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2006/02/27

■幕末マガジン■

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  【幕末マガジン】 //  2006/2/27 //  Published by RyoMaX

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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

┣【1】幕末英雄の素顔
┣【2】往時雑感。
┣【3】明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」(2003/2/16 配信済み)

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【幕末英雄の素顔】
 第2回 「伊藤博文」      (執筆者:Mr.萌咲)
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読者のみなさん、こんにちは。

幕末は、後世に名を残す英雄が多く輩出されました。ただし英雄といっても
私たちと同じ人間です。失敗談や面白おかしいエピソードなども多く残されて
います。このコーナは、そんな幕末英雄の素顔をちょっと覗いてみたいと
思います。

第2回は、初代内閣総理大臣「伊藤博文」です。伊藤の神戸での素顔を中心に
紹介したいと思います。

徳川幕府が崩壊した直後の慶応4年(1868)1月11日。神戸で大きな事件が
発生しました。西宮の警備に向かう岡山備前藩の軍隊が隊列を組んでの
移動中、彼らが神戸の三宮神社の前に差し掛かったとき、その隊列を横
切ったイギリス人を備前藩士が刺傷させるという出来事が起きました。たま
たま神戸に居合わせたイギリス公使パークスがそれに激怒し、イギリスを
はじめ外国の陸海軍を動かして神戸の港を制圧するという非常に緊迫した
状態に陥りました。これがいわゆる「神戸事件」です。

この異常な緊張の中、たまたま神戸に現れたのが“伊藤博文”でした。
長州の三田尻から京都に向かう途中に兵庫に立ち寄ったのが、神戸事件
の当日でした。伊藤とパークスが顔見知りだったこともあり、新政府は早速、
伊藤をパークスのいるイギリス領事館(旧神戸海軍操練所)に派遣しました。
パークスは伊藤に対して捲し立てました。「徳川幕府が潰れて、新政府が
出来上がっても外国側に一向に挨拶に来ない。挙句の果てには、我々を
挑発するようなことをする。新政府は攘夷を実行する気か!」戊辰戦争で
挨拶どころではないことは知っていながら、怒りんぼパークスの身勝手な
意見でした。しかし、そこは外交上手の伊藤、直ちに新政府本営のある
大阪に向かい、新政府発足を外国側に知らせる段取りを始めました。そして
4日後の15日に、神戸運用所(今で言う税関)で東久世通禧を正使とする
日本の外交団が、イギリス、フランス、アメリカなどの外国6カ国の外交団
に対し、天皇中心の新国家が発足したことを正式表明しました。このとき
同席していた伊藤は、直前に「外国事務掛」に任命され、やっかいな神戸
事件の解決を任されたのです。

伊藤は、事件の解決に奔走します。過去に神奈川で起きた生麦事件の
ように、死者がでたわけでもないので穏便に済ませたいのですが、パー
クスは「責任者の死罪」の要求を撤回しませんでした。最終的には、備前
藩第3大砲隊長の滝善三郎が一人責任をとり、切腹することにより事件が
解決することとなりました。伊藤博文27歳の大仕事でした。

 そして神戸での活躍が認められ、4ヵ月後の5月(元号は明治に変わり
明治元年となる)には、初代兵庫県知事に任命されることとなりました。

では、伊藤が兵庫県知事として神戸にいた約1年間でのエピソードを3点
紹介したいと思います。

【その1】遊郭統合したものの・・・

明治の初期、神戸の街には遊郭があちこちに点在していました。伊藤は
これを「街の風紀を乱す原因のひとつだ」と判断し、遊郭をひとつの場所に
まとめるという施策を実行しました。遊郭は、数百年前に平清盛が平安京
を遷都した“福原”という土地に集められたのです。

そこまでは良かったのですが、伊藤はせっせと福原通いに精を出したの
です。兵庫県庁(兵庫鎮台)が近かったせいもあるのか、早朝、福原から
直接、県庁に登庁することもしばしばあったそうです。この女性癖は、
内閣総理大臣になっても衰えず「マントヒヒ候」とか「マントヒヒ老爺」など
陰口をたたかれました。

【その2】大隈重信との対立・・・

神戸に奈良屋という指折りの料理茶屋があり、この店には、“お末”という
美しくとても器量の良い娘がいました。そこに通いはじめた伊藤は、“お末”
に一目ぼれしたのです。猛アタックのすえ、お末を射止めた伊藤にライバル
が立ちはだかることとなりました。

そのライバルの名は、大隈重信。大隈が奈良屋でお末を口説いている最中
に、大激怒した伊藤が店に飛び込んできました。店に入ったかと思うと今度は
刀を抜いて大隈が居るはずの部屋へ一目散にかけていきました。あわや
将来の名相同士が命の奪い合いか・・・という時に、隣の部屋に居合わせた
西郷隆盛が止めに入って、その場をおさめた・・・という出来過ぎとも思える
エピソードが地元では伝わっています。

【その3】伊藤、ちょっと背伸びを・・・

神戸の中心に「湊川神社」という楠正成を祭った神社があります。楠木正成
というと後醍醐天皇中心の政治を志した、いわゆる勤王思想の先駆者です。
同じ勤王思想を持った明治の元勲たちもたくさん湊川神社を訪れました。
明治5年に神社への石灯篭の奉納があり、伊藤をはじめ多くの元勲が参加
しました。江藤新平、大隈重信などの立派な石灯篭が奉納された中で、
伊藤が奉納したものがやけに小さかったのです。遊びすぎてお金が無かった
のでしょうか?

それから月日がたち、明治18年(1885)、伊藤は初代内閣総理大臣にまで
上り詰めました。そこで、神戸に住む豪商達は「総理大臣になった伊藤さん
が奉納した石灯篭が、誰のものよりも低いのはいただけない。」ということで、
彼らがお金を出し合って、台座を作り、その上に伊藤の石灯篭を置くことと
しました。そのちょっと背伸びをした伊藤の石灯篭は、今も湊川神社で見る
ことができます。



ご意見、ご指摘などありましたら、よろしくお願いいたします。

moesaki1115@yahoo.co.jp

執筆者HP
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/

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■往時雑感。       (執筆者:瀬田の唐橋)
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幕末の寝返り、実は、仇討ち。

大河ドラマは、山内一豊とその妻千代を題材にした「功名が辻」。戦国時代が
舞台ゆえ流れに変化がありやはり動乱期は見ていても面白く、興味深いものです。

その戦国時代に負けず劣らず変化があるのが幕末です。さて、以前この往時
雑感の中で、彦根の井伊家は、徳川家が戦時になれば先鋒の役目を担うこと
が家康の命により取り決められていた(武士にとり先鋒を仰せつかることは
大変名誉なこと)と書きましたが、皆さんご存知の通り鳥羽伏見の戦いでは
官軍方に寝返っています。ここに歴史の流れを感じます。なぜなら、8年前に、
大老職(今で言う内閣総理大臣)を務めていたのは、ご存知井伊直弼、つまり
井伊家です。大老職の家がなぜそうなったのか不思議に思います。実は、
井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後の措置に問題があるようです。
開国派・攘夷派が対立していた時の事件ゆえ幕閣は、その対応に苦慮した
ようです。また、暗殺団が水戸の浪士であることが分かっていましたので
余計です。本来なら時の大老を暗殺したのですから厳罰に処すべきですが、
その背後に攘夷派の水戸家や水戸家から養子に出た一橋慶喜の影(時期
将軍有力者)を感じ浪士に対し切腹の措置をとりました。斬首であってしかる
べきところをです。切腹と斬首とは大きな違いがあります。(切腹=名誉な死、
斬首=死罪)正直、被害者の井伊家は面白いわけがありません。いわんや、
井伊家に対する措置は、暗殺されるとは、無用心であったとのことから10万
石の減封のおまけまでつきました。かなり、攘夷派に遠慮した措置です。
このあたりで井伊家は、徳川頼りにならずとの意識をもったのではないで
しょうか。(勿論、井伊家の時代を読む目もあったのでしょう。)

この不満・不信が、鳥羽伏見の戦いにおいて、寝返りという行為にあらわれた
のではないでしょうか。歴史は、寝返りという言葉で表現しますが、本来は、
幕府の処置に対する不満が、高じて幕府への仇討ちの形になったのでは
ないかと考えます。方法は、違いますが元禄事件と共通する要素が含まれて
います。

幕末と言う時代は、大きな揺れの繰り返しながら明治と言う新しい時代へ
向かいました。

現代も、後の時代に振り返れば大きな歴史の変化の時であったと言われる
のかもしれません。そういう意味では、今と言う時代を冷静に見ておきたいと
考えます。

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■明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」  (執筆者:松ノ落葉)
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(2003/2/16 配信済み)

※正確に引用されるのなら、自由に転載いただくのを歓迎します。

前回はフルベッキのブリーフ・スケッチのあたりまで説明したが、今回も岩倉使節に
至る過程をもう少し述べていきたい。

大隈使節から岩倉使節への転換は前回述べた毛利敏彦氏と※「岩倉使節の研究」
の編者大久保利謙氏の両者が優れた考察をされているので、ここでは私なりに
両者の説の比較を行ってみたい。
と、いっても両者の説に大きな相違は見あたらない。が、しかし、決定的な違いを
説明すると大久保氏の見解では大久保・木戸を含む薩長派が大隈使節を排除した
と唱えたのに対し、毛利氏はそもそも大久保と木戸の両者では、洋行を希望する
理由が全く違うということ、また大隈排除に暗躍したのは大久保1人であったこと、
故に薩長派による大隈排除という表現は適切とは言い難いとし、その究明には
長州派(木戸孝允)の動向を探ることで解決の糸口を見出すべく、独自の研究理論
を展開されている。

両者共通の見解は、佐賀藩出身である大隈が大使として欧米へ出発するという
ことは、ひいては迫り来る条約改正問題においても大隈が積極的に乗り出すこと
を意味しているわけで、そうなると政治的主導権は自動的に大隈が握るということ
になる。そのことを一番危惧していたのはいうまでもなく薩摩藩出身の大久保で
ある。大久保をはじめ薩長派には、明治政府は自分らで築き上げたという自負が
当然ながらある。であるから、大久保ら薩長派はこれを黙視するわけにはいかず、
岩倉を擁して条約改正外交権を自派の手に奪取する必要があったのである。
さらに、大隈の派手なパフォーマンスに反感を持つものも少なくなかったことも
大隈使節から岩倉使節へと転換される一要因として挙げられるであろう。


※大久保利謙編「岩倉使節の研究」、毛利敏彦著「明治維新政治外交史研究」
とも大久保利通が大隈使節排除の動きを見せたのは8月下旬ということで、一致
しているが、実は明治4年6月11日、岩倉宛大久保書簡に、「小臣(大久保)の
洋行行きを許可してほしい」と岩倉にお願いしている文章を発見した。
ただし、6月11日はまだ廃藩置県前であり、この「洋行」が大隈に代わって自分が
その使節をかって出る意味の「洋行」であるのか、現在のところ真偽ははっきりし
ないが、もし、大隈使節に代わって自分が使節に就任するための「洋行」である
なら、実はかなり早い段階から岩倉と策動していたことになるであろう。実際、使
節派遣の準備は、主務官庁である外務省では既に明治3年から着手されていた
ので、廃藩置県前の明治4年6月から大久保らが暗躍していたとしても不自然では
ない。


ここで、大隈重信に視点を変えて見てゆきたい。岩倉使節に決定した後のことを
「大隈伯昔日譚」で下記のように回顧している。

「薩長の軋轢・・・(中略)諸般の改革、改新の阻挌せらるる弊患を苅除するは、
出来るだけ其の人々を外国に派遣し、謂はゆる『鬼の留守に洗濯』と云う調子
にて・・・。」
↓
※「早稲田清話」にも似たような記述がある

と、いうように自分は使節に選ばれなかったが、邪魔な人間を出来るだけ多く
海外へ行かせて、その間にいろんな改革をしようと気持ちを切り換えていることが
わかる。
しかし、岩倉使節が欧米へ出発する際、洋行組と留守組が盟約を交わした
「約定書」というものがある。非常に有名なものであるが、「大隈伯昔日譚」に
よれば、発案者はどうやら大隈本人のようである。(大久保利謙氏も「約定書」
の発案者は大隈重信と断定)
実は、その「約定書」の第六款に注目して頂きたい。

※「約定書」第六款

内地ノ事務ハ大使帰国ノ上大ニ改正スルノ目的ナレハ其ノ間可成丈新規ノ改正ヲ
要ス可ラス万一已ヲ得スシテ改正スル事アラハ派出ノ大使ニ照会ヲナスヘシ
        ̄ ̄ ̄ ̄ 
※「岩倉公実記」中巻には「約定書」第六款の2行目「万一已ヲ」が「万已ヲ」と
なっている。編集上のミスかと思われるが、実は丸山幹治著「副島種臣伯」の中
にも約定書が収録されているが、やはり同じく「万已ヲ」となっている。これはおそ
らく「副島種臣伯」の著者が「岩倉公実記」に記されている史料の誤りに気づかず、
そのまま引用したものと思われる。正確には「万一已ヲ」が正しい。(なお、私は
丸山幹治著「副島種臣」しか確認していないが、他の伝記等でも同じ誤りがあるか
もしれない。他の伝記をお持ちの皆さんは、ぜひ確認して頂きたい。)

簡単に訳すと、要するに岩倉使節が外遊中は、留守政府は何もするな、という
意味である。そして、どうしても何かするという場合は外遊組にお伺いを立てろ、
ということである。

以上、長々と使節団出発前における政府内の派閥争いを中心に述べてきたが、
明治4年10月8日、岩倉具視は外務卿から右大臣へ2階級躍進し(岩倉は元々
大納言【明治2年職員令期における副首相格】だったので、躍進より元の地位に
復帰したという表現の方が適当かもしれない)同時に特命全権大使として、はるか
アメリカ合衆国を目指して横浜港を出発した。


参考文献

「百官履歴」(一) 日本史籍協会編
「岩倉使節の研究」 大久保利謙編 宗高書房
「明治維新政治外交史研究」 毛利敏彦著 吉川弘文館
「岩倉使節団」 田中彰著 講談社現代新書
「明治六年政変」 毛利敏彦著 中公新書
「大隈伯昔日譚」 圓城寺清著 (復刻版)
「大隈候八十五年史」(一) 大隈候八十五年史編纂会
「岩倉公実記」中巻 財団法人岩倉公旧跡保存会 (再版)
「大久保利通文書」第四巻 マツノ書店


★次号からいよいよ本命の「米欧回覧実記」を中心とした内容になります。


ご意見・ご感想はこちら saga@ace.ocn.ne.jp まで 

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