2009/07/05
【賢者の道】VOL.341
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ <賢者の道~Vol.341 -In Christ Alone- 2009-7-4> ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■【今週のテーマ】「エリシャの召命」 ■【聖書】 列王記上19:19~21 ------------------------------------------------------------ ◎闘いの果てに疲労困憊していた預言者エリヤに休息を与え、 食べ物を与え癒された主なる神は、更に新たな使命を委託しま した。 ------------------------------------------------------------ その委託の一つがアベル・メホラのシャファトの子エリシャに油を 注ぎ、後継者とすることでした。 エリヤは新しい出発を始めました。 ここで召しを受けたエリシャの信仰の姿勢について学ぶことに します。 ------------------------------------------------------------ 1.エリシャの決断 ------------------------------------------------------------ ホレブ山(シナイ山)を発ったエリヤは丘を抜け平原に出ると、 12軛(くびき)の牛を前に行かせて畑を耕しているエリシャに 出会いました。 旱魃が続いて荒地となっていたパレスチナの大地は、エリヤの祈りに よって大雨が降り、いまや潤い豊かな土地となっていました。 エリヤはその牛による耕作を眺めていましたが、牛の群れが近づいて くるや、その群れの後ろにいた青年エリシャに近寄って行き、自分の 外套を脱ぐや、やおら、それを彼の肩に投げかけたのです。 それは「油を注ぐ」という行為ではありませんでしたが、それが 預言職への召命を意味していました。 これは、ガリラヤで主イエスが弟子たちを召された記事によく似て います。 神の仕事を引き継ぐものとして選ばれたエリシャも主の弟子たちも、 すぐその場ですべてを捨てて、決断しました。これは献身への召命 です。 金属片が磁石に引き付けられるように召し出され、それに応答して います。 そこには疑いや遅れがありません。召しとは、このようなもので 不思議です。 エリシャは、24頭の牛を立てて農耕を営み、前に行く男たちを 仕切っていたのだから富農の息子とみることもできますが確定は できません。 いずれにせよ自分の人生設計を考えていたに違いない。 ところがいまやずしりと重い外套をかけられ、従うことが損なのか 得なのか、安全なのか危険なのか、そんな考えにとらわれること なく第一歩を踏み出したのです。 何の迷いも無く、きっぱりと今までの生活と縁を切って、神の召し に従って行ったのです。 酒、煙草の嗜好品を愛用する人がクリスチャンになるとき迷う場合 があります。やめられないからです。 しかし、これも召しを受ける自ずから節制することができるように なるのですから不思議です。 ある煙草好きの人が泊りがけの修養会に出たがらない、どうしてか と言うとその間禁煙しなければならず苦痛だからです。 ではどうしたらいいか。祈る以外にない。吸わないでも苦痛を感じ ないようにしてください、出来れば煙草をやめさせてください、と 祈る以外に道はありません。 祈れば不可能なことも可能となるのです。これが信仰です。 ------------------------------------------------------------ 2.エリシャの願い ------------------------------------------------------------ エリシャの心は決まっていました。ただ一つのことをエリヤに願い ました。 「父と母に別れの挨拶をさせてください。それから、お伴をいた します」(19:20)と言いました。 するとエリヤから「行って来なさい」との返事が返ってきました。 このような願いに対して、新約の観点では少し異なります。 ルカ9:59~62で、イエスは一人の男に、弟子となるように声をかけ ます。 男は承知しますが、ただ父親の葬式を出すまで待ってくださいと 頼んでいます。 するとイエスの答えはエリヤとは違って 「死人のことは後に残った者たちに任せなさい。あなたの務めは、 出て行って、世界中の者たちに神の国が来ると伝えることだ」と 答えます。 また別の人も「はい、喜んでお従いします。でもその前に、家族の 許しを得てきたいのですが・・・」と言いますと、 イエスは「ほんの片時でも、その人のために計画された仕事から目を そらす者は、神の国にふさわしくない」と答えています。 ここではエリシャの場合とは違って「緊急性」が先頭に立ってい ます。 死者を葬ることは、ユダヤ教の律法では優先的な義務とされて いました。 また家族を顧みることは初代教会の信仰のあかしとされていた (1テモテ5:8)ことを考慮に加えると、神の国の宣教がいかに 緊急性を帯びていたかが分かります。 エリシャの召命では緊急性の事はともかく、イエスの教えと通じる ものがあります。 それはきっぱりとエリシャが過去と決別している点です。 彼は一軛(くびき)の牛つまり二頭を取って屠り、牛の装具つまり、 軛の木材や農耕具を薪代わりにして燃やし、その肉を調理して家族 と別れの宴を持ち、同時にこれまでの生活ときっぱりと縁を切った のであり、決意の表明、証しでした。 漁師が「網を捨てて従った」(マルコ1:18)のと同じです。 ------------------------------------------------------------ ◎「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」との 返答は謎めいています。 ------------------------------------------------------------ 賛成なのか反対なのか。これは、「召したのは神です、わたしに 聞くことではない」と言うことか。突き放しています。 この意志決定は、人に問うのでなく、神に問えと言うのでしょう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 発行者:ジェームス親泊 協 力:おとずれ社 web版: http://homepage2.nifty.com/j-osamu/info.html まぐまぐ(マガジンID:99821) http://www.mag2.com/ melma!(マガジンID:151618) http://www.melma.com/ ご意見ご感想: j-osamu@nifty.com ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


