2009/01/15
ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジン neoneo 116号 2009.1.15
☆━┓ ┏━┓ ┏━┓ ┃n┣━┫o┣━┫e┣━┓ ★ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジン ┗━┫e┣━┫n┣━┫o┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━○ ┗━┛ ☆━┛ ┗━☆ 116号 2009.1.15 ∽∽∽∽∽∽ HEADLINE ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ †01 ■「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」アンケート発表 大澤一生、清水浩之、佐藤健人、岩淵弘樹、山下治城、 水野祥子、江利川憲、石坂健治、春田実、萩野亮、 中村のり子、水由章、伏屋博雄 (到着順) †02 ■neoneo坐 1月後半の上映プログラム †03 ■広場 ■長編批評:『NOISE』を見つめること 宇野 治 ■『長江にいきる 秉愛(ビンアイ)の物語』先行上映 1/28 & 1/29 21:00〜 渋谷・ユーロスペース ■『映画は生きものの記録である』&土本傑作選 特集:土本典昭の仕事 2/7〜2/20 シネモンド(金沢) ■第12回ゆふいん文化・記録映画祭 第2回松川賞の公募 ■「第11回ゆふいん文化・記録映画祭記録集 モンスーン2号」を 発行!! ■「自作を語る」などの原稿募集! ■上映の告知の有料化とカンパのお願い †04 ■編集後記 伏屋 博雄 ★バックナンバー閲覧はこちらまで まぐまぐ配信 http://blog.mag2.com/m/log/0000116642/ melma!配信 http://www.melma.com/backnumber_98339/ ┳━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┃01┃□「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」アンケート発表 ┻━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■大澤 一生(ドキュメンタリー制作) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 DDS2008での『NOISE』(監督:王我)。中国の暗い過去を過ぎ去ったものとして忘 却するのではなく、過去を受け止める覚悟と未来への希望を同時に提示するラスト のシークエンスに脱帽。中国の作家たちの作意の在り方に懐疑的になりかけていた だけに作り手の「意思」を感じさせる作品と出会えたのは嬉しい。あと、ガンダー ラ映画祭で観た『セックスと嘘とビデオテープとウソ』(監督:松江哲明)。日常 を題材にしながら、私と他者、虚と実の関係性をあぶりだす構成の巧みさに打ちの めされた。 (2)「私のゆく年くる年」 昨年は『バックドロップ・クルディスタン』に全てを費やした1年だった。応援して 下さった方々、本当にありがとうございました。 昨今ドキュメンタリーの劇場公開作が増えているのは喜ばしいのだが、題材に依拠 した作意の薄い作品が昨年は多かったように感じたし、その題材を確認するために 映画を観る、ある意味予定調和を求める層が多いことに危惧を覚える。広義の意味 での「世界」を捉える新たな視点の在り方を提示してくれる作品を個人的に観たい し、自分でも作っていければと思う。 ■清水 浩之(ゆふいん文化・記録映画祭コーディネーター) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 『あの時だったかもしれない』(是枝裕和) 『フツーの仕事がしたい』(土屋トカチ) 『Where the Hell is Matt?』(マット・ハーディング) http://jp.youtube.com/watch?v=zlfKdbWwruY 萩元晴彦・村木良彦両氏の仕事から「あるいはこうだったかもしれないテレビ史」 を発掘し、未来への可能性をも示唆する1、空気ばかり読んでいないで声を出そう! という気にさせる「任侠ドキュメンタリー(殴り込んだり込まれたり)」の2、そし てアメリカの旅好き兄ちゃんが世界の街角で踊りながら各国の文化や政情、国民性 まで紹介してくれる「Youtubeのシネマトグラフ」と呼びたい3をオススメします。 (2)「私のゆく年くる年」 ゆふいん文化・記録映画祭では60分以内の中短編ドキュメンタリーを発掘する「松 川賞」を創設、第一回の入選五作品から大賞および観客賞に選ばれた『緑の海平線 〜台湾少年工の物語』は、その後文化庁映画賞(文化記録映画部門)大賞にも輝きま した。 この試みが中短編ドキュメンタリー復興のきっかけになれば…と願います。第二回 「松川賞」応募締切は3月10日です。お手持ちの近作がございましたらぜひご応募く ださい。長編作品の短縮版も歓迎します! http://movie.geocities.jp/nocyufuin/home.html そして恒例の「短篇調査団」個人的ベストテン…五島列島の若者組(中村麟子)地 熱にいどむ(近藤才司)ある同姓同名者からの手紙(金高謙二)花ひらく日本万国 博(鈴村一夫)人間誕生(瀬藤祝)旅立ちの青春・九電技術研修生の記録(長井 博)テレビッ子マンガッ子のしつけ(下村堯二)日本の鶏(久保田義久)南氷洋の 捕鯨(大島善助)太陽は明日もまた(江崎実生)別格:発見への出発(大和屋竺) はんこ心得帖(戸田金作) ■佐藤 健人(映像作家) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 『新年10日間』(栗原みえ) 3年間の新年の日常を淡々と綴った60分の8mm作品。雪降りで始まる出だしから圧倒 された。3年間を追っているのに、何の変化もないのがまた面白い。「スニーカー」 「映画館」「ハロプロ」「病院」「お灸」といったモチーフが面白い。 『LAST CITY(背徳バージョン)』(大木裕之) ゲイや変態性欲の人々の日常を切り取った作品。鼻歌まじりにテキトーに撮ってい るように見えるのに、独特のグルーブ感溢れる編集でどんどん引き込まれて行った。 この2作品は、(自分にしか出来ないオリジナリティ溢れる)自己表現とエンターテ イメントを両立させていて、とても衝撃を受けた。 (2)「私のゆく年くる年」 2008年はセルフドキュメント作品の『もここ』『もここpart2』を上映して頂けた ことがとても大きかった。 これからも映像で表現していこうという気持ちが高まった。 「もここ」はこれからも撮り続けるし、より多くの人に見てもらいたいと思う。 あと今年は、長編の脚本を書き溜めようと思う。(習作として) ■岩淵 弘樹(『遭難フリーター』監督) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 『HARMONIES』(監督:元宮正吾)。二階堂和美とテニスコーツ・さやによるユニット、 「にかスープ&さやソース」の音楽ドキュメンタリー。深い洞窟の底のような、静 謐から映像は始まる。静謐から音楽は生まれる。静謐。誰もが不可侵のその空間に カメラがそっと入り込む。そして生まれたメロディは祝祭を呼び起こす。歓喜が、 衝動が、ダンスが、文字通り渦を巻いて沸き起こる奇跡の場面に、映像と音楽と人 間のタフネスを感じ、笑い、ちょっと泣けた。 (2)「私のゆく年くる年」 拙作『遭難フリーター』が2009年3月より渋谷ユーロスペースでロードショー公開い たします。また、同時期に太田出版より書籍「遭難フリーター」も出版の運びとな りました。何卒よろしくお願い致します。 ■山下 治城(やました・はるき)プロデューサー (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 『いのちの食べ方』(2007年、ドイツ・オーストリア)(@シアター・イメージ フォーラム) フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーに肉の加工を扱った作品などがあっ たが、これは、その試みを越えたと思った。シンメトリーを中心とした美しいフ レーミングで撮影されている。 現実が淡々と映し出される。食料とはイノチでもあり、大量工業製品でもあるのだ と思えてくる。 その対比が恐ろしくもある。人間が生きていくことの業と矛盾がフィルムの中から あぶりだされる。 食糧問題は環境問題でありエネルギー問題であるという言葉を思い出した。 (2)「私のゆく年くる年」 広告業界の今後について、身に沁みて感じ、考えています。 秋以降の景気の逆境の中、新たな試みに挑戦して 新しいスタイルを模索していくことが求められて来ています。 特に、自分のかかわっている広告業界は、大きな転換期を迎えています。 その時に有効なのが、事実を見つめるチカラだと思います。 ルポルタージュやドキュメントの重要性が改めて浮彫りにされるでしょう。 低レベル安定社会に適応した持続可能なダウンサイジングの幸福が必ずある筈です。 ■水野 祥子(UCLA 映画研究) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 『バシールとワルツを』 Waltz with Bashir/監督:アリ・フォルマン(イスラエ ル、フランス、ドイツ/2008年) ドキュメンタリーには実写映像がごく当たり前に使われてきた。アニメーションは 補助的に使われるのみで、主に、ファンタジーの世界、説話や未来都市を背景に、 ハイパーリアルを映像化するフィクションの映像化に用いられている。この映画は、 それらの一見相反する目的、用途、映像形態をもつドキュメンタリーとアニメーシ ョンを融合させ、「記録映像」ではなく「記憶映像」の呈示を通して、真実とは決 して全体像として掴みきれることのないということ、それでも真実を解釈し得るさ まざまな断片を呈示しており、ドキュメンタリーとはなにか、史実はどうつくられ 消されるかを思考する、能動的な鑑賞へと観る者を導いてくれます。 (2)「私のゆく年くる年」 今年はロスでの最後の年になりそうですが、新しい場所で新しい課題へと踏み込み たいです。アメリカも転機に入るようです。経済危機がひどくなる一方で、新しい 大統領を迎えます。前政権による長い8年が終わる日に、ささやかに緑茶で乾杯する 予定。今年もよろしくお願いします。 ■江利川 憲(フリー編集者) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 旧作でもいいということなので、土本典昭監督の『水俣―患者さんとその世界―』 (71年)。知れば知るほど複雑な水俣病の世界。そして、この問題は未だに解決し ていない。私たちが水俣病を知ろうとするとき、考えようとするとき、最良のテキ ストになる一本。ここから始めて、『医学としての水俣病』『不知火海』などを見 てほしい。土本監督が亡くなった昨年、奇跡のように遺された本「ドキュメンタ リーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話」(現代書館)も必読。 (2)「私のゆく年くる年」 私にとっての昨年は、良いこともあり悪いこともあったが、悪いことのほうが多か ったと思う。それも「身から出た錆」の悪いことが。内心忸怩たるものがあるが、 今さらどうしようもない。せめて今年は自己再生を図りたいと思うのだが、近年ま すますズボラになってきているので、それもどこまでできるやら。ならば、最も大 切なことを見極めて、必要最低限のことだけを為せばいいのでは、などと考えてい る今日このごろであります。 ■石坂 健治(東京国際映画祭アジア部門ディレクター) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 王兵『暴虐工廠』(オムニバス映画『世界の現状』(07)の一篇) ワン・ビン初の劇映画は15分の短編だが心底震撼した。文革期の工場で行われてい たリンチの凄絶な描写にまず絶句したのだが、考えてみると、『鉄西区』(03)を 想起させる廃墟のような工場を舞台に用い、『鳳鳴―中国の記憶』(07)の老女が 語っていた時代のエピソードを再現しているという意味で、これは前2作の9時間+ 3時間を15分に「集大成」した超=短編なのだ。恐るべしワン・ビン。 (2)「私のゆく年くる年」 9月に仙台で行われた全国コミュニティシネマ会議の分科会で、図書館司書や美術館 学芸員と並ぶ「映像学芸員」の資格の確立に向けての議論がなされたが、映画プロ パーのパネリストたちよりも、日本図書館協会の方の発言に膝を打った。すなわち 「小泉政権が“聖域なき改革”を唱えたとき国民は快哉を叫んだが、文化行政に関 して具体的に行革の現場で行われたのは、図書館をはじめ公共施設における指定管 理者制度の導入であり、要するに司書の専門性よりもコスト安の重視であった」 「日本は、先進国では例外的に、総合職(ゼネラリスト)が権限を持ち、専門職 (スペシャリスト)が冷遇されるシステムを構築した」というものである。なるほ ど「現在、図書館職員の直接雇用が図書館全体で急減する事態が起きている」(ウ ィキペディア)らしい。映画行政も全く同じだ。筆者はいま東京国際映画祭の事務 局にいるが、横一列に机を並べているのは、東北のドキュメンタリー映画祭で市役 所内の事務局を切り盛りしていた者、都下ニュータウンの市立ホールで上映会を企 画していた者、官庁傘下の独立行政法人で映画祭を担当していた者(これは筆者で した)、などなど。いずれも少し前まで公的機関で映像事業をプログラミングして いた「専門職」である。転職の経緯はそれぞれ異なるが、日本の映画行政を考える 上で実に象徴的な風景ではなかろうか。「映像学芸員」の議論よりも、すでに一回 転して酸いも甘いも噛み分けてきた「専門職」転職組の言いたい放題シンポジウム のほうが抜本的で実り多いと思いますよ。 ■春田 実(「恋するアジア」主宰・編集者) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 人が口にする他人に対する評判は、結局のところ、その言ってる本人のことを言っ ているのである。ある者が、あいつはケチだとか、頭がいい、とか言う場合、それ は言われている人物がそういうふうなのではなく、言ってる本人が、ケチであり、 頭がいい(自惚れ)のである。ドキュメンタリーというのも、結局、そうゆうもの である。 ある作品は、撮られた対象のことを語っているのではなく、撮った人物自身のこと を言っているのである。前置きが長くなったが、『緑の海平線』(制作 郭亮吟・藤 田修平台湾・日本 2006年)、私はこの作品を押す。この作品は撮った人間(主に 郭さんのほう)の人格が麗しく、私は見終わって、暖かな、人を抱きしめたくなる ような感情につつまれた。もっと私の周辺の人間を好きにならねばと思った。この 作品は「第二次世界大戦中に、神奈川県の海軍工廠に志願・派遣・召集され、軍用 機の製造に従事した台湾人少年たち」を描いたものである。しかしそんな内容のこ とは、とりあえず、どうでもいい。ただただ、登場する人物に対する監督の接近の 仕方が、賢察と思いやりに満ちていて、見ている私の目頭を熱くしたのである。ド キュメンタリーを見るとは、監督の資質、人格を味わうことなのだな、とあらため て思った。 (2)「私のゆく年くる年」 今年の希望である。ドキュメンタリーを上映する映画館が増えたことは朗報だが、 映画館の入場料金は1000円以下にならないものだろうか。現在は前売でも1400円前 後。これは高すぎると思う。牛丼なら3杯は食べられる。映画も生活を支える食糧 (栄養の素)である。興行組合も、人が入らない→高くする (現状維持)、という ふうでなく、困難は多いと思うが、安くする→客を増やす、という方向にむかって ほしい(全日を、女日、男日、天気日など、何やかやのサービスデーにして安くし てれてもいい)。 ■萩野 亮(本誌「映画時評」欄担当、映画論) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 『スタンダード・オペレーティング・プロシージャー』(エロール・モリス)。 これは「一押し」というよりは、もう一度何としても見なければならない作品のひ とつ。あまりの衝撃に、いまなお冷静な思考を奪われています。2003年のアブグレ イブ刑務所捕虜虐待事件の「当事者」たちを真正面から撮影したインタビュー映像 において、観客は彼らの「顔」と証言に対峙することをひたすら求められる。「本 人」に直接取材してしまうモリスの明快さは、ドキュメンタリーの原初的な衝動を 感じさせます。(第3回難民映画祭にて) 注:上記の作品は、1/17、18のアムネスティ・フィルム・フェスティバルで上映さ れます。 http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=1950 (2)「私のゆく年くる年」 本誌の「映画時評」欄を担当しておよそ2年になります。昨年の12月には『長江にい きる 秉愛の物語』の馮艷監督に取材させていただくことができ、単に作品を「見る /書く」という営為にとどまらない、思考の広がりを感じています。映画には「現 場」があるということ。アマチュアを含めた何人かの映画の作り手と知り合うなか で、自分の考えてきた「映画」がいかに狭隘なものであるかを知るこのごろです。 ■中村 のり子(会社員) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 『私の紅衛兵時代』(監督:呉文光) 文革を体験した何人かへのインタビューは、シンプルな構成だが、話の中の事実を 求めるのではなく一人一人の心情を伝えようとしていて、作り手の人間性を感じら れる魅力的な作品だった。 『LINE』(監督:小谷忠典) どうしても撮らなくてはならない、という作者の切迫した思いが、自分の家族のこ とと沖縄・コザの売春婦たちを引き合わせている不思議な作品。映像の持つパワー を信じ抜いた監督に脱帽! (2)「私のゆく年くる年」 失業者の問題、医療の不足、アホな政治家、そしてガザの戦争の現実と、なかなか 笑っていられない世の中ですが、だからこそ映画や美術や音楽のことを忘れずにい たいです。 ■水由 章(ミストラルジャパン) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 『RAZZLE DAZZLE the Lost World』(監督:ケン・ジェイコブス、2006年、91分、 ビデオ) 2008年1月のロッテルダム国際映画祭で見て、本人とコンタクトをとり、5月になか のZERO視聴覚ホールで1回限りの上映会をおこなった作品。世界的な実験映画作家の ケン・ジェイコブスが、1903年に遊園地で遊ぶ人々を記録したフィルムのフッテー ジを、コマ単位の動きでマクロ的に拡大し、繰り返し反復していく。 まさに実験映画的作品だが、タイトルの『RAZZLE DAZZLE/ラズル・ダズル』には、 観客への視覚的な「撹乱」だけでなく、ブッシュ政権に批判的な彼が、世の中の 「バカ騒ぎ」への政治的メッセージが秘められていたことが興味深かった。 (2)「私のゆく年くる年」 状態の良い16mm映写機が常備された映画館・ホール・スペースの少なさを憂える。 故に、車に映写機(8mm、16mm)を積み込んであちこち上映しています。 2009年中には、10年がかりで製作している黒坂圭太監督のアニメーション映画 『緑子/MIDORI-KO』の完成を目指しています。 ■伏屋 博雄(本誌編集長、プロデューサー) (1)「わが一押しのドキュメンタリー映画2008」 『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』(監督:小川紳介、1972年)。武蔵大学所蔵の小 川プロ16本のフィルムのうちの1本。壕の中の老人のユーモア、空港を阻む鉄塔建設 を中断するかどうかの局面で放つトリックスターさながらの青年の檄。寒風吹きす さぶ上空60メートルで行う人力作業を命綱1本で行う決死の撮影など、随所に長回し を駆使し、闘争の内なるコスモスを描き、熱い時代の記憶を甦らせる。三里塚作品 の中ではあまり見られていない作品だが、ドキュメンタリーの極を示す一作。 (2)「私のゆく年くる年」 昨年の土本典昭の死と17年前の小川紳介の死。昭和のドキュメンタリーを担った主 柱は今やいない。平成のドキュメンタリーはどこへ向かうのか?模索する日は続く。 土本の晩年に撮影した作品『映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事』は各 地での上映を重ね、海外では5カ国で上映。この時のインタビューをもとに企画した 著書「ドキュメンタリーの海へ」(土本典昭・石坂健治著、現代書館)が昨秋完成。 「neoneo」が創刊5年余で3000名を突破。 ┳━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┃02┃□neoneo坐 1月後半の上映プログラム ┻━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 会場はいずれも神田・小川町のスペースneo(都営新宿線小川町駅B5出口より徒歩1 分JR御茶ノ水駅聖橋口より徒歩5分)です。詳細と地図はneoneo坐のHPをご覧下さい。 http://www.neoneoza.com/ ■「知られざる短篇映画を見てみる」上映会「短篇調査団」 毎月第2・第4水曜/20:00〜21:40 終映予定 16mm上映 会費500円(作品資料付き/映画は鑑賞無料) 手のなる方へ5本立(118分) (82) 鬼の巻…2009年1月28日(水)20:00〜 『泣いた赤おに』 1964年/18分/カラー 制作:学研映画/製作:原正次/制作担当:森下博美/原作:浜田廣介 脚本・監督:神保まつえ/撮影:相原康雄・矢萩和己 人形アニメーション:和田京子(赤鬼)・飯田純子(青鬼) 人形製作:佐々木章/美術:酒向満/童画:長島克夫/作曲:斎藤高順 ■人間の子と友達になりたいという赤鬼の望みをかなえるために、親友の青鬼はす すんで悪者になる…。青鬼の心情を通して、友達への思いやりを描く人形アニメー ション。 『子鬼の祭』 1961年/11分/カラー 制作:電通映画社(現・電通テック)+東京中央人形劇場 製作:池田永造・小畑敏一・庄司洵/企画:石川孝寿 脚本・監督:高橋克雄/脚本:田中喜次/撮影:高山弥七郎 美術:上田悌三/音楽:若山浩一/語り:七尾怜子 ■一人ぼっちの子鬼が村祭のおはやしに誘われて村にやってくる。子鬼は村の子ど もたちと仲よく遊びたいが、鬼の子としてこわがられてしまい…。人形劇の一部に アニメーションを使用。 『鬼』 1972年/8分/カラー 制作:川本プロダクション/原作:今昔物語より 脚本・監督:川本喜八郎/撮影:吉岡謙・田村実 美術:壬生露彦・中川涼/人形アニメーション:川本喜八郎 作曲・演奏・三味線:鶴澤清治/尺八:山口五郎/録音:伊藤一男/編集:園尚子 ■「今昔物語」の一説話を川本喜八郎の人形アニメーションで描く。ある夜、病気 の母を家に残し、猟師の兄弟は山へ鹿ワナを仕掛けに出かけた。鹿を待っていると、 突然あやしい腕が現われて、弟をとって食べようとする…。 『鬼がくれ山のソバの花』 1980年/23分/カラー 制作:電通映画社+エコー/企画:貯蓄増強中央委員会 プロデューサー:西尾豊/脚本・監督:岡本忠成/脚本:東川洋子・永倉君平/撮 影:田村実 ■鬼がくれ山に住む赤鬼は、腹が減ると麓の村に下りてきて、村人たちが飢饉に備 えて貯えたソバを食べてしまう。村の少女・おシノは、鬼に自分でソバを育てるこ とを教えて…。額に汗して働くことの大切さを訴える。 『鬼すべ』 1983年/58分/カラー 制作:RKB映画社/企画:太宰府天満宮顕彰会/プロデューサー:成富泰通/脚本・ 監督:野崎健輔 撮影:RKB映画社撮影班/音楽:野々宮洋/ナレーション:水野雅央 ■1月7日、太宰府天満宮の追儺祭の夜に氏子集団が繰り広げる演劇的な鬼すべ神事 を記録する。祭具の製作・準備から本番での鬼・鬼係、警護、松明係、すべ手各演 者集団の役割、祭場への集結、鬼すべ堂の壮烈な戦いと興奮などを、9台のカメラで 余すところなく収録。 【料金】会費500円(作品資料付き/映画は鑑賞無料) 【お問合せ】清水 E-mail: shimizu4310@bridge.ocn.ne.jp 「短篇調査団」 ┳━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ┃03┃□広場 ┻━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■長編批評 ■『NOISE』を見つめること ■宇野 治 『NOISE』(2007年、中国、ヴィデオ、60分)監督:王我 「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー山形in東京2008」の「牛黄田電影プログラ ム」の一本として上映された本作『NOISE』は、中国独立紀録電影(中国インディペ ンデント・ドキュメンタリー映画)の20年の歩みの果てに立ち顕われた、独立紀録 電影の「鬼っ子」だと思う。いや、現在のドキュメンタリー映画表現の臨界点とも いえるのではないか。 だが、これは中国だけの問題ではない。いま世界中で同時に進行している、映像表 現を巡る、引き返すことのできない或る切迫した事態を露呈させている。…だが、 性急に感慨を呟くことを慎まなくてはならない。この性急さ自体が表現を痩せ細ら せる。 冒頭、爆竹や空砲が激しく掻き鳴らされる中国の街頭が、映し出される。定点観測 のように、固定で「長回し」撮影されているであろうカメラは、道を隔てた対岸の 歩道に据えられていると思われる。喧噪の中、カメラ前を、車が、自転車が、人々 が、ひっきりなしに通り過ぎていく。一つの「観察映画」がはじめられる。以後、 爆竹と喧噪に満ちた街角が、次から次に、一切の説明もなく、ただ、ひたすらに映 し出されていく。 だが、繰り返し映し出される喧噪の街頭を見ながら、私はふと思う。この場所も、 普段はひっそりと静まり返った状態もあるに違いない、と。だが、そういう時間は この映画では排除されている。いや、爆竹も喧噪もない、静かな街の時間を排除す ることでこそ、この映画は成立している。普通、排除(リダクション)されるもの は、騒音などのノイズであって、静けさや変哲の無さではない。この映画で、排除 されているのは、逆だ。何も起こらない時間や場所こそが、徹底して排除される。 喧噪に包まれる街頭が延々と映し出されていくなか、やがて、別な或ることに気付 かされる。建物の上から見下ろしたりしながら、カメラポジションに多少の変化を 持たせながらも、カメラと街の距離は一貫して遠景のままである。(村山匡一郎氏 が、上映時に配布されたパンフレットで指摘しているように、それがほん一瞬変化 しそうになる所がないわけではないが、)この映画では、あらゆるショットが、対 岸から眺められた火事のごとく、猥雑にざわめく街角を見つめる。たぶん、それは、 全てを“風景=ノイズ”とさせることではないか。 やがて、カメラは、様々なシチュエーションで、群がる人々を捉えていく。露天商 と公安との鍔迫り合いとその周りの有象無象の人々。川に浮かぶ水死体を眺める野 次馬達。ある会場内に入ることを制限され、ゲートの外でもみくちゃになる人々。 全てが遠景で撮影されているため、人は“群衆”として捉えられ、人々の肉声は喧 噪にかき消され、一つの“ノイズ”として録音される。 繰り返す。多くの映画では、雑音(ノイズ)こそが、排除(リダクション)される のだが、この映画では騒音(ノイズ)こそを蒐集(コレクション)していく。 私はハッとさせられる。ここで或る反転が起こっているのではないかと。この映画 が目論むのは、普段マスメディア(中国政府の公式メディア)が“ノイズ”として 排除している、民衆の騒がしいエネルギーや怒声や怒号の入り交じった騒音そのも のを、白日の下に晒すということだったのかもしれない。中国国民は秩序だって、 整然と、生活を豊かに成長させていっていると、政府は公式発表し続ける。その裏 で、常に排除されてきた民衆の無秩序なエネルギーの噴出をこそ表象すること、そ れを監督は野心したのかもしれない。だが、その目論見は、さらなる反転を引き起 こす。 終盤、カメラはオリンピック招致が決まった直後の天安門を映し出す。爆竹と嬌声 に満たされた「紅い広場」。紅い国旗を振り回し、国歌を叫び、大騒ぎを繰り返し、 狂喜乱舞する群衆。日本の暴走族よろしく、暴走する車から身を乗り出し、爆音と ともに、雄叫びを発し国旗を振り回す若者達。夜空に花火が上がり、北京の街が狂 乱に包まれて、映画は終わっていく。 上映後の質疑応答で、「あの時、監督はどういう気持ちで、あの天安門広場に居た のか?」という観客からの極めて重要な質問に、監督は「自分も高揚した気持ちで あの場に居て、カメラを回していた」と答えた。シンプルだが、切実で倫理的な質 問の意図を、はたして監督はどこまで解っていたのだろうか?「山形DDS inTOKYO」 のチラシの若句には、「中国人の生活に溢れる音と光の事件を批評する」とあった。 そうなのだろうか?現実を追認的に紀録すれば、そこに現実への批評が孕まれると いうのか?それで表現が成立するのか?そもそもこの映画は、現実を「ありのまま に」記録したと言えるのだろうか?「ありのまま」とは、より澄んだ目で、虚心坦 懐に、見つめたかどうかということであるならば、もし、この映画に批評性がある のだとしたら、身をもって示した模倣的な警告であるという一点だ。このような視 線を持って世界を見ていたら、こういう帰結になるんだぞという、倒錯的な模 倣…だが、果たしてそうなのか? この映画は、一見、ダイレクシネマや観察映画を装いながら、巧妙な情報操作を徹 底的に行った映画であるという事実を忘れてはならない。いや、そもそも映画とは 情報操作をすることで成立するものであるとも言えるのだが、だとしたら、この映 画を成立させるために排除したものが何だったのかを、ここでもう一度考える必要 があるのではないか。 街の中で、何も起こらない時間や空間、変哲のなさ、あるいは静寂、こうしたもの を徹底して排除することで、この映画『NOISE』は成立したと既に書いた。それは、 別の言い方をすれば、中国の今の現実を全て、喧噪と群衆の“風景”、あるいは 「ノイズ」という名の“風景”として再構成したということである。世界をすべて “風景”としてのみコレクションし、再構成した時、映画に何が起こるのか? かつてのナチス政権の映像を思い浮かべてみるまでもない。徹底して、人間を数量 として、群衆として扱ったアウシュビッツの記憶を生起するまでもなく、そのとき、 本当に排除されたものは、何よりも、“個人”の顔と肉体と肉声であり、個人の生 活史であり個人の物語である。ラストの天安門での乱痴気騒ぎには、思想も歴史も なく、個人の顔や言葉は消され、マスとしての群衆、そのファッショなエネルギー の発散のみが暴発していた。 映画の中盤、川岸に集まる野次馬の群れが、川の対岸から写される。やがて死体が 川から引き上げられる瞬間、映画は「黒み」となる。いや、正確に言うならば制作 者によって「黒み」にさせられたのだ。意図的に、観客から死体をシャットアウト したのだ。だが、「黒み」になっても音はしばらく持続していた。そのため、「制 作者によって意図的に死体をシャットアウトしているということ」それ自体が、重 層的に表現された、とも言えなくもない。CCTV(中国中央電子台)のニュースなら ば、「黒み」になることなく、死体が映る直前で、映像も音も同時にカットアウト となったのかもしれない。「黒み」に音声が続くということはないだろう。このと き、テレビ等の政府メディアへの批評が孕まれていることは確かだ。政府メディア は、死体を「ノイズ」として排除するだろうということを、この映画は、パロディ としてやってみせたのかもしれない。マスメディアを揶揄するためにワザと模倣し たかにみえる。批評すべきものを意図的(擬制的に)に模倣するという倒錯的方法。 だが、そこに制作者の峻厳な自覚が欠かれていた場合、擬態は擬態ではなくなる。 ワザとやったものが、何時しか、ワザとではなくなっていくという“批評の風化” が起こっていないか? この時、批評は、危ういエッジに立たされる。死体を「ノイズ」として排除するこ とを、確かにマスメディアはするだろう。だが、この独立映画は、実は、死体では なく、その周りに群がる野次馬の群衆自体を「ノイズ」として捉えている。死体か らも、野次馬からも、個人の顔と肉声は剥ぎ取られている。やはり、そのとき問わ れるのは、作者の意図である。 目の前の出来事を素朴に追認することで、ドキュメンタリー映画は、ほんとうに 「表現」を獲得できるのだろうか。ましてやそこに、果たして「批評」はあるのだ ろうか?でも果たして何の?この世界の現実を見るための批評を、である。それに は、まず、出来事を収めるための距離が問題とされなくてはならない。だが、「観 察する/ありのままに観る」とは、遠景で撮影するか近景で撮影するかということ とは本来関係はない。フレームサイズとも無縁である。あくまでも、それは、作家 が対象を見つめるときのATTUDE「態度」の問題であるからだ。 最後まで、この映画は、都市の喧噪を全て“風景=ノイズ”として描いたと言えよ う。人を、街を、“風景=ノイズ”として描くことで、消されたもの。個々人の顔、 肉体と肉声である。登場人物は、すべて無名なエキストラとなる。この映画のため にのみ存在する、のっぺらぼうの群衆だ。勿論、監督自体が消したいと自覚的に意 図したものもあるだろう。統制された思想と捏造された歴史を消した上で、民衆の エネルギーの表出をこそ表象したいと願ったのかもしれない。そう願ったのは、作 家だけではなく、このヴィデオに映る全ての群衆がそう思ったのかもしれない…。 だが、そういう作為と一緒に消されてしまったもの、それが、個々人の肉体とその 肉声である。ひいては、個人の生活史と個人の思想が抹殺されたといってもいい。 (ひょっとして、監督はこう言うかもしれない。「個人の生活史も、個人の物語も、 この国ではもうそんなものはきれいさっぱり無くなっているよ。いや、そんなもの はじめからなかったんじゃないか。そんなもの、近代西欧のまやかしにすぎない よ」と。いや、日本でだって奪われていると私は思う。だからこそと私は思うの だ。) 反政府メディアを標榜してはじまった中国独立紀録電影が、奇しくも、政府メディ アのやっていることと同じ結果をもたらしてしまうという、この奇怪なパラドクス に、私は唖然とする。今回のプログラムを企画をしたYIDFF東京事務局には、はたし てどんな企画意図があったのか? 監督は上映後の質疑応答で、「なぜ、カメラはずっと遠景なのですか?」との質問 に、「近づくのが怖いから」という、冗談なのか、ナイーブを装った幼稚なのか判 断のつかない答えをしていた。 この映画で、中国の都市は、イデオロギーによる統制ということから開放されたか もしれないが、個々人の肉体は、群衆という風景の中に埋没し、個々人の肉声は、 騒音というノイズの中に溶解する。あるのは、思想を欠いた、ただただエネルギー 発散のために狂喜乱舞する群衆だけである。この時、反イデオロギー(反政府)と いう身振りが、ぐるっと一周してファシズムへとなだれ込む。 ラストの、天安門広場には、76年の天安門も、89年の天安門もない。 民主化への苦渋に満ちた闘争の歴史はなかったこととされ、現実に生きられた個人 の歴史も、嬌声と爆竹の喧噪な中に霧散する。のっぺらぼうの集団による無意味な エネルギーの発散だけが記録されていく。この群衆の中にも、ほんとうは一人一人 のかけがえのない生活と歴史があるはずだが、それらは全て捨象される。 繰り返しになるが、もちろん反論もあるだろう。そもそも、この映画自体が、そう いう今の中国の現状を表現しているのではないか。この映画自らが、倒錯的に、身 をもって示しているのだという主張があるかもしれない。批評的とはそういうこと だと主張される輩もあろう。そういう意味で、『NOISE』という映画は、映画という メディアの限界に立っている。今の中国社会とは、この映画のように、個人の歴史 も思想も排除され、あるのは群衆の熱狂だけであると。 だが、はたしてそんな簡単なことなのか?だからこそ、やはり問いたい。そういう 批評が、この映画にあるのかどうか?簡単に言おう、ひょっとしたら、無意識にこ ういうような映画になってしまっていただけなのではないか?監督自体が、現在の 中国社会の無意識によって、個人の顔と肉声を結果的に排除してしまい、こういう 映画を作らされてしまっただけなのではないか?社会の有り様を追認記録し、個人 をたやすく消去できるという映画というメディアのもつ暴力を体現しているだけで はないか? いや、性急に、この映画と監督を断罪することは慎まなくてはならない。 あらゆる映画表現に、現実を批評する可能性がないわけではない。それは、監督と スタッフ、映画上映に携わった者達が、この映画を観客に見せたという事実。ここ に批評が孕まれる可能性は残される。これだけは忘れてはいけない。 呉文光から始まったとされる中国独立紀録電影は、たえず、公式な歴史・公式なメ ディアからこぼれ落ちる個人の肉体と肉声を見つめようとしてきた。だが、20年た って、奇妙な反転が起こり、その個人の肉体と肉声それ自体が、国家メディアによ ってだけでなく、独立紀録電影によっても、今まさにかき消されようとしている。 それまで国家と資本によって独占されていた映画が、DVの普及によって個人の手に 入るようになったとたん、それまで社会や歴史と緊張関係を持っていた“個”は、 たちまち霧散し、断絶した“孤”ばかりが跋扈するオタクによる“コンテンツ”と やらに取って代わられようとしている。 呉文光が、独立映画制作をはじめた頃は、マスメディア(=国家権力)の強制力が いま以上に顕現的で強大であった中での、「独立」映画制作だった為に、幸福にも、 独立映画が、個人の顔と肉声の擁護という思想と一致していたのだろう。だが、独 立映画制作が、一般化し、大衆化した時には、独立映画という制作方法と個人の物 語の擁護という思想が一致することはなくなったのかもしれない。制作方法と思想 が乖離し始めたのだ。方法が、脱思想化を始める。別な言い方をすれば、独立映画 制作が、単なる制作の方法としてのみ自律していく。方法だけが、思想を必要とし なくなって自律する。それは表現の運命ともいえる。これは中国に限ったことでは ない。我が国でも深刻な事態だ。 そもそも映画というメディアは恐ろしい。 個人を見つめ、個人を表現する道具にもなり得るが、手を緩めると、すぐに、個人 を抹殺する道具となる。それは、コマーシャルであろうと、国家権力的であろうと、 インディペンデントであろうと、変わらない。(いや、そもそも表象行為自体が、 根源的に、実は極めてファシズム的であるのだろうか・・・)これはメディアの宿 命でもある。最初は、思想(イデオロギーという意味ではない)と方法が不即不離 の関係だったものが、やがて思想が脱落していく。DVカメラを使い低予算というだ けのことで、大資本が作る物語の模造品(しかも粗悪)を平然と作りはじめること になる。我が国のPFF作品の変遷が、それを如実に物語っている。最初期の作品群に は、私的な物語、私的な視線を擁護する作品が多かったのに、いまではすっかり劇 場用映画(テレビ局映画)のお手軽な模造品ばかりとなった感がある。 もしかしたら、そもそも映画というメディアは、“個”を消し去るメディアとなる 運命なのかもしれない。思想も倫理もない、単なるテクノロジーだけが残るものだ としたら、我々は、いまこそ“映画”というメディアに抗って、“映画”を作り続 けていく覚悟を持たなくてはいけないのかもしれない。 ジャ・ジャンクーが、2001年にドキュメンタリー映画『IN PUBLIC』で行ったのは、 街角の群衆の中から個人のドラマが立ち上がる場所を探すということだった。その 後の彼の作品は、急激な自由資本経済によって押しつぶされていく個人の物語を絶 望的に描くということだった。2006年、ロウ・イエが『SUMMER PLACE』で行ったの は、89年の天安門事件を政治の言葉(公式な言葉)ではなく、極私的な男女の物語 =生きた歴史として、現在の「痛み」に奪回するという企てだった。2007年、王兵 (ワン・ビン)は、『鳳鳴』において、徹底して個人の歴史を、「いま、ここで、 看取り、聞き取る」ことが、中国の現在へと我々を直面させることになると教えて くれた。馮艶(フォン・イェン)は『長江にいきる 秉愛(ビンアイ)の物語』で、 最悪な状況下でさえ、独立紀録電影には、個人の生存に寄り添え得る力があること を静かに証明してくれた。 くどくどと、元に戻るが、だとしたら、『NOISE』に、果たして“批評”があったの かどうかと、やはり、問わずにはいられない。もちろん、この作品の監督が、果た してどれほどの批評と自覚を持ちあわせて、映画を制作したのかを追求、判定する ことは無駄なことだし、不遜なことだ。 むしろ、われわれに出来ることは、積極的にこの映画に“批評”を見出すこと。そ れが映画を観るということの倫理である。個人の肉体や肉声を持たない、のっぺら ぼうのノイズ集団として熱狂する群衆を観て、映画に難癖をつけるのではなく、あ の群衆の中にも、一人一人個別な顔と肉声を持った者達を看取る視線を、再び幻視 すること。そのためのレッスンをこの映画は我々に提供したのではないか? われわれは、苛酷な限界に立っている『NOISE』 という映画を、他所ではなく、此 処の現実として、じっと直視しなくてはならない。 ■宇野 治(うの・おさむ) 東京浅草生まれ。1991年から2006年まで放送局でサラリーマンをする。 現在、いくつかの教育機関で非正規労働に従事。 ◇────────────────────────◆◇◆ ■映画 『長江にいきる 秉愛(ビンアイ)の物語』の先行上映 日程: 1月28日(水)&1月29日(木) 21:00〜(両日とも23:00終映予定) 会場:渋谷・ユーロスペース (渋谷区円山町1-5 /TEL:03-3461-0211 / http://www.eurospace.co.jp ) 料金 当日一般:¥1700、大学・専門学校生¥1400、シニア・会員¥1200 ※ 前売券もご使用頂けます(現在販売中) ナント三大陸映画祭 銀の気球賞受賞! 昨年12月に開催されたナント三大陸映画祭のコンペティションで、審査員長ヤン・ ドド氏の熱烈な評価を受け、『長江にいきる』が銀賞を受賞しました。このコンペ ティションは今回からフィクションとドキュメンタリーを折り混ぜたラインアップ となっており、是枝裕和監督の『歩いても 歩いても』など12本が賞の対象でした。 ヤン・ドド氏は映画編集者としてトリュフォー(『トリュフォーの思春期』)、フ ィリップ・ガレル(『ギターはもう聞こえない』)やアモス・ギタイ(『フリー ゾーン』)、パスカル・フェラン(『レディ・チャタレー』)などを手がけたフラ ンス映画の第一人者。受賞後、馮艶監督と文通が始まりました。 ナント映画祭のカタログよりー 中国農村を舞台に紡がれるビンアイさんの物語は教えてくれた――挫折続きの人生 と不安定な実存が抱える「落胆」や「屈辱」の向こう側にも、「個人の物語の可能 性」があるということを。 他にないドキュメンタリーの長所のひとつとして、長い時間をかけて作者の視点が 構築できる、という特徴がある。この作品でも、監督のフォン・イェンが費やした 時間の厚みはビンアイのゆるぎない意志と見事に一致し、二人の女性の友情と理解 に基づいた、感傷に流されない肖像画が完成した。(ジェローム・バロン) 『長江にいきる 秉愛の物語』について− 三峡ダム建設による国の移住計画に、一人のごく平凡な中国の女性が抵抗する。ミ カン園とトウモロコシ畑の大地に根ざした生活を貫く彼女の生き様を、カメラは7年 間見つめ、ドキュメンタリーの地平を切り開く。世界の映画祭で絶賛された傑作。 ナント三大陸映画祭銀の気球賞、プント・デ・ヴィスタ映画祭グランプリ、香港国 際映画祭優秀ドキュメンタリー賞、山形国際ドキュメンタリー映画祭小川紳介賞ほ か。 公式ホームページ: http://www.bingai.net お問い合わせ: ドキュメンタリー・ドリームセンター TEL 03-5362-0671(シネマトリックス内) EMAIL doc.dream.center@gmail.com ◇────────────────────────◆◇◆ ■『映画は生きものの記録である』&土本傑作選 特集:土本典昭の仕事 ●金沢シネモンド 2月7日(土)〜2月20日(金) 2月7日(土)…『映画は生きものの記録である』 8 (日)…『ある機関助士』+『路上』 9 (月)…『パルチザン前史』 10(火)…『海盗り』 11(祝)…『パルチザン前史』 12(木)…『映画は生きものの記録である』 13(金)…『海盗り』 14(土)…『ある機関助士』+『路上』 15(日)…『不知火海』 16(月)…『海盗り』 17(火)…『映画は生きものの記録である』 18(水)…『不知火海』 19(木)…『パルチザン前史』 20(金)…『映画は生きものの記録である』 シネモンド:金沢市香林坊2-1-1 KOHRINBO 109 4F TEL 076-220-5007/FAX 076-220-5008 E-mail: mail@cine-monde.com URL: http://www.cine-monde.com ◇────────────────────────◆◇◆ ■第12回ゆふいん文化・記録映画祭 第2回松川賞の公募が始まります!! 第12回ゆふいん文化・記録映画祭は2009.5.29〜5.31の3日間、開催されます。そし て、そこで表彰されます第2回松川賞の募集が、いよいよ始まります。 募集期間は2008.12.1〜2009.3.10となっています。「作り手の思い」がくっき り見える、完成度の高い(或いは力強い)、中・短編(60分以内)の「映像記録」 を全国から募集します。 第1回の昨年は、64本の作品が応募され、そのうち5本が松川賞に選出され、その中 から「緑の海平線」が大賞を受賞しました。さらにこの作品は、この後文化庁映画 賞文化・記録映画部門の大賞も受賞しました。松川賞をきっかけとして、入賞作品 が一般に上映されたり、他の映画賞を受賞するということは、私たちのとってこの 上ない喜びです。今年もそのきっかけとなるべく、優れた作品が集まることを期待 しています。 また、今年も松川賞ならではの審査員が顔を揃えております。第1回では筑紫哲也さ んに審査員に加わっていただき、入賞作品に対して詳細な講評をお寄せいただきま した。残念ながら筑紫さんは今年10月にご逝去なされましたが、今回は新たに吉岡 忍さん(ドキュメンタリー作家)と森達也さん(作家、映像作家)の両氏に新たな 審査員として、加わっていただきます。 充実した審査員に加え、今年も入賞作品(5本を予定)の制作者1名を映画祭に招待 し、作品を上映し、表彰いたします。そして、大賞には賞金10万円を用意しており ます。 詳しい募集要項、および募集用紙は、下記のホームページをご覧下さい。 http://movie.geocities.jp/nocyufuin/home.html 事務局:〒879-5102 大分県由布市由布院町川上2863番地 ゆふいん文化・記録映画祭「松川賞」係 ◇────────────────────────◆◇◆ ■「第11回ゆふいん文化・記録映画祭記録集 モンスーン2号」を発行!! 2008.5.30〜6.1に開催された、第11回ゆふいん文化・記録映画祭の記録集(12月 15日発行予定)を発行します。 山田泉さん(『命の授業』)、時枝俊江監督(『夜明けの国』)、池内了さん(科 学映画特集)、井上修監督(『出草之歌』)各氏のトーク。また、第1回松川賞入賞 者によるシンポジウム(司会は野村正昭氏)と、審査員(筑紫哲也さん他)による 入賞作品の講評が採録されています。 雑誌名の「モンスーン」は21年前、映画『1000年刻みの日時計』をめぐって、故小 川紳介監督へのインタビューを中心に、創刊されました。今回、ゆふいん文化・記 録映画祭の記録集として、やはりドキュメンタリー映画を扱った第2号として復刊し ました。由布院盆地から吹く爽やかな風に乗って、皆様にお届けします。 松川賞への応募希望者はもちろん、文化・記録映画に興味のある方、あるいはゆふ いん文化・記録映画祭に興味のある方には、是非購読をお勧めします。 価格は、第11回ゆふいん文化・記録映画祭公式パンフレット(500円)と合本となっ て、1,200円です。「モンスーン(記録集)」のみ購入を希望の方は1,000円となっ ております。 購読を希望の方は、下記までメールにてお申し込み下さい。 メール: kayako@ace.ocn.ne.jp 事務局:〒879-5102大分県由布市由布院町川上2863番地 ゆふいん文化・記録映画祭「モンスーン」係 ◇────────────────────────◆◇◆ ■「自作を語る」などの投稿、歓迎! 「自作を語る」欄は、監督自らが作品について語るコーナーです。制作した動機や 撮影のポイント、編集で心がけたこと等を内容に盛り込んで頂きたいと思っていま す。その他の投稿も歓迎します。「自作を語る」は1600字程度。監督のプロフィー ル(150字)、作品のデータ、上映スケジュール、HP等をお知らせください。 原稿締め切り:配信日(1日&15日)の3日前までに、下記に送信ください。 E-mail: visualtrax@jcom.home.ne.jp 伏屋まで ◇────────────────────────◆◇◆ ■上映の告知の有料化とカンパのお願い ■伏屋 博雄(本誌編集長) neoneoの購読は無料ですが、経費を(その大部分は稿料ですが)賄うため、上映等の 告知は有料にしています。なお皆様にカンパもお願いしていますので、ぜひご協力 ください。 (1)上映等の告知の有料化 40字×30行(行数の空きも計算)以内につき、2,000円 です。それ以上の行数の場合は加算します。 (2)カンパのお願い 一口2,000円。何口でも。 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