2009/11/06
メールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」
★ メールマガジン:ダメダメ家庭の目次録 ======================================================== ┏━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┓ ダ メ ダ メ 家 庭 の 目 次 録 ┗━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┛ 法律上は別に問題がないが、結果的に子供の方が法律違反に陥る ダメダメ家庭の実態について、その具体的な会話や行動を リストアップいたします。 長崎や大阪や千葉など日本全国で「活躍」しているダメダメ家庭の OBやOGはどのような環境で育ったのか? 皆様にも、御理解いただけると思います。 ========================================================= ★ カテゴリー:認識からの逃避 ★ 今回のお題:見ない技術、見せない技術 ダメダメ人間は、自己逃避であり、判断から逃避している。 そして判断から逃避している自分という、自己認識からも逃避している。 自己逃避状態であれば、自己逃避している自己を認識することからも逃避するな んて、小学生でもわかるくらいの簡単な論理でしょ? さて、その自己逃避ですが・・・ 自己逃避の「逃避」は、「逃げる」と「避ける」の2つの文字によってできていま すよね? このメールマガジンでは、ダメダメ家庭の問題を考えるのに際し、「似て非なるも の」に注目する必要があると頻繁に書いています。 「逃げる」と「避ける」は、一見似ているようですが、その実としては結構違っ ているわけ。 「避ける」というのは、ある種の判断があるでしょ? それこそ、「こんにゃくゼリー」を購入することを避ける・・・これも立派な判断 ですよ。買わなかった人は、「こんにゃくゼリー」を購入することから逃げている わけではない。 あるいは、妊娠することを「避ける」のを、まさに「避妊」というわけで、妊娠 することを「逃げて」いるわけではない。 「避ける」という言葉を、「逃げる」に置き換えると、意味が通じないことが多い わけ。 つまり意味的には、かなり違っているわけです。 避けるということは、判断の結果であり、その前提として現状認識が必要になっ てくるわけ。「こんにゃくゼリー」をどうしても食べたいのか?あるいは妊娠に関 して「子供がどうしても欲しいのか?いつ欲しいのか?」そんな判断の結果とし て、その時は避けたわけでしょ? 避けるという判断をするためには、まさに「自分を知り、現状を知る」必要があ るわけ。 ところが「逃げる」となると、その必要はない。 逃げる発想となると、まさにトルストイが描くアンナ・カレーニナのように「ワ タシに見せないで!」「ワタシに言わないで!」というスタイルになる。 判断の必要性そのものを、自分が認識しなくてもいいようにしてほしい・・・ そのように要望することになる。だからその手の人は「根絶」という言葉が大好 き。 根絶されれば、確かに「見なくても済む」ことになる。本来なら、適宜判断すれ ばいいだけなのに、「見ないで済む」ことが目的化されてしまうので、根絶されな いと困るわけ。 それこそ「ドメスティック・ヴァイオレンスを根絶すべき!」という主張なども、 言葉はご立派ですが、根絶されないと困ってしまうほど、認識し、判断すること が怖いわけ。だから判断から逃げられる状況を作りたい。 「見ない」という発想をする人は、「逃げる」という発想と基本的に同じ。スグに 逃げるということは、事態を解決する発想がそもそもない。根絶という言葉は、 意味的には、解決というよりも、二度と見ないで済む・・・そちらのファクター の方が大きいわけ。 だから逃げ切れない、見なくてはならない追いつめられた状況になると、逆上し てしまうことになる。何かというとスグに逃げる人間は、現実的には、スグに逆 上する危険人物でしょ? 根絶という言葉がまさにそうですが、その手の人は、自分が判断を迫られる事態 そのものを見ないようにしているわけ。たとえば、その活動において、スグに逃 げられる領域に首を突っ込みたがる。それこそボランティアの連中なんてその典 型。 自分が判断を迫られる事態になったら、その場を逃げてしまえば、そんな状況を 見ないで済むことができますよね?だから常に逃げ場を意識することになる。 あるいは、判断が迫られる事態にそもそもならないように、あるいは、問題を見 なくて済むように、「必死で空気を読んで」「人に合わせる」ことになる。問題が 顕在化しないようにするわけです。 問題がそもそもないように、周囲に「見せる」ことによって、困った事態を「見 ない」ようにしているわけ。そして、周囲に対しては、単に人に合わせるだけで なく「ワタシは幸福よ!」と先制的に主張するわけ。 「ワタシは幸福よ!」と先制的に主張しても、じゃあ、実際に幸福かというと、 全然別問題。そもそも本当に幸福な人は、「ワタシは幸福よ!」なんて周囲に主張 しませんよ。 しかし、相手から、色々と言ってこないように、つまり自分自身の問題を相手か ら指摘されないようにするための幸福主張なんだから、必死にやらないといけな い。 何かイヴェントがあったりしても、周囲に対して「楽しいように見せる」ことが 優先され、自分の気持ちなどは度外視されてしまう。他者が「あの人は楽しそう!」 と認識してくれることが成功であって、自分が楽しく思うことはどうでもよくな るわけ。 しかし、そんなスタンスだと、当然のこととして、当人は楽しくないでしょ? しかし、その楽しくないという自分の感情を「見ない」ことで乗り切ろうとする。 必死で自分を騙すわけ。だからこそ、楽しいイヴェントやアトラクションは、気 分が疲れてしまう。 認識すること自体から逃げているんだから、不幸を認識できないと同時に、幸福 も認識できるわけがない。本来なら、幸福よりも不幸の方が認識しやすいでしょ? だって困っているんだから、それなりに認識するものですよ。お腹が空いたでも、 アタマが痛いでも、その手のマイナスは自然と認識できるもの。しかし、幸福と は何も考えなくてもいい状態なんだから、もともと認識する必要なんてありませ んよ。 不幸を認識することから逃げるんだから、もっと高度な認識である幸福を認識で きるわけがないじゃないの? 結局は、周囲に対し「ワタシは幸福よ!」と主張する無理が拡大するだけ。 とは言え、曲がりなりにも、「ワタシは幸福よ!」と主張しているわけだから、ボ ンクラな環境だとその言葉が通ってしまうことになる。 だから事件があったりすると、「いい家庭に見えた!」とか、「問題のあるように は見えなかった。」とかコメントになるわけ。 そんなボンクラなコメントは、問題を見せない技術の「たまもの」なんですね。 逆に言うと、「問題のあるように見せてはいけない。」と切羽詰まっているがゆえ に、実際に問題になってしまうのは、誰でもわかること。 そんな感じで「見ない技術」「見せない技術」ばかりが発達して、実体面には何も 手を付けない。 都合の悪いものは見ていない・・・それでOKとなっているので、たとえば、家 族の中で兄弟がケンカばかりだったら問題視しても、1年間に一言も言葉を交わさ ない状態だったら何も問題視しないわけ。 あるいは、実家と疎遠な子供に対し、「実家に来て欲しい!」と言って拒否される のが怖いので、逆に、何も言わなくなって、結果的に音信不通状態。 音信不通状態だからこそ、「仲は悪くない」となる。だってケンカはしていないわ けですからね。しかし、実体としては、毎日ケンカしている状態よりも、さらに 悪い状態といえるでしょ?結局は、当人が練達の技術で「見たくない」「見せない」 ようにしているだけ。 しかし、そんな技術に引っ掛かる人間ばかりというわけではない。 この私のように、一番イタイところを突いたりする人間も、世の中にはいますよ。 そしてイタイところを突かれて逆上し、逆上メールを出したりする。 しかし、そんな反応は、逆上している分だけ、その人の一番クリティカルなとこ ろがバレバレだったりするもの。 たとえば、以前に逆上メールをいただいた際に、私からのお返事の中に「アナタ の物言いは、ご尊父とそっくりでしょ?」と書いたことがあります。 さあ!「あなたの物言いはご尊父とそっくりじゃないの?」なんて言われちゃっ たらどうするの? 簡単に予想できるのは、その指摘から「逃げちゃう」ことです。 そのことについて、もう見ないように、考えないようにするわけ。 かと言って、「アナタの物言いは、ご尊父とそっくり!!」なんて言葉から逃げ切 れるの?一生涯逃げ切れるの?しばらくは忘れて見ないこともできるでしょう。 しかし、結婚して、トラブルになった。あるいは、育児でうまくいかない、ある いは仕事でトラブった・・・そんなことって必ずあるものでしょ? そんなときに、ふと「アナタの言動は父親とそっくりだ!」なんて言葉がアタマ の中を駆け巡る。さあ!そんな時どうするの? 逆上するの?「違うんだ!違うんだ!オレはオヤジとは違うんだ!!」と叫ぶの? しかし、そんな逆上こそが、まさにオヤジ譲りでしょ? 結局は、見ないための方法論がさらに進化するだけ。だから実体としては何も変 わらない。 そんな人間は、どうしても見えてしまうものだけを考慮して、見えないで済むも のを無視する習慣ができてしまっている。そんな光景は、ちゃんと認識できる人 から見ると、珍妙なもの。 それこそ、近海で打ち上げられた瀕死のクジラは必死で保護するのに、南氷洋の クジラは捕獲したり、少子化対策の補助金を支出するために、多額の国債を発行 したりする。見えてしまうものには対処しても、見ないで済むものに対しては無 視を決め込むわけ。 気に入らない見解を見せられれば、まさに逆上メールを出したり、あるいはブロ グの炎上などのつるし上げにいそしむことになる。 しかし、つるし上げでも逆上メールでも、そんなことを「された側」が考えを変 えるわけがないでしょ?結局は自分が「見たくない」「考えたくない」だけ。 いわば相手を攻撃する形で「逃げている」わけ。そして、その攻撃性がさらに進 化していくことになる。 市民運動なんて、まさにそんな流れでしょ? 一時的には、逃げるという対処も有効なケースもあるでしょう。しかし、自分に とって重要な問題から逃げてばかりではダメでしょ? とりあえず、逃げたと思っても、肝心な時にぶり返すだけですよ。 そんな爆弾を抱えて生きるより、気持ちを入れて自分と実家の問題について考え ておく・・・そんな必要があるわけ。必要に応じ、その時点での考えを後になっ て修正すればいいだけでしょ? しかし、被害者意識が強いダメダメ人間は、「だって・・・ワタシは、かわいそう な被害者だから・・・」という名目を掲げ、逃げ回る。しかし、爆弾は生きてい るので、いつバクハツするかわからない状態。 さて、そんな心の中にバクダンを抱えた危険人物が近くにいたら? そんな時は、その危険を認識し、「避ける」わけ。そんな人の存在を無視するわけ にはいかない。だって無視して、その人の存在を忘れてしまっていたら、突然現 れて、いつ何時「絡んで」くるかもしれないでしょ?その人の危険性を意識した 上で、避ける必要があるわけです。 あるいは、よく学校でイジメの問題があったりしますよね? そもそもそんな問題が多発する学校は、避ける必要がある。その学校の改善に努 力する必要なんてありませんよ。みんなが避ければ、そんなダメダメ学校なんて 廃止されるだけですし、そんな学校を避けようともしない人間が集まっても改善 なんてされませんよ。 ただ逃げるだけだったら、その逃げた先の学校のダメダメの可能性だってあるわ けでしょ?ちゃんと判断して、どの点が問題なのか?ちゃんとわかった上で避け ないといけないわけ。 トラブルを回避するためには、それなりの現状認識や判断が必要になるわけです。 しかし、ダメダメな集団というものは、排除の論理はあっても、回避の論理はな い。 あの人はダメ! あの○○さんは、仲間に入れない! この△△さんには、出て行ってもらいたい! そんな感じで、人を排除していると、当然のこととして、味方が少なくなるわけ ですから、そんな集団は、何も達成することはできない。そんな集団は、結局は クレームを言うだけで終わってしまうもの。 排除という名目であっても、要は「見たくない」「考えたくない」というだけ。さ て、その「排除の論理」ですが、「回避の論理」とは違うもの。「排除の論理」と 「回避の論理」は、まさに「逃げる」と「避ける」の違いに対応しているわけ。 排除の論理は、誰か他者を、排除する・・・いわば「見ない」ための処置である のに対し、回避の論理は、誰か他者なり問題から、自分の方から回避する・・・ そのような態度です。 多くの人は、あまり厳密に使い分けてはいないものでしょ? 排除の論理はよくないにせよ、あらゆる人たちと、あるいは、あらゆる問題に首 を突っ込む必要なんてないでしょ?自分自身にとって必要な問題には積極的に関 わるけど、無関係な問題なり、トラブルになりそうな状況からは回避すればいい じゃないの? しかし、ダメダメな人間は、そんな回避ができないんですね。そもそも排除がい いのか?回避がいいのか?そんな判断そのものから逃避しているんだから、とに もかくにも逃げているだけ。 だって、そもそも自分にとって必要な事項なんて、自分でもわかっていない。だ から不必要な問題との分別ができない。あるいは、普段から何も考えずに人に合 わせているだけなので、自分の前にどんな問題があるのか?どんなリスクがある のか?考えようとしないわけ。 ちょっと考えれば、リスクなんて感単に認識できるのに、何も考えないから、そ のまま「て・き・と・う」に突っ走って、ドッカーン!となってしまう。 「そうして、どうしてこんなことに?!」 「ワタシって、何てかわいそうなの?!」 と、お約束のグチ。 まさにドメスティク・ヴァイオレンス(DV)なんてそのパターンの典型でしょ? そもそも、妻を殴ったり、付き合っている女性を殴ったりするような男性がこの 世の多数派なの?そんなわけないでしょ?そもそも、そんな男性も会話の能力が ないから暴力を振るうわけでしょ?だから、結婚前に会話をすればいいだけ。と いうか、結婚前にどんな話をしたの? そもそも、そんなアブナイ男性なんて回避すればいいだけでしょ?自分自身に人 を見る目がないのなら、周囲の人で「人を見る目」のある人に相談すればいいだ け。 そうすれば、そんな状況は簡単に回避できるでしょ? しかし、ダメダメ人間はそんな回避の論理は取らない。「この世界から家庭内暴力 を根絶すべきだ!」と「べき論」で、別の言い方をすると「排除の論理」でお説 教するだけ。しかし、「オレはオンナなどと話をするつもりは毛頭ない!オンナな んか殴ればいいんだ!」と言っている男性がいたらどうするの?というか、実際 にそんな男性っていたりするでしょ? 回避の論理だったら、そんなアブナイ男性がいたら、その危険性を認識し、避け ればいいだけ。実に簡単だし、誰だってできることでしょ?しかし、自分がどう したいのか?自分で考えないような人間は、一般論にしてしまうんですね。「世界 から家庭内暴力を根絶しよう!」とご高説。しかし、みんながアブナイ男性を回 避すれば、結果的に根絶しますよ。そもそも、目の前の危険を回避しようともし ない女性はどうするの?そのような回避の意欲のない女性のために、暴力的な男 性をどう処置するの?殴るの?蹴飛ばすの?収容所に入れて、ガス室送りにする の? 実際のドメスティック・ヴァイオレンスの現場なんて、わざわざ暴力的なオトコ に近寄って行って、トラブルになって、そのあげく「この世からドメスティック・ ヴァイオレンスを根絶すべきだ!」とご高説を語っているもの。そんな流れは、「こ んにゃくゼリー」の問題とまったく同じなんですね。 そんな現実的な指摘をしたりするとどうなるんでしょうか? そうなると、やっぱり「排除の論理」が登場するわけ。 「あの人・・・鬱陶しいわね!もう来てもらいたくないわ!」 「ワタシたちのことを、全然わかってくれないっ!」 そうやって、厳しいことを言う人間を排除して、安心してグチ大会。 回避の論理がないがゆえに、排除の論理がまかり通ることになる。 自分が何をしたいのか?それなりに自覚できていれば、回避の論理で行動できま すが、自分が何をしたいのか?わかろうとしない人は、厳しいことを言う人間を どんどんと排除してしまう。 ・・・現実にそんな感じになっているでしょ? 排除の論理は、「見ない」「見せない」ための方法論であって、そんな方法が必要 になっているということは、ダメダメということ。 たとえば「見ない」「見せない」となると、独裁国家の外国人専用ホテルがありま す。 そもそも外国人専用ホテルがある時点で、その国家がダメダメということでし ょ? それだけ、「見ない」「見せない」はダメダメと直結しているわけですし、いざ「見 せられて」あるいは「見られて」しまいそうになると、過激な反応を取るもの。 そうして、マトモな人たちとのやり取りが「根絶」されてしまう。 そうして、その集団はどんどんとスパイラル的にダメダメが進行することになる。 まあ、そんなダメダメ集団が、自分たちのダメダメを熟成させていくのは勝手で しょう。しかし、そんな連中は、結局はマトモな人からは相手にされないので、 そんな自分でも支配することが出来る恵まれない人を見つけてボランティアなど をやろうとするもの。 そうやって、サポート対象の恵まれない人も、ダメダメ集団に巻き込まれ、微か に持っていた当事者意識が喪失してしまう。 サポートを受ける側も、身体的にハンディキャップがあったり、経済的に立ち行 かないケースもあるでしょうが、サポートを受ける側が回避の論理をしっかりと 持っていないと、そんな排除の論理で武装したダメダメ集団の餌食になってしま う。 これも、実にポピュラーな事例でしょ? 避けるという発想は、認識と判断がその前提になっている。それこそ、子育ての 問題も、一人目で苦労して、「ああ!もう子育てって、イヤだ!」と思ったのなら、 二人目を作るのを回避する必要があるでしょ? しかし、ダメダメ人間は、一人目の子供でトラブルになっているのに、何も考え ずにどんどんと子供を作ってしまって、「政府は子育て支援をするべきだ!」「ワ タシたちは、悲しい表情の子供を見たくない!」と声高に主張するだけ。 問題への対処において、とりあえず「逃げる」のか?そもそも不適切なので、「避 ける」のか?あるいは、そもそも荒唐無稽なので「無視する」のか? その判断は、それぞれでしょうが、その判断から逃げてしまうわけ。 だから、逃げるのか、避けるのか、無視するのか?結局あいまいなまま。 しかし、事態は何も解決していないので、何かあると、かつて自分が受けたシャ ープな指摘がフラッシュバックすることに。なんとか逃げ回っていても、トラブ ルになった時こそ、そんな厳しい言葉を思い出したりするものでしょ? 本来ならちゃんと自分で考えておけば冷静に対応できるものでも、逃げてばかり だから、逆上するしかない。そんな人は、自分が信奉しているものと違ったもの が現れると途端に身構えたりするもの。 そして「それは正しいのか?」とスグに聞くことになる。 抑圧的な人間が、スグに「それは正しいのか?」と質問することは、魯迅の「狂 人日記」にも出てきました。「正しければ → 信じる。 間違っていれば → つ るし上げ。」 そんなシンプルな反応となるわけ。 逆に言うと、自分で考えなくてもいい。 「正しさ」というのは、「有効」とは違うもの。正しくないものは、許されないと いう二重否定的なもの。それに対し、有効という言葉は、単純な肯定形であり、 排他的なものではないでしょ?正しいという言葉が登場する領域では、排斥が起 こりやすい。そして、その排斥を実力を持って行うことになる。 そのような対応が許されるがゆえに、「排除の論理」で凝り固まった抑圧的な人間 にしてみれば、「正しさ」というのは、意味のある基準となるわけ。 正しさというものは、自分が何をしたいのか?そんな発想からの逃避。 たとえば、芸術表現の分野では「正しさ」は出てこないもの。というか、創造的 な分野では出てこない。それこそ、ピカソの絵は正しいのか?ベートーヴェンの 音楽は正しいのか?そんな議論にはらないでしょ? 作曲には出てこないけど、演奏の際にはでてきたりする。 文章創作には出てこないけど、翻訳の際には出てきたりする。 逆に言うと、抑圧的な人間は、翻訳とか演奏の領域に行きたがることになる。 当事者意識や会話の能力が欠如しているがゆえに、自分自身の思考なり、会話が 必要としないものに行きたがるわけ。そしてその「すがり先」が、権威筋認定の 「正しさ」というわけ。 自分と違った考えが提示された場合において、必要に応じ相手を説得する必要が ありますが、正しいという言葉を持ち出すことによって、説得することから逃避 するわけ。「自分は正しいんだから」、相手に対して何をやってもいいんだ!そん な発想のもと、過激な対応が許されてしまう。そんなことだから、ドメスティッ ク・ヴァイオレンスになるわけですし、そのドメスティック・ヴァイオレンスの 「加害者」をつるし上げて喜ぶようになるわけ。 しかし、実体としては何も解決しないでしょ?ただ、見えなくなったというだけ。 だから同じような事態を繰り返すことになる。 だから、肝心な問題の判断については、無視も、逃げも、避けてもダメなんです ね。ちゃんと自分で見て、考える必要があるわけ。前に取り上げました実家の問 題ですが、ダメダメ家庭の出身者にしてみれば、逃げ切れるものではないわけ。 実家とどう付き合うのか? 実家を避けるにせよ、そのことについて「考える」こと自体からは、「逃げ切れる」 ものではありませんよね? しかし、多くのダメダメ家庭出身者は、「とりあえず」という名目で、逃げてばか り。そして突っ込まれると逆上するばかり。 そのまま何も考えずに「て・き・と・う」街道をばく進するだけ。 だから、事態がうまくいくわけもなく・・・その点を指摘されて、やっぱり逆上 する。 結局、そのツケは子供に行ってしまうわけ。 結局は、ツケが子供に集約するだけでなく、逃げ口としての格好のネタとして子 供が使われることになる。 「子供のために・・・」 「子供のせいで・・・」 まさに、「アナタの親とそっくりの姿」となるわけ。 (終了) *************************************************** メールマガジンの解除は まぐまぐ&カプライトは下記のアドレスに http://renewalmmbacknumber.hp.infoseek.co.jp/register/touroku.htm 各マガジン指定のフォームがあります。 購読解除しても発信者にはわかりませんので、安心して解除してください。 一応、各マガジンのサイトでの解除を御希望の方は まぐまぐ でのマガジンIDは「0000117943」です。 カプライトでのマガジンIDは「14204」です。 コピー&ペーストすれば、 それぞれのマガジン発行元の解除画面に行くことができます。 また、バックナンバーは下記のページです。 http://renewalmmbacknumber.hp.infoseek.co.jp/index.html ご意見等がございましたら、ご遠慮なくどうぞ! メールアドレスは portadelparadiso@hotmail.co.jpまで・・・ *************************************************** 発信後記 本文中で書いていますが、抑圧的な人間は、「見えてしまっているもの」には、対 応するわけですが、「見なくて済む」ものには対処しない。 だから、「こんにゃくゼリー」の根絶も必要となってくる。 しかし、逆に言うと、「見なくて済む」ようになればそれでいい・・・そんな感じ になっているわけ。 家族の中で兄弟が1年の内で、一言も言葉を交わさないが故に、「問題のない」、「ふ つうの家庭」と言えてしまう。 まあ、確かに問題はないでしょ?ケンカしているわけではないんですからね。 「問題はない」は、まさに二重否定表現であって、「うまくいっている」とは違う わけ。 あるいは、「ふつう」というのは、「特に変わったところがない」と分解できるわ けですから、やっぱり二重否定のようなもの。 明日は、そんな肯定と二重否定の間の違いについての文章を配信いたします。


