2005/11/27
■幕末マガジン■
☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★ 【幕末マガジン】 // 2005/11/27 // Published by RyoMaX ★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆〜★〜☆ I_N_D_E_X____________________________ マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、 明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。 ┣【1】幕末日本のきら星 ┣【2】往時雑感。 ┣【3】中牟田倉之助と文久2年上海視察(2002年7〜8月配信済み) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■幕末日本のきら星 <お詫びと訂正> (執筆者:半平太)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 今月は都合により「幕末日本のきら星」を休載させていただきます。 誠に申し訳ございません。 なお先月掲載しました「幕末日本のきら星<村田清風>」につきまして、読者の 方から非常に有意なご指摘をいただきました。 ここに訂正してお詫び申し上げます。 *---* 以下、先月掲載文章 さらに清風は下関海峡に目をつけました。この頃の下関海峡は西国諸大名にとっ ては商業・交通の要衝でした。豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用して、 越荷方を設置し、下関を通過する貿易船を保護すると同時に、その越荷方を通じ て諸藩との貿易を活発化させたのです。このことは下関を一大商業都市へと発展 させることとなり、藩として莫大な利益を生む都市へ変貌させました。 *---* 以上、先月掲載文章 この表現の中で、「豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用」と記載しており ますが、正確には「登用」ではなく、「越荷方の権利を許可」という表現の方が 的確なようです。この「登用」の表現では「藩士に登用」と誤解を与える表現で した。 またこの「越荷方の権利を許可」された豪商については、白石正一郎や中村半左 衛門だという確定史料はなく、「特定の豪商」に越荷方権利が与えられた、とい うのが実態のようです。特に白石は、この時期は新興商人であり、村田清風の行 った改革の中でメリットを得た、と言うのは可能性としては低いようです。 また「下関を通過する貿易船を保護する」ということが、文面から「越荷方」の 仕事のように受け取れますが、「越荷方」はあくまで「商売」をすることが目的 の役務であり、貿易船を保護する役割はありませんでした。 さらに掲載文章では、下関について「利益を生む都市へ変貌」という表現から、 村田清風の改革によって下関は発展した、という風に受け取れますが、改革以前 から下関は大きな貿易都市であり、利益を生む都市でした。 下関は正確には長州支藩である「長府藩」に属しており、長府藩にとっては改革 以前から下関は重要な貿易都市でした。これが村田清風の改革によって長州藩の 本藩である「萩藩」も、この下関に「越荷方」を設置することにより莫大な利益 を挙げてさらに下関が発展したのであって、村田清風の改革=萩藩の下関進出に よって下関が発展した、というのは間違いです。 *---* 以下、先月掲載文章 清風は、財政の改革と平行して人材育成を積極的に行いました。1843年に学 問所である三隅山荘尊聖堂を建設、1849年には藩校の明倫館の拡大も行ない、 武士層、庶民層問わず教育を受ける風潮を作りました。これは今考えるとなんで もないことですが、当時は教育は武士のみが受けるもの、という考えが当たり前 だった時代です。その中で庶民層まで教育を、という考え方は、時代を1歩も2 歩も先をいった考え方であったのです。そういう意味では私塾の「三隅山荘尊聖 堂」は、有名な吉田松陰の「松下村塾」の走りといえます。 *---* 以上、先月掲載文章 上記表現では、村田清風が教育改革を行ったことにより、長州藩の教育風土が出 来上がった、という風に受け取れますが、長州藩では村田清風に限ったことでは なく、非常に教育熱心な藩でした。 確かに村田清風の行った教育改革は素晴らしいものではありましたが、一般的に も庶民層に「寺子屋」が多く存在しており、長州藩の教育レベルは一般的な他藩 よりも進んでいたようです。長州藩が「長防臣民合議書」などの文書を、一般市 民に向けて配布していたのも、その教育範囲の広さを物語るものであるそうです。 そういった「下地」があったからこそ、村田清風も教育改革や人材登用を積極的 に行うことが出来たともいえそうです。 以上、誤解のあった表現・文章につきまして訂正させていただきます。 前回、村田清風を執筆するにあたって、色々な書籍を調査し、HPを閲覧するに したがって、村田清風の業績に感心するあまり、真実よりも大げさな表現をして しまったかな、と反省しております。 今後とも、(一般的な)歴史の隙間に埋まってしまった人物にスポットをあてて、 真実の業績を「分かり易く」伝えていけたら、と考えております。 よろしくお願いいたします。 ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします。→ kazu-ni@est.hi-ho.ne.jp ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■往時雑感。 (執筆者:瀬田の唐橋)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 沖縄の幕末 幕末は、西から東へと戦いの場が変わり、北海道は五稜郭で終焉となっています。 実は、先日沖縄を訪れる機会があり、この地での幕末時代が気になり、少し調べて みました。すると、意外な事実を知ることになりました。 1853年ペリーの来航により、1858年日本はアメリカと通商条約を結んでいます。 しかし、その前にアメリカは、沖縄(琉球)と通商条約を結んでいたのです。当時、 アメリカを含め多くの国が、日本に入る前に沖縄(琉球)にその足がかりをもとうと していたのです。 もちろん当時は、沖縄(琉球)は、薩摩の支配下になっていましたが、アメリカとして は、日本とは別の国であるとの認識があったようです。それゆえ、日本で初めてアメ リカと条約を結んだのは、沖縄(琉球)と言えます。 また、琉球という国は、1429年(室町時代中期)に三つの地域が統一された国 で、 江戸時代には、薩摩の介入によりその支配下に置かれ、薩摩はこの国を媒介 として中国との密貿易を行い、巨額の利益を上げたといいますから、幕末の原動力 (財力)はこのあたりから来ているようです。 海青く、雲白く、南のリゾート地沖縄もまさに幕末の歴史にかかわっていたのです。 ちなみに、映画好きの人ならよく御存じかと思いますが、江戸時代の映画で将軍に 対し、琉球から使節が訪問するというシーンがありましたが、薩摩藩は、密貿易の 事実を隠すため、その使節の体裁を中国風にし、あくまでも外国の使節を装ったそう です。薩摩藩は、異国の沖縄(琉球)を従えているという権威をことさら幕府に強調し、 薩摩藩の力を鼓舞したものと思われます。その後、もともと、中国(清)に対し ても朝貢をしていましたので明治政府になってから沖縄の支配権をめぐり紛争 になり、日清戦争の原因にもなったのが沖縄でした。それから先の沖縄は日本で 唯一、第2次大戦で地上戦があった県ですし、戦後アメリカの統治も受けていた 県です。 そういう意味では、その立地が、悲しい歴史を生み出したのかもしれません。 瀬田の唐橋 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■中牟田倉之助と文久2年上海視察(1) (執筆者:松ノ落葉)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (2002年7月20日配信済み) 文久2年(1862)、中牟田は幕府貿易事情調査団の佐賀藩代表に選ばれ、 長州の高杉晋作等と共に上海に派遣された。そこで、高杉との交流や上海視察の 内容を紹介したいところだが、中牟田倉之助の人物について少し触れておこうと 思う。 中牟田は天保8年(1837)生まれ、8歳で藩校弘道館に入学、19歳で蘭学寮に 入学する前までは、ごく一般的な教育を受ける。蘭学寮を1年で修了したのち、 20歳で長崎海軍伝習所に入る。長崎海軍伝習所で約3年を過ごした後、藩命に より※三重津海軍寮にて航海術を教える。そして文久2年に上海に赴く訳だが 上海での詳しい記述は来月紹介することとする。 ※三重津海軍寮・・・安政5年(1858)三重津(現在の佐賀県川副町早津江) に船手稽古所を設置し、海軍の技術向上のため訓練を行った。佐賀藩海軍発祥 である。 「鍋島直正公伝」「佐賀藩海軍史」「松乃落葉」等の史料に詳しい記述が見られ る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ■中牟田倉之助と文久2年上海視察(2) (執筆者:松ノ落葉)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ (2002年8月26日配信済み) 中牟田は幕府貿易事情調査団の佐賀藩代表に選ばれたことは先月述べたが、 中牟田の他に佐賀藩から3人が上海に派遣されている。他の3人は、納富介次郎・ 深川長右衛門・山崎卯兵衛である。長州の高杉晋作は、このことについて、 「佐賀、薩程にも手段は付ぬとも随分追々航海互市之事に手を付候様子なり」 と、高杉は佐賀藩の海外情報に対する関心の高さを薩摩藩と比較しているが、 注目すべき点は、この後長州藩は井上聞多・伊藤俊輔等の留学生を海外に 派遣するわけだが、高杉が上海視察において他藩の海外政策を理解していた からこそ、自藩が推し進める留学生派遣に賛成したものと思う。高杉にとっても この上海視察は海外に目を向ける大きな意味を持つ旅であった。 さて、高杉が佐賀藩以上に高い評価を下した薩摩藩は、五代才助を水夫として、 上海の旅に加えている。 五代は、かつて長崎海軍伝習所において中牟田と一緒に学んだ。のちの五代 友厚である。今回、上海へは君命により軍艦・運送船買い入れのために参加 していた。 中牟田は上海滞在中いくつかの視察旅行が行われたが、主に高杉・五代と ともに行動した。 文久2年(1862)4月29日、千歳丸は長崎を出航し、およそ1週間の航海の 末、5月6日上海に入港した。ここで中牟田や高杉は、港の繁栄ぶりに度肝を 抜かれたようである。 中牟田の日記には「洋船百艘、唐船千艘あり、誠に存外の賑わいにて候・・・」 高杉の日記には「ヨーロッパの商船軍艦数千艘碇泊し・・・」 と、若干の相違はあるものの江戸や長崎とは比べものにはならないほどの大港 であることは間違いないようである。 中牟田らが上海滞在中、最も関心のあった出来事は太平天国の暴徒の到来で あったろう。中牟田・高杉の日記はもちろん、前述の納富介次郎の紀行文にも しきりに登場している。 中牟田らの上海滞在の時期、この太平天国の乱はどういう時期に当たって いたかというと、当時の上海は長髪族の攻撃にさらされて大変危険極まりない 状態にあった。清朝官軍とイギリス、フランス、及び上海で募集した常勝軍が 協力してこれを防いでいた。この反乱は清朝の道光30年(西暦1850年) 6月、広西省桂平縣金田村において蜂起した太平天国運動(長髪族の乱) の進攻が咸豊3年(1853)5月、南京にまでおよび、やがて南京を占領し、 南京を都と定めた。 この時、イギリス、フランス、アメリカ等の諸外国は上海道台等清朝官憲から 援助を求められたが、太平軍の将来に期待をかけていたので、清朝側に 加担することを承諾せず、中立を堅持して上海が攻撃を受けるような場合は これを防御すると言明した。上海はその後、数年間は太平軍の攻撃を受けずに 過ぎていったが、太平軍が上海方面に対して活発に動き出したのは、中牟田 らを乗せた千歳丸が上海へ渡った前々年の咸豊10年(1860)のことであった。 先に中立を堅持すると言明した諸外国であったが、上海が攻撃を受けることに なると、自らの権益が侵害されることになり、これをそのまま黙視することは できず、諸外国は態度を一変し、中立を翻し清朝側に立ち、太平軍の上海侵略 を阻止することとなった。ちょうど日本の文久2年初頭のことである。 また、諸外国の態度の一変は、咸豊10年(1860)イギリス・フランス連合軍が 北京に侵入したことにより、危機感を抱いた清朝政府がイギリス・フランスに 対して和睦を申し入れ、北京条約を締結したことも無関係ではないだろう。 中牟田倉之助と文久2年上海視察(3)に続く 参考文献 中村孝也著 「中牟田倉之助伝」(復刻版) 大空社 「文久2年上海日記」 全国書房 アンドリュー・コビング著 「幕末佐賀藩の対外関係の研究」 田中彰著 「開国」 岩波書店 宮永孝著 「高杉晋作の上海報告」 新人物往来社 「長崎游學の標」 長崎文献社 藤井哲博著 「長崎海軍伝習所」 中公新書 杉本勲編 「近代西洋文明との出会い」 思文閣出版 ご意見・ご感想はこちら saga@ace.ocn.ne.jp まで ===================================================================== END _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ [メルマガ名] 【幕末マガジン】 [発行者] RYOMAX http://page.freett.com/ryomax/ このメールマガジンは、「まぐまぐ」「melma!」「めろんぱん」を利用して 発行しています。 「まぐまぐ」マガジンID:0000061080 http://www.mag2.com/ 「まぐまぐ」登録・解除 → 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