2009/11/15
絵のない画集 第469回 矢橋六郎 水を飲む女
絵のない画集 第469回 2009年11月15日号 秋も深まる季節、どんよりとした曇り日、今にも雨がふっ てきそう。そうなると足腰ひざが文句を言います。どうし てとしをとるのだ、と。お前がとしをとるせいで、俺たち が調子よく動けなくなる、こまったもんだ、なんて・・・ こちらだって、好きこのんでとしをとっているわけではあ りません。体の自由が少なくなるよりも悲しいことは、し たしいひとや大事な動物たちもいっしょに老いていくこと です。時よ止まれ、とか、時間を巻きもどせ、などと言う つもりはありませんが、時間がもう少しゆるやかに流れて くれれば、と願うばかりです。 さて、今回の作品は・・・ ──────────────────────── 矢橋六郎 水を飲む女 ──────────────────────── 俺はこのおんながいとおしくってたまらぬ。 はじめて見たときから、ずっとだ。 はじめて会ったのは、俺が開拓地の作業を終えて、さぁ ねぐらに帰ろうか、としたとき、倉庫のそばで女がひとり、 ヤカンから水を飲んでいた。女は青と赤で塗り分けられた かわった形の琺瑯引きのヤカンを持ち上げて、その口から 流れ出る水をじかに自分の口にそそいでいる。あふれ出る 水は、女の口のまわりを伝い、あごやのどをぬらす。女は なかば目を閉じて、うまそうに水を飲んでいる。一息つい て、女はそばにいる俺に気づいた。それまで俺は、ずっと 女を見ていたのだ、戦争でなくした左腕の付け根をなでな がら。 俺に気づいた女は、「飲む?」ときいた。 「ありがたい」と俺が言うと、女は、俺に片腕のないの に気づいて、ヤカンを持って俺の口にそそぎに来た。俺は 腰をかがめて顔を横にした。 女は「ありがたい、か・・・ふふっ、蟻が鯛なら、芋虫ゃ 鯨、ってね」と笑いながら、俺の口に水を流し込む。 飲み終わって腰をのばした俺は、女の顔をまっすぐに見 て言った。「ありがとう、なら、っていうのもあるぜ。 蟻が十なら、芋虫ゃはたち、ってな」 いっしょに歩いて開拓地の宿舎に帰りながら、俺たちは ぼつぼつと、お互いの身の上を話した。 徴兵されて大陸の戦争にやってきた俺は、戦闘で左腕を 吹っ飛ばされて役立たずになったので、本国に返されるこ とになったが、帰ってもひとりの身寄りもいない。流れ流 れて、この開拓地にやって来て片手でできる仕事を手伝い はじめたばかり。 見寄りがないのは女も同じだった。 その夜から、俺たちは一つの寝床でねた。 戦争はそのあとすぐにこちらの負けとなった。在留邦人 保護のため、と称して進駐していた軍隊は、開拓地の人間 をほっぽって自分たちだけでトンずらした。俺たちは自分 で敵国の報復から逃げなければならなかった。いまにして 思い返せば冒険活劇と言って面白く話すこともできようが、 間一髪で命からがら、なんてことはいくらでもあった。 どんな苦しい目にあっても、俺は生き延びることに貪欲 にしがみついた。それは、俺にこのおんながいたためだ。 それはまちがいなく言えることだ。 * * * 1940年作 東京国立近代美術館所蔵 http://search.artmuseums.go.jp/gazou.php?id=5039&edaban=1 矢橋六郎(やばし ろくろう) 1905年生、1988年没 ────────────────────────── 次回は、 『高光一也 サクレクール寺院』 を予定しています。 ─────────────────────────── いつもお読みいただき、ありがとうございます。 読者のみなさんのご意見、ご感想をお待ちしています。 メッセージフォームから、どうぞ: http://form.mag2.com/thaitraete これは、まぐまぐさん提供のものです。メールアドレスや 送信者情報は、投稿内容に書き込まない限り、こちらでは知 り得ませんので、ご安心下さい。 このメルマガにリプライしていただいても、川谷宛にメー ルが届きますが、その場合はそちらのメールアドレスが使わ れます。 ---------------------------- 絵のない画集は、『まぐまぐ』 http://www.mag2.com/ から 発行しています。 購読の解除は、 http://www.mag2.com/m/0000108215.htm または、 http://hw001.gate01.com/kko-ran/enonai/ から、お願いします。 -----------------------------


