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国見弥一が提供する駄文から創作にわたる言葉の海。荒波から細波まで千変万化?!

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2006/01/15

国見弥一の銀嶺便り(350号)

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    国見弥一の銀嶺便り   
              
  http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/     06/01/15  vol.350
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  昨夜の風雨は厳しいものだった。トイレや体の不自由なお客さんが車を降り
  玄関へ向かう間、肩を貸し傘を差しかけている間だけでも、すっかり冷えて
  しまう。自分自身に体力のなさを痛感。ただ、雨で助かったとも言える。東
  京で雪なら交通マヒは必定だし、そもそも小生も仕事に行けない。
  気が付いたら前号の配信から一週間が空いてしまった。やはり季語随筆もメ
  ルマガの配信も、というのは無理がありそう。コメントへのレスも後回しに
  なることもある。それなのに、小生、今年はちょっとしたことにチャレンジ
  するつもり。


  目次:●1.ペチカ…サモワール…ドストエフスキー
     ●[後欄無駄]:


●1.ペチカ…サモワール…ドストエフスキー

 ひょんなことからドストエフスキーの『罪と罰』を読むことになった。昨年の後
半は、正宗白鳥の短編集を週に一つか二つずつ読み進め、ジョージ・スタイナー著
の『トルストイかドストエフスキーか』(中川 敏訳、白水社)を読んだこともあり、
久々にトルストイの大作に挑戦したくなった:
 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/12/post_e0dd.html

 ところが、図書館で探しても、『アンナ・カレーニナ』が単独で一冊(分冊でも
いいのだが)になっている本が見当たらない。
 仕方なく、集英社ギャラリー版の『ロシア 2』を借りることした。この本には
『アンナ・カレーニナ』が収められている。ただ、一緒にドストエフスキーの『罪
と罰』も収まっていて、一冊で二度おいしいのはいいけど、解説も含めるとなんと
1400頁!
 読書の速さの遅い小生のこと、両者を読了できるのは早くて来月の後半になるの
は歴然。ま、今の小生は物語としての文学モードに入っているので、これもよきか
なである。
 
 ということで、本書の前半には『罪と罰』が鎮座しているので、少々予定外では
あるが、久しぶりにルイ‐フェルディナン セリーヌ著の『夜の果てへの旅』と共に
我が青春の書でもある『罪と罰』を読むことになったのである:
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4122043042

 つい先日、村上春樹著の『海辺のカフカ』を読了したばかりである。その余韻も
去来する中、今、『罪と罰』を読み始めてみると、やはり比べるのは意味がないと
しても、その圧倒的な叙述力や表現力の違いを痛いほど感じさせられる。
 今度が少なくとも六度目の挑戦となる小生にとっても(この前、読了してから十
年以上が経過しているせいもあろうけれど)、読む文章が新鮮であり、冒頭からそ
の文章力に圧倒され引き込まれていく。若い頃のように体力も気力もないし仕事が
控えていることもあって、合間合間に読み進めるしかない現状が情けないけれど、
それでも、読んでいる最中はドストエフスキーワールドに耽溺できてしまう。

 美は細部に宿る、ではないけれど、主人公のラスコーリニコフが殺人を犯すに至
る心理的経緯にしてもじっくり描きこんである(殺人を犯して以降はもっと徹底し
て描かれてあるのは言うまでもない)。

 村上春樹氏の『海辺のカフカ』は、モチーフも手法も違うから上述したように比
較は無理としても、時代が違うと言えば安易過ぎるが、しかしあまりにあっさりと
殺人が描かれる。

 時代。そう、殺人事件が頻繁にマスコミを賑わす。意味があるのか、精神的分析
に堪えるのか、愉快犯なのか、実は深い背景があるが、そこまで捜査が及ばないま
まに有り触れた殺人事件で処理されていくのか、いずれにしても、本来、人の命が
奪われる深甚な事件であるはずなのに、隔靴掻痒のままに次から次へと新しい事件
が起きて、どの事件も有耶無耶のうちに忘却の彼方へ消え去っていく。
 恐らくは誰もがもどかしい思いをしている違いない。

 でも、分からない以上は、とにかく犯罪者が捕まればとりあえず一件落着であり
当面は安心する。あまりに事件が多いから、逐一の事件に拘泥など論外。
 だけど、じっくりと人が人に向き合いたいという思いも誰しもの胸にもあるので
はなかろうか。
 それを可能にするのは、やはり本格的な文学(作品)にしかないようだ。心理学
の本、脳科学の本、物理の本、人類学の本と少しは読み漁っても、科学を銘打って
いる限りは、まさに科学の俎上からは肝心の何かが漏れ零れる。
 科学が科学である限りは、興味深い情報をドンドン提供してくれるし、宇宙論に
しても、過去のどんな哲学者や宗教家のビジョンよりも遥かに凄まじい奇想天外の
ビジョンが示される。
 が、ここにいるのは一人の人間に過ぎない。宇宙の広大無辺さと向き合いつつも
、同時にその広大無辺さは実は心の中にこそさらに遥かに茫漠とそして混沌として
伸び広がっているのだということを痛感させられる。
 しかも、その広大さの中には認知症や介護や死の病やといった、徹底して個が向
き合うしかない極小の中の底なしの泥沼があったりする。

 一人の人間が一人の人間に徹底して向き合うこと。その覚悟のほどが文学作品で
は歴然と立ち現れてくる。その希薄のようなものが一番、明白となるのは、ストー
リー展開や文学手法や登場人物のキャラクター云々より何より、個々の叙述にある
のだ。
 つまり、小説の紹介では、あるいはストーリーの紹介では端折られる部分だ。美
は細部にあり。神は細部に宿る。細部とは瑣末のことではなく、今、ここ、であり、
現に向き合っている表現のその都度の本気度だ。

 さて、小生は学生の頃からロシア文学に惹かれてきた。アメリカ文学もヨーロッ
パの文学や哲学も読み齧ってきたけれど、戻るところは日本の文学は別格としてロ
シア文学のようである。
 小生にロシア文学について語る能力は残念ながらないので、表題にあるような1
9世紀から20世紀の前半のロシア文学作品を読むと登場するウオッカやペチカやサ
モワールという無言の、だけど欠くべからざる脇役たちを一瞥してみたい。
 ペチカは、これはたまたま10日の仕事中、車中で久しぶりに北原白秋が作詞し
山田 耕筰が作曲した「詞は北原白秋氏が満州旅行で見た自然風景を思い浮かべ作っ
たものだそうです。1925年の曲」だという「ペチカ」を聴いたので、懐かしいので
ついでに採り上げる:
 http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/pechka.htm

(同じ日に「かあさんのうた」(作詞・作曲:窪田 聡)もラジオから流れてきた。
季節柄というものか:
 http://members.jcom.home.ne.jp/los-angels/doyo_cont/kaasan.htm
 この曲の中では「いろり」が出てくる:
 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2005/12/post_eec9.html )

「ペチカの歴史」というサイトが見つかった:
 http://www.age.jp/~docile/pechika.htm
(「Architecture jardin〜建築散歩〜」参照:
 http://www.age.jp/~docile/index.html )

 冒頭に「ペチカはロシアの暖房として有名ですが、元々は北欧地方の暖炉(囲炉
裏)から発達したと言われています。
北欧では、17世紀に煉瓦造りのペチカを造る技術が確立し、ロシアへ輸出したこと
が、ロシアで普及したきっかっけです。 ロシア式ペチカというのは、この後ロシ
アで改良され、技術が発達したものです」とある。
 小生などは勝手にペチカというとロシアという印象を抱いていたけど、必ずしも
そうではないわけだ。
 旧満州はもとより北海道で一部では普及したようだが、徐々に廃れていった。
 それがまた、「ペチカは煙突に逃れる廃熱を利用して複数の部屋を暖める「セン
トラルヒーティング」。実に省エネ性に富んだ先進的な暖房システム」だというこ
とで、見直されつつあるとか:
 http://www5.hokkaido-np.co.jp/pocket-book/kita2/e06.html

 さて、作家ドストエフスキーもペチカとは無縁ではない。
「ドゥニャンのどたばたモスクワ劇場」の「ドストエフスキーの生家」なる頁を覗
かせてもらう:
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~dunyan/index.html
 http://www2s.biglobe.ne.jp/~dunyan/199988.html

「ドストエフスキーの生家は今はその名もドストエフスキー通りと名づけられてい
る一画にあ」り、「1983年、ここはドストエフスキーを記念してドストエフスキー
博物館とされ、今、文豪の生家として公開されている」という。
「ドストエフスキーの家は大きな居間(20畳くらい)と客間、そして仕切りで仕切
られた両親の寝室、そして小さな玄関の間」に尽きるとか。
 以下、丁寧な説明が続く:

 ドストエフスキーの家は大きな居間(20畳くらい)と客間、そして仕切りで
 仕切られた両親の寝室、そして小さな玄関の間。この小さな玄関の間は板仕
 切りで仕切られていて、窓からの光がほとんど入ってこない。当時をしのば
 せるかのようにろうそくを摸した小さな明かりがつけてある。 玄関の窓は小
 さなもので中庭からの採光がとても悪い。夏の昼間でも薄暗いのだから、長
 い冬の暗い時期には終日夜のような暗さだった違いない。ましてや、仕切り
 で仕切られた小部屋は窓もなくほとんど光りは入り込まない。その小さな信
 じられないほど暗くしきられた部屋が、作家その人フォードルと兄のミハエ
 ルの寝室兼勉強部屋であった。二人はここで話をしたり、一緒に本を読んだ
 り、後の終生変わりない深い兄弟愛を培った場所でもあった。 
 その奥は乳母の住んでいた部屋がカーテンで仕切られていた。その横には大
 掛かりなタイル張りのペチカが据えられ、モスクワの寒い冬を容易に乗り越
 えられるようにしてある。 
 このペチカを中心に作家の家である3部屋が囲まれるように配置されている。
                            (引用終わり)

 さらに、「その玄関を抜けると20畳くらいの居間がある。その居間ではテーブル
や長椅子がしつらえられ、子どもの遊び道具や本などが床に散らばっている。木馬
もペチカの側に置かれている」という。

 ドストエフスキーに限らないだろうが、ペチカの傍で生活が営まれ父母の語る話
を聞き、あるいは物語が織り成されていったのだろう。

 一方、ロシアでは一昔前までは「サモワールが家族の団欒の象徴」だった:
 http://dokushokai.shimohara.net/t77.htm

 まずは、「Humorous cartoons and drawings by the Sugai family」の「サモワ
ール」なる頁を参照させていただく:
 http://www2.tky.3web.ne.jp/~mojotets/index.htm
 http://www2.tky.3web.ne.jp/~mojotets/samovar.htm


「サモワールという言葉は、「サモ」と「ワール」から成り、それぞれ「自分で」
と「沸かす」という意味が合体している。この言葉は広辞苑にも載っている。「ロ
シア特有の湯沸し器。中央の上下に通ずる管の中で木炭を焚いて周囲の湯を沸かす
装置。今は多く電熱を用いる。」という。
 また、「昔使われた木炭式のサモワールは、中央の上下に通ずる管に空気が通る
ようになっていて、水を入れておく周囲の空間とは完全に仕切られた構造になって
いた。中央の管の中に木炭を入れて周囲のお湯を沸かすという発想は、水中で火を
焚くようなものだから、熱効率がとても良くなったはずである。凍てつくロシアの
冬に、僅かな燃料でもお湯が沸かせるサモワールは、当時のハイテク商品と言える」
とも。

 昔のサモワールは、「中央の管の中に木炭を入れて周囲のお湯を沸かすという」
ものだったが、昨今のものは、「中心部には上下に電熱線が走っていて、電気の力
で水を熱する」方式に変わっているらしい:
 http://www.page.sannet.ne.jp/shimaken/samovar.html

 さて、「ロシアにおける喫茶の歴史は西欧諸国よりも古く、はやくも1638年にモ
ンゴルの汗から贈答されたお茶をツァーリの宮廷でのんだという記録がある。17世
紀70年代にはモスクワへの輸入品として市場に出回っていた。喫茶は付随した茶器
を生み出し、サモワールが登場する。 第二次世界大戦では金属の供出が強制され
て、ロシアでもサモワールが姿を消していき、喫茶の習慣が以前ほどではなくなっ
た。それまでは、サモワールが家族の団欒の象徴であった。」というのだ。
(1月25日開催・第156回例会  (「ニュースレターNO.58」より転載) ドス
トエフスキイの喫茶  佐々木照央(埼玉大学)」より:
 http://dokushokai.shimohara.net/t77.htm )

 「『罪と罰』では対話の場に置かれたサモワールが逆に人々の心の対立を浮き立
たせる役目を果たしている。ラスコーリニコフ、その母、ドゥーニャ、そしてルー
ジンがお茶を飲む場面では、ルージンと対話がなりたたない様子がサモワールの存
在によって逆に強調されている。さらに、マルメラードフの法要の場ではサモワー
ルを中心に人々が喧嘩を始めるのである。人々を結合させる装置のまわりで人々が
いがみあう、という反作用効果をお茶が果たすこととなる」のだ:
 http://dokushokai.shimohara.net/t77.htm

 さらに上掲のサイトでは、『地下室の手記』、『悪霊』、『死の家の記録』など
でのサモワールの果たす役割を教えてくれる。
 本稿での「ドストエフスキイのお茶の場面は、バフチンが説く「モノローグ・デ
ィアローグ」論を深めるための材料を提供する。対話のお茶、孤独のお茶、お茶の
飲み方にいろいろあるが、孤独といっても「自分の中でもう一人の自分と対話」す
るのである。お茶を通じて描かれる場面はきわめて深い多層的な意識の働きと対話
のあり方を教えてくれるといえよう」という結語はとても味わい深いものがある。

 もう十分すぎるほど長くなったので、ウオッカについては触れる余地がない。
 小生は18の時、初めて『罪と罰』を読んだし、その後も繰り返し読む機会を得た
が、その都度、惹かれる登場人物はマルメラードフという酒で身を持ち崩した男で
あった(『悪霊』だとスヴィドリガイロフ)。
 呑むのは酒。呑めるものは何でも呑んだのだろうが、ロシアの酒といとウオッカ
がまず浮かんでくる。
 ここでは深入りしないが、「ウオッカ」なる言葉を聴いて最初に感じるのは、そ
の語感から素人的な勝手な想像(連想)に過ぎないのかもしれないが、「ウォータ
ー」つまり「水」である。ロシアの人は酒を水のように呑む(という先入観がある):
 http://www.homebar.jp/alco_all/vodka.html

 調べてみると、勝手な憶測も満更ではないようで、「NIKKA ウイスキーの仲間 
極寒の風土が生んだ火の酒 ウオッカ」によると、「ウオッカの名の起こりは、ロ
シア語のジーズナヤ・ヴァダー(「生命の水」)のウォーターにあたる「ヴァダー」
が、ウォトカに変化した。」という:
 http://www.nikka.com/learn/spirits/

 まあ、ウオッカが水に当たるというのなら、浴びるように呑むのも無理はないの
かもしれない。
 ところで、『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフは酒に弱い。
 これから本当に自分が殺人を犯すのか自分でも信じられないでいる冒頭付近で、
ラスコーリニコフは酒場でウオッカを一杯だけ飲んで、それで道端でぶっ倒れてし
まう。そして「気絶したラスコーリニコフは、このとき有名な「痩せ馬の夢」、つ
まりは村人が痩せ馬を斧で惨殺する幼年時代の思い出を夢に見る」のである:
 http://www5e.biglobe.ne.jp/~kazuya5/syuron.htm


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●[後欄無駄]:
  
◎ 画像掲示板を設置してあります。
  表紙の「画像掲示板」よりお入りください:
  http://mav.nifty.com/ahp/mav.cgi?place=bushoan&no=16762

◎ メッセージ掲示板へもどうぞ:
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○ 著者への御意見・御要望は  kunimi-yaichi@nifty.com
○ 著者をもっと知りたい方は
 「国見弥一の部屋へようこそ」
  http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/
○ 著者のメインのブログは以下です。毎日、更新しています:
 「無精庵徒然草」
  http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/
○ 小生のメインの関心は創作にあります。小説、俳句…:
 「無精庵方丈記」
  http://atky.cocolog-nifty.com/houjo/
○『銀嶺便り』は「まぐまぐ」システムにおいて発行されています。
  解除と登録は、以下のサイトで直接できます:
  「まぐまぐ」
  http://www.mag2.com/m/0000063087.htm
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