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2008/11/08

医療と仏教の協力関係を

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医療と仏教の協力関係を   No.077
御案内 2008/11 (B.E. Buddhist Era,仏暦2552)
私個人と全体(世間)の関係について(2、前回よりの続き)、
私個人と全体の関係を考えてみると、個人の集まりが全体である。全ての人の
救いが実現することを考える時、その基本単位の個人が救われなくて全体の救
いは実現できないと考えます。しかし、全ての人が救われるなんて理想の理想
である。せめて「最大多数の最大幸福」といって世俗での幸福を追求していく
ことが現実的ではないかと考えていくのです。
「最大幸福」で意味する幸福について、一つの問題点があります。世俗的には
人間の幸福を決めるのは個人を取り巻く外側の条件であるという考え方です。
人間を「欲望する存在」と今村仁司先生が定義されていましたが、外側の条件
が「欲望」を満たす、その満足を幸福と考える傾向になっています。煩悩を楽
しませることが、この世の楽しみだという考えです。仏教の教える満足はそれ
ではありません、「存在の満足」と言えるところです。
世俗の思考は、仏教の示す「煩悩は身と心を悩ますものだ、そして人生は思う
ようにならない(苦)」ということに目をつむって煩悩を楽しませることに喜
びを見出そうとしています。結果として思うようにならず、人生の後半は愚痴
の人生になってしまうことを、医療・福祉の現場の多くの高齢者が実証してい
ます。
日々の診療で縁のある人には仏教の心を対話の中で粘り強くお勧めするのです
が、長年なじんだ世俗の分別の思考に固執して、「癌になったらお終い」「寝
たきりになったらお終い」「役に立たなくなったらお終い」と、取り越し苦労
の不安を生きている患者さんが多いのです。仏の智慧の世界を対話の中で少し
ずつ話題にするのですが、「いろいろな考えがありますからね」「仏教は難し
いからですね」「我われ凡人にはなかなか悟れません」とさらりと身をかわさ
れるのです。そして内心、世間の「常識人として私」という自負を持たれてい
るように思われるのです。
外側の条件、すなわち経済的な豊かさ、社会的評価、身体的健康さ、家庭環境
・住環境の良さなども確かに大切な要素です。その世俗的なモノサシが幸福へ
の重要な要素だとすれば、その相対性の故に、恵まれたものと恵まれないもの
が出てきます。それ故に最大多数の幸福を目指すのでしょう。しかし、世俗的
にいかに恵まれていても必ずどこかにほころびが出てきます。最終的には老・
病・死の現実に捕まりそうになり、逃げ廻ろうとしても捕まってしまうのです。
それは不安・苦悩を伴う愚痴になります。
不安を予防するために保健・医療・福祉・生命保険などと対応して、国防のよ
うに有事に備えます。しかし、不安解消のための備えは、備えれば備えるほど
不安は高じていくといわれています。平和を維持するための国の防衛と違って、
老・病・死は一時的に逃(のが)れたり、先送りしたとしても決して逃げ切る
ことはできないからです。
理知分別の思考は自分を抜きにしたような傍観者的思考(対象論理)となり、
蜀山人(しょくさんじん)の狂歌「いままでは 他人(ひと)が死ぬとは 
思いしが おれが死ぬとは こいつあたまらん」の如く、自分を内省する視点
が十分でないために、現実に自分の老病死に直面すると、その思考の足りない
面(自己を除いた思考の矛盾点)や思考のゆがみが露呈するのです。
もしその時点で心の柔軟性があるならば、自分を含めた全体の思考(一体化、
相即の論理、絶対的矛盾の自己同一、仏教の智慧)へと導かれるチャンスなの
です。しかし、現実の多くの人たちの心は、老化現象の動脈硬化の如く、心の
柔軟(にゅうなん)性を欠いて、思考の硬直化、柔軟性のなさを対話の中で私
の前に披瀝されるのです。そんな人生の先輩方は「私に仏教の教えに遇うこと
の難しさを身を以て教えてくれている菩薩さんであろう」と念仏で受け取って
います。
対象化した傍観者の視点では全体が見えてない、一番大事な私が抜け落ちてい
るからです。仏教の視点は私を含んで全体である。私を抜きに全体はあり得な
いのです。私を抜きにした論議を虚論(けろん)として仏教は嫌うようです。
自分を見つめて時々は反省して自分を内省していますと言いたいところですが、
仏の智慧(無量光)で照らされるということがないと、中途半端で徹底しない
のです。仏教のお育てをいただく歩みの中で、自分を抜きにした傍観者的な話
題や対話には自然と関心が薄れていきます。週刊誌的な記事や新聞の三面的な
記事内容には好奇心や俗物性が刺激されて覗(のぞ)きたいという心はあるが、
それらに心が振り回されるのは時間が勿体ないという気持ちになっていくのです。
聞法して仏教のお育てをいただき、智慧をいただく念仏の歩みの中で、自分の
愚かさ(邪見憍慢悪衆生)、分別の弱点を自覚して、救われるはずのない私と、
自我の姿(カラ)を照らし破られます。気づかされた煩悩具足の私に「疑いな
し」と確信を持つことができるようになります。同時に縁次第では何をしでか
すかもしれない私(縁起的存在)、そういう在り方が人間としての普遍性であ
ると知り、そんな私への自覚・自信へと導かれるのです。
そんな私に、救いが実現しないとすれば、他の全ての人の救いがあるはずがな
い。自分抜きの全体と言うことはあり得ないと思考するようになります。そし
て私を除いたような思考、傍観者的な思考をしなくなります。常に自分との関
係で、自分にとってどういう意味があるのか、と考えるようになるのです。
その思考の延長線上で「人類の代表としての私、救われない者の代表、凡夫の
代表としての私」と気づかされていくのです。私個人ひとりが救えないような
ものは全体の救いになるはずがないとの確信です。
浄土論に「観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際」(浄土の世界
の相を観ずるに、三界(世俗、世間)の道に超え、勝(すぐ)れている、徹底
して虚空の如し、広大にして辺際なし)の文章がありますが、「辺際がない」
ということは、理知分別では浄土は宇宙のように広い世界、その中で多数の中
の私、私は小さい、多勢に無勢、私なんか隅の方にあるかないか分からないよ
うな、ちっぽけな存在と考えてしまいがちです。しかし、そうではなく、仏智
に照らされる私の姿、私は中心、真ん中におる、と感じるのを「辺際(へんざ
い)がない」というのです。誰もが真ん中にいると感じることのできる浄土の
功徳を示しているのです。そのことは、私は「人類の代表としての私」となる
ということを示していると思われます。
なぜ、「人類の代表としての私」かの理由を繰り返すと。
仏智に照らされて、「縁起の法」による在り方をしている私と知らされます。
そして、どういう縁に遇うかによって、変化していく私(固定した我はなく、
無我という在り方をしている私)、すなわち遇縁の凡夫(注1)という気づき
になります。同時に人間はみんな一人一人が「遇縁の凡夫」という在り方をし
ているのだという目覚めです。そして「遇縁の凡夫」ということにおいて人類
は皆、平等だという確信です。また私一人の歩みが全人類の課題に応答するほ
どの重みがあり、その凡夫の代表が私という自覚になるのです。(続く)

(注1)遇縁の凡夫 : 全ての人、一切の人は元は皆凡夫である。何に遇うかと
いう縁によって善凡夫、悪凡夫となる。「善凡夫」とは遇善の凡夫、「悪凡夫」
とは遇悪の凡夫である。「遇大の凡夫」とは大乗の教に遇うことのできた凡夫、
これが菩薩であり、観経で言うと上品(じょうぼん)の人である。「遇小の凡夫」
とは声聞、縁覚といわれる人で、小乗の教に遇うた凡夫である。わが身を清潔に
保ち規則正しい生活を送り、戒律を守り、やるべき事をやる人である。これを
中品の人という。「遇悪の凡夫」とは、悪をする縁に遇うた凡夫で下品の人で
ある。人間には色々な人がいて、優れた人もあり、劣った人もあるように見え
るが、もとは皆凡夫なのである。その凡夫が何に出遇うかという縁によって
上品(菩薩道の人)、中品(二乗(にじょう))、下品(悪人)の人となると
いうこと。

平成20年12月(第250回目)の例会(原則、第三月曜日)を開催いたします。
日時:12月15日(月曜日)午後8時より午後9時30分まで
場所:宇佐市下高家1014番地 円徳寺 電話0978-32-1128
講師:田畑正久   会費:500円   主催:歎異抄に聞く会(高家)

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