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2006/01/25

■幕末マガジン■

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  【幕末マガジン】 //  2006/1/25 //  Published by RyoMaX

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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

┣【1】幕末英雄の素顔
┣【2】往時雑感。
┣【3】明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」(2003/1/15 配信済み)

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【幕末英雄の素顔】
 第1回 「桂小五郎」      (執筆者:Mr.萌咲)
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読者のみなさん、こんにちは。

幕末は、後世に名を残す英雄が多く輩出されました。ただし英雄といっても私たちと
同じ人間です。失敗談や面白おかしいエピソードなども多く残されています。この
コーナーは、そんな幕末英雄の素顔をちょっと覗いてみたいと思います。

では、その第1回は長州藩の英雄、木戸孝允こと桂小五郎。「逃げの小五郎」と呼
ばれたほど、危機を避けるために逃げ回った時期がありました。

桂小五郎は、皆さんご存知のとおり、元治元年(1864年)の池田屋事件で、池田屋
での会合に遅刻してしまったことにより新撰組の襲撃という難から逃れることができ
ました。その後も京都に潜伏したわけですが、橋の下で乞食に扮装して潜伏活動を
続ける桂を芸者の幾松がおにぎりを差し入れして支援した話は有名ですね。

禁門の変勃発後、もう京都にはいられないと悟った桂は、面識のあった出石藩
(現兵庫県出石郡)出身の商人広戸甚助という人物の案内で、出石に向かって逃亡
しました。出石に向かう途中では船頭に扮装し、名前を卯左衛門と変名して関所を
なんとかかいくぐり、出石に到着したのです。さしあたり、桂は広戸家の菩提寺でも
ある昌念寺に潜伏しました。しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の
命令が出ていたほどで、出石の城下に滞在するには危険な場所でした。潜伏を始
めて2ヵ月後、とうとう会津藩の追っ手が出石にやって来たのです。「さあ、逃げ
ろ!」と出石より北にある兵庫県養父郡の西念寺という寺に潜伏場所を移しました。
更に今度は「寺に隠れるなど、あまりにも一般的。もっと見つかりにくい場所を」
ということで、一般の町家に潜伏先を移したそうです。

用心深い桂はこれでも安心できません。更に北へ潜伏先を移し、温泉で有名な城崎
に身を隠しました。城崎温泉に「松本屋」という温泉宿があり、そこを潜伏場所とし
ました。この旅館は現在でも「つたや」として営業をされています。人の出入りの多
い宿に紛れ込むことは、潜伏にはうってつけだったらしいです。ここでは、宿屋の
一人娘タキを身ごもらせたというエピソードも残っています。(ただ、城崎に潜伏し
た期間も短かったらしいのですが・・。)

さて、まだまだ移動は続きます。城崎での潜伏は短く、再び出石に戻ってきます。
まずは広戸の両親の家に世話になり、次に番頭も丁稚もいない荒物屋を開業しまし
た。 つまり商人に成りすまして潜伏したわけです。荒物屋にはひとりの女性がお
り、 前述の出石藩広戸甚助の妹で“八重”と言いました。桂は商売が出来るわけで
なく、商売自身は八重が行いました。当然、桂の身の回りの世話もです。こう
いった、広戸一家の献身的な世話で、毎日を過ごしたようです。潜伏の毎日で、
桂はやりきれない思いだったのかというと、案外そうではなかったようです。潜伏中
の桂は、子供の手習いや、好きな碁を打ったり、また賭博にもはまり、結構借金を
作ったとも言われています。

 慶応元年(1865年)2月、広戸が京都から幾松を連れて帰ってきました。幾松から
エネルギーをもらい、またそのころ長州藩でも奇兵隊が立ち上がって尊王攘夷派が
盛り返すというニュースも入ってきたため、再び気合が入った桂は、幾松を連れて
出石を離れていったのです。
広戸の妹八重は、桂の帰郷をさぞ悲しく思ったことでしょう。しかし、帰郷後長州藩
の 要職につき、更には明治維新後も高官であり続けた桂小五郎は、手の届かぬ
存在だったのかもしれません。
しかし、出石潜伏期間の約10ヶ月の間に出石だけで7箇所以上潜伏先を移り変わ
り、追っ手から逃れ不自由なく生活が出来たのも、出石藩の広戸甚助一家の支えが
あったからこそなのです。


ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします 
執筆者メールアドレス
moesaki@sky.sannet.ne.jp
執筆者HP
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/

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■往時雑感。       (執筆者:瀬田の唐橋)
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歩くということ。その1.

極月を迎え、日ごとに寒さが厳しくなっています。こんな時は、暖かい部屋で、
のんびりと読書をするのもまた楽しいことです。

最近、作家の佐伯泰英氏にはまっております。(密命シリーズ・居眠り磐音
シリーズ)江戸中期が時代設定となっていますが江戸の文化・風俗を知る
には良いかと思います。(勿論魅力は、それだけではなく読み始めたら止ま
らなくなります。)

 さて、この本を読んでもそうですが、昔の人は本当によく歩いたものだ、
と感じます。勿論、交通手段が、現代とは違うゆえ当たり前と言えば当たり
前ですが・・・、
それでも、現代比べ、足腰が強かったことでしょう。

幕末、多くの若者が勤皇の志のもと京を目指したわけですが、その行程は、
大変であったと推察します。例えば、今でこそ東京から京都まで新幹線で
2時間弱ですので遠いと言う感覚はありませんが、これは現代の感覚であり、
江戸時代では約2週間かかっています。国事に奔走する情熱が行動を
可能にしたものと思われます。

皆さんご存知の、吉田松陰先生も諸国遊歴をされていますが、その短い
生涯において、長崎、大阪、京、江戸、東北各地とそして青森にまで足を
延ばされています。知識・情報を得たいという情熱がこのような行動に
つながったものではないでしょうか。現代のように、座して情報を得る
時代ではなく、自分の目で見、自分の耳で聞くことが知識・情報を得る
手段だったのです。

坂本龍馬さんも同様に、鹿児島、長崎、下関、京、江戸と何度も行き来
をしています。
現代人の我々は、江戸時代とは比較にならない便利な交通手段を
もっています。
しかしながら、点の行動は出来ても、線の行動が出来ていないのでは
ないでしょうか。江戸から京へ2時間弱よりも2週間かけての行程が
多くの情報を、知識をもたらせてくれます。たまには、各駅停車でふら
っと自分の周辺の町に行ってみる・・・、そんな町並みを歩くなかで
今まで、得られなかった知識・情報・出来事に遭遇するのではないで
しょうか。

                             瀬田の唐橋

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■明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」  (執筆者:松ノ落葉)
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(2003/1/15 配信済み)

※正確に引用されるのなら、自由に転載いただくのを歓迎します。

明治4年(1871)11月12日、右大臣岩倉具視を全権大使とする総勢100名
余りの使節団及び留学生が横浜を出発し、1年10ヶ月にもおよぶ長い米欧回覧の
旅に出た。
この岩倉使節の使命は、安政5年(1858)に徳川政府が調印した旧条約(日米
修好通商条約)を改正するために、前もって欧米諸国を調査・研究することにあっ
た。ただし、条約改正が第一の目的ではない。あくまでも諸外国の良いところを
持ち帰ろう、という程度のものなのである。

岩倉を筆頭とする使節団を組織した背景には、安政5年の日米修好通商条約の
第13条を紹介する必要があるので、これを掲げておく。

※今より凡171箇月の後(即ち1872年7月4日に当たる)双方政府の存意を以
  て両国の内より1箇年前に通達し此條約ならびに神奈川條約(日米修好通商条
  約のこと)の内存し置く箇條及び此書に添たる別冊共に双方委任の役人実験
  (実検?)の上談判を尽くし補ひ或は改る事を得べし

※條約改正関係「大日本外交文書」第一巻(外務省)より作成。なお、
  「明治文化全集」第十一巻・外交篇の386ページにも同文が記されている。

ということで、安政の通商条約にはきちんと条約改正交渉の時期が明記されていた。
つまり、明治5年(1872)7月(日本の暦では5月)から各国と結んだ条約の改
正交渉が解禁となるのである。この問題に対して日本の外務省では、明治3、4年か
ら具体的な準備に取りかかっている。

まず、最初に「取調掛」の設置である。これは掛員を任命し、毎月6回の集会を行う
というものである。そして、明治4年3月には「各国条約改定御用掛」が設置され
た。これはどういうものかというと、内閣の中に条約改正の担当官を置く、というも
ので、大隈重信がその担当官となった。
大隈は外交実務経験もあり、条約改定御用掛という職責上から見ても条約改正交渉
の調査、使節派遣の発議を行うことは当然であったといえる。

よって、大隈は自ら使節の任に当たることを申し出て、政府はこれを了承した。
大隈自身この時を回顧し、「閣僚とても左したる異存なく、一応は余が発議に決せ
り。」と告白している。要するに、大隈が閣議において初めて使節派遣の議を主張
した時点では、大隈使節に内定していたのである。

しかし、それが一転して大隈使節に代わり岩倉使節へと転換するわけだが、この問題
を本格的に取り組んだ労作ともいえる「岩倉使節の研究」(宗高書房)の編者、大久
保利謙氏によれば、大隈が自ら使節となって問題解決に当たろうと決意をした裏には

「長崎におけるパークス(英公使)との談判の苦い経験から割り出して主張した〜」

と見解されている。

しかし、私はパークスとの談判以前、長崎の英学塾、致遠館(設立は慶応元年・18
65年)で、フルベッキ(オランダ系アメリカ人、しかし正規手続きをしなかったた
め法規上は無国籍)について、西洋の政治・法律・宗教・算術等を学んだ経験が、後
に外交や財政の衝にあたり、その手腕を発揮することができた由来であると私は
思う。その理由は以下の通り。

フルベッキは、今回の岩倉使節団の派遣問題にも密接な関係があることは、あまり
よく知られていないかもしれないので、簡単に説明しておこう。
フルベッキは長崎時代に佐賀藩の要人に知られ、大隈や副島からその人物識見が
信頼されて、維新後は政府御雇いに推挙され、明治2年(1869)3月、39歳の
時、東京に招かれ、翌4月から文部省雇いとして、その直轄の開成学校(12月に
大学南校ついで南校)の語学及び学術教師となった。フルベッキの東京招聘は
大隈の力であり、フルベッキは大隈にもいろいろ献策をした。
その代表的なものに、「ブリーフ・スケッチ」がある。この「ブリーフ・スケッチ」
は早い話が、旧条約締結国に使節派遣の必要を説いた意見書である。

大隈はその後、使節派遣問題が表面化すると「ブリーフ・スケッチ」を参考にして
「条約改正ニ付全権使節差遣理由書」(大隈文書・A925、未刊行)を政府に提出
している。そして、「条約改正ニ付全権使節差遣理由書」を参考に政府が使節派遣の
目的、方針を説明した正式な文書(「事由書」正式な題名はない)へと発展する。
要するに上記の「事由書」は元をただせば、フルベッキの「ブリーフ・スケッチ」に
行き着くという訳である。

なお、事由書の全文は「岩倉公実記」中巻に収められている。全文を紹介したいが
途方もない長文なので、省略する。


※ここで、なぜ大隈使節から岩倉使節へと転換されたかについて、まとめたいのだ
  が、ここまででかなり長い文章となってしまったので、省略するが別の機会を設
  けて後で説明していきたい。この問題について、毛利敏彦氏による研究論文「岩
   倉使節団の編成事情」(『明治維新政治外交史研究』)があるので紹介してお
  く。

      
最後に岩倉は使節内定後、フルベッキと何度も会談し、非常に密接な関係へと
なってゆく。
その後、フルベッキは岩倉使節は自分が2年前に提出した建白書(「ブリーフ・ス
ケッチ」)によって組織されたという自負を持つに至り、そのことを友人の
J.M.Ferrisに書き送っている。


参考文献

條約改正関係「大日本外交文書」第一巻 外務省
「明治文化全集」第十一巻(外交篇) 明治文化研究会
「百官履歴」(一) 日本史籍協会編
「岩倉使節の研究」 大久保利謙編 宗高書房
「岩倉使節団」 田中彰著 講談社現代新書
「明治六年政変」 毛利敏彦著 中公新書
「大隈伯昔日譚」 圓城寺清著 (復刻版)
「大隈候八十五年史」(一) 大隈候八十五年史編纂会
「大隈重信関係文書」一巻 日本史籍協会編
「岩倉公実記」中巻 財団法人岩倉公旧跡保存会 (再版)


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