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自ら判官贔屓と称する筆者が描くこの人物の魅力と実像に迫る。日本史好きの筆者が考えるこの人物の実体とは?

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2005/07/30

本能寺の変

                武将あの日あの瞬間
 
                     柴 田 勝 家 編                      
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◆目次
 
◇本能寺の変
 
◇編集後記

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◇清洲会議 
 
  さて、柴田勝家は1582年に、上杉方の魚津城に押し寄せた。
  
  途中上杉景勝が救援に入ったが、織田勢の越後出兵を知り、遂には魚津城を見限

  り帰還してしまった。
 
  ようやく孤城となった魚津城を陥落させた翌日の6月4日、急使の報告により驚く

 べき事実を知る。

 「本能寺の変」である。
 
  早速軍議を開き、このような総大将不在の状況では、この地にいても

 不利は免れないとの結論に達し、越中から撤兵し越前に帰還する事となった。
 
  8日に魚津城を出立、11日に居城越前北の庄城に到着、自国の治安・軍備陣容を整

  えた後の18日には、ようやく明智光秀討伐の為出陣した。
 
  ところが、20日に柴田勝家軍が近江・木本峠に入った時、秀吉方の使者より光秀

  を討ち取ったとの報が届いた為、進軍を中止する。
 
  後に残ったのは、織田家の世継ぎ問題と残った領地の分配の問題である。
 
  柴田勝家は、織田家最古参の重臣武将として面子を賭け、「清洲会議」を開こう

  とする。
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◇編集後記
 
  秀吉の中国大返しの行動を見てみると、柴田勝家の行動の速度では、到底明智光

  秀を討つのに先んずる事が出来ません。
 
  11日に、柴田勝家が北の庄城に越中から帰還した時の翌日には、秀吉は既に
 
  摂津富田まで陣を進めています。
 
  この事は、「本能寺の変」が起こった際の両者の状況・戦況の違いが、

  甚だ弔い合戦をするのには、秀吉に優位であったという事が言えるでしょう。
 
  同時に、この光秀との戦いに賭ける秀吉の意気込みというものも感じますが、

  野望の片鱗もその時に既に当然芽生えていたのでしょう。

  つまり、柴田勝家は、自分を織田家に仕える一武将と考えていたのに対して、

  秀吉は、この機に乗じて織田家を取り仕切ってしまおうとまで、考えていた様な

  節もあるのです。
 
  ところで、3日に「本能寺の変」を知り、4日に清水宗治の切腹をもって毛利氏と

  和睦、6日には備中を出立し、弔い合戦に向かうと言うのは今更ながら疾風迅雷

  の早さです。
 
  対するに、勝家の方は自国の治安維持や一向一揆・陣容の整備に時間を取られて
 
  敏速な行動が出来ませんでしたし、意気込みも秀吉に比べるとやはり劣後してい

  たのかな?と感じます。
 
  次回は、「清洲会議」をお送りします。
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