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2006/04/30

■幕末マガジン■

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  【幕末マガジン】 //  2006/4/30 //  Published by RyoMaX

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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

┣【1】アームストロング砲製造の事実
┣【2】明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」(2003/4/1 配信済み)

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■アームストロング砲製造の事実(1) (執筆者:松ノ落葉)
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今月から小説の司馬遼太郎著「アームストロング砲」に書かれているアームストロ
ング砲が果たして本当に製造されていたかどうかを小説の内容と史料を活用して
史実はどうなのかをアームストロング砲以外のことも含めて検討していきたいと思
う。

この小説に登場する主な人物は秀島藤之助と田中儀右衛門の二人である。秀島
藤之助の生涯に関する文献は非常に少なく、「鍋島直正公伝」くらいしか残されて
いない。
一方、田中儀右衛門だが、小説に登場するのは二代目田中儀右衛門である。
初代は田中久重で、久重も以前は儀右衛門を名乗っていたため、よく混同される
ことが多い。二代目田中儀右衛門は初代儀右衛門の娘ミツの婿で、実父は浜崎
大吉で、少年の頃から初代儀右衛門(久重)の門下生で、のち女婿(嗣子)となり
名を儀右衛門と改めた。儀右衛門は、長男岩太郎を伴って長崎に滞在中、秀島
藤之助に親子共々殺害された。(久留米人物誌)

秀島藤之助の話に戻るが、小説では288ページ1行目に「長崎海軍伝習所で
蒸気、砲術、物理、数学の四科目を兼習」していると記述されているが、秀島は
長崎海軍伝習所の一期、二期どちらも在籍しており、学習科目も四科目だけで
なく、下記の通り

○一期の学習科目(1855年11月〜1857年9月)

船具・蒸気機械・造船・算術・リーニー・築城・砲術・航海・バタイロン・運用
下等士官心得方・調練等

※羽場俊秀著「長崎海軍伝習所と佐賀藩」(近代西洋文明との出会い)によると
リーニーは工兵学、バタイロンは大隊訓練のこと

○二期の学習科目(1857年9月〜1859年2月)

船中帆前・船具・砲術築城・運用・造船・騎兵調練・算術・蒸気・手銃
船中大砲・航海・騎馬調練・点ざん・蘭語・地理・歩兵調練等

※点ざんとは代数のこと

【羽場俊秀著「長崎海軍伝習所と佐賀藩」(近代西洋文明との出会い)より作成】

上記の通り、かなりの科目を短期間に習得したようである。ちなみに秀島は、この
うち「蒸気」を専攻としていたようである。また、秀島を含む海軍伝習所にて教育を
受けた佐賀藩士10人は、海軍伝習所閉鎖にともないオランダ人教師カッテン
ディーケから書籍を貰っている。その内訳は秀島に2冊、中牟田倉之助に2冊、
馬渡八郎に2冊、石丸虎五郎に1冊、等である。秀島をはじめとする佐賀藩士は
伝習生の中でも特に優秀であったことが窺える。

司馬遼太郎氏は「鍋島直正公伝」中にある「秀島は蘭学最初の生徒にして、
長崎伝習にて蒸気、砲術、窮理(物理)及び算術の四科を兼修」したという記述を
読んで書いたと思われる。確かに大まかな内容では当たっているが、佐賀藩史料
「松乃落葉」には、解剖学や包帯術など医学伝習も行われていた(ポンペ教授
による)ことも記されており、これらの事実は見逃せないであろう。

次回は、万延元年幕府遣米使節についてです。

参考文献

○中野礼四郎編 「鍋島直正公伝」第五篇 侯爵鍋島家編纂所
○幕末軍事技術の軌跡 佐賀藩史料「松乃落葉」 思文閣出版
○杉本勲編 「近代西洋文明との出会い」 思文閣出版
○藤井哲博著 「長崎海軍伝習所」 中公新書
○アンドリュー・コビング著 「幕末佐賀藩の対外関係の研究」 
  財団法人 鍋島報效会

ご意見・ご感想はこちら saga@ace.ocn.ne.jp まで 

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■明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」 (執筆者:松ノ落葉)
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(2003/4/1 配信済み)

※正確に引用されるのなら、自由に転載いただくのを歓迎します。

先月でも触れたように使節団一行はアメリカにおいて熱烈な歓迎を受けた。このアメ
リカ側の好意にいち早く反応したのは、アメリカ駐在の※少弁務使(4等官)森有礼
で、この機会に一気に条約改正交渉を行うべきだと判断した。これにすぐさま同調し
たのは副使伊藤博文、駐日公使デロングで、彼らは大使の岩倉や副使大久保らに
この案を献策した。情勢を甘く見た使節団一行は「聘問ノ禮」の枠を超えた行動に
出たのであった。

※弁務使とは、外国駐在の外交官のことで、大・中・少の3級に分かれており、大弁
務使は2等官で、これは外務卿(1等官)の次の外務大輔(2等官)に相当する。中
弁務使は3等官で、これは外務少輔(3等官)に相当し、少弁務使である森有礼は
外務大丞(4等官)の身分に相当する地位である。

明治5年2月3日(陽暦1872年3月11日)、大使岩倉は木戸・大久保・伊藤等
と共にアメリカ国務長官フィッシュを訪問し、条約改正交渉を持ち込んだ。

フィッシュは

「日本の主張はもっともなことであるが、条約談判の委任状は持参してきてるのか」

と突っ込まれ、岩倉は動揺したが苦しまぎれに

「我々の使命は天皇の詔勅にて委任状はなくとも、出先において国際問題を交渉する
全権を付与されている。」

と返答したが、フィッシュはこれに応じず

「その詔勅は国内用にすぎぬ、条約談判には別に各当事国元首の発給する相当の
委任状が必要である。」

と、言いその慣例と理由を説明された岩倉たちは、その場で随員たちと評議をはじ
めた。(もちろん日本語で)その評議も小一時間も続いたそうで、フィッシュもさす
がにあきれてしまい手帳を取り出して、暇つぶしに彼は岩倉をはじめ、副使3人の滑
稽な姿を写生していたそうである。

結局、大久保と伊藤が委任状の交付を求めて一時帰国したが、外務卿副島種臣、
同大輔寺島宗則は、使節団当初の目的である、聘問ノ禮を修め、交誼を厚くする
傍ら、条約改正準備のため海外事情を視察する、という本来の任務を度外視した
行為であると使節団を強く非難し、容易に委任状は交付されなかった。

ちょうどその頃、日本政府がアメリカと条約改正交渉を始める、というニュースをイ
ギリスのロンドンで知った尾崎三良(京都出身で三条実美に仕えつつ、坂本龍馬と
も交わりがあった、その後慶応4年からイギリスに留学中)らは、今アメリカと条約
改正交渉を行うことは、日本にとって不利にはたらくと判断し、尾崎と長州出身であ
る河北俊弼は、これを中止すべく急いでアメリカへ向かい、副使木戸孝允と会談し、
「今、条約改正の談判を始めることは甚だ危険である」と進言した。

他方、外国にあっても日本政府の条約改正談判開始の報を受けて、ドイツ政府は
在日公使ブラントを本国での談判に参加させるため帰国させた。(イギリス政府も
同様に在日公使パークスを一時帰国させた)
しかし、ブラントは帰国の途中でアメリカに立ち寄り、岩倉や木戸と会談し、条約改
正談判を日本においてでなく、その出先(アメリカ)において始めることは、日本に
とって決して有利にははたらかない、と進言した。ブラントが岩倉・木戸らに説いた
内容は以下の通り。

「日本が欧米各国と条約談判を開くとなると、相手諸国の各利益に応じ、条件の譲り
合いが必要となってくるが、最恵国条款なるものがあり、これにより日本がまずアメ
リカに譲るところのものは、他の列国にもすべて皆分け与えねばならず、次にイギリ
スに譲るところはアメリカ及び他の列国にもまた同じように分け与えねばならず、す
なわち各国は日本にたった一つ条件を譲るのみで日本の各国に譲れる全ての条件
を得ることが可能となり、これは日本にとって極めて不利益になる。」

と、いうものである。
が、ブラントのいう「最恵国条款なるもの云々・・・」の話には大きな疑問がある。
それは最恵国条款の場面で譲り合いが出てくるが、これがもし、ある一定の条件付き
で行われたとしても、例えば日本がアメリカに譲ったものをイギリスがこれを得ると
なると、イギリスはアメリカが日本に提供したものと同じ価値の代償を提供しなけれ
ばならず、したがって各国は日本に一つの条件を譲るだけで日本の各国に譲れる
全ての条件をただで得ることは出来ない。

次に日本が本国ではなく、出先において条約改正談判を行うことが不利であると説い
ているが、どこで条約談判を行おうとも各国は日本に提供したものと同じ価値の代償
を提供することに変わりはなく、当然ながら日本は出先においてその談判を行うこと
が不利益である理由にはならないのである。

ブラントがなぜこのようなことを言ったかというと、大正から昭和の初めにかけて活
躍した早稲田大学教授、信夫淳平氏によれば、ブラントの真意は、日本において条
約談判を行い、それが成功したならばその功績はブラント一人に与えられるが、これ
がもし、ドイツ本国にて談判をしたとなると、ブラントは単なる参加者の一人にすぎ
ず、その功績は本国の外務大臣その人に帰すことになるので、何としてもブラントは
日本が出先で条約談判を行うことを阻止しようと試みたものらしい、と述べている
が、おそらくブラントはそういうつもりであったにちがいない。要するにブラントの
個人的野望のために日本の条約談判を阻止したと思われる。

また、尾崎がイギリスで日本の条約改正のニュースを知ったのは新聞記事でしかなく
しかも、その内容もブラントが日本政府に進言した内容とほぼ同じであったことにも
問題があったのではないか。もし、イギリスの新聞が誤解を招くような内容でなけれ
ば尾崎もアメリカまですっ飛んでくるということもなかったかもしれない。どちらに
しても、明治5年の段階で、条約改正交渉に踏み切っても日本側にとって、決して
良い結果にはならなかった(欧米の世論が列国に味方していたため)ことは間違い
ないであろう。

※先月のメルマガで伊藤博文による「日の丸演説」などもあるが、詳細は5月のメル
マガで紹介するとお知らせしましたが、条約改正問題について書き足りない部分が
あるので、「日の丸演説」その他エピソードは6月のメルマガに延期させて頂きま
す。ご了承下さい。

参考文献

○「岩倉使節団」 田中彰著 講談社現代新書
○「『脱亜』の明治維新」岩倉使節団を追う旅から 田中彰著 NHKブックス 
○條約改正関係「大日本外交文書」第一巻 外務省
○「明治六年政変」 毛利敏彦著 中公新書
○「明治文化全集」第十一巻(外交篇) 明治文化研究会
○「外交側面史談」 法学博士・信夫淳平著
○「尾崎三良自叙略傳」上巻 尾崎三良著

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