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2008/12/28

ガンジー村通信 vol. 335

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     〜 自衛隊イラク派兵反対ハンスト・リレーマラソン 〜

                  2004年1月26日以来、本日で1799日目


          ≪ ガンジー村通信  2008/12/28  vol. 335  ≫


本誌HP http://www.h2.dion.ne.jp/~hansuto/
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                I N D E X
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    【1】年の瀬の雑感 〜雪野原に千円札を追う〜        ・・・藤森治子

    【2】森鴎外―「非武装」へのまなざし          ・・・末延芳晴

           史伝『都甲太兵衛』と「据物」の思想 

     【3】ハンスト日記                 ・・・参加者



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【1】年の瀬の雑感 〜雪野原に千円札を追う〜         藤森治子

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 例年になく暖かい師走で、このまま新年を迎えるのかと思っていたら、昨日
初雪が降った。今冬一番の寒さであったという。連日TVで流される経済不況に
よる派遣社員の雇い止め、非正規雇用の首切り、炊き出しに集まる人々の群れ
を見ながら、この年の瀬に、この寒さの中を、仕事と住むところを失った人た
ちはどのようにして夜を過ごすのかと思うと心が休まらない。その画面を見な
がら、半世紀以上も前に我が家で起こったある「事件」のことを思い出してい
た。

 敗戦ですべてが灰燼に帰して信州に疎開していた昭和20年代のことである。
吹雪の夕暮れのことであった。ことの経緯は忘れてしまったが、起こったこと
は今も記憶に生々しい。母のいいつけで用事に行って外から帰ってきた兄が、
軒下で母に一枚のお札を渡そうとしていた。そのとき、雪交じりの突風が吹い
て、そのお札があっという間に兄の手を離れ風に持ち去られてしまった。慌て
て家族中で強い風と雪の舞う中をそのお札を追いかけたが、黄昏時の薄明かり
の真白い雪野原に消えてしまった一枚のお札は、とうとうみつからなかった。

 その一枚のお札は聖徳太子の千円札であった。今私たちの財布の出入りで最
も活躍するのは野口英世の同じ千円札だが、十円札、百円札が最も財布の中で
活躍していた時代の千円の価値は今とは比べようのないほど高かった。それ以
上に、その失われた千円札は、父を亡くした母子4人が年を越すための越冬資
金であったと思われる。兄の不注意を叱りながら落胆する母、己を責めて悄然
とする兄、・・・・・悲しい年の暮れであった。

 当時私は小学生で、吹雪の中の「千円札捜索隊」の一員でもあったが、今で
も時折千円札を握る時、その時の情景や感情が思い出され、家族の悲哀がよみ
がえって来ることがある。その千円札がどこからきたものであったか、どこへ
消えたのか、失われた千円札の支える家計を母はどのように切り抜けたのか、
今となってはほとんど記憶はないが、この年の瀬の我が家にあった「事件」の
記憶だけは消えない。

 もう一つ、年の瀬になると思い出すことがある。千円札の事件から1〜2年
後のことではなかったかと思う。父の死後ほとんど母の実家に寄生していた我
が家にも、暮れになるとお餅が届けられた。ある日、嬉しくてわくわくするほ
ど沢山の切り餅の山から、母は半分ほども取り分けて風呂敷に包み出かけよう
としていた。目の前の幸福を持っていかれるような思いで、「どこへもってい
くの?」と難詰する私たち子どもに向かって、「○○ちゃんのとこも、△△ち
ゃんのとこも、お正月だというのにお餅も食べられないんだよ。可哀想じゃな
いか」と母は言って風呂敷包みを背負って出て行った。

 先日NHKスペシャル「セーフティネット・クライシス2〜どうする非正規の
社会保障〜」の番組の中で、神野直彦東大大学院教授が、スウェーデンやオラ
ンダの社会保障の根源にはオムソーリ(omsorg)=「悲しみの分かちあい」と
いう思想があることを紹介していた。それを聞きながら、私は思わず母のこの
お餅のお裾分けのことを思い出し、あれこそオムソーリの思想の原形なのだと
思いあたった。お餅を独占して全部我が家で食べたい、でも世の中には食べら
れない人たちもいる、我が家とて潤沢ではないが、少し我慢して「分かちあお
う」という精神だ。

 オムソーリに基づいたオランダの労働システムは、例えば、会社が倒産しそ
うになったとき、正社員と非正規社員が仕事をシェアーし合い、賃金もシェア
ーし合って会社を維持していくというものだった。恐らく今の日本社会にこの
システムを導入するとなったら、個人の利害対立が険しく成り立たないかもし
れない。しかし、連合などの労働組合が今抱えている、「賃上げの要求」と「
雇用の確保」をどうしたら両立させることができるかという大きな矛盾した課
題へのヒントではあると思う。

 筋のある最後の自民党政治家であった後藤田正晴氏は、聞き書きの回顧録「
情と理」(講談社)の中で、敗戦直後の日本について次のように語っていると
いう。(JanJanより)

 <まさに国破れて、ということだ。敗戦から半年以上たった4月になると、
 人心はまるっきりすさんで、見るも無残な国民の姿でした。いたるところ破
 壊されていますからね。もうそれは何というか、惨憺たる状況だというのが
 私の印象で、ほんとうにこの国は立ち直ることができるのかなと思いました。
 いったいこの国民はどういうことになるのだろうか、と。(中略)人心が壊
 れてしまっているんだから。>

 今年の暮れだけでも8万人以上もの人たちが職を失うという。先日行きつけ
の美容院で、この10年来いつも髪をカットしてもらっていた美容師さんから、
「今日がお会いできる最後の日になりました」と言われてしまった。経営不振
で今年いっぱいで解雇されてしまうのだ。大企業ばかりでなく、小企業の故に
それだけこの不況の風は厳しく、恐らく全国各地でこの類の解雇が無数にある
に違いない。

 人は衣食住が充たされず、生きるために必死になるとき、時として暴走する。
秋葉原事件をはじめそういう悲劇的な事件をこの1年だけでも私たちはたくさ
ん見てきた。経済的不況の中では、誰もが他人を顧みる余裕はなくなり、後藤
田氏の言うように、人の心が壊れてしまい、社会は荒れ、殺伐としてくる。そ
れは、結果として誰にとっても住み心地の良い社会ではなくなってくるという
ことではないか。そのような社会になる一歩手前のところに今私たちはいるの
ではないかと実感した。

 私の母は、宗教者でもなくごく普通の日本人であり、戦争で疎開し、その疎
開先で夫を失うまで、本当の貧乏というものを経験したことはなかったと思う。
3人の子どもを抱え、どうにかこうにか生きていくような戦後の数年が母を成
長させたのだと思う。そして身に染みて味わった悲嘆の日々から自然に「オム
ソーリ」=「悲しみの分かちあい」という生き方を身につけたのだと思う。後
に民生委員でかけ回り、ヴォランティアなどという言葉がまだ普及していなか
った頃に、「ヴォランティアとは?」という難問を英文科の学生であった私に
投げかけてくるようになっていた。

 過日、捨てようとした古い海外旅行用のスーツケースの中から私は現金50
0ポンドを発見した。ポンドも下がってしまったが、多分10万円には満たな
いが5万円よりは多い金額である。バブル期もバブル以後もあまり世間の景気
とは関係のない仕事をしてきたせいか、平均的な生活であり、それほど贅沢を
してきたわけではない、と思っていた。しかし、イギリス滞在費の残りと思わ
れる500ポンドと、それをすっかり忘れ、忘れても生活できていたという事
実の中に、私は自分の中の「バブル期」を発見する。むかし吹雪の中で千円札
を追いかけた小学生は、500ポンドを忘れて生きている存在となってしまっ
ていたのだ。

 恐らく戦後半世紀以上を生きてきた人たちの多くは、私と同じような「むか
しの貧困」と「今の繁栄」という自己の中の「経済格差」を経験してきている
と思う。戦後は遠くなって、貧困も昔話のようになってしまったが、逆にお金
のみが唯一の価値であるかのような戦後の、そしてそれ以後の日本が、人の心
から自然に発する「悲しみの分かちあい」の精神を奪ってしまったのかもしれ
ない。この半世紀にわたる経済的繁栄の中で、私たちは多かれ少なかれ「オム
ソーリ」の気持ちを失ってしまったのではないだろうかと、自戒を込めてそう
思う。

 今日本が直面している経済不況は、ほんの始まりであり、アメリカを始めも
っとグローバルな条件の影響を受けながら、今後なお数年は続くことを覚悟し
ておかなければならないと思う。いわば、日本は「第2の敗戦」を迎えている
といってよいと思う。戦争が政治の失敗であるように、「経済戦争の敗戦」も
政治の失敗だから、まず政治を変えなければならないと思う。毎日のように報
道されている派遣社員の劣悪な労働条件や雇い止めなどは、すべて小泉政権の
時から準備されていたということも、二度と騙されないように、記しておこう。

 一方私たち一人ひとりが「オムソーリ」の精神をもって生きていかなければ、
この困難な日本の現状を打開する方向は見えてこないように思う。もしそれが
なく、依然として利己的な金権体質のまま流れていけば、日本は壊滅的な状況
に突入していく予感がする。そういう政治の流れを変えるのもまた、私たち自
身なのだと思う。

 雪野原に千円札を追いかけた切ない思い出とともに、母がさり気なくしかし
当然のこととして示してくれた行動の後姿が、今改めて大切なものとして輝い
て見えてくる。


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【2】森鴎外―「非武装」へのまなざし

          史伝『都甲太兵衛』と「据物」の思想               末延芳晴

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        この原稿は平凡社「月刊百科」に掲載され
        たものを転載しました。(編集)


 森鴎外は、大正5年1月から5月まで、「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」
に『渋江抽斎』を連載することで、いわゆる歴史小説時代に区切りをつけ、史
伝文学の時代に入る。そして『伊沢蘭軒』と『北条霞亭』と書き抜くことで、
文学者森鴎外の生をまっとうすることになる。それはまた、陸軍軍医官僚とし
て生を全うした鴎外が、本質的には文学者であったことを、言い換えれば、「
武」を乗り越え「文」の世界に生きようとして来たことを証明するため、最後
に潜り抜けなければならない審問に対して、鴎外が渾身の力を振り絞って書き
上げた答えでもあった。

 鴎外は、これらの史伝を書くことによって、「武士」の棟梁たる将軍を頂点
として、「士農工商」と社会的階層差別化を通して支配の力学が上から下に貫
ぬかれ、「武」がすべてに優越する江戸の時代にあって、「医」を生涯の仕事
とするかたわら、詩文、書画、芝居鑑賞など「文」の世界にかかわった人々の
生涯を再現、そこに「武」に優越する「文」の世界を現前せしめようとした。
そしてそのことによって鴎外は、生涯鴎外の生を縛り、苦しめ、掣肘を加えて
きた「武=軍」の戒めを乗り越え、「文」の世界に自らの精神を解き放つこと
ができたのである。

 さてそれでは、そこに辿り着くまで鴎外を支え、書くことを促し、励まして
きたものは何なのか? 近著『森鴎外と日清・日露戦争』(平凡社)の最終章
で記したように、私の読み取りでは、それは最終的には「非戦」へのまなざし
とでもいうべきものに行き着くはずの、鴎外に生得的資質として備わった何か
であった。

 知られているように、明治14(1881)年7月、19歳の若さで東京大
学医学部を卒業した鴎外は最初ドイツへの留学を望んでいた。しかし、それに
は卒業時の成績が一番か二番でなければならず、8番目で卒業した鴎外は泣く
泣く断念。両親や周囲の奨めもあって、当時一番待遇のよかった陸軍省に軍医
として入省する。以来、途中4年間のドイツ留学があったものの、軍医官僚と
して順調に昇進を遂げ、明治27年(1894)年10月、日清戦争に当たっ
ては、32歳の若さで第二軍軍医部長として初めて出征。凱旋帰国後は、陸軍
軍医学校長や陸軍大学教官を務めるものの、32(1899)年には北九州・
小倉の第12師団軍医部長に転任。およそ2年間、いわゆる「左遷」の時代を
送ることになる。

 しかし明治37(1904)年2月、日露開戦に当たっては、第二軍軍医部
長として再度出征、凱旋帰国後は第一師団軍医部長、陸軍軍医総監を経て、明
治40(1907)年11月、陸軍軍医としては最高位の軍医局長に昇進。軍
医局長を8年余務めた後、大正5(1916)年4月、医務局長を退任し、軍
医官僚・森林太郎としての生を全うしている。

 このようにおよそ35年間、軍医官僚として倦むことなく職務に務めるかた
わら、鴎外は、明治23(1890)年1月、処女小説『舞姫』を発表して以
来、啓蒙的文芸批評家として、翻訳家として、そしてまた詩人・歌人として、
戯曲家として、自然主義を標榜する現代小説家として、歴史小説家として、さ
らには史伝作家として、生涯を通して弛むことなく作品を発表し続け、文学者
森鴎外としても生を全うしている。

 もちろん、この間、軍医官僚でありながら文学者であることで必然的に抱え
込まざるを得ない分裂や矛盾に、鴎外は苦しみ、悩み、また外からは批判の矢
が投げかけられた。一度は、「鴎外漁史は死んだ」(「鴎外漁史とは誰ぞ」/
「福岡日日新聞」)と宣言したこともあった。にもかかわらず、鴎外は文学者
であることを一度もあきらめたり、筆を放棄したりすることはなかった。そし
て、文学プロパーの小説家や詩人、歌人でも及ばぬほどの膨大、かつ多岐のジ
ャンルにわたる作品を書き残し、日本の近代文学の礎を固め、発展に多大の影
響を及ぼした。

 何が、このような克己と忍苦、そして努力・精進を可能にしたのか。『森鴎
外と日清・日露戦争』に記したように、それは、鴎外の中心を流れ貫く、「武
=軍」の世界を乗り越え、「非戦」「非武装」の精神とモラルによって支えら
れる「文」の世界に生きたいという本能的願望、あるいは志向性であり、その
願望と志向性が全面的に開花し、正に豊穣の時として花開いたのが、最晩年、
奇跡の筆勢をもって書き継がれた史伝なのである。

 もちろん、鴎外は、これらの史伝の中で「非戦」などという言葉は一度も使
っていない。しかし、最終的な結果として「非戦」・「非武装」の思想とモラ
ルに繋がっていくまなざし、あるいは志向性といったものが、史伝文学を書き
抜く鴎外の精神の働きの中心を貫いていたことは間違いない。問題は、史伝を
書くことのなかで、鴎外がどこまでそのことに自覚的であったかであり、私見
では、『渋江抽斎』を書き終え、『伊沢蘭軒』を書き始めた時点で、鴎外は、
自身が「武」の世界に対して、「文」の世界の優越性を証明するために歴史小
説を離れ、史伝を書こうしていること、そして史伝を書き抜くことが文学者と
して、己に残された最後の使命であることを自覚的に認識したはずである。

 なぜなら、「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に『伊沢蘭軒』の連載を始
めてすぐ「その七」で、鴎外は、代々「医」と「文」の世界に生きた伊沢家の
起源について、次のように記述しているからである。

   二世良椿(りょうちん)信政は21歳にして家を継いだ。信政は町医者
   であった。伊沢氏が医家であり、また読書人を出すことは此人から始ま
   った。

 鴎外の記述によると、伊沢家は旗本伊沢有信に始まり、有信が養子として入
れ、家督を継がせたのが小野田八左衛門の子・信政であった。そして、信政は
町医者を本業としながら、「文」に親しんだ。「旗本=武士」から「町医者」、
そして「読書人」へと転生した事実を、『伊沢蘭軒』の冒頭近くにはっきりと
書き記したことで、鴎外が、この時点でこれから先自分が「武」より「文」が
優越する世界を描こうとしていることに十分自覚的であったことがうかがえよ
う。

 そのことを証明する証拠を、鴎外はもう一つ書き残している。『渋江抽斎』
『伊沢蘭軒』『北条霞亭』といった巨大な史伝の連峰の麓に隠れるようにして
存在し、これまで鴎外論でほとんど等閑視されてきた『都甲太兵衛』という短
い史伝である。

 都甲太兵衛は、肥後熊本の細川藩士で、細川越中守忠利と肥後守光久の二代
に仕えている。「武」の人として太兵衛が頭角を現したのは、島原の乱のとき
で、忠利に従って征討軍に加わった太兵衛は、原城「本丸一番乗り」の功を上
げ、知行三百石を賜り、鉄砲十挺を預けられたという。光尚の代には鉄砲三十
挺頭に進められたが、「老衰」を理由に断り、延宝2(1674)年1月に引
退、二代目太兵衛に家督を譲っている。

 さて、太兵衛にはいくつか面白い逸話が伝えられており、鴎外は、その中か
ら太兵衛が剣豪宮本武蔵に見出された話を紹介している。寛永12(1635)
年か13年、ということは島原の乱より1〜2年前、剣豪宮本武蔵が細川忠利
に謁見したときのこと、忠利が「当家の侍のうちで、武道の上で御身の見聞に
触れたものはないか」と問うたところ、武蔵は「一人いたが、名前は知らぬ」
と答えたという。そこで、剣や槍、弓矢・鉄砲に優れた家臣を何人か呼び寄せ
てみたが、武蔵の目にかなったものはいないという。そこで、武蔵に直接その
家臣を探しに行かせると、武蔵はしばらくして控え室にいた都甲太兵衛を連れ
てきた。忠利が訝しく思って、「なぜこの男が?」と聞くと、武蔵は「それは
本人に不断の覚悟をお尋ねなされたらお分かりになりましょう」と答えたとい
う。

 忠利は「何ぞ覚悟の筋があるなら申せ」と命じるが、太兵衛は「別にこれと
申す覚悟もござりませぬ」と答えるだけ。これを受けて、武蔵が「都甲殿、拙
者は貴殿の武道に見込みがあるって申し上げた。ただ平生の心掛けを腹蔵なく
申し上げられたらよろしゅうござろう」と奨めると、しばらく考えてから、太
兵衛はおもむろに次のように答えたという。

「武道と申しましても、何一つ為出来(しでか)したこともござりません。平
成の心掛けと仰せられたところから存じ寄りましたことを申し上げましょう。
わたくしは据物の心得と申す事に、ふと心付きまして、その工夫をいたしまし
た。人は据物で何時(なんどき)でも討たれるものじゃと思うておるのでござり
ます。平気で討たれる心持になるのでござります。最初はややもすれば据物じ
ゃということを忘れてなりませなんだ。それから据物じゃということを不断に
心得ておりまして、それが恐ろしゅうてなりませなんだ。だんだんと工夫いた
しまするうちに、据物じゃと存じていて、それがなんとものうなりました。ま
ことにたわいもないことを申し上げまして」

 これを受けて、武蔵は「お聴きになりましたか。あれが武道でござります」
と語り、太兵衛は大いに面目を施したという。

 ここで「据物」というのは、一義的には陶器や人形、鎧兜など「飾りのため
に据え置くもの」をいうが、もう一つ「土壇などに罪人の死体などを置いて刀
剣の切れ味を試すこと」(『広辞苑』/岩波書店)、及び試し切られる死体の
こともいい、試し切ることを「据物切り」ともいう。

 都甲太兵衛は自らを「据物」にたとえることで、いつ敵に襲いかかられ、切
りつけられてもいいように不断に武装を整え、戦う覚悟を固めていなければな
らないという武士の掟を放棄し、いつ切られてもいい覚悟を持ち、自然体で振
舞うことを日々の心構えとして生きていることを語ろうとしたのである。そこ
に、私たちは、小倉左遷時代に第十二師団の将校を相手に講義をし、のちに『
大戦学理』として刊行されたクラウゼヴィッチの『戦争論』から鴎外が学んだ
とされる「純抵抗」、あるいは「非武装」の思想を読み取ることができる。い
やもう少し進めていえば、戦後60数年間、私たちが生の拠りどころとしてき
た平和憲法、とりわけ「九条」の精神にも通じる思想が語られているといって
いいだろう。

 鴎外は、さらにもう一つ、都甲太兵衛が、その「非武装」の思想を実践モラ
ルとして生かし、「武」に対処していたことを伝える逸話を紹介している。そ
れは、ある日、太兵衛が街中を歩いていたときのこと、ある家の前に人だかり
がして大騒ぎしていた。何事かと聞いてみると、相撲取りが人を切って、白羽
のまま空き家に逃げ込んだというのだ。そこで太兵衛は、杵を持ってこさせる
と、それで家の裏手の壁を壊し、人が抜けられるほどの穴を空け、後ろ向きに
なって尻から入り、唖然としている相撲取りを取り押さえたというのである。

 鴎外は、この逸事を紹介するに先立って、「わたくしはこの一事は太兵衛の
重きをなす所以のものでないと思う。わたくしがもし太兵衛を曲庇するに意が
あったら、この一事は緘黙に附せざるを得ぬであろう」とわざわざ断っている。
しかし、私は、鴎外のこの言葉は必ずしも鴎外の本心を語ったものとは思わな
い。なぜなら、「重きをなす所以のものでない」と思うのなら、わざわざこの
逸事を一篇の最後に書き加える理由がないからである。むしろ、鴎外は、「緘
黙に附せざるを得ぬであろう」と記すことで、逆に、このことこそ私の語りた
かったものである」ことを、暗に読者に伝えようとしている風に読める。

 都甲太兵衛は「尻くらい切られても大したことない」と思って、壁に穴を空
け、尻から入っていった。ここに、私たちは、太兵衛の「据物=非武装・純抵
抗」の思想と実践モラルの真髄を、そしてその奥にキラリと光る、鴎外が文学
者としての生涯の最後にようやく獲得するに至った「非戦」へのまなざしを読
み取るべきであろう。


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【3】ハンスト日記  〜参加・終了報告などから〜         参加者

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 |先週のリレー・ハンスト参加者(原則として正午から翌正午の24時間)|
 |                                                                  |
 |12月21日(日) 燿山(岡山)                            |
 |   22日(月)  藤森(長野)                         |
 |   23日(火)  末延(京都) 山川(兵庫)          |
 |   24日(水) 藤森(長野)                  |
 |   25日(木) どんぐり(北海道・帯広)               |
 |   26日(金) 相良(北九州市)               |
  |   27日(土) 末延(京都)                       |
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◆末延さんからお話話頂きました       相良和彦(福岡・北九州市)

12月20日(土)正午、ハンスト終了し末延さんに引き継ぎました。

藤森さん!メール拝見しました。いろいろご配慮有難うございました。先程末
延さんからお話話頂きました。


◆ノーベル賞委員会の深慮?              藤森治子(長野)

12月22日(月)正午から、燿山さんを引き継いでハンストに参加していま
す。

柚子湯の香りに包まれ、南瓜と小豆のいとこ煮を食べて冬至の夜を過ごしまし
た。年の瀬も迫ってきて、大掃除をしたり、黒豆を煮たりしなければ・・・・。


12月23日(火)正午、山川さん、末延さんに引き継いでハンスト終了しま
した。

昨日公開された外務省の外交文書で、やはり佐藤栄作首相とアメリカ当局との
核をめぐる密約はあったのですね。1965年1月に訪米した佐藤栄作首相が
マクナマラ国防長官との会談で、その3カ月前に中国が初めて実施した核実験
をめぐり「(日中で)戦争になれば、米国が直ちに核による報復を行うことを
期待している」と表明、核戦争を容認していた様子が記録されていると新聞は
伝えています。

「非核三原則」が評価されて佐藤首相にノーベル平和賞が贈られたわけですが、
本当は核武装論者だったなんて、平和賞が引っくり返ってしまうような全くお
かしな話です。

ノーベル平和賞は元来非常に政治的な側面があるので、時々不信に思われる人
物が授賞していますが、この佐藤首相の場合は、1974年授賞当時もやはり
「なぜ佐藤?」という疑問は私にもありました。

でも考えてみると、ヒロシマ・ナガサキの被爆体験を持つ日本の時の首相に「
非核三原則」の理由で平和賞を与えることによって、外側から日本の核兵器開
発を世界的な視野で道義的に縛ろうという深慮がノーベル委員会にあったかも
しれないとも思えてきました。


◆「自衛隊に入れば戦争にいかなくて良いと信じてきたのに、話が違う」

                          山川トモコ(兵庫)
12月23日(火)正午〜 参加しています。

イラクから、空自140人の方々が帰国のニュースが目に入りました。毎日新
聞記事のコメントによれば、「子供の顔を見てほっとしました。」とありまし
た。

私は、この何年もの間、派遣(派兵)させる側の立場の人の心境に理解しがた
いものを感じています。

かつて、親しい友人が2004年に言った言葉を思い出しました。「自衛隊に
入れば戦争にいかなくて良いと信じてきたのに、話が違う」と。


12月24日(水) 正午過ぎに終了しました。

最近では珍しく、主人が昼前に帰ってきたものですから、即効で朝持って出た
お弁当を広げて食べ出したので、私もと時間を見ますと、10分前でした。そ
の間の長いこと(^^)。仕方なくあれもこれもとおかずを出している間に、1
2時をとっくに過ぎていました。

上記藤森さんの、最後のご意見、ものすごく納得出来ます。


◆自民と民主の合同、連立は、結局は自民の延命策    末延芳晴(京都)

12月23日(火)正午、藤森さんから引継ぎ参加しています。

昨日、賀茂川の川岸を散歩していたら、無性にコーヒーが飲みたくなり、よく
行くカフェでメニューを見ていたら、「焼リンゴ」というのがあったので、生
まれて初めて食べてみました。上にアイスクリームが乗っていて、何かノスタ
ルジックな味わいを楽しんできました。

「焼リンゴ」食べたことはなかったのですが、懐かしいですね。最近では、す
っかり消えてしまいましたが、僕らが子供のころ、駅前の洋食屋や喫茶店のメ
ニュー・ケースに必ず並んでいましたよね。

リンゴ特有のすっぱい味とサクサク感が「焼く」こととどうしても、子供のイ
メージのなかで結びつかず、「どんな味がするのだろう?」といつも思いなが
ら、食指が動いたことはなく、一度も食べたことはなかったのに・・・・。そ
れが50年ぶりくらいで再会、そのレトロな味わいを初めて確かめ、少しハッ
ピーな気分で家に帰ってきました。


12月24日正午終了、藤森さんに引き継ぎました。

渡辺喜美元行革相が、今日の衆院本会議で、民主党が提出した衆院解散・総選
挙を求める決議案に、ただ一人自民党側から起立して賛成したそうですね。こ
れに対して、自民党は腰が引けてしまって、除名も離党勧告もできず、戒告処
分しかできなかった。この弱腰ぶりを見て、自民党の中から造反議員がもっと
出てきて、内部崩壊していけばいいですね。そうなれば、「閉塞状況」を打破
するきっかけになると思うのですが。

ただ、渡辺氏は、自民の一部と民主の一部が合体して、救国内閣を作ることを
考えているようですが、その考えを棄てない限り、何をしても売名パフォーマ
ンスとしか受け取られないでしょうね。今、この状況で、自民と民主の合同、
連立を求める動きは、結局は自民の延命策でしかないから。

時代の流れは、明らかに政権交代に向かっています。その意味で、政権交代を
求めて微動だにしない小澤・民主党代表の姿勢は間違ってないと思います。


◆アフガン派兵に54兆円の予算を組むアメリカの愚   藤森治子(長野)

12月24日(水)正午から、山川さん、末延さんを引き継いでハンストに参
加しています。

昨日久しぶりに休日の街に暮れの買い物に出てみましたが、ジングルベルもホ
ワイト・クリスマスも流れない静かな暮れの街でした。静かで落ち着いていて
いいのですが、そこまで経済は冷え切っているということなのでしょうね。


12月25日(木)午後1時、どんぐりさんに引き継いでハンスト終了しまし
た。

ワシントンの防衛専門シンクタンク、戦略予算評価センター(CSBA)によ
ると、2001年から2008年6月までに、米政府がイラク戦争、アフガニ
スタン攻撃を含む「テロとの戦い」に費やした経費は、累計で約9040億ド
ル(約81兆6000億円)に上ると共同通信が報じていました。

この額はベトナム戦争の規模を抜き、20世紀以降の戦争では第2次世界大戦
に次いで2位を占めるとのことです。

また米政府が大赤字を抱える金融危機のなか、国防総省は2009年度(08
年10月〜09年9月)の国防予算案として、前年度比約7%増の約5150
億ドル(約54兆8000億円)を要求する見通しと、ロイター通信は伝えて
います。

これでアフガンへ現在の2倍の6万人を派兵して、駐留させるとのことです。
オバマに代わっても、こんな戦争を続けながら、財政破綻を再生させるなど無
理というものですね。世界中が協調して何とかしようとしても、ドブにお金を
捨てるようなものです。


◆今年最後のハンスト             どんぐり(北海道・帯広)

12月25日(木)12時40分から、藤森さんを引き継いで参加します。

早いもので今年最後のハンストになりました。


報告遅くなりました。12月24日(金)、12時40分に終了しています。

年も押し詰まってやらなければならないことがたくさんあるのに、忘年会もい
くつか入ってなかなか進んで行きません。まあ調子に乗って飲み過ぎてしまう
自分が一番悪いんですが・・・・・。


◆天気晴朗なれど風冷たし          相良和彦(福岡・北九州市)

12月26日(金)正午、北九州市でどんぐりさんと燿山さんから引き継いで
ハンストに参加しています。

本日天気晴朗なれど風冷たし。


12月27日(土)正午、ハンスト終了し末延さんに引継ぎました。

「派遣切り」「雇い止め」で職と住を一度に奪われた人たちの事が、とても気
になる年の瀬となりました。来年は待望のチャンスの年、よいお年をお迎え下
さい。


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  編 集 後 記

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 今年最後の「ガンジー村通信」をお届けします。

 「100年に一度の経済不況」は首相の口癖ですが、そんな厳しい時に、私
たちは最悪の首相を持ってしまったかもしれません。そして、そんな首相しか
生み出せないという点において、自民党・公明党は同罪であり、有権者から見
放されつつあるのは当然でしょう。世界は「100年に一度の大転換点」にあ
るというのに・・・。

 最後の最後になって、首相はソマリア沖の「海賊退治」の検討を防衛省に命
じました。世界の戦争屋たちは、アフガン・イラクの戦争があまりに評判が悪
く、もはや旨味もなくなってきたので、ソマリア沖の海賊退治に第3の戦場を
求めているかのようです。

 「テロとの戦い」といいながら、結局テロが何故うまれるのか検討もしよう
とせず、ひたすら武力で無差別に攻撃し、それでもテロリストを絶滅させるこ
とができなかったように、今度の「海賊退治」も何故海賊が増えるのか、そこ
を突き詰めずに、武力で鎮圧しようと思っても無理でしょう。日本は、イラク
派兵の二の舞をしないように、自衛隊員を殺さないように、憲法に従って出来
る範囲のことだけをすべきです。場合によっては、ソマリア沖の海賊退治は、
イラクより危険かもしれません。

 さて、この1年は本当にいろいろなことがありました。次から次へと政治の
悪事が暴かれ、思いがけない事件が続き、漢字で表せば「変」とのことですが、
「歪」や「壊」をあげる人もいます。「変」に決まったのは、「歪」や「壊」
は来年のためにとっておくのではないかという勘ぐりもあります。しかし、来
年はどうあっても「革」の年になって欲しいと心から願っております。

 ともかくこの激動の年を、無事生き抜けたことを喜びたいと思います。そし
て、どうぞ皆さま、健康で元気よく越年されますように。


★例年元旦に発行しております「ガンジー村通信・新年特集号」は、諸事情に
 より新年1月1日には発行しません。次号は2009年1月4日(日)発行
 となります。


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【発   行】    ガンジー村通信 編集部
【発 行 人】    末延芳晴
【編   集】    藤森治子

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