵に付き添われ、顔を血に染めて帰ってきた。
その瞬間、不安が的中したことは疑う余地がなかった。
「村田副官殿がやられました」といったあとは号泣している。
荒貝沢の入り口でソ連軍は軍使が通訳を通して話している最中に自動小銃で軍使一行を撃ち殺したのである。
その後護衛兵2名が負傷して帰ってきた。

仲川大隊長からの報告を受けた連隊本部からは、しばらくして「衛戌勤務令第十一条、第十二条に
基づき行動するように」という命令があった。これは歩哨が剣を用いる場合の条項で自衛
戦争のことをいうもの。直ちに村田軍使以下の惨殺の状況とともにこのことが各隊に命令された。
やがて、ソ連軍が「豊真山道」はもちろん、荒貝沢の両側の山からも一斉に前進してきたという報告が、
斥候や第一線の各隊からほとんど同時に大隊本部に入ってきた。
そこで第一大隊は初めて先頭の火ぶたを切ったのである。
ソ連の艦隊からソ連兵たちが真岡に上陸を開始し、第一大隊が迎え撃って反撃したため、
ソ連の艦船からも真岡に対して一斉に射撃が始まった。
ソ連軍の射撃は無差別射撃で、軍人だけではなく多くの民間人が殺された。
熊笹峠や宝台ループ線を舞台に日ソ両軍が激戦を交えた。

真岡郵便局電話交換手の女性9名が、通信網を断つまいと交換台を最後まで守りぬき、最後に
青酸カリを飲み自決した悲劇でも有名である。
電話の交換業務は24時間休みなく続けられるため、彼女たちは昼と夜を通して交替で勤務し
続けた。
しかし、彼女たちは全員、万一の事態を想定し、薬品室にあった青酸カリをポケットに忍ばせていた。
もしもソ連兵から乱暴されそうになったときは、大和撫子としての誇りを守るため、自らの命を
絶つためである。上陸したソ連兵によってあちこちで若い女性が乱暴されているという噂は、
真岡にも届いていた。

ソ連軍は22日には豊原(豊原・現ユジノサハリンスク)を空襲。
この間それぞれ海路から上陸を強行して一方的な攻撃を加えてきた。
ようやく停戦交渉が成立したのは8月28日のことである。
そして9月2日に降伏文書に調印されてやっと終戦になった。
ソ連軍が南樺太へ侵攻して占領し、駅も含め全線がソ連軍に接収された。
終戦時、南樺太の人口は約40万人。戦争が終結したのにもかかわらず、ソ連の侵攻で多くの
民間人が犠牲となった。
日本兵は武装解除ののち、シベリアに送られた。
1937年、建築家・貝塚良雄が丹精込めて建設した天守閣を取り入れた「帝冠様式」の
樺太庁博物館は、現在はサハリン州郷土博物館として使われている。

千島列島侵攻作戦は8月15日にブルカエフ大将から出されている。
17日から開始された「占守島上陸作戦」で根拠地となったのはカムチャッカ半島の東海岸にある
ペトロバウロフスクの街である。
先遣部隊の海兵隊8360名が乗り込んだ船団が午後6時に次々に出港した。
それと呼応してカムチャッカ半島尖端のロバトカ岬から沿岸砲が占守島の国端岬めがけて
連続砲撃を開始した。
海上14キロしか離れていない占守島国端岬は文字通り、国土防衛の最前線である。
ここを守るのは屈強の2万8千の堤兵団である。海軍部隊を入れると3万2千人。
火砲200門、戦車一個連隊85輌の堂々たる威容である。
しかし8月15日の終戦で彼らは戦争は終わったと思っていた。
大本営からの指示は「一切の戦闘行為を停止す。ただしやむおえざる自衛行動をさまたげず、
完全撤退の時期を8月18日午後4時とする」
もちろんこの通告を受けて8月16日には千島、樺太に関して打ち合わせをソ連に対して
関東軍総参謀長・秦彦三郎中将を通じて交渉すべく要請していた。
この無法なソ連軍に対して大本営の指示に従って黙認するか、「自衛の戦闘」をなすべきか、
樋口司令官は熟慮した。

そして樋口は祖国をソ連の毒牙から守ることに決めた。
「断乎反撃に転じ、上陸軍を阻止せよ!」堤兵団に電報が飛んだ。
8月18日午前零時、ソ連軍は竹田浜に上陸を開始した。
同時に海からも艦隊による艦砲射撃が火を吹いた。
迎え撃つ村上守備隊長は徹底抗戦を指示、激戦が繰り広げられた。
竹田浜はソ連兵の死体で埋まり、ソ連の撃沈された船舶が累々と横たわっていた。
しかし、その兵の死体を乗り越えて、さらに駆逐艦、輸送船で2万の兵がこの小さな占守島に
続々と上陸しようとしている。
マンドリン銃を抱え、鬼の形相で「ウラー!ウラー!」と叫びながらすさまじい勢いである。
池田末男中佐率いる戦車隊は64輌の戦車を持つ方面軍の「虎の子」である。
上陸して進攻しようとするソ連軍をふたたび竹田浜に追い返した。
奮戦する戦車隊に対してソ連軍は対戦車砲を陸揚げして前面に押し出した。
ドイツ戦線でドイツのタイガー戦車を打ち抜いたロケット式の秘密火器である。
日本の戦車はこの対戦車砲の前に無力で、次々に戦車の側面の52ミリの銅鉄をぶち抜かれた。
それでも日本軍は壮烈な体当たり攻撃を加えて健闘していたし、幌筵からも佐藤少将率いる
歩兵第74旅団6千が援軍に駆けつけようと移動を開始していた。
陸海航空部隊は竹田浜で揚陸中の輸送船を攻撃し、撃沈させていた。
戦闘は日本軍有利である。
8月18日、大本営はマニラのマッカーサー司令部にソ連軍が不法に攻撃していることを
告げ、ソ連に停戦するよう指導してほしいと打電した。
しかしソ連軍最高司令部はこれを拒否した。
午後4時、堤師団長は停戦の軍使を派遣することを決めた。
天皇陛下が終戦を宣告されたのにまだ戦闘を続けることは陛下に背いていると考えたのだ。
軍使には司令部付の長島厚大尉が選ばれ、わざとソ連軍に捕まりに行った。
しかし19日になっても帰還しなかった。
ふたたび軍使として山田秀雄大尉を派遣した。日魯漁業の清水通訳を連れて赴いた。
ソ連軍司令部は小泊崎の海岸にあった。
カムチャッカ地区防衛司令官・グネチコ少将と第一梯団長・ディヤコフ少将が杉野少将
と
柳岡参謀長が午後3時過ぎに竹田浜で正式に会見した。
ソ連側の条件は敗軍に対する無条件降伏を求める屈辱的な要求ばかりである。
しかし、戦闘は日本軍に利がある。武装解除を求めた後の兵の処遇が語られない。
それでもいずれは停戦して武装解除を受けるのであるからサインした。

旅団司令部に戻った柳岡の報告を聞いて、堤師団長は「武装解除と戦闘停止は別である。
方面軍から訓令があるまでは武装解除は断じてならん!取り消して来い!」
柳岡は清水通訳と竹田浜にふたたび向かった。
それっきり消息を絶った。
ソ連はこの日、夜襲をかけてきた。
山田大隊はこれを予想していて反撃した。
日本側がおとなしくしていればソ連軍の思うツボで、どんどん内地まで侵攻が進むであろう。
何としてもこれを防がねばならない。

21日午後4時、堤師団長は攻撃を再開することにし、全将兵を戦闘配置につけた。
そのとき、方面軍から「停戦すべし、武器引渡しも了解す」との暗号電報が届いて、
完全に
戦争は終わった。

この千島列島侵攻はスターリンがソ連極東軍総司令官・アレクサンドル・バシレフスキーに
命じたものである。
ヤルタ会談で千島列島の割譲はアメリカのトルーマン大統領とイギリスにも認めさせたものの、
北海道の割譲にはどうしてもトルーマンは許さなかった。
日本軍の方面軍が強固に戦ったので、一挙に北海道まで攻め込むことはできなかった。
しかし、方面軍が21日に武装解除に応じたことで、8月31日までには千島のしゅむしゅ島
からうるっぷ島までの各島にソ連軍は上陸し、占拠を完了した。
ソ連軍の択捉島への上陸は8月28日の夜に開始され、1万5300人の日本軍はなんら
抵抗することなく降伏した。
9月1日、国後島と色丹島に上陸、島に在駐する4800人の日本兵は武器を捨てた。
その後、9月2日、ソ連軍は急遽歯舞群島も占領することを決定し、9月3日になって
歯舞の
多楽(たらく)、志発(しはつ)、勇留(ゆり)、秋勇留(あきゆり)、水晶(すいしょう)の島々に
上陸し、9月5日までに全島の占領を完了した。
実は北方四島の占領にはソ連は躊躇していた。
トルーマンに千島列島(クリール列島)をソ連領とすることを認めさせたが、もともと北方四島は
北海道に付随していて、千島・樺太交換条約のときも対象外である。
もしもアメリカ軍がすでに日本に上陸してきていたら文句を言われるのではないか、と恐れていた。
終戦時の案内人として北千島師団参謀の水津満(すいつみつる)陸軍少佐はソ連駆逐艦に
同乗したが、
うるっぷ島までくると反転して北千島に帰ったので、ウォルロフ参謀長にその理由を聞いた。
参謀長は「これより以南はアメリカの担当だからソ連は手を出さない」と明言した。
しかし、どの島にもアメリカ軍の姿は見えず、『シメシメ、ならば頂こう』と占領したのである。
これはアメリカの無知による。日本を占領しようとする者がその領土の詳細を知らなかったのである。
それでなくてもソ連が北海道をしつこく欲しがっているのを知っていながら千島をソ連に
占領することを許したのである。
ならば、日本とソ連の国境をヤルタ会談で明確にしておくべきである。
おまけに千島列島が日露戦争の30年も前に、1滴の血も流さず、国際条約として樺太と
交換された日本の正式な領土であるという認識がない。
ましてや江戸時代に日露間で取り決めた条約に北方四島は日本固有の領土であることを
明記
されているのを知る知恵もない。

ともかくも千島全島はソ連に占領され、武装解除させられた日本兵はシベリアに強制的に
労働力として拉致され、地獄の苦しみを味わうことになる。
1951年(昭和26)日本はサンフランシスコ条約(ソ連は不参加)により、樺太・千島18島を
放棄したが、国際上これらの地域の帰属は未定であり、帰属決定の国際会議は開かれていない。

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      メールアドレス okazaki88@mocha.ocn.ne.jp
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「シベリア決死行」/岡崎溪子 出版:アルファポリス
http://item.rakuten.co.jp/book/1665296


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