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本業は総合商社の営業マン。もと北京駐在。このメールマガジンから、エッセー集 『中国人に会う前に読もう』 と政策提言書 『日本の本領(そこぢから)』 が誕生しました。歴史雑学いっぱいの辛口時評から語学のコツまで、毎号、大脳皮質を刺激します。

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2009/06/15

<国際派時事コラム>わたしの北京6・4事件も終わらない

↓ 週3回更新のブログはこちら
http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi


◆■■■国際派時事コラム「商社マンに技あり!」■■■◆
          http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/


      わたしの北京6・4事件も終わらない


■■■■第270号■■平成21年6月15日発行■■■◆




 6・4事件(天安門事件)のあった平成元年(1989)6月
4日の朝、コラム子は北京・朝陽区農展館北路甲5号の永安
公寓という1LDKのアパートに住んでいた。

 北京市街の北東部、東三環北路に面したシェラトンホテル
近くの裏道を歩いて5分くらいの殺風景な場所だった。


■ 戦車隊を追って歩いた林田さん ■


 20年前の日のことを、覚えている限り書いてみたい。

 6月4日は日曜日だった。
 あれは朝7時前だったと思うが、電話が鳴って起こされた。

「あ、泉ちゃん、寝てた? たいへんなことになってるんだ
よ」

 出張で来ていた、重電機メーカー営業の林田さん(仮名)
だった。

 当時、林田さんは京倫飯店に宿泊していた。
 日本航空の経営するホテル。東長安街につながる建国門外
大街にあった。

 「窓からただならぬ音がしたから、何だ、これは? と思っ
て飛び起きてみたら、窓の外を戦車が走ってるんだよ。
ほんものの戦車とか装甲車とか。

それが延々と、相当な台数だった。

どうしたんだろうと思って、ホテルを降りて出て、友誼商店
の方までしばらく歩いたら、銃声がしてね、こわくなって戻
ってきたんだ。

煙が上がっているのも見えた。
そうとう大変なことになってるみたいだ。
泉ちゃん、きょうは外には出ないほうがいいよ」

 興奮冷めやらぬ様子で、林田さんは よどみなく しゃべっ
た。


 6月2日の産経新聞に掲載された、米国大使から本国政府
への当時の秘密報告概要に、こんな記述がある。

≪午前5時30分。
装甲車、戦車、トラック合計約50台から成る軍の第2の隊列
が轟音をあげながら東長安街を通って、天安門広場に入った。

民主活動家たちが怒りの声をあげると、解放軍将兵はジープ
に装備した機関銃2丁を撃ち始め、15分ほども銃撃を続けた。≫

 林田さんがホテル自室の窓から見たのは、この「約50台か
ら成る軍の第2の隊列」だった。


■ 盗聴には、いつもにも増して注意せよ ■


 林田さんの電話から数分してから、勤務先の上司、戸谷 襄
(とや・のぼる)さん(実名)からの電話が入った。

 「あぁ、とんでもないことをしてくれましたよ」
と苦渋の一言から始まる電話だった。

 軍が武力行使を始めたこと。
 状況把握のために東京と連絡を取り合っているので、その
報告を待つこと。
 外には絶対に出ず、とにかく部屋で待機すること。

 そして、
 電話が全て盗聴される可能性が高いから、会話内容には
いつもに増して十分注意すること。

 機械部長だった戸谷さんの電話は短かった。

 外は、静かである。

 また電話が鳴った。林田さんだった。

 勤務先のメーカーの北京事務所長に早朝のことを話したら、
こんな危険な状況で外へ出るとは無謀の極みと、大目玉を食
らった。
 もし何か起きたら、北京事務所長の責任も問われるではな
いか。

 ついては、誰にも言わないでほしい、という電話だった。

 「残念ながら、戸谷さんから電話があったので、林田さん
のことも話してしまいました」
と答えた。

 戸谷さんが
「なんと馬鹿なことを……」
と絶句していたことは、話せなかった。


■ 遠雷のような喚声 ■


 6月4日の朝は、依然として静かだった。
 大通りから離れているから、車のクラクションすら聞こえ
て来ない。

 テレビをつけたが、何が起きているのか報道がない。

 永安公寓は外国人用アパートとはいえ現地企業の経営で、
CNNやNHKなど海外の放送が全く入らず、中央電視台
(テレビ局)と北京電視台しかチャンネルがなかった。

 前夜のことを思い返していた。
 真夜中、はるか遠くから、ほとんど海鳴りのようにかすか
に、多くの人がわめいているような不思議な喚声が聞こえて
いた。

 夜の12時ごろだった。
 いつもは無い現象だったから、不思議に思ったのをはっき
りと覚えている。

 米国大使の秘密報告によれば、6月4日未明に初めて銃声
が鳴ったのは天安門西方の民族飯店の周辺で、午前1時ごろ
だった、とある。
 午前1時には、わたしは眠っていた。

 あの海鳴りのような、遠雷のような喚声は、何だったのだ
ろう。
 いまだに謎である。


■「息子が撃たれた」■


 そして、劉文基さん(仮名)から電話があった。

 仕事で、毎週1〜2回は御用聞きに職場へ訪ねて行っては、
全国の電力案件の進捗や将来計画について話を聞く相手だっ
た。

 いちど、劉さんの家族をコラム子のアパートにご招待して
昼食をふるまったこともあった。

 「ローマの休日」をレーザーディスクでお見せした。 
 日本語字幕で意味が類推できそうにないときは、ときどき
中国語で解説してあげながら。

 その劉さんが、泣きそうな声だった。

 「泉さん、悲惨なことになった。
息子が民族飯店の近くの路地に逃げ込んだところ、流れ弾が
臀部に当たって大怪我をした。

 デモに参加していたわけじゃない。
 デモを歩道から見ていただけなのに、なぜ撃たれなきゃい
かんのだ」

 息子さんは、本木雅弘(もとき・まさひろ)さんに似た
イケメンの青年だった。

 数ヶ月前に劉文基さんと同じ勤務先で働きだし、わたしが
御用聞きに行くと、会議室に父親といっしょに入ってきた。
 さわやかな目をしたひとだった。

 その人が撃たれた。


■ 脇道へと逃走した群衆のひとり ■


 米国大使の秘密報告概要に、こんなくだりがある。

≪午前1時20分。
後続の装甲車隊が群衆を銃撃しながら北新華街に次々に到着
した。

弾丸が飛来し、群衆のなかに血まみれになって倒れる人間が
続出した。

デモ参加者は兵士たちが空砲でもゴム弾でもなく実弾を撃っ
ていることを知り、恐怖に駆られて天安門方向や脇道へと逃
走した。≫

 劉さんの息子さんは、まさに「脇道へ逃走した」ところで
流れ弾を受けたのだ。


■「北京大学の病院に搬送された」■


 「この政府はダメだ」
と劉文基さんが振り絞るようにことばを続けたので、はっと
した。

 いかん。この電話は盗聴されている可能性が高い。

 「劉さん、電話で複雑なことはお話しできないが、お話を
聞いてほんとうに驚いています。
いま、息子さんはどこにいるのですか」

「さいわいに、知っている人が近くにいたおかげで、北京大
学の病院に搬送されたが、もし病院に搬送されていなかった
ら、今頃どうなっていたか……」

 劉さんは、涙声になっていた。

 「外国人として、お助けできることは限られますが、早く
回復されることを祈っています。
状況が落ち着いたら、お見舞いに行きます」

 劉さんは、我にかえったのか、電話はそのあとそそくさと
切れた。


■ 導いてくれたひと ■


 わたしが北京に着任したのは昭和62年(1987)。
 28歳のときだ。
(6・4事件のときは、30歳になっていた。)

 はじめは中国語もつたなく、打合せでも岩波の日中辞典が
手放せず、用の3分の1は筆談で済ませるような状態だった。

 そんなわたしを、まるで導くかのように、御用聞きに行く
とゆっくりいろんな話を聞かせてくれた劉文基さん。

 その劉さんが6月4日の朝、わざわざわたしに電話をくれ
たことを、20年経った今でも、わたしは商社マンとして心の
勲章にしている。

 あのとき、劉さんはどういう思いで電話をくれたのだろう。

*

 その後、数ヶ月間、劉さんとは連絡を取らなかった。

 外国人のわたしと何か「通じ合って」いると疑われること
で、万が一にも迷惑をかけてはいけないと思ったからだ。

 天安門事件のあと、新規案件の動きは止まっていたから、
あせって会いにゆく必要もなかった。


■「急に不安に駆られた」■


 数ヶ月して、劉さんの息子さんが職場に復帰したという噂
を聞いた。

 職場にぶじ復帰できたのなら、怪我の回復はもちろん、お
咎めも免れたということだろう。

 はじめて劉文基さんに連絡をした。
 会いに行くと、父と子がふたりで会議室に出てきた。

 劉文基さんは、痩せていた。
 息子さんは、にっこり笑ったが、すぐ真顔に戻った。

 「泉さんに電話した翌日、急に不安に駆られましたよ。
北京大学にもし本当に、外国人のあなたが見舞いに来たとし
たら、困ったことになると。
でも、もう、電話できなかった」

 天安門事件が関係したかは分からないが劉文基さんは、外
国人と会うことのない内局へ異動するという。
 歓送の夕食会を申し入れたが、丁重に断られた。

 天安門事件から半年経って、北京事務所の陣容を縮小する
ことになり、わたしは減員対象となって東京本社へ戻った。


■ 現在進行形の20年 ■


 劉文基さんの息子さんが米国に留学したという話を、東京
で聞いた。

 戻ることのない旅に出たのだ。

 そして翌々年、劉文基さん本人が米国へ渡ったという、風
の便りを聞いた。

*

 さて、林田さんはその後、順調に出世して本社の部長にな
った。
 6・4の朝の無謀な外出ももう時効だろうが、ここでは仮
名のままにしておこう。

 劉文基さんも今では60代半ば。

 だが、劉さんの本名も、勤務先の名も、まだここで書くこ
とができない。
 不測のご迷惑をかける可能性が今も残っているからだ。

 6・4の天安門事件は、なにも終わっていない。
 現在進行形のまま、20年が過ぎた。


===


▲ 後記 ▼


  さいきんのコラム子のブログ記事から ――

(全文を読むにはリンクを開いてください)


「日台戦争」の交通整理
http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/diary/200906050000/

 「日台戦争」という呼称を肯定する読者がブログの書き込
みで議論をいどんできた。

 ふつうだったら、テキトーに無視してもよかったのだが、
“日台戦争”でネット検索するとコラム子のブログが上位に
出てくることもあり、書き込み読者が凱歌を奏するのを許す
わけにはいかなかった。
 懸命に議論した。

 その軌跡がこれだが、予想外に奥が深い話だということが
わかったのは確かだ。


「ビーチベースボール」 って、ご存知ですか  
http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/diary/200906080000/

 金沢市の北隣に人口2万人あまりの内灘町(うちなだまち)
という砂丘の町があり、ここで7月4〜5日に
「第1回ビーチベースボール北陸大会 in 内灘」
という地域スポーツイベントが行われる。


==


<泉 幸男 著>


   『中国人に会う前に読もう  第一線商社マンの目』 

『日本の本領(そこぢから)  国際派商社マンの辛口メモ』

               通 信 販 売 も 受 付 中
         http://homepage2.nifty.com/sai/mart/


==

■主宰   泉 幸男(いずみ・ゆきお Izumi Yukio)

http://www.f5.dion.ne.jp/~t-izumi/
(旗艦ウェブサイト。これまでの号もここで見られます)
http://plaza.rakuten.co.jp/yizumi/
(週に3回ほど更新しているブログ)

■発行者への通信は mailto:t-izumi@f5.dion.ne.jp
 いただいたメールは、引用することがあります。
  引用内容が政治性を強く帯びたものについては、掲載につ
いて ご本人の事前了解をいただくつもりですが、 この辺の
采配は発行者にお任せいただくしかありません。
  発信者氏名は原則として公開しません。公開する際は、ご
本人の事前了解をいただきます。
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できるだけ書かせていただきたく、それについてお問合せを
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