■幕末マガジン■
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【幕末マガジン】 // 2006/3/31 // Published by RyoMaX
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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。
┣【1】幕末英雄の素顔
┣【2】往時雑感。
┣【3】明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」(2003/3/16 配信済み)
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【幕末英雄の素顔】
第3回 「河合耆三郎」 (執筆者:Mr.萌咲)
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読者のみなさん、こんにちは。
幕末は、後世に名を残す英雄が多く輩出されました。ただし英雄といっても私たち
と同じ人間です。
失敗談や面白おかしいエピソードなども多く残されています。このコーナは、そんな
幕末英雄の素顔をちょっと覗いてみたいと思います。
第3回は、ちょっとマイナーな人物にスポットを当てたいと思います。「新撰組、勘
定方の河合耆三郎」。
2004年の大河ドラマ 新選組!では、大倉孝二さんが演じていた人物です。
(わかってもらえるでしょうか。)
河合は、今の兵庫県高砂市に生まれ育ちました。実家の河合家はこの地方有数
の蔵元でした。
では蔵元とは、どんな職業でしょう。当時の高砂地方は、幕府の天領(どこかの
藩に属しているのではなく、幕府直轄の領のこと)でした。
農民の年貢米は、藩に所属していれば、藩の役人が年貢の取立てを行うのです
が、天領の場合は江戸から役人が来る代わりに、地元の人物に代役をさせる
のが通例でした。この代役が蔵元です。
幕府の役人の肩代わりをするわけなので、当然幕府からの信用が重要ですし、
地元に密着しているので、農民からも信用も得なくてはなりません。
そんな中、河合家は非常に広範囲の領地を管理し、信用絶大な蔵元でした。
河合家の屋敷は、やぶに囲まれた中に米蔵が立ち並び、地元の人からは
「河合さんのやぶ」と呼ばれ知らない人はいないくらいでした。河合耆三郎は、
こんな裕福な家で育ったのです。
では蔵元の若旦那河合耆三郎は、ぼんぼんにありがちな、すねかじりだった
のでしょうか。いいえ、河合家を背負って立つやり手の若旦那だったらしいです。
計量の名人で、米俵を見るだけで、わずかな米の量の過不足を見抜く眼力を
持っていました。算術にも長けていたそうです。
また、仕事で気性の荒い農民や、ずる賢い商人を相手にしないといけないの
ですが、彼らからの人望も厚かったようです。
そんな河合が文久3年6月突然、実家から居なくなったのです。河合26歳の
時でした。行き先は、新撰組。
順風満帆な生活を送っていた蔵元の若旦那が突然新撰組に入隊したのです。
「なんでまた新撰組に?」と地元の人はびっくりしたそうです。
一説によると、大阪の有名な食品製造業に神田家に嫁いだ妹の推薦があった
と言われています。河合はこっそりと妹に新たな職探しを頼んでいたのでしょう。
新撰組では、能力を生かして勘定方・小荷駄雑具方を勤めました。元治元年
6月の池田屋事件にも参加し、河合耆三郎の名を上げたのです。
その河合に悲劇が訪れました。慶応2年2月、河合は隊費のうち50両が不足
していることに気づきました。隊費を持ち出せるのは新撰組幹部しかおらず、
これが表沙汰になると新撰組に内紛が起きてしまうと心配した河合は、密かに
手紙で実家に50両の仕送りを頼み、穴埋めしようとしたのです。
しかし、実家からの仕送りが予定の日になってもありません。そうこうしている
内に、別の用件で隊費が必要となり、とうとう不足金があることが内部にばれて
しまったのです。別の用件とは、近藤勇の妾である深雪太夫の見受け金だとか、
別の女性の見受け金だとか言われていますが、定かではありません。
とうとう河合は、関係無いはずの責任を取り切腹することになってしまいました。
切腹する直前まで「まだ、実家から飛脚は来ないのか。」と無念ながらに周囲
にたずねたそうですが、実家から穴埋めの50両が届いたのは、河合が切腹
した3日後だったそうです。
不幸なことに、実家の父親が、蔵元の仕事上のトラブルで出張しており、河合
からの手紙を読むのが遅れたため、送金が遅くなったのでした。
河合のお墓は、2つあります。ひとつは、新撰組屯所近くの光縁寺。これは
新撰組が建てたもの。もうひとつが壬生寺で、河合の実家が建てたものです。
父親はじめ縁者は、河合が理不尽な内容で切腹したことを知って激怒しまし
た。そこで、新撰組が建てたものとは別に立派なお墓を壬生寺に建てたの
です。また、河合の父親らは、大金を馬に乗せて、新選組屯所の周囲を何
度も廻らせたり、坊主を何人も呼んできて屯所の周囲でお経を唱えさせたり、
抗議行動もしたのです。無念の死に「なんでまた、新撰組なんかに。。」と
聞き返したことでしょう。
ご意見、ご指摘などありましたら、よろしくお願いいたします。
moesaki1115@yahoo.co.jp
執筆者HP
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/
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■往時雑感。 (執筆者:瀬田の唐橋)
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歩くということ その2.
江戸時代の人は、よく歩いたということを以前お話しましたが、今回はその2と
なります。
さて、12月は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあった月ですが、討ち入り後、彼ら
は、吉良邸から泉岳寺まで歩いています。どれぐらいかと言いますと地下鉄で7
駅程度、距離では約8キロとなります。龍馬さんもよく京都市内から伏見の寺田
屋へ行っておりますが、その距離は、約10キロ。また、新撰組の池田屋事件では、
壬生の屯所から八坂神社近くの会所まで約3.4キロ歩き、その後、宿改め、そして
戦闘ですので、いかによく歩き=体力があったかが分かります。
勿論、主として徒歩しか方法がなかったゆえ、仕方がないといえばそれまでです
が、やはり自力で行動するわけですから歩くという行為によって、自ずと自立心
や独立心や向上心が培われたのではないかと思うのは考えすぎなのでしょうか。
また、歩くということの幕末最大の出来事といえば、戊辰戦争となるでしょう。南
から北へ薩摩・長州の人々が中心に、遠く函館まで遠征したわけですからすごい
出来事です。
そんな中で、乾退助の話があります。ご存知土佐藩の板垣退助のことですが、
この遠征に際して実は、乾から板垣に名前を変えています。特に関東・信越方面
の責任者として派遣された訳ですが、もともと、今話題の戦国武将山内一豊の
家来になった際、板垣でしたが乾氏に世話になったことから乾氏分家という
ことで乾姓を名乗っていた訳です。しかし、元の板垣姓こそ、武田信玄の右腕
とまでいわれた板垣駿河守信方であり、遠祖になる訳です。そこで、関東・信越
では、名門板垣姓の方がつぶしがきくということで名前の変更になった次第です。
こうみると歴史というのは、いろいろなドラマを秘めています。
さて、余談ですが、歩くことの楽しみとして、江戸時代の観光は、神仏まいりが主
であったとか(その後の精進落しが本当の狙いかも)。伊勢参り・江ノ島参り・大山
参りがベスト3だったそうです。
ある旅行代理店の人に聞きますと、今はどうか知れませんが少し前ですと、企画に
困ったり、企画がない時は、善光寺参りを発売すれば、必ず完売したそうです。
これも余談です。
瀬田の唐橋
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■明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」 (執筆者:松ノ落葉)
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(2003/3/16 配信済み)
※正確に引用されるのなら、自由に転載いただくのを歓迎します。
「サンフランシスコ人民の祝頌を受ける」
明治4年12月6日(陽暦1872年1月15日)、使節団一行はアメリカ・サンフ
ランシスコに到着した。アルトカトランズ砲台から※13発の礼砲がサンフランシス
コ市内に響き渡り、市民は岩倉使節の到着を知り、桟橋にはあっという間に黒山
の人だかりができていたという。また、使節と同行した駐日公使デロングはロシア風
のケープと毛皮帽を身につけるという、若干奇妙ないでたちではあったが、デロング
もまた、サンフランシスコ市民から盛大な祝福を受けた。
※「米欧回覧実記」及び田中彰著「岩倉使節団」、「脱亜」の明治維新、では15発
となっている。しかし、「米欧回覧実記」の学際的研究、では13発となっている。
しかし、一方で「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙はこれほど大勢の高級官僚
が一度に渡米するわけは、「単なる大観光団」のはずがなく、使節団の真意は
条約改正のためであろうと指摘している。もっとも使節団の任務は※「国際親善」
をはかることと、(条約改正に備えて)先進各国の文物制度の調査であって、
条約改正交渉それ自体は直接の任務ではなかったが、アメリカ側から見ても、こ
の不自然なくらい膨大な数に膨れあがった使節団は、条約改正が狙いであると
思われても仕方がないであろう。(「米欧回覧実記」の学際的研究より)
※明治4年11月4日、つまり岩倉大使がアメリカへ出発する直前、明治天皇は
岩倉大使に対して勅語を授けており、その内容は「各国政府ヘ聘問ノ禮ヲ修メ
交際ノ情誼益敦カラシメン」ための訪問であると宣言されたものであった。
「聘問ノ禮」とは訪問を通じてより友好的な関係になろう、という「平和的国際親
善」を意味する言葉である。
なお、上記の明治天皇が岩倉大使へ宛てた勅語の全文は
條約改正関係「大日本外交文書」第一巻(外務省)の65ページに掲載されている。
使節団結成当初の計画は「事由書」(「条約改正ニ付全権使節差遣理由書」を
参考に政府が使節派遣の目的、方針を説明した正式な文書)によると
欽差全権大使・一員、同二等使節・一員、一等書記官・一員、二等書記官・二員、
一等通弁官・一員、二等通弁官・一員、全権理事官・六員、一等書記官・三員、
二等書記官・三員、通弁官・三員 (岩倉公実記・中巻より)
で、この他に10人弱の留学生等を随従させても差し支えない旨、明記されているが
それでもごく少人数である。しかし、実際の人数は留学生を含めると100人を超え
る人数であった。
それではなぜ、実際の使節団は膨大な人数に膨れあがったのかは、「大隈使節から
岩倉使節への転換」と題して1・2月に書いており、それに関する研究書籍も複数冊
出ているので省略する。
また「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙は、サンフランシスコ市民に対しても
盛大な祝福をもって使節団を歓迎する理由は、対日貿易を睨んでいるからだと
鋭く指摘した。また、使節団参加の久米邦武もその著「米欧回覧実記」において
「我邦及ヒ東洋各国ハ、天産ニ富ミ、・・・(中略)是乃貿易ノ眼目ニシテ」
と、似たような感想を述べている。
ただし、のちに「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙が睨んだとおり、日本は
条約改正に乗り出すことになるのだが、それは来月詳しく述べたい。
「アメリカ人から見た使節たち」
サンフランシスコでは紡績場、製造場、学校や会社、その他の施設を見学して
まわったが、全て掲載すると非常に長くなるので今月は省略する。また、有名な
伊藤博文による「日の丸演説」などもあるが、詳細は5月のメルマガで紹介したい。
まず、岩倉については最初、皇太子であると報道された。しかし、実際は維新の
勲功によって栄達し、もとは弱小貴族の出身であることが明らかになり、にわかに
人気があがった。ここで、岩倉家の家柄について少し詳しく説明しておこう。
岩倉家の世系は「村上源氏ニシテ即チ久我氏ノ庶流」を汲む下級公家であった。
ただし、これだけではよく分からないかもしれないので、後年の華族令のランクで
説明すると、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5ランク中、4番目の子爵に位置する
家柄である。ちなみに太政大臣三条実美はというと、彼は藤原氏の流れを汲む旧
清華家の出身で、旧清華家は五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)
に次ぐ上流公家の出であった。上記の華族令のランクでいうと、2番目の侯爵に
位置する。
家柄の高低にやかましい公家社会では、この差は大きく、七卿落ちで数年間政治
活動を制限された(反対に七卿落ちが大きな意味を持っていたことも否定できない
が)三条に対し、岩倉は倒幕活動の大詰めの段階で、薩摩藩の西郷・大久保らと
二人三脚で次々と裏技を繰り出し、革命成就の立役者ともいえるのに、維新後の
岩倉の地位は、いつも三条の次席にとどまらざるを得なかったのも、生まれついて
の家柄によるところが大きいといえる。(もっとも、三条・岩倉両家とも明治17年
7月7日に華族令が公布されたとき、維新の勲功が認められて最高位の公爵を
授けられている。)
木戸孝允については「木戸は39歳、平均的日本人より背が高い。肩幅は広く、
丸顔でひげをすっかり剃っている。目も大きく、全体的に感じのよい風貌である」
と、使節団の中では一番紳士的な存在としてアメリカ人の目には映ったようである。
大久保利通は、「たいへん知的な風貌の持ち主で、少しほつれたような長い頬ひげ
と口ひげとを気どって蓄えている」と評された。「少しほつれた」表現のところに、
当時の彼の悩み(対外問題や廃藩置県及び島津久光問題など)を感じ取ることが
できる。
アメリカ人記者たちは、この東洋からの大使節団を執拗に追いかけ回しては、イン
タビューを試みていたようだ。記者たちが特に感心したことは日本人が余暇を惜しん
で、実に詳細なメモをとり、見るもの聞くもの一つ漏らさずに情報を収集し、日本に
持ち帰ろうとした勉強熱心さであった。
次回は条約改正問題についてです。
参考文献
特命全権大使「米欧回覧実記」 久米邦武編 岩波文庫
「岩倉公実記」上・中巻 財団法人岩倉公旧跡保存会 (再版)
「『米欧回覧実記』の学際的研究」 田中彰・高田誠二編著 北海道大学図書刊行会
「岩倉使節の研究」 大久保利謙編 宗高書房
「岩倉使節団」 田中彰著 講談社現代新書
「『脱亜』の明治維新」岩倉使節団を追う旅から 田中彰著 NHKブックス
條約改正関係「大日本外交文書」第一巻 外務省
ご意見・ご感想はこちら saga@ace.ocn.ne.jp まで
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END
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