2009/12/23
クラン・コラ 2009年12月号 Part 3 of 3 読物篇
======================================================================
クラン・コラ Cran Coille:アイルランド音楽の森
アイリッシュ・ミュージック・メールマガジン
______________________________________________________________________
Editors: おおしまゆたか・洲崎一彦 December 2009 Issue No.200
======================================================================
Part 3 読み物篇
CONTENTS
Part 2
- 私はいかにテニスのラケットを捨てて、ホイッスルを手にしたか
…………………… 豊田耕三
- 北海道アイリッシュ・ミュージックの10年 ……………………… 小松崎 操
- あれから十年… ………………………………………………………… 石井達也
- 「ぶちょーがルールブックや!!」第一回 ぶちょーの秘密
…………… いくしまとおる
- クランコラは生活必需品である ……………………………… field 洲崎一彦
- Story So Far …………………………………………………………… 中山義雄
- 何となく200号がやって来た…………………………………… おおしまゆたか
**********************************************************************
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ しゅうぞうのアイリッシュ・ミュージック遍歴 その1
■
■ 私はいかにテニスのラケットを捨てて、ホイッスルを手にしたか
■
■ 豊田耕三
■──────────────────────────────────
初めまして、豊田耕三(とよたこうぞう)と申します。
アイリッシュ・フルートを演奏しております。
人によっては“しゅうぞう”という名前の方がピンとくるかもしれません。
この度、編集部より、アイリッシュ・ミュージックとの関わりについて書く
というお話を頂きましたので、これから数回にわたっていくつかのテーマを設
定しながらあれこれ書いてみたいと思います。
今回は初回ですので、まずは自分がどのようにアイリッシュ・ミュージック
に出会ったかについて書きたいと思います。
自分が初めてティン・ホイッスルを手にしたのは2004年の9月、大学4年の
時でした。
それまでは東京芸術大学という音楽の大学に通いながらテニス部に所属し日
々テニスに明け暮れるという不届きな生活を送っておりまして、週末は試合ば
かり、週5〜6日テニスは当たり前で、アルバイトコーチをやっていた時など
一日18時間テニスをやっていた日もありました。
朝7時からテニススクールの早朝レッスンに入り、その後大学へ行って日が
暮れてもテニスをし続け、夜スクールに戻ってコーチの研修会に参加して、さ
らに深夜2時まで自主練…という流れになると大体これ位の時間になります。
“しゅうぞう”と呼ばれているのは、ただ松岡修造に顔が似ているからとい
うだけでなくこうした背景があり、テニス部入部その日に始まったこのあだ名
は瞬く間に大学中に広まり、95%位の人は自分のことを“しゅうぞう”と呼ん
でいました。
“しゅうぞう”が本名だと思っていた人はざらで、中には“耕三”と書いて
“しゅうぞう”と読むのだと思いこんでいる人もいましたし、教官に「松岡君」
などと呼ばれた日にはさすがに「誰だよ」と思ったこともありました。
さて、話を戻しますが、そうはいっても所属は音楽学部楽理科、専攻は音楽
民族学、それまでの3年半の間に世界中の様々な音楽を見聞きしたり、演奏し
たりしました。
実際に演奏まで踏み込んだものとしては、インドネシアのガムラン、インド
のシタール、ブラジルのサンバ、そして、日本の邦楽からは長唄囃子の篠笛、
雅楽の笙などが挙げられます。
そして、勿論西洋のクラシック音楽も比較的大きなウェイトを占めておりま
した。
アイリッシュはといいますと、大学に入る前からヨーロッパ周辺やそこから
派生したアメリカの古い音楽、すなわちカントリーやブルーグラス、ディキシー
ランドジャズのような音楽が好きで、有線放送などで好んで聴いていました。
ただ、その頃は特にジャンルによる区別無く、アイリッシュというジャンル
についての認識も薄かったように思います。
それがある時、地元のCD屋さんでなぜか Dervish の特集をやっていて、小さ
なお店でしたから十把一絡げに“ワールドミュージック”というまとめ方をさ
れる中、Dervish のCDが3枚ほどピックアップされて試聴もできたのですね。
そうして出会ったのが《LIVE IN PALMA》。
ここで初めてはっきりとアイリッシュというジャンルを意識したのだと思い
ます。
それからしばらくの間はただそのアルバムを聴くだけ。
途中無印良品の《BGM 4》なんかが加わりますが、やはりただ聴くだけ。
自分で演奏しようなどとは夢にも思わなかったのです。
それが話は戻って大学4年の夏。
大学院入試の勉強に専念するために6月の試合を最後にテニスを一切断ちま
す。
これだけ不届きな学生生活を送っているのに大学院には行くのかと思われる
かもしれませんが、元々音楽教育志望のところ、学部には音楽教育が無く、大
学院にだけ音楽教育があるため、学部入学前から修士までは行きたいと思って
いたのです。
そして、9月下旬の入試までの間、まるで音大生のように、じゃなくてやっ
と音大生らしく音楽の勉強に勤しむわけです。
ところが、9月に入ってもう入試も直前という時期になって、突然思い立っ
てティン・ホイッスルを始めます。
魔が差したといいますか、現実逃避としか言いようがありません。
元々音楽との最初の出会いが中学、高校の吹奏楽部、オーケストラ部でのト
ランペットだったこともあり、やはり、吹く楽器に興味が湧いたのだと思いま
す。
最初は速いダンス・チューンを弾くつもりは毛頭無く、先ほど挙げた
Dervish のCDの中で〈Josefin's Waltz〉というゆっくりとした曲が好きで、こ
れくらいなら弾けるようになるかもしれない位に思っていたのです。
つまり、自分にとってアイリッシュの原点は〈Josefin's Waltz〉ということ
になります。
この曲、ご存知のようにアイリッシュではなく、スウェーデンの曲。
そのことを知りショックを受けるのは大分後になってからの話。
とにかく、直接のきっかけはこんなところで、最初にティン・ホイッスル奏
者の安井敬さんのところにレッスンに通うようになります。
今でこそ安井さんとはかなり違うスタイルを歩んでいますが、最初の数ヶ月
は彼のところで装飾の基本的な知識を学び、その後は主に独学で、時折海外か
ら来日するプレイヤーにアドバイスをもらいつつ、また、アイルランドに行っ
て短時間ながらも習いつつを経て今日に至ります。
以上はあくまで直接のきっかけで、大元の動機の部分はといいますと、これ
はよく色んな人から聞かれる「なぜ、他の音楽でなくアイリッシュなのか?」
という質問にも通じますが、硬い言葉で言うと規範性の低さということになる
かと思います。
つまり、こうでなければならないという制約が少ないということ。
アイルランドにはたくさんのファミリーバンドがあって、親子や兄弟で一緒
に演奏するユニットが多々あります。
これは例えばクラシック音楽から見ると結構異質な話で、よくテレビで一家
4人で弦楽四重奏に挑戦する家族のドキュメンタリーみたいなのがありますが、
これはいいところしか放映していないわけで、実際にやったらよほど妙に仲の
いい家族とかでない限り大喧嘩確実になります。
実際、知り合いのチェロ弾きの友人で一家が崩壊しかけたという話もありま
す。
普通、規範性の高いクラシック音楽を演奏しようとする場合、まず、楽譜が
配られて、発表会はいつで、いついつに初回の合わせをするから、それまでに
各自練習しておくことという具合になって、その日その時間には全員が集まっ
て練習し、できていないと「何でできていないんだ」となる訳です。
家族でやるということは、その分遠慮が無くなる訳ですから、喧嘩になって
当然という感じです。
これがアイリッシュになるともっと全然気楽です。
一人でも二人でも三人でももっと大勢でも音楽は成立しますし、この楽器が
いなければならないという組み合わせもない。
途中で入っても途中で抜けても問題なし。
繰り返すたびに即興的に前と違うことをするため、間違いというのが存在し
づらい。
練習して発表会で人に聞かせてというよりは、その場のセッション自体を楽
しむのが目的。
こういう特徴のために、家族でも喧嘩にならず、成立しやすいのです。
自分の家族はプロアマを問わなければ全員が音楽を嗜みますが、弟がロック
ドラマーで、それ以外は全員クラシックの高音楽器というバランスの悪さもあ
り、それまで家庭内で音楽を一緒にやるということは一度としてありませんで
した。
ところが自分がアイリッシュの笛を吹くようになって初めて、弟がリズムを
刻んで合わせてきたり、フォーク世代でギターを少し弾ける両親がギターで合
わせてきたりと、家庭内セッションが頼みもしないのに突然生まれるようになっ
たのです。
今でも年末年始など家族が揃うと時たまこういうことが起こったりしますが、
これが他の様々な音楽は通過したのに、アイリッシュだけは通り過ぎることが
できなかった最大の理由です。
生活への密着度と置き換えてもいいかもしれません。
とにかく、これが継続の要因であると同時に、一番大元の動機であり、要は
気の合う仲間と遊べる手段が欲しかった、こんなところじゃないでしょうか。
さて、きっかけの話はここまで。
次回は大学でのアイリッシュ・ミュージックについて、自分が大学につくっ
たアイリッシュ・ミュージックのサークルの話を中心に書きたいと思います。
<とよた・こうぞう:わが国有数のアイリッッシュ・フルート奏者。関東の雄
O'jizo のリーダー。>
*****
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■
■ 北海道アイリッシュ・ミュージックの10年
■
■ 小松崎 操
■──────────────────────────────────
札幌でフィドルを弾いている小松崎操です。1988年から HARD TO FIND(小松
崎健、扇柳トール、星直樹、小松崎操)、加えて1993年頃から RINKA(星直樹、
小松崎操)で、アイルランドの伝統音楽を中心に演奏しています。この度、
「北海道アイリッシュ・ミュージックの10年」というお題をいただきました。
私が関わって来た範囲内ではありますが、この十余年のことを振り返ってみま
した。
伝統音楽といえば、コミュニティーの中で守られ発展してゆく音楽というイ
メージですが、何の因果か、遠い異国の伝統音楽に出会ってしまったら・・・
そこは突然、孤独な世界です。1990年代の北海道で、試行錯誤して伝統音楽の
演奏を志す者同士が出会うようになり、1996年1月、ライブハウス「ペニーレー
ン24」を会場に『トラディショナル・ミュージック・フェスティバル(通称
TMF)』を開催しました。出演は、HARD TO FIND(アイルランド音楽)、オズボー
ンバンド(ブルーグラス)、ビエント(フォルクローレ)、南ぬ風(ふぇぬか
じ=沖縄音楽)、嵯峨治彦(喉歌、馬頭琴)、あらひろこ(カンテレ)、大崎
澄穂(箏)。「ペニーレーン24」は、スタッフの方々が、HARD TO FIND をはじ
め伝統音楽を演奏するミュージシャンの活動に理解を示し、協力してくださっ
ていました。TMFはその後も、いろいろな形で、いろいろな会場で不定期に行な
われました。
1998年5月『アルタン札幌公演』をおこないました。アルタンを札幌に招ぶな
んて夢のような話でとても無理だと思えたのですが、プランクトンの川島さん
が背中を押してくださいました。本当にありがたいことでした。コンサート会
場は「ペニーレーン24」。そしてコンサートの後は、会場を、当時私たちが毎
月のようにライブをやっていた「ジッピーホール」に移してセッション付き宴
会をおこないました。アイリッシュのファンだけでなく、いろんなジャンルの
音楽を演奏する人たちが楽器を持って参加し、アルタンのメンバーとスタッフ
の殆どが来てくれました。セッションはアイリッシュを演奏する人は少なくて
混沌としていたけれど、不思議なエネルギーに満ちた宴会でした。たぶん、み
んなが何かを始めようとしていた時期に、アルタンがパワーをくれたんじゃな
いかと思います。
今も続いているセッション「チョノール」は、アルタンの公演から約半年後、
1998年の12月にスープカレーの店「ジャック・イン・ザ・ボックス」で始まり
ました。マスターの高倉さんは、アルタン公演がきっかけでボタンアコーディ
オンを始めていました。手探りで始めた札幌のセッションは、しばらくの間は
練習会の色合いの濃いものでした。その後、アイリッシュ・パブ「ブライアン
ブルー」からお声がかかり、現在は、「ジャック・イン・ザ・ボックス」と
「ブライアンブルー本店」で月に一度ずつセッションがおこなわれています。
チョノールの活動とともに、アイルランド音楽を演奏する人たちが集まって、
『シャムロック・トライアングル(通称シャムトラ)』というシリーズのライ
ブもおこないました。記念すべき第1回は1999年5月、会場はジッピーホール
で、出演は HARD TO FIND、Dew LEAVES、泉沢カケス楽団でした。第2回はペニー
レーン24で『クラン札幌公演』。クランの公演では、「チョノール」の名付け
親でもあるイーリアンパイパーの福田さんが尽力してくれました。このシリー
ズは2005年の第6回まで続いています。
セッションのレパートリーも増えてきた2002年に《チョノール Vol. 1》を録
音し、楽譜集付きで発表しました。この録音は、練習会の記念みたいな意味合
いが強かったかもしれません。親しみやすい選曲のためか、セッションのレパー
トリーの参考にしたいと、全国からたくさん注文をいただきました。今も思い
がけない人から、使っていますよ、と言われることがあって嬉しい限りです。
この頃は、仲間が増える楽しさを味わえた時期でした。また札幌をはじめ北
海道内各地で、いくつかのバンドが活発に活動しました。千歳を拠点にした
「泉沢カケス楽団」は、ブルーグラスやアイリッシュを演奏する中原直彦さん
を中心にした、身近な音楽仲間のセッションといった感じで、アイリッシュの
レパートリーを中心にしながらも、ムックリの名手の長根さんが参加したりし
て、ユニークな集まりでした。札幌の3人組「クーカラン」は硬派アイリッシュ
バンドでした。クーカランと RINKA とのジョイントライブを何回かやりました。
思い出深いバンドです。クーカランのメンバーの渡部志郎さんと高倉雄造さん
は長年のセッション仲間でもあり、RINKA のアルバム録音にも参加してもらい
ました。道東を拠点にする「らぶらぶBAND」は、2000年頃から演奏を始め、
2006年にはアルバム《らぶらぶBAND vol. 1》を発表し、息の長い活動を続けて
います。
2004年の《チョノール Vol. 2》の録音の頃は、チョノールの参加者が最も多
かった時期です。また、この録音には、らぶらぶBANDのメンバー全員がお正月
休みを利用して参加してくれました。二泊三日の合宿みたいな楽しい録音会で
した。
ここ数年の動きは・・・北海道大学にアイリッシュ・サークルが生まれまし
た。クラシックの教育を受けた人たちが何人かアイリッシュに取り組み始めて
います。セッション仲間のひとりでアイルランド出身のブライアンさんは、地
域に故郷の音楽を積極的に伝えています。イーリアンパイプス製作に取り組む
中津井眞さんが、札幌に移り住んで来ました。各地の愛好家の人たちとの出会
いも少しずつ増えています。
アイルランドやアメリカのミュージシャン、そして日本各地で活動するミュー
ジシャンが北海道を訪れる機会も増えました。HARD TO FIND や RINKA とのジョ
イント・コンサートをさせていただくことも度々あります。はるばる海を越え
て来てくれる素晴しいミュージシャンの演奏から得るものは大きいです。北海
道で独自のシーンを作っていくことも大切だけれど、やはり、こうした出会い
による刺激は欠かせないものだと実感します。
15年ほど前に、アイリッシュにこだわって演奏していこうと実験的に始めた
RINKA は、ここ数年、積極的にライブをおこなったり、アルバムを作ったりす
るようになりました。アイリッシュ・ミュージックに惹かれたきっかけである
ダンス音楽の躍動感を体現したいと常日頃思っています。一方で、私自身がも
の心ついた頃に親しんだ音楽に、日本に帰化したアイリッシュやスコティッシュ
が存在します。自分たちが元来身に付けている感覚を生かしたいとも思います。
課題は多いです。
現在のチョノールは意欲的なメンバーが揃い、とても充実しています。長年
一緒に演奏していて一体感があるような、でも何処か違って、アイリッシュ音
楽への強い思いがそれぞれに感じられて、この微妙さはバンドではなく、やは
りセッションなのだ、これがアイリッシュ・セッションの感じなのだなと思っ
たりします。
私にとっては、最近のセッションの充実感とRINKAの存在が、今年11月の
『マーティン・ヘイズ&デニス・カヒル札幌公演』実現への大きな力になりま
した。実行委員会として一緒に考え動いてくれたセッション仲間と、大きなプ
レッシャーの中で真摯に取り組んでくれたRINKAの相方の星くん、公演を任せ
てくださった THE MUSIC PLANT の野崎さんに深く感謝しています。マーティ
ン・ヘイズ&デニス・カヒルの音楽は最高だと信じて疑わないけど、とてもマ
ニアックであるとも感じ、どれだけの人が受け入れてくれるか不安でもありま
した。ところがアイリッシュ・ファンだけでなく、たくさんの音楽好きの人た
ちが来てくださって、大きな反響があり、とても嬉しかったです。
また今年は、札幌の劇場「コンカリーニョ」のスタッフ高橋さんが「ヴェー
セン」「ラウー」と、現在のヨーロッパの伝統音楽を代表するバンドのコンサー
トを相次いで企画しました。今後の動きにも期待しています。
アイリッシュ・ミュージックに限らず、伝統音楽、伝統楽器を演奏する人た
ちが、少ない情報とわずかな人数の中で精一杯続けてきたことが、今、北海道
で根付き始めているのだと感じます。真剣に伝統音楽に取り組むプレーヤーと
熱心なリスナーがたくさん存在するようになった北海道で、私も精進しなけれ
ばと思います。
<こまつざき・みさお:今年の漢字は「学」です。>
小松崎操のブログ「愛蘭土を聴く」
http://blog.livedoor.jp/irishmelodies/
*****
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■
■ あれから十年…
■
■ 石井達也
■──────────────────────────────────
ぼくがアイルランドを初めて訪れたのがちょうど十年前の冬。前々から興味
のあったかの地を訪ねてみて驚いたのは、そこでの音楽が生活に密着している
度合いが想像以上に高かったこと、衣食住と同列に音楽も存在していたという
ことだ。
街を歩けば5〜6才くらいの子供が楽器も持たずに歌を歌ってバスキングを
している。パブへ行けば楽器を持ってフラッと立ち寄った風な人たちがその場
でセッションを始め、そして、そこで呑んでいたお年寄りたちが当たり前のよ
うにダンスを始める。楽器店を覗いてみるとたくさんの、見たこともない楽器
が所狭しと並んでいるし、CDショップでは名前も知らないミュージシャンの
アルバムが棚の端から端までズラッと…。
アイルランドの音楽の奥深さは知識としてなんとなくはわかっていたつもり
だったが、いざその風景を肌で感じてみると、本や映像で知った知識とのギャ
ップは相当なものだった。普段の生活からなんとなくでも感じる音楽の気配は、
その土地の息遣いであり、その土地に暮らす人々の鼓動でもある。
アイルランドに限ったことではないが、その地域の音楽を知るためにはその
国の、その土地の歴史をより深く知ることが肝要である。トラディショナルな
音楽はもちろんのこと、昨日今日生まれたコンテンポラリーな音楽でもその歴
史の影響からは逃れられない。その歴史のもとで暮らした市井の人々、その生
活から生まれるものが音楽として根付き、それが人々の生きる気力となってき
た事実。アイルランドの歴史はさまざまな外的要因(そのほとんどがイングラ
ンドであるが)により揺り動かされてきた。人々の生活や感情もそのたびに大
きな変化を余儀なくされ、振り回された。苦難を乗り越えるために生まれた音
楽はその地の記憶であり、財産である。歴史が脈々と現代と連なっていること
を聴き手側が理解することで、聴く側の音楽と相対する態度も変化していく…。
こんなことにハタと気付かされてから十年。あれから日本のCDショップに
「ワールド・ミュージック」なるカテゴリーが確立(?)されたおかげで、ア
イルランドの音楽にかぎらず、それまでと比べてローカルな大衆音楽に触れや
すい環境となった。バルカン、ジプシーなどの音楽は十年前は一般的にいって
けして身近なものではなく、まだまだ遠い世界の、知る人ぞ知る音楽だった。
ところが近年、ネット配信なども含めて音楽を聴く環境は著しく変わり、世界
との距離は一気に縮まった。それにともなって聴く側の選択肢が飛躍的に広がっ
たのがこの十年だと思う。
そうなると今度は聴く側の態度が試される。聴ける音楽の数が増したため、
たとえば一枚のアルバムを以前のように聴き込むことが少なくなった。興味の
赴くままに聴く曲数が増えたのはいいけれど、その一曲一曲を自分の内でどれ
だけ消化できているかというと心許ない。歴史が刻まれ、時代が映し出されて
いるかもしれないその一曲を、なんとなく聴き流したりしてはいまいか、と。
いわゆるトラディショナル・ミュージックの奥深さ、そこに足を踏み入れる
ことは簡単だが、その深い森を進んでいくことに楽しみを感じるというよりあ
まりの深さにビビってしまうぼくなんかにとっては、いろいろな地域の音楽を
聴きやすくなったそんな歓迎すべき環境にもかかわらず、まだまだ知るべき音
楽の背景があまりにも広大であることにただただ呆然としてしまう。学びたい
のにその時間が圧倒的に足りず、学び方をあれこれと考えこんでしまうのだ。
いくら情報化社会といっても、その情報の背後にある状況や人の感情を推し量
り、自分なりに消化するには相応の時間を要する。また、聴ける音楽が増加す
ることによりさらに時間が不足するジレンマにも陥る。環境がまったく違う、
かの地から遠く離れた日本にいて、そこで歌われた曲を理解するのはなかなか
大変なことで、それだけに自分にとっての最良の聴き方をいまだ模索中である。
アイリッシュを初めとして少しずつ少しずつ聴きかじってきたこの十年、グ
ローバル化とは正反対の多様な世界を感じ、また、ちょっと足を踏み入れれば
さらに拡がっていく音楽の世界に、まだまだ勉強が足りないと溜息をつくこの
ごろである。たった十年ごときではやっぱりなんにもわからないものなのだな
ぁ。
<いしい・たつや:ひとつ知ると知らないことがふたつあることに気付く。追
うものの大きさに迷走を続けるんでしょう、これからの十年も>
*****
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■クランコラ、Irish Pub field、アイルランド音楽研究会10周年記念特別連載
■
■ 「ぶちょーがルールブックや!!」第一回 ぶちょーの秘密
■
■ いくしまとおる
■──────────────────────────────────
「ぶちょー」こと、生島です。みなさんお久しぶりです。
クランコラ10周年ですか。おおしま、ならびに洲崎両編集長、ご苦労様なら
びにおめでとうございます。こりゃーなんからのカタチで祝わなあきません。
物理的な距離という、いかんともし難い問題はなきにしもあらずですが、なん
ならWeb カメラなんぞを使って「ネット宴会」なんぞいかがでしょうか。
それはさておき、10年ですか。10年前ってワタクシ何をしとったんでしょう
か。おっと、10年前と言えば「fieldアイルランド音楽研究会」が設立され、生
島が「ぶちょー」なんぞに就任してしまった、その年ではございませんか。な
んですか、このあたかも狙ったような一致ぶりは。
そうなのです、かの悪名高き「field アイルランド音楽研究会」も実は10周
年なのです。さらには Irish Pub field が Irish Pub になってからも10周年。
ということはこのアニバーサリーの共有は今後とも続いていくということにな
るのですね。今後とも末永くよろしくお願いします。
というわけで、クランコラ10周年に便乗するようなカタチで申し訳ありませ
んが、私的視点から「Irish Pubfield」ならびに「fieldアイルランド音楽研究
会」の10年なんぞぶった切ってみようかと思います。なお、書き出すとあり得
ないほどの膨大な量になってしまいそうです。というわけで、今後しばらく連
載させていただく、ということでよろしくお願いいたします。
そもそも「ぶちょー」なるものは、いかにして生まれたのか。なお「ブチョー」
ではありません、当然「部長」でもない。あくまでも「ぶちょー」。
基本的なことを押さえておきましょう。fieldアイルランド音楽研究会はあく
までも「研究会」であり、その長たるものは「会長」であるべき、がしかし、
「ぶちょー」。研究会発足当初、そこまでの深読みは何もありません。純粋に
間違いなのです。アイ研のホームページ上は「部長」、この時点ではほんとに
純粋な間違い。誰かが気がついていたら「会長」になっていたはず。が、誰も
しばらく気付かず(正確には気にせず、それ位いい加減な組織なのですは)。
そうこしているうちに「部長」が「ぶちょー」に変形し定着、もう後戻りがで
きなくない状況になってしまったのです。
ちょいとここで事実の整理。
御存知かと思いますが、僕の本職は眼科医。1998年から働いております。仕
事が終わればろくすっぽ勉強もせずに、ギターを抱えて夜な夜な遊び回ってい
る不良眼科医でございます。
僕自身のセッションデビューは就職直前の1997年。セッション漬けの日々が
始まるわけです。その頃はほとんどが京都一乗寺の Wood Note でのセッション
だったわけなのですが。で、1998年辺りから、同じく Wood Noteにやってきた
のが立命館の学生連中。立命館の名サークル「出前ちんどん」の創立メンバー
です。当時僕は20代半ば、彼らにすれば謎なオッサンだったと思います。まあ、
そんなこんなで自然と彼らとつるむようになるのです。
field はまだ Irish Pub ではなく、Cafe& Gallery という肩書きを有してお
りました。僕自身は実は存在すら知らなかった。で、その頃、店主の洲崎さん
と常連だった功刀さんを中心にアイリッシュのバンドが産声をあげていたので
す。
その時のバンド名が「fieldアイルランド音楽研究会」。今の「同好会」的な
形態ではなく、あくまでもバンド。というわけで以下「バンド版アイ研」と表
記させていただきます。うたものも大切にした、素晴らしいバンドでした。
で、僕と立命館連中ですが、自然とバンドにでもしてみようかという流れに
なり、彼らの中から蒙者中の蒙者を選りすぐってバンドを結成するのです。で
産まれたのが「battle sticks」。フィドル、フルート、バンジョー、ギター、
太鼓。勢いなら誰にも負けないチューンもの中心のバンドでした。なおフルー
トは、今やすっかり貫禄すら感じるスーパー笛魔人、ハタオさんでございます。
とある日、Wood Noteでぼさーっとコーヒーを飲んでいると、マスター渋谷さ
んが「こんなバンドがあるんや」と1本のテープを聴かせてくれました(当時
はまだテープなんぞが存在していた!!)。曲は「アイルランドの白百合」。
ダービッシュのコピーでしたが、優しい歌声、バックのブズーキの美しい響き
(12弦ギターだったのかもしれません)、ダービッシュよりも心に伝わるもの
を感じたのです。マスター曰く「fieldアイルランド音楽研究会というバンド」。
僕が初めて field というものを認識した瞬間であります。
そうこうしているうちに field の噂は自然と僕らの仲間内にも広がっていく
のです。で、1999年8月20日、立命館の連中を引き連れ、ついに fieldに乗り込
むのです。その時の印象、店は二階にあるぞ、洲崎さんでかいな、トマトピザ
うまかった、の二つ。かなり大人しくしていたはず。そんないきなり暴れたり
はしません。洲崎さんも大人しかったです。普通な大人の会話をしていました。
そこから何度かセッションを重ねていくうちに、互いの本性がバレていくので
すが。
ところで、初公開ですが、当時の野望を。それは「バンド版アイ研」のギター
リストになること。いや、本当ですよ。
そうこうしているうちに、気がつけば field が Irish Pub になり(洲崎さ
んを煽ったうちの1人は僕ですが)セッションの回数も格段に増えていき、やっ
てくるメンツも多種多様どんどんふえていくのです。
その当時の中心だったのは「バンド版アイ研」のメンツの方々と、立命館の
連中。で、洲崎さんの目には僕が立命館大学の学生連中のリーダー的存在にう
つっていたようです。実際には僕は立命館の連中とは無関係な立場だったので
すが、洲崎さんの目には一色単に見えていたのでしょう。
そういったこともあり、かつ僕自身実際にアイルランドに行って現地のセッ
ションを体感していたこともあったためか、セッションのあり方やらまとめ方
についていろいろと相談を受けるわけです。そんな中で自然と産まれたアイデ
アが「同好会」的なものを設立するということ。
つまりは「カタチ」があった方がよいかと思ったわけです。当時は千差万別、
いろいろな人が出入りしていてまさにカオス状態でした。現地アイルランドの
ごとくパブ文化なるものがしっかりしていれば問題ないのですが、そんなもの
は日本には全くない。もうぐちゃぐちゃなわけなのです。何か「カタチ」があ
れば気分的にまとまるのでは、という考え。
もっとも、相談や話し合いと言っても。そんなに堅苦しいもんではありませ
ん。今現在の洲崎さんと僕との会話とそうかわらない、ほんまにしょーもない
話をしつつ、でもポイントははずさない。半分冗談みたいな感じで進んでいま
す。「会費どないしましょう」「一日一円でどや」「ほなら閏年は366円ですか」
みたいな感じで。
ところで「イクシマが部長や」と宣告されたがいつか、どんな状況か全く覚
えていません。多分自然にそうなっていったと思います。で、当の本人はどう
かというと、もうやる気満々。はい、アホです。基本目立ちたがりやなので。
洲崎さん曰く「イクシマはもっとも『部長』というタイプのキャラや」。どん
なキャラやねん。
なお、このやり取り中には、もう1人の重要人物が加わっています。山本篤
志、通称アッシー氏。単独で fieldに流れてきた彼。その独特なキャラと豊富
なアイルランドの知識と楽器の技量、そしてアホアホトークに着実に付いてく
る誠実さで field セッション、ならびに「同好会」構想造り、には欠かせない
人物でありました。
あの頃は3人でセション後遅くまで延々とバカ話で盛り上がっていました。
もっともセッション中そんな感じでよく怒られましたが。そんな中で「同好会」
の構想が着々と固まっていくのです。
かくして2000年5月1日、同好会版の「fieldアイルランド音楽研究会」は誕生
するのです。ここで、素直な疑問、「バンド版アイ研」はいったいどうなった
のか、バンド版と同好会版の関連性はいったい、この点に関しては次回。
<いくしま・とおる:ギタリスト、京都の「fieldアイルランド音楽研究会」名
物ぶちょー>
*****
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ field どたばたセッションの現場から
■
■ クランコラは生活必需品である
■ field 洲崎一彦
■──────────────────────────────────
クランコラ200号である。非力ながら一応編集にたずさわっている身にも関わ
らず、指摘されるまで気が付かなかったというていたらくであった。
しかし、200号:この10年 と聞かされて、え?と驚いてしまうのもどうかと
いう話だが、自分が初めて投稿したのが2001年5月であったこと以外記憶が無く
それが何号だったのかも記憶が無いのも全くどうかしてる。
さらに、当時のPCはその後何度もクラッシュし、PC自体が何台か入れ替わっ
てしまっているので、その記録も一切残っていない。
しかも、ある時より、私は編集のお手伝いに加わったのだが、それがいつか
らなのかという記憶すらないというオマケも付く、何というふぬけた「関係者」
であったことか。
まずは、クランコラ200号を祝して、私は以上のことを猛烈に反省いたしまし
て、編集長のおおしまゆたか氏、投稿者の諸兄各位、読者の皆様にこの場を借
りて深くお詫び申し上げます。
私は最初の投稿からしばらくは、数回の連載ということで投稿を始めたのだっ
たと思う。それが、気が付けば、ほぼ毎月投稿というような事になっていたの
だが、それも何故そうなって行ったかを正確には記憶していない。
2001年5月と言うと、私がアイリッシュパブを始めて約1年半が経過した頃
で、右も左も分からなかったのがようやくどこが正面かぐらいは判りかけた頃
であった。余程、何か言いたいことがたまってたのかだろうと思うが、確かに、
現実のアイリッシュパブ経営は、夢見たそれとは全然様相が違っていた。1年
半というと、そういう事が徐々に見え始める頃ではある。
実際、仕事に趣味を持ち込むとどういうことになるかはだいたい予想はつい
ていた。仕事が仕事でなくなり、趣味が趣味でなくなってしまうのだ。
ものすごく日常的な例をあげてみる。
例えば、セッションにとんでもなく下手なミュージシャンがやって来たとす
る。私は自分がセッションをやるためにパブを作ったのだからセッションを楽
しむのが本来的姿勢である。その下手なミュージシャンはセッションをぶち壊
しにしている。なので、私は彼に「キミは下手だから楽器弾かないでおとなし
く聴いててくれ」などと言ったとする。
もし、私と同じ気持ちのミュージシャンが他にもいたらその人は心の中で拍
手喝采してくれるだろう。しかし、その下手なミュージシャンも我がパブのお
客様である。お客様に向かって店主がそんなことを言っていいのか?と思う人
も出て来るだろう。いや、当の本人がそれで傷ついたとしたら、それはもう接
客業としては失格の烙印が押されてしまう。
だめだ、だめだ!ここはひとつ我慢して、笑顔!笑顔!なんて考えている内
に、私にとってのセッションは当初の趣味性を完全に失ってしまうことになる。
場合によっては、アイリッシュミュージックなんて聴くのも嫌という状態に陥
る。
かくして、仕事が仕事でなくなり趣味が趣味でなくなるのであった。
そういう当初の自己内での矛盾は、まあ年月が経てばそれなりに折り合いを
つけることができるようにもなる。が、自己矛盾はその内容を変えて次から次
へと出現するのであった。
つまり、今なお尾を引いている矛盾。最近のクランコラへの私の記事でもこ
のあたりの煩悶具合が顕著だが、
「日本の、いや京阪神、特に field まわりのアイリッシュミュージシャンの音
楽をする姿勢はどうもグロテスクだ!」
という煩悶。
これなど、さらに本質的な自己矛盾をはらんでいる問題である。
「そこまで言うなら何でアイリッシュミュージック辞めないの?」
「あほ! 好きやからに決まってるやろ!」
「さっきから話聞いてると、アイリッシュミュージックが好きだなんてとて
も思えないよ」
「さっきから、好きや、好きや、と言うとろうが!」
というような会話が日常的に繰り広げられるのという事実は、果たして何を
意味するのか?
まわりから、理解者がいなくなるという事を意味する。
ずばり、孤独になる。
(話がどんどん暗い方向に行ってしまうな・・・・・)
そんな時に、毎月なんらかの愚痴が書けるのがクランコラの投稿だったのか
もしれない。また、今でもこれは変わっていないのかもしれない。
つまり、クランコラの存在は、私という人間がアイリッシュパブを営み、ア
イリッシュミュージックを嗜好する上で、何やらたまった矛盾の毒素を定期的
に放出する必要な装置であったのだ。
奇しくも、アイリッシュパブ field も年明け1月をもって丸10周年を迎える。
クランコラというものが無かったら、この10周年も無事に迎えられたかどうか
分からない。
クランコラは私にとって生活必需品であった。
<すざき・かずひこ:生活必需品というよりも、生命維持装置というべきやも
しれん。>
*****
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■
■ Story So Far
■
■ 中山義雄
■──────────────────────────────────
わたしの小学校5/6年のクラスというのは3ケ月に一度同窓会をやってい
る。これは友情とかではなく、バブルがハジけた後に根性15%見栄85%で、鎌
倉に土地かって家を建てたアホが中心になってやっている。セピア色の少年時
代の思い出はローン地獄の包装紙のようなものである。わたしは意地でも出席
しないつもりでいたが、とうとう強制連行されてしまった。
実はけっこう楽しかったのだが、なんでこんなオッサンとオバサンばかりの
席にいるのだと唖然としても、自分も同じだけトシを取っているので逃げ場が
ない。ただ、面白いことに、オッサン、オバサンが昔の顔に見えてくるのは驚
いた。同窓会不倫というのは、多いだろう。「小さな恋のメロディー」ではな
く、ど艶歌の世界ではあるが。
人生の世間的な序列は、小学校時代の成績順であることを確認するのは空し
い、一番のアホは行方不明だし、成績優秀の女性は東大出て、社会保険庁でバ
リバリのキャリアになってはいたが、いま時代の変わり目なんでしょうね。実
情を聴くと、予算は半分に削減され、仕事は連日、夜中の3時で、いちばんの
エリートのはずが、帰りのタクシー代が出なければ、堂々たるワーキング・プ
アであろう。マリファナ吸いながら釣り船の船頭やってる奴の方がよほどいい
わ。
そんなわけで、iTunesで、小学校出てから、大学の研究所修了するまでの間
の愛聴盤と70年代後半から80年代前半までの話題のレコード(容量の関係で
《LAST WALTZ》は割愛)を並べて。我がセーシュンを再構築してみることにし
た。結論は、リストだけで充分だった。プレイリストに並べてみても、聴かな
いことの方が多い。但し、部屋の中を引っ掻きまわす必要もないし、災害時は
外付けHDを持って逃げればいいという利点は確保出来た。不可抗力的に聴いて
いたアバだのアース・ウインド&ファイアだのは、いまでは望めぬ完成度に満
ちていて、ロックが終わったというより、ポップスというのも既に死んでいる
ことがハッキリ解った。これは収穫である。この世に若者がいて、音楽産業が
ある、それだけのことで、80年代以降、ポップはラスト・ワルツを踊っていた
のですよ。
現在のヒット・チャートというか、メディア主導の音楽産業が確率されたの
は、1929年の大恐慌期だったというのは、音楽ライターでも知っている人は少
ない。レコードの売り上げは激減して、代わりに台頭すてきたのがラジオだっ
た。この時期に現在のポップの土壌は一気に形成される。不況、不況と言われ
ているが、経済の実態は現在は恐慌下にある。日本は鎖国しているのと、郵貯
の金があった上、サブプライムをヨーロッパほど差し込まれなかったので、去
年の大暴落は被害は少なく済んだ。来年は、サブプライムの上の階層向けロー
ンの破綻というさらに恐ろしい事態も起こり得ることを考慮すると、来年の今
頃は鼻クソほじりながら、駄文を書いているだけで“勝ち組”ということにな
るだろう。
閑話休題、現在の恐慌下、それまでの音楽との関わり方、あり方が根本的に
変わるとすれば、どこからそれは来るのでしょうか。どこへ向かえばいいので
しょうか?
良いお年を。
<なかやま・よしお:ニューオーリンズとクレアとカラブリアとタイが心の故
郷の謎の人>
*****
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■
■ 何となく200号がやって来た。
■
■ おおしまゆたか
■──────────────────────────────────
何でも飽きやすい性格のぼくが、まがりなりにも8年半の間、毎月同じこと
を繰り返して200号まで来れたのは、やはり仲間と読者に支えられてのことであ
ります。月並といえばそれまでですが、これはものごとが長く続く際の永遠の
真理でしょう。
もっとも200号まで来れたと言っても、これが紙の雑誌ならば偉業のひとつに
もなりますが、デジタルの世界ではそんなにすごいことでもありません。
毎回、配信日が迫ってきてから、おお、そうだそうだとあわてはじめながら、
もーイヤだ、やってらんねえ、と思ったことは一度もなく、毎回それなりに楽
しんでいます。これがあるかぎりは、そしてこちらの知力体力が続くかぎりは、
おそらく続けていくでしょう。
この10年を小生なりにひと言でまとめれば、わが国にアイリッシュ・ミュー
ジックが知られるようになり、「ブーム」が去り、しかし10年前とは比較にな
らないほど根を下ろすようになった、なかなかに劇的な10年でした。
本誌はいわばその「ブーム」の絶頂期、あるいは頂点がやや過ぎた頃に創刊
されたことになります。「ブーム」といっても、世間一般では「ブーム」とは
まったく呼ばれない、穏かなものでした。それでもぼくら、つまり、それ以前
から多少ともこの手の音楽を心の糧としていた人間にとっては、「驚天動地」
とことでありました。
その驚きと歓びが本誌創刊のきっかけのひとつであったわけですが、一方で
「ブーム」がまた穏かに終熄に向かう、その流れには逆行することにもなりま
す。だからといって、流れを押し戻そうとか、今一度盛り上がりをとかは考え
ませんでした。
これは小生の性格もありますが、一方で、アイリッシュ・ミュージックやそ
の近縁、親戚の音楽にとって、「ブーム」はどうもふさわしくない、という感
覚もあったのでした。「ブーム」の間はもてはやされるけれど、過ぎてしまえ
ば忘れられる、一過性の音楽ではない、という認識が、わが国でアイリッシュ・
ミュージックに関わっている人間たちの間で暗黙の共通了解になっていました。
「ブーム」終熄後のことが創刊当時念頭に無かったか、といえばおそらくあっ
たでありましょう。ですが、本誌に役割があるとすれば、「ブーム」の延命と
か復活ではなく、「ブーム」の波が引いた後に、残った人びと、あるいは「遅
れてきた」人びとが遊びにこれるような、「潮溜まり」を確保することでした。
紙では無理でも、デジタルならば、定期刊行物も不可能ではない。そういう
ものがあれば、その気になった人たちに利用してもらうこともできるだろう。
誰も遊びにこなくても、とりあえず遊び場は確保しておいたほうがいい、とい
うわけです。
毎号、この目標ないし役割を肝に銘じてやってきたわけでは全然ありません。
振り返ってみれば、そんな感じかなあ、ということです。そしておそらくはこ
れからも、同じように、何となく、いつものメンバーがいつものところに集まっ
て遊ぶことを続けてゆくことでありましょう。
それを、遠巻きに眺めている人びとが一応1000人ほどいる、らしい。その数
はごくわずかずつですが増えこそすれ、減ってはいないようでもあります。ぼ
くらが遊びで掘りだしたり、海からバケツで運んできて潮溜まりに入れたりす
るものを、時々誰かが拾っていって遊んでくれることもあるらしい。それもま
た良からずや。
そのうちにまた潮が満ちてきて、潮溜まりも海とつながることもありましょ
う。その時にはまたたくさんの「収穫」を貯めこむことができるように、でき
るだけ潮溜まりも広げておきたいな、という願望はあります。それにはこつこ
つと鑿をふるって周りの岩盤を削る精進が求められます。怠け者でずぼらな小
生などにはちと荷が重いのですが、潮溜まりもひとつだけではないので、ぼち
ぼちやっていると、いつか他の潮溜まりとつながらないともかぎらない。そん
な楽しみもあります。
当面の目標は再来年、2011年4月の創刊満10周年です。どんなことでも休ま
ずに10年続ければ、何らかの収穫がある、と言われます。このところとみに体
力の衰えを自覚しているので、休まず、というのは無理かもしれません。それ
でも、何とか10周年にはたどりつきたいものと思っています。むろん、その時
まで読者が一人でもいれば、ではあります。たどりついた時、何か、収穫があ
るかどうか。
100号の時に自分で何を書いていたのか、古いファイルを開いてみたら、そこ
で書いたことを全然守ってもおらず、実現もできていないことが判明しました。
ので、ここで「次の100号」の目標を掲げることはやめておきます。それに300
号といえば、今のペースのまま休刊無しとしても、4年と2ヶ月後ですから、
2014年2月。そんな先のこたあ、どうなってるか、皆目わからねえぜ。したがっ
て、これからも「行きあたりばったり」でふらふらと彷徨ってゆくことであり
ましょう。よろしければ、おつきあいのほどを。
<おおしまゆたか:今年は漢字にすれば「雑」。来年はたぶん「残」。再来年
は「茫」であらふ。>
*****
== 編集後記 ==
・この所、慢性睡眠不足、膝痛い、股関節痛い、腰だるい、足つる、背中かゆ
い、お腹もかゆい~、音楽聴いてると寝てしまう。引退かなあ~。(す)
・体じゅうかゆくて、総とっかえしたくなる。若い頃の体をクローン再生して
交換する実験なら、喜んで志願するのだが。とゆーわけで、新しいディケイド
ですが、あまり気張らず、ゆるゆると参りましょう。良いお年を。(ゆ)
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
クラン・コラ:アイルランド音楽の森(ほぼ月2回刊)
Kanagawa - Kyoto, Japan
Editors: おおしまゆたか・洲崎一彦
*掲載された内容を許可無く転載することはご遠慮ください。
*著作権はそれぞれの記事の執筆者が有します。
*ご意見・ご質問・ご投稿は cced at yahoogroups.jp へどうぞ。
*ウェブ・サイトは
http://homepage3.nifty.com/soyo/mailmagazine_guide2.html
*登録・解除手続きは上記ウェブ・サイトの他
http://www.mag2.com/m/0000063978.htm
でも可能です。
*バックナンバーは最新号のみ、下記URLで閲覧できます。それ以前の号をご
希望の方は編集部までご連絡下さい。
http://www.melma.com/backnumber_98839/
=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
-
-
登録した方には、まぐまぐの公式メルマガ(無料)をお届けします。


