ダメダメ家庭の目次録  RSSを登録する

長崎や新潟等最近ニュースで必ず登場するダメダメ家庭の出身者。ここでは、そのようなダメダメ家庭で繰り広げられる具体的な親の言葉や行動を列挙いたします。分からない事件も過去の積み重ねですからね。

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2009/10/23

メールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」

★	メールマガジン:ダメダメ家庭の目次録
 
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 ダ メ ダ メ 家 庭 の 目 次 録 
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 法律上は別に問題がないが、結果的に子供の方が法律違反に陥る
 ダメダメ家庭の実態について、その具体的な会話や行動を
 リストアップいたします。
 長崎や大阪や千葉など日本全国で「活躍」しているダメダメ家庭の
 OBやOGはどのような環境で育ったのか?
 皆様にも、御理解いただけると思います。 
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★	カテゴリー:ダメダメ家庭をめぐる環境

★	今回のお題:作品の推薦


先日、例の「クレヨンしんちゃん」の原作者さんがお亡くなりになりました。
その番組は、「子供に見せたくない番組」というリストでは、常に上位を占めてい
たとか。
あるいは、逆のパターンで「子供に見せたい番組」なるリストもあったりします
よね?

その「子供に見せたい番組」とか、逆のパターンである「子供に見せたくない番
組」というネーミングは面白い。一般レヴェルの言語感覚の人なら、怪訝に思わ
ないのかもしれませんが、私のように言葉なれしている人間にしてみれば、「あれ
れ?」と思ってしまうネーミングなんですよ。

「子供に見せたい番組」はいいとして、じゃあ、「自分の子供に見せたい」の?
「自分の」という言葉を付けると、ずいぶんと印象が違うでしょ?どうして「自
分の」という言葉を付けないの?
わざわざ「自分の」という言葉を「付けない」と言うことは、自分の子供には見
せたくないけど、他人の子供には見せたいとでも言うの?それってどういう意
味?

人を騙すためには、そんなちょっとした表現の違いから意味をずらして、受け入
れられやすい表現を積み重ねながら、意味の違いを積み重ねて行って、自分が求
めている論理に持っていく・・・それが典型的な方法論。もちろん、これは他者
を騙すための方法論だけでなく、自分を騙すための方法論でもあります。

「自分の子供に見せたい」という言葉だと、意味がわかりやすい。まあ、それを
周囲に対して宣言する必要はないでしょう。その手の言葉はあえて宣言すること
に、いかがわしさがあるもの。ただ、言葉の意味は理解しやすい。
しかし、それを一般化して「子供に見せたい」という言葉だと、よく考えれば意
味不明なんですね。「子供に見せたい」という言葉は、「自分の子供に見せたい」
という明確な意味を持つ言葉から、宣言することによるいかがわしさを取り除く
ことによって、人を騙す言葉となっているわけ。

作品を推薦するのはいいとして、
どんな子供に対して、
その作品のどんなところをわかってほしいのか?

「子供に見せたい」とか、書籍の場合だと「子供に読ませたい」なる文言になり
ますが、そんな一般化した表現だと、上記の問いに答えられないでしょ?

回答があるとしたら、「生きることのすばらしさ」とか「家族のすばらしさ」とか
の、抽象的な文言が登場するだけ。しかし、そんな抽象的な言葉で、いったい何
がわかるのやら?
そんな文言でOKなら、わざわざ本を読んだり、番組を見る価値なんてないので
は?もっと具体的に認識できるからこそ、その作品を勧めるのではないの?家族
のすばらしさだったら、子供の前にいるアンタ自身が、目の前の子供に示せばい
いだけ。生きていることのすばらしさも同じでしょ?そんなことを言う人は、も
うすでに死んでいるの?死んでいるから「生きていることについて」子供に伝え
られないの?そんなわけないでしょ?

そもそも会ったこともない、どんな興味があるのかもわからない、どんな過去が
あるのかもわからない子供に対して、「読ませたい」も何も僭越そのものですよ。
いったいその人自身は自身を何様だと思っているのやら?まだ自分の子供だった
ら、普段の興味もわかっているわけですから、その興味の先にあるものなどに接
すると、その子供だって、より興味もわくでしょう。

しかし、単に「子供」だけではわからないでしょ?
それに、そんな「子供に見せたい」とか「子供に読ませたい」なる称号を得る作
品は、もう傾向が決まっていますよね?
アニメのような作品だと、絵に描いたような「ヒューマンドラマ」になり、書籍
の場合だと、権威主義的で倫理的な作品。
まさに「大人が喜ぶ」作品。
書籍のようなものだと、「図書館推薦」とかの称号もありますよね?
そんな推薦作品も、まあ、権威主義的なもの。

皆さんは、書籍における推薦作品で、今もその中身を覚えているものってありま
すか?子供の頃に見たアニメの推薦作品の内だったら、今でも記憶に残っている
ものはあるかもしれませんが、だからと言って、覚えている箇所は、はたして推
薦者が望んだ箇所なの?
アニメくらいだったら、長時間の作品でもあり、様々な要素が絡み合っていると
いえますから、今でも記憶に残っている箇所もあるもの。しかし、書籍のような
ものだったら、もうすっかり中身を忘れている・・・そんなことはありませんか?

少なくとも、この私は覚えていませんよ。
自慢じゃないけど、この私は芸術作品を理解する能力は、そんな図書館推薦の選
定をしたり、「見せたい番組」を選定している人たちとは、次元が違う理解力です
よ。
そんなことは、バックナンバーに収録されている、芸術作品を考えた文章をお読
みになれば、スグにわかること。
この私が、推薦作品からは、何も印象に残っていないわけ。もちろん、「こりゃ!
ヒドイ!」という推薦図書は記憶にありますが・・・

「子供に読ませたい」はいいとして、じゃあ、それを読んだ子供が、大人になっ
てその作品をどのように語っているの?それが重要でしょ?たとえ子供向けであ
っても、大人になってもいつまでも残っているような作品こそが力のある作品。
大人になったら忘れてしまっているんだったら、それこそ巷にあふれる粗製濫造
されたマンガとどう違うの?それだったら、むしろ楽しく笑えるマンガを見た方
がマシ。
その手のご推薦の本は、いわば大人が喜ぶ子供向けの本。だから子供としては疑
問を持たずに「学ぶ」といったスタイル。
しかし、子供だったら、子供の好きな作品に接すればいいだけじゃないの?
多少は下品なりエッチなところもあっても、それを含めて子供の興味ですよ。
どうして、頭ごなしに、子供の自然な興味を否定するの?

しかし、独裁体制というものは、子供っぽさを否定するもの。
前にも書いたかもしれませんが、独裁者にしてみれば、「あの王を打倒せよ!」と
いう反抗の声は実は怖くない。「あの王様は、実際はハダカじゃないか?」という
子供の指摘の方が怖いもの。「あの王を打倒せよ!」という声に対しては「○○に
よる陰謀だ!」「△△からの回し者が何を言っているんだ!」などと反論すること
ができても、「あの王様は、実際はハダカじゃないか?」という指摘には対処でき
ないでしょ?その指摘に対してダンマリを決め込んで、そんな声を上げた子供を
抹殺するしかない。

子供に対しては、諸般の事情は通じない、まさに自分の思ったことを発言し、行
動する。しかし、それは、諸般の事情によって、がんじがらめになっている大人
にはできないこと。だからこそ、諸般の事情の積み重ねによって支配している独
裁者にしてみれば都合が悪いわけ。
だからこそ、子供が、いち早く諸般の事情の中に埋没するようにし向けてしまう。
明確に言語で規定するには、自分のやっていることはいかがわしい。支配される
側が、自主的に空気を読むような形で支配しようとする。空気が読める大人にし
ようとするわけ。

何も政治的な独裁者ということだけでなく、まさにダメダメ家庭を支配している
強圧的な親も、そんなパターンでしょ?ダメダメな親は「早く大人になれ!」と
子供に要求し、子供っぽいものを取り上げるもの。

「子供に見せたい」「子供に読ませたい」も、結局は、「諸般の事情に配慮するよ
うな大人に早くなれよ!」という意味でしょ?

カルトな宗教も、「いかにも」な作品を推奨していたりするものでしょ?
カルトが推奨する作品は、「型どおり」で、子供っぽさがないもの。そして理念的
で過度に倫理的な作品。それこそ韓国の歴史教科書なんて、その典型。

以前に、このメールマガジンにおいて、カルト集団からは芸能は出ても、芸術は
出てこない・・・そんなことについて書いています。芸術というものは、自分の
内面を厳しく見つめた結果であると供に、ある種の子供っぽさの反映のようなも
の。諸般の事情を満足させることを重要視していたら、一般人に受ける芸能には
なっても、芸術にはなりませんよ。
子供っぽさが許されない環境だと、芸能は生まれても、芸術は生まれないわけ。
そんな状況になると、支配者が大喜びする倫理的な作品が、「これぞ、偉大なる精
神を表現した立派な芸術作品だ!」などと称揚されることになる。しかし、そん
な作品は、時代の波を越えられない。その治世で終わってしまう。諸般の事情を
満足させるものであるがゆえに、その諸般の事情がなくなれば、その「作品」の
役割も終わってしまうわけ。
そんなことは、いつの時代でも起こっていること。

倫理を志向した作品は、結局は、大人の顔色をうかがった作品であり、逆に言う
と、神の意向に従ったものではないわけ。
そもそも、「子供に読ませたい」はいいとして、子供はそんなに倫理的な存在なの?
というか、そんな説教くさい作品を推薦する大人は、子供時代に、そんな作品を
好きだったの?
「子供がなぜにこの作品を喜ぶのか?」それこそが真理につながるのでは?
心を虚しくして幼子のようにならないかぎり、天国の門は開かれないのでは?

権威筋認定のご立派な作品を推薦したがるのはいいとして、それゆえに、そんな
推薦者は、神からは遠い存在なんですよ。
前にも書きましたが「自分の子供に読ませたい。」というのならありでしょう。し
かし、見も知らない子供に読ませたいというのは、カルトなり独裁体制のお約束
の行為。

逆に言うと、そんな「子供に見せたい」「子供に見せたくない」なる文言が飛び交
っている状態だったら、子供の目線が無視されているということであり、大人か
らの一方的な命令がまかりとおっているということ。
それこそPTAなんて、まさにParentsと、Teacherという大人の集団ですが、じ
ゃあ、子供の意向はどのように反映されるの?そのような子供の目線の無視し、
大人の事情を一方的に押しつける姿勢は、以前に取り上げた長崎県の小学校6年
生の事件の加害者の親の手記に典型的に現れていました。

「子供のため!」「子供を守ろう!」というご立派な正論はいいとして、じゃあ、
皆さんは、困りごと抱えた子供がPTAに掛けこんで相談するという事例を聞いた
ことがありますか?
あるいは、困りごとを抱えた子供が、駆け込みやすい雰囲気を作ろうとする、PTA
の関係者の意見を聞いたことがありますか?
あるいは、PTAの皆さんのおかげで、心の豊かな人間になれた・・・と大人にな
ってから述懐する大人に会ったことがありますか?

PTAは常駐しているわけではないから、そんな「駆け込み寺」的な活動をするに
も、現実的に無理がある。しかし、じゃあ、学校なり地域で、そんな困りごとを
抱えた子供へのサポートはどうするの?
その方法論くらいは考えてもいいのでは?

そんな考察こそが、マンガやアニメにクレームを付けるよりも、よっぽど建設的
ですし、子供にしてみれば、必要なこと。

それに子供から相談を受ける部屋を設定するとしたら、そんな部屋には、それこ
そ「クレヨンしんちゃん」のマンガ本でもあれば、小道具としては、実に効果的
でしょ?
相談しに来た子供にしてみれば、リラックスに繋がりやすいのでは?

相談部屋に、権威筋認定のご立派な本しか置いていなかったら、子供にしてみれ
ば、それだけでプレッシャーですよ。そんなことは、ちょっと目線を子供の側に
移したらスグにわかること。あるいは、何かと「子供に見せたくない」などと言
い出す人に対しては、相談を持ちかけられないでしょ?だって、そんな人に対し、
子供が何か本音を言ったら、「ケシカラン!だからそんなものは見るんじゃない!
とあれほど言っていたのに!!」と怒られる・・・そんなシーンは子供だって予
想できますよ。

結局は、子供の側から問題を持ち込まれたくないわけ。ただ一方的に大人の都合
を連呼するだけ。まさにトルストイが描く「アンナ・カレーニナ」のように、「ワ
タシは現実を見たくない!」と子供からの訴えから逃げ回っているだけ。

抑圧的な状況だと、おのおのが、諸般の事情に配慮して、空気を読みあうことに
なる。
だから子供っぽさが許されない環境とも言えるわけ。
それこそナチスの例を見るまでもなく、そんな集団の中では、「見せたくない」「読
ませたい」なる文言が踊ることになる。

見たこともない子供相手に、つまらない倫理的な本を推薦するよりも、そんな歴
史書を読んでみたら?歴史を紐解けば、その手のペルソナ・ノン・グラータ(歓
迎せざる人物)ならぬリベル・ノン・グラータの事例がいっぱいでてきます。そ
れこそ有名なE・ブロンテの「嵐が丘」も、「良家の子女に読ませられない!」と
の選定を受けたこともあります。あるいはシェークスピアだって、そんなレッテ
ルを貼られた時期もあるわけ。力のある芸術作品なんて、出た当初は「不道徳だ!」
とかのクレームが出るのがお約束。逆に言うと、画一化されてしまった人間の存
在を揺り動かす力を持つ作品は、PTAのような管理組織からは嫌われることにな
る。

前にも書きましたが、人を抑圧する組織は、「あの王様は、実際はハダカじゃない
か?!」という指摘が出ないようにしたいわけ。まあ、王様の服装はともかく、「こ
の親も、いつもキレイごとを連呼しているけど、実は自分自身では何もわかって
はいないぞ!」なんて指摘は、実際にあったりするでしょ?逆に言うと、「管理す
るもの」は、そんな指摘が出ないようにしたいわけ。たとえばPTAのような集団
も、「PTAは不要だ!」などという指摘に対しては、「なんだと?!オレたちをバ
カにするのか?!」と過激に反論したりするけど、「PTAのお偉方って、結局は、
子供の話を聞いていないんだよね・・・」という声に対しては、ダンマリでしょ?

自分自身を抑圧している人間は、規格品的な感情を超えた作品に対しては、恐怖
心が伴う拒否反応が起こるもの。そんな作品は、規格品として安住している大人
の安寧を打ち壊す。規格品的な感情を打ち壊すパワーを受け入れられるのは、子
供だけ。

PTAごときが、芸術を理解できないのは当然。べつに理解する必要はないわけで
すが、威張りくさって、「子供には見せられない。」なんてレッテルを貼るのは、
神への冒涜ですよ。

前にも書いていますが、作品を推薦するのなら、「個人→個人」という流れが基本。
自分自身が、よく知っている相手に対して、よくわかっている作品を推薦するの
はアリでしょう。いずれにせよ、不特定多数に対しては、推薦ではなく、紹介と
いうスタイルが基本なのでは?
何と言っても、相手のキャラクターがわからないわけですからね。

分からない相手に対して「推薦」と言っている時点で、いかがわしいわけ。それ
は、作品を「紹介」することができない・・・別の言い方をすると、「その作品は
どんな問題意識を背景にしていて、どんなテーマなのか?」それを解説すること
ができないという意味。
それができないがゆえに「見せたくない」「見せたい」なる推薦の言葉になってし
まう。
つまり、気安く推薦なんて言葉を使う人は、自分の思考も自分の言葉も持ってい
ない人。だからこそ、子供も同じような抑圧状況に置こうとするわけ。キャラク
ターが分からない相手に対して行う作品の推薦は、「空気を読ませる」スタイルの
管理の手法なんですね。

抑圧状況となると、カルトがその典型ですが、カルトは芸術作品を生み出さない。
しかし、面白いことに、カルトの周辺では面白い芸術が生まれたりするもの。何
もカルトとまではいかなくても、ダメダメの周囲では、力のある芸術が生まれた
りするもの。

カルトそのものと言える韓国や中国では芸術が出てこない。
しかし、ダメダメとマトモが交差し、混在するような地域・・・たとえばロシア
とかイタリアとか大阪とか・・・では、意外にも力のある芸術が生まれたりする
もの。逆に言うと、マトモ一色の世界でも、芸術は生まれにくい。

それこそ、日本の20世紀の美術なんて、第2次大戦中の作品が一番力がある。
それだけ、創作する人が、目の前の現実を必死で見て、必死で生きて、必死で考
えたんでしょうね。日本の美術も、平時においては、形重視のつまらないものが
多く、自称芸術家の独りよがりの作品が多いわけですが、命の危険があると、「こ
れだけは残したい!」「これだけは伝えたい!」と真剣さが出て来るんじゃない
の?

そんな必死さは、大所高所から、「推薦!」なんてレッテルを貼って喜んでいる人
間には理解できない境地。せっかく、すばらしい新鮮な視点を提示している作品
でも、PTAのようなカルトっぽい人たちが倫理的なり政治的な観点から解説した
りするので、その作品の本当の力や作者の問題意識が紹介されなくなってしまう。
抑圧的な人は、新しい視点などは受け入れることができないわけ。ただ、自分が
前から思っていたことを、作品を通じて再確認したいだけ。そして再確認できた
作品を誰かに推薦して、「これでオマエも、再確認しろよ!」と言い出すわけ。

以前に取り上げたノーベル賞作家のエルフリーデ・イェリネクさんの「ピアニス
ト」という小説の中で「コンサートの聴衆は、前から自分で分かっていることを
コンサートで再確認しているだけだ。新しい発見なんて求めていない。」なる記述
がありました。あるいは、これも以前に取り上げたチェーホフの手記の中に「読
者は前々から分かっていることを、作品を通じて再確認したがる。」というような
記述があります。

まあ、一般の受け手というのはそんなもの。新しい視点を提示している作品は喜
ばれない。それこそ「不道徳的だ!」なるクレームとなってしまう。
新しい視点が与える恐怖と向き合う心理的な強さがないわけ。

心理的な強さや、感性の鋭敏さがないのはしょうがないわけですが、そんな人た
ちが大手を振ってしまうと、大衆の一時的な気を紛らわす作品が求められること
になってしまう。
あるいは、自分で考えることから解放してくれる「倫理的」で「道徳的」な作品
が求められる。自分で考えることから解放する効果を持つ作品なんだから、支配
者にしてみれば、役に立つ作品といえる。

中国とか韓国とかは、政治的な主張なり、倫理的な説教くさい作品はあっても、
人間の真理をついた作品はないでしょ?逆に言うと、そのような説教くさい作品
ばかり出て来るということは、その集団がカルトということ。

倫理は人の道。逆に言うと、倫理は神の道ではない。
芸術とは子供のものであり、幼子のように心を虚しくする・・・それが神への道。
そして、既存の画一化した存在を揺り動かす力がある。

それが力のある作品ですし、だからこそ「毒にも薬にもなるもの」。そんな心の安
定を揺り動かす力のある作品は、おいそれとは推薦できるものではないわけ。
キャラクターのわかっていない相手に、推薦している段階で、芸術というものが
わかっていないわけですし、それは単に、感性の問題というよりも、子供の心が
なくなって、頑なになっているということ。
だからこそ、自分と同じような頑なな心にしたがるわけ。

以前にも書きましたが、「知の伝統の系譜」と、「伝統的な知の系譜」は違ったも
の。
カルトとか管理団体とかは、「伝統的な知の系譜」の作品を推薦することになる。
しかし、それこそシェークスピアもベートーヴェンも、ゲーテも、「知の伝統の系
譜」であって、「伝統的な知の系譜」ではないわけ。

「知の伝統の系譜」は、それこそ、フランス絵画のアンデバンタン展のように、「推
薦されなかった」側から出て来るもの。
せめてそのこと自体はわかっていないとね。

(終了)
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発信後記

作品の推薦というのは、推薦する対象の人間のキャラクターについてわかってい
るのが基本でしょ?それこそ、「このような問題意識を持っている人には、この書
籍が有効だ!」
そんな流れが基本。
しかし、抑圧的な人は、まさに推薦という行為がスパム化されてしまうわけ。対
象について考えることに心理的な恐怖を持っている。

ある程度、推薦の相手先のキャラクターについてわかっていれば、作品を推薦す
る行為も、価値があると私は考えております。

そういえば、このメールマガジンも、どこかから推薦されたこともあったらし
い・・・
まあ、なんて無謀なことを!!
もちろん、今ほど毒々しくはなかった頃のことでしょうが・・・

このメールマガジンの文章は、確たる問題意識を持った方には有効な文章だと考
えております。その前提条件を分かった上での推薦なら意味があるでしょう。

ちなみに、このメールマガジンを読めるくらいの問題意識のある方に、この私が
推薦図書を提示すると、新約聖書となります。多くの購読者さんが、既に読んで
いるでしょうが、もしお読みになっておられないのでしたら、一読をお勧めいた
します。
なんと言っても、このメールマガジンでは、呆れるほど、新約聖書からの言葉を
引用しています。私はクリスチャンではないのですが、新訳聖書の記述はすばら
しい。

それこそ「子供の読ませたくない!」などと管理したがるPTAなんて、新約聖書
に出て来るパリサイ人の姿とそっくり。
本文中に書いた「知の伝統の系譜」と「伝統的な知の系譜」の対立の構図は、こ
の二千年前から何も変わらないわけ。


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