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日頃、何気なく使っていることわざや故事成語が、どんな時代背景のもとで生まれたのか?出典となった史書をひもときつつ、詳しく解説します。気が付けば、中国の歴史に詳しくなっているかも!?

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2002/09/05

故事成語で見る中国史(17)呉下の阿蒙

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故事成語で見る中国史・第17回

日頃、何気なく使っていることわざや言い回しの多くは、
中国の歴史に出典を求める事ができます。
耳馴染んだ言葉がどのような時代背景で生まれたのか?
歴史書の原典をひもときながら詳しく解説します。
現代にも生きている言葉から、中国史を浮かび上がらせてみましょう。

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呉下の阿蒙(ごかのあもう)

昔のままで進歩のない人物。学問のないつまらない者。(広辞苑)

用例:「こんな簡単な事をいつまでたってもできないなんて、
     これでは呉下の阿蒙だね」
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(出典)【三国志・呉書・呂蒙伝】注引【江表伝】より
粛拊蒙背曰、「吾謂大弟但有武略耳。至於今者、學識英博、非復呉下阿蒙。」
蒙曰「士別三日、即更刮目相待。(後略)」

(書き下し)
粛(しゅく)、蒙(もう)の背を拊(う)ちて曰(いわ)く、
「吾(わ)れ謂(おも)えらく、大弟(たいてい)但(た)だ武略有るのみと。
今に至りて、學識英博、復(ま)た呉下の阿蒙に非(あら)ず」と。
蒙曰く、「士別れて三日なれば、即(すなわ)ち更に
刮目(かつもく)して相(あい)待つべし」と。

(語注)
○粛:魯粛(ろしゅく)。三国時代(後漢末)、呉(ご)の孫権に仕えた人物。
○拊:うつ。軽くたたく。
○蒙:呂蒙(りょもう)。三国時代、呉の孫権に仕えた武将。
○大弟(たいてい):同僚で年少の者を呼ぶ敬称。
○刮目(かつもく):目をこすってよく見る事。

(現代語訳)
魯粛が呂蒙の背中を軽くたたいて言った。「私は君が、
ただ武勇一辺倒(いっぺんとう)の人だと思っていたが、今では学識も豊かになり、
昔の「呉下の阿蒙(呉の蒙君)」とは見違えるようだ!」
すると呂蒙が応えて言った。「士たる者は、別れて三日もすれば
大いに成長しているものであって、次に会う時には目をこすって迎えねばなりません」

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(解説)

西暦220年、長年の腐敗と反乱に耐えかねて後漢王朝が滅びると、
魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)が覇を競う三国時代ととなりました。
三国の中では中原を支配している魏が最も強大で、
人口、軍備、人材等、いずれの面でも抜きんでていました。
残る呉と蜀とは、長江(揚子江)の下流域と上流域を支配した地方政権です。

その呉と蜀は、本来ならば協力して、強大な魏にあたるべきところでしたが、
長江中流域の荊州(けいしゅう)の領有を巡って、紛争が絶えませんでした。
荊州は「用武の国(確保のために武力を用いるべき地)」と言われ、(※1)
地政学的な要衝の地であったため、呉も蜀も
簡単に引き下がるわけにはいかなかったのです。

蜀の荊州方面の司令官は、「一万人をも相手にできる」勇将として
名を轟(とどろ)かせている関羽(かんう)であり、(※2)
一方、呉の司令官も名将として名高い呂蒙(りょもう)という人物でした。

蜀と呉とは、形式上は、共に魏と戦おうという同盟国でした。
しかし、蜀の関羽は呉の呂蒙を警戒しており、
軍を北上させて魏を攻める時も、呉に対する守備兵を多く残していました。

呉の呂蒙は、関羽が自分を警戒している事を知ると、
その警戒心を解いて油断させるため、病気の療養を口実にして
司令官の位を退き、若手の陸遜(りくそん)という人物に譲りました。

新任司令官・陸遜は着任すると、関羽のもとに鄭重でへりくだった挨拶を届けました。
案の定、関羽は「そんな若造ならば用心する事もない」と陸遜をあなどり、
それまで残していた守備兵をも北上させてしまいました。

呂蒙はその機を逃さず、密かに軍を荊州に進めます。
配下の将兵を輸送船の船底に潜(ひそ)ませ、
民衆を徴用して商人の身なりをさせてこぎ進み、
油断していた関羽の守備兵を捕らえ、瞬(またた)く間に
関羽が手薄にした居城を占拠する事に成功しました。

それまで北上して、魏に対して快進撃を続けていた関羽軍は、
本拠地を呂蒙率いる呉軍に奪われた事によって戦意を喪失して離散し、
さしもの猛将・関羽も、呉軍に捕らえられて斬首されてしまいました。

敵の城を占領した際には、えてして略奪や暴行が横行するものですが、
呂蒙はこれを厳しく禁じました。それどころか、かえって住民や
残された関羽軍の家族の慰撫(いぶ)に勤めました。

ある時、呂蒙の配下の者が、国から支給された鎧(よろい)を覆うために、
民家から笠を一つ奪い取ってしまいました。その兵士は呂蒙と同郷の者でしたが、
呂蒙は私情を捨てて、その兵士を軍令違反の罪に問い、斬首しました。
これより軍律はさらに行き届き、兵士たちは略奪はおろか、
道に落ちている物すら拾おうとしなくなったといいます。

ところで呂蒙は、若い頃は立身出世を目指す血気盛んな猛将でした。
呉の孫権(そんけん)に召し出されて、
武将として重んじられるようになりましたが、
家が貧しかった事もあり、学問という点ではからっきしでした。
重用な上奏文などは、口述して部下に書き取らせて書類を作成していたといいます。

ある時、主君・孫権が呂蒙に学問の重要性を説いたところ、
呂蒙は「軍中にあっては色々となさねばならぬ事が多く、
書物を読む時間をとれないかと存じます」と答えました。

それに対して孫権は、「私は、なにも卿に儒教の経典を研究して
博士になって欲しいというのではないのだ。ただ、歴史上の事などを
広く見渡してみてはどうか、という事だ」と言い、
具体的にどういった書物から学ぶべきかを示唆(しさ)しました。

ここからが呂蒙の偉いところで、発奮して、勉学に本腰を入れ、
やがて本職の儒学者たちをも凌(しの)ぐほどの読書量になったといいます。

ところで呂蒙の前任として呉軍の司令官の立場にあったのは、
知識人として名高い魯粛(ろしゅく)という人物でした。
ある時、魯粛は呂蒙の陣営を通り過ぎたのですが、
勇猛だが学問が無い呂蒙を内心軽蔑していたため、
敢えて挨拶に出向こうとはしませんでした。

しかしある人から
「呂蒙将軍の名声は日に日に高まっております。
昔のように彼と接してはいけません。お訪ねになられるべきですぞ」
と説かれ、しぶしぶ呂蒙のもとに出向きました。

語り合ってみると、確かに呂蒙は以前とは比べものにならぬほど
豊かな学識をそなえた人物へと変貌を遂げていました。
驚いた魯粛は、呂蒙の背中を軽く叩いて、
「私は君が、ただ武勇一辺倒(いっぺんとう)の人だと思っていたが、
今では学識も豊かで、昔の「呉下の阿蒙(呉の蒙君)」とは見違えるようだね!」
と言いました。

すると呂蒙が応(こた)えて言うには、「士たるものは、別れて三日もすれば
大いに成長しているものであって、次に会う時には目をこすって迎えねばなりません」
まことにこの言や善(よ)し、胆力と学力を備え
自信に満ちた呂蒙の様子は、なんとも爽快ですね。(※3)

呂蒙のこの故事から、学問の無い人物や、進歩の無い人物の事を
「呉下の阿蒙(ごかのあもう)」と言うようになりました。
また、進歩著(いちじる)しい人物に対しては
「呉下の阿蒙に非(あら)ず」とも言い、
「士別れて三日、刮目(かつもく)して相(あい)待つべし」という言葉も
成語として用いられるようになりました。

ちなみに「呉下の阿蒙」の「阿」は、親しみを込めて人称につける語で、
「阿蒙」は「蒙君」「蒙ちゃん」ほどの語感です。
魯迅(ろじん)の『阿Q正伝』の「阿Q」も「Qちゃん」といった語感です。
かつて日本で放映された『おしん』は中国でも大ブレークしましたが、
その中国語訳の一つは、『阿信(アーシン、お信)』と訳していました。

また、呂蒙の「蒙」という字には、「くらい」「理に疎(うと)い」
という意味があります。「啓蒙(けいもう)」という言葉がありますが、
これは「蒙(くら)きを啓(ひら)く」、つまり
「愚かで理に暗い人を教え導く」という事ですね。そう考えると、
「呉下の阿蒙」と呼ぶ時には「呉の(ものを知らない)蒙君」
というニュアンスも感じられ、親しみと嘲(あざけ)りを込めた
語感であったのかも知れません。

成人してから後に学問に励み、軍の統率力に長(た)け、
戦機を見るに敏な名将・呂蒙でしたが、
関羽を倒して間もなく、四十二歳の若さで病死してしまいました。

死に際しては、主君・孫権から賜った様々な財宝に封をして
朝廷に返上させました。孫権は、呂蒙の能力・人柄を惜しみ
悲嘆にくれたといいます。後の小説『三国志演義』では、
呂蒙は関羽の亡霊によって殺されたように描かれており、
些か気の毒なところです。

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(※1)『三国志・蜀書・諸葛亮伝』参照。
(※2)『三国志魏書・程?伝』参照。
(※3)『三国志・呉書・呂蒙伝』注引『江表伝』参照。
        また、『十八史略』巻三・東漢にも、ほぼ同様の話が見えます。

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発行者だより φ(.. )

戦乱の時代には武断政治もしばしば行われましたが、
中国では伝統的に、武官よりも文官の方が上位であるとされました。
たとえば秦末の項羽(こうう)は、中国史上でも屈指の武勇を誇りましたが、
「沐猴(もっこう)にして冠す(人間の衣冠を身にまとった猿だ)」
と罵られたりしています。

戦乱の時期にあってなお、根強く受け継がれた
シビリアン・コントロールの理想、さればこそ、
努力の果てに昂然(こうぜん)と「刮目して相待つべし」と言い放った
呂蒙のような武将があり得たのでしょう。
もっとも、滅多にないからこそ語り継がれたのであり、
その陰には、幾万もの「呉下の阿蒙」が
武勇一辺倒のまま生涯を終えていたはずですね。

随分と久しぶりの発行なってしまい、申し訳ございません(汗)
焦らず、細々と続けさせて頂きます(涙)m(。_。;)m
まだまだ暑い日が続きますが、みなさまご自愛下さい。
それでは、また☆(2002.9.5)

次回予告「五里霧中(ごりむちゅう)」

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発行者:バルカ  barcarolle73@hotmail.com
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