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2005/10/18

■幕末マガジン■

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  【幕末マガジン】 //  2005/10/18 //  Published by RyoMaX

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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

┣【1】神戸海軍操練所・前後のはなし 網屋吉兵衛その5
┣【2】幕末日本のきら星 <第六回:村田清風>  
┣【3】往時雑感。
┣【4】人権の父・江藤新平(4)(2002年5月15日配信済み)
┣【5】イベント情報

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■神戸海軍操練所・前後のはなし その5
  操練所の学び舎のリサイクル (執筆者:Mr.萌咲)
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 勝海舟や坂本龍馬らが活躍した神戸海軍操練所は文久3年(1863)に建設計画が
出され、元治元年(1864)開校、慶応元年(1865)閉鎖と活動期間はわずかなもの
であった。疾風の様に神戸にやってきて疾風のように去っていった神戸海軍操練
所。その活動期間の前後にも、操練所にまつわるドラマが展開されている。この
コーナーは、あまり知られていない「神戸海軍操練所・前後のはなし」を紹介する。

◆操練所学び舎のリサイクル◆

 龍馬が航海術を学んだ神戸海軍操練所は、元治元年(1964)に竣工したものの
慶応元年(1965)に閉鎖されるという短い期間の活動だった。操練所は膨大な広
さの敷地を利用しており、その中には書生たちが学ぶ立派な学び舎があった。そ
の学び舎は操練所閉鎖後もしばらくは撤去されずに、神戸の開港に、更には子供
たちの教育に役立ったのである。今回は、操練所の建物が何に利用されたかを紹
介したい。

 操練所が閉鎖された後、操練所の建物はまず神戸開港に向けた準備のための仮
事務所に使用された。慶応3年(1967)7月に兵庫奉行の柴田日向守が着任と同
時に使用し始めたのである。
 次に慶応4年(1968)神戸開港と同時にイギリスの領事館として使われること
となった。かの有名なイギリス総領事パークスも操練所の建物で生活をした。慶
応4年に起きた神戸事件(三宮事件)でパークスが港に停泊する各国の軍艦に対
し神戸制圧の指令を発信したのは、この操練所からだった。
しかし操練所跡をイギリスに貸与したことで、後にいざこざが生じてしまう。操
練所が建てられていた場所が、外国人居留地外であったこともあり、操練所跡の
賃借には特別な協定を結ばなかったらしい。明治3年(1970)に政府が操練所跡
を鉄道用地にするためにイギリスに返還を求めたが、あいまいな協定を盾に拒否
される。一時期、敷地の一部を国の鉄道員の寮に使うこともあったようだが、気
が変わったイギリスに明渡しを命じられたりしたようである。

 その後、明治7年(1974)に国が正式にイギリスへ引き渡そうとすると今度は
「領事館を新築するから今の建物を取り壊せ。」と要求される始末。建物を取り
壊した後も土地の境界などでもめ続け、結局イギリスは居留地内に領事館を新築
して、操練所の建物は空き家となってしまった。

 取り壊した建物は民間に払い下げられることとなった。恐らく神戸海軍操練所
を建設していた頃に勝海舟を経済的に支援した神戸の豪商生島四郎太夫が買い
取ったのではないかと考える。生島四郎太夫の地元である神戸平野(現在の神戸
市兵庫区平野)の地にあった湊山(ぞうざん)小学校の建物が手狭になったた
め、明治8年(1975)操練所の建物が移築され校舎として使われたのだ。現在も
神戸市立湊山(みなとやま)小学校として操練所校舎からの歴史が脈々と受け継
がれているのである。

なお、操練所の遺構は、屋根の瓦と破風の一部が神戸市立博物館に保存されてい
る。

参考文献
(1) 神戸市教導課著 勤皇遺烈物語 
(2) 神戸市立湊山小学校 創立120周年誌
(3)土井晴夫氏著 神戸外国人居留地略史

ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします 

執筆者メールアドレス
moesaki1115@yahoo.co.jp
執筆者HP
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/

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■幕末日本のきら星 <第六回:村田清風>      (執筆者:半平太)
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今回から数回にわたり、「財政改革」に邁進した人物を取り上げてみたいと思い
ます。この「財政改革」。いつの時代でも必要とされる反面、大変な業務である
ためになかなか遂行する人物が現れず、また遂行した人物にはそれほどスポット
があたりません。

激動の幕末。海外との交流や、明治維新という革命を成し遂げるためには、莫大
な費用が必要でした。にもかかわらず、当時金儲けは、武士として忌み嫌われる
行動でした。革命を遂行した華やかな表舞台(金を使う立場)がある反面、それ
ほどスポットのあたらなかった、裏方(金を捻出する立場)に注目してみたいと
思います。


<村田 清風(むらた せいふう)> (1783年−1855年)
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★ここが「きら星」 → 困窮にあえいでいた長州藩の中で、米中心の財政経済か
           ら商業・流通を重視した経済への転換を図り、倒幕活動
           への大きな基盤となる巨万の財産を作り上げる。また新
           しい次代を担う人材を多数育て上げる。
           桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、伊藤博文らの活躍も
           村田清風なしではありえなかったかも?


村田清風は、天明3年(1783年)、長州藩長門大津郡にて萩藩士で代官を勤
める村田光賢の長男として生まれ、14才で藩校である「明倫館」に入学し文武
の道を修めました。平均的な中級藩士といったところでしょうか。

長州の明倫館といえばある程度の「家格」も必要であり、ある程度優秀な頭脳を
持っていないと通うことは出来ません。清風はこの明倫館の中でも非常に優秀で、
学費免除(今で言う「特待生」でしょうか)のうえ、さらにその優秀さを認めら
れ「明倫館書物方」となり、教育者としての頭角を現したのでした。

さらに清風に転機が訪れます。その優秀さが評判となり、1808年、時の毛利
9代藩主・毛利斉房の小姓として仕えることとなったのです。以降、13代藩主・
毛利敬親まで要職を歴任します。江戸封建社会においては「身分格差」の確立が
大きな理念の一つとなっていました。この清風の要職抜擢は、封建社会の中にあ
って身分を越えて優秀な人材の登用を行ってきたという、長州藩の特長をあらわ
すものですね。

この小姓務めで人脈を得て、さらに藩の肝いりで江戸遊学をし、塙保己一などか
ら兵法や海防策を学び、さらなる人脈・知識を広げていったのでした。

塙保己一といえば当時の有名学者。盲目の国学者として知られ、国学に多大なる
影響を与えた「群書類従」を編纂し、有名な「大日本史」の校正も手がけた国内
第一等の人物です。

そのような超有名人に教えを蒙ることが出来たのも、長州藩という大きな後ろ盾
があったこと、その長州藩の積極的な人材登用があったからこそです。「身分差
別」の愚鈍さを感じると同時に、その制度を確立・推進する徳川幕府が衰退して
いったことは、当然の成り行きだったことを改めて感じてしまいます。

1819年、清風は村田家の家督を継ぎ、祐筆添役、当職手元役、撫育方頭人を
歴任します。そしてついに1838年、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実
権を掌握するにいたるのです。現代風に言うと、日本の大蔵大臣とアメリカ大使
を兼務する人物、といったところでしょうか。とんでもない権力です。

清風はこの権力を生かして藩政改革を遂行します。世に言う「天保の改革」です
ね。この「天保の改革」、幕府をはじめ諸藩が思うような成果を挙げられない中、
村田清風率いる長州藩は驚くべき成果を挙げます。時の藩主・毛利敬親は、人に
よっては「愚鈍な藩主」とも評価される人物ですが、「そうせい候」とあだ名さ
れるように、家臣からの進言を、何でも「そうせい」と容認する人物であったと
言われています。別の見方によっては「名君」と言えるかもしれません。清風は
そういった藩主であったがために、遠慮なく存分にその手腕を振るうことが出来
たのです。

清風の行った藩政改革は時代の先端をいくものでした。まず莫大な借金を37年
分割で支払うと宣言しました。これは借金先延ばしによる財政確保はもとより、
現実的な期間の返済であることから、借金を踏み倒さない、という長州の信用を
高めることにも効果がありました。その当時は藩による「借金踏み倒し」という
ことが頻繁に行われていたので、長州の取った処置は非常に異例で、商人をはじ
めとする流通社会を意識した英断であったといえます。この信用は、当時の「日
本経済」の中心である大阪や京都での活動を、どれだけやり易くしたか計り知れ
ません。

またこれまで藩の専売制にしていた、特産物の蝋に対して、清風はこの専売制を
廃止し、商人による自由な取引を許しました。その代わり、商人に対しては運上
銀を課税することで収益を得たのです。商人による自由な取引を行うことは、そ
の商品市場の拡大を意味します。この販売制度によって年々大きく市場が拡大し
伴って税収の拡大につながったのです。

さらに清風は下関海峡に目をつけました。この頃の下関海峡は西国諸大名にとっ
ては商業・交通の要衝でした。豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用して、
越荷方を設置し、下関を通過する貿易船を保護すると同時に、その越荷方を通じ
て諸藩との貿易を活発化させたのです。このことは下関を一大商業都市へと発展
させることとなり、藩として莫大な利益を生む都市へ変貌させました。

その下関周辺で塩や紙、海洋産物産業が発展し、流通の要である下関を利用して
間髪いれず市場へ流通させる。このスピード感あふれる流通経路を確立し、産業
が発展するのはもちろんのこと、「流通社会」による税収入拡大という相乗効果
によって、長州藩は莫大な財産を有する日本屈指の雄藩として、その歩を進め始
めるに至ったのです。

清風は、財政の改革と平行して人材育成を積極的に行いました。1843年に学
問所である三隅山荘尊聖堂を建設、1849年には藩校の明倫館の拡大も行ない、
武士層、庶民層問わず教育を受ける風潮を作りました。これは今考えるとなんで
もないことですが、当時は教育は武士のみが受けるもの、という考えが当たり前
だった時代です。その中で庶民層まで教育を、という考え方は、時代を1歩も2
歩も先をいった考え方であったのです。そういう意味では私塾の「三隅山荘尊聖
堂」は、有名な吉田松陰の「松下村塾」の走りといえます。

また清風は確固たる一つの「指導原理」の中で教育を行っていました。それは、

『今は太平無事だか、幕府政治の衰乱と洋夷の東亜侵略とに因を発して、早晩戦
 争が起きる。戦争がおこった場合には、長州一藩の力をもってしても、その戦
 争に勝ちぬいて、わが祖国を護持し、国威を海外に宣揚せねばならぬ』

というもので、まだ幕府の威光盛んな時期において、驚くべき先見の明といえる
でしょう。また「長州一藩の力」と言っているように、後の高杉晋作らに見られ
る長州人の独立志向、気概の強さがにじみ出ています。

こういった財政改革、人材開発の2本柱の「藩政改革」を遂行していった村田清
風ですが、清風63歳の時に隠居、生家である三隅山荘に帰り、隠居の身となり
ました。その後は、清風の弟子である家老の周布政之助がその後を引き継ぎ藩政
改革を断行していきます。1955年、清風は、その周布の要請により再び政治
の表舞台に戻ってきますが、椋梨藤太ら、いわゆる俗論党の台頭などもあって、
再びの改革には失敗、同年持病の中風により、失意のうちに73歳の生涯を終え
たのでした。

その後の長州藩は、弟子の周布政之助が中心となって藩内外の志士を指導し、安
政以後の難局に対処しましたが、1964年、蛤御門の変後、周布はその責任を
一身に受け自刃しました。その志は、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝充、伊藤博文
らに受け継がれ、明治維新という大事業へ発展していったのでした。

村田清風。彼がいなかったら幕末の雄藩・長州藩の存在はありえませんでした。
改めて大いに評価すべき人物であることは間違いありません。


ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします。→ kazu-ni@est.hi-ho.ne.jp

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■往時雑感。       (執筆者:瀬田の唐橋)
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播磨の新撰組。
亀山本徳寺と聞いて、何かピーンと来る方は相当の歴史通か、宗教通か。
昨年の、NHKの大河ドラマで有名になった「新撰組」にまつわるお寺です。
山陽電車・亀山駅下車5分の位置にあります。(姫路の手前)お寺に行く道をしばら
く行くと何やら賑やかな音が聞こえてきました。蓮如上人ゆかりの地ゆえ、静かなイ
メージをもっていたのですが、ここは、日曜日には、朝市を行っているようです。し
かし、ただの朝市ではありません。素人・プロの歌手がカラオケで歌っているではあ
りませんか。賑やかな音はこのカラオケでした。蓮如上人が民衆へ真宗を伝えるため
直接民衆の中に入っていった事の考えが、平成の時代に息づき、こういうわかりやす
い人寄せ的事柄になっているのかなと、つい思いました。また、朝市も食べ物屋の屋
台をはじめ、何でもありで骨董屋さんまで店を出しています。この朝市だけでも行っ
てみる価値はあるかも。(但し、後日、午後に行ってみましたら、静かなお寺でし
た。)結構こういうところに掘り出し物があるのでは?とお寺を見る前に朝市に目を
とられてしまいました。
さて、この本徳寺の本堂が京都西本願寺の北集会所からの移築で、この本堂こそ幕末
新撰組の屯所であったと言う事で、今回訪ねたわけです。このお寺は、街道に面して
おり参勤交代の大名が通るゆえ、大名が気を遣うといけないということで、門から入
るとすぐ塀があり(目隠し塀)参勤交代の大名から寺の中が見えないようにしてある
というとてもユニークなお寺です。また、戦国時代を思わせる太鼓楼は、姫路城の天
守のモデルともいわれております。ちなみに、お寺の見学は無料です。
さて、本堂に上がり御参りを済ませ、右側の廊下に出ますと・・・、ありました、数
本の柱にかなり大きな刀キズ。ご存知の通り新撰組の隊士がつけたものだそうです。
お寺の柱を傷つけるとは、まさに仏も恐れぬ所業かと思われます。こんなことをする
から嫌われる訳です。新撰組は、西本願寺側からの要望でこの後、京都駅近くに屯所
を変えたそうです。(リーガロイヤルホテル京都あたりとか)
NHKの「新撰組!」をご覧になられた方は、記憶を辿ってほしいのですが、こんな
シーンが番組中ありましたね、隊士が、大勢で剣術の稽古をしていて、それを、沖田
や井上が本堂の廊下から見ている。つまりこのシーンこそ、この亀山本徳寺で撮影し
たとのことでした。
なお、なぜ西本願寺の北集会所が亀山に移築されたかというと、当時、本徳寺が、火
災にあったからだそうです。それも新築の時に・・・。蓮如上人ゆかりの寺でもある
ので移築を決めたとの事。何と3年かけての移築だったそうです。
幕末は、京都が中心で話が、展開するケースが多く、つい京都に足をむけがちです
が、播磨に幕末にゆかりの地があることも是非ご記憶ください。
                                 
瀬田の唐橋

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■人権の父・江藤新平(4) (毛利敏彦) ※2002年5月15日配信済み
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6.国民の安堵

 江藤は、司法卿就任直後の5月27日に今の最高裁判所にあたる司法省裁判所を設置
したが、まず法廷での取り扱いにおける身分的差別を撤廃して士族も平民も一律平等
とした。「法の前の平等」を目に見える形で実現したのである。また、初めて裁判公
開にも踏み切った。公正な裁判を期すためには裁判現場を公開して人々の監視にさら
すことが有効だと考えたからだ。それまでの密室裁判がともすれば誤判を生んで人権
を損ねがちだっただけに、公開は画期的な英断だった。このころ新聞なるものが生ま
れ新聞記者という職業が出現したが、江藤はその新聞記者たちを法廷に招いて審理を
公開したのである。

 司法省裁判所に続いて各地に裁判所が順次設置され、府県庁から裁判事務を引き継
いで行政と司法との組織的な分離が着々と進められた。

 また、8月3日には日本司法制度の基本体系を定めた記念碑的大法令である「司法職
務定制」が制定されたが、それは、江藤の陣頭指揮のもと、お雇いフランス人法律家
ジョルジュ・ブスケの協力をえて、司法省あげての夜を日に継ぐ精励のすえにまとめ
られた一大労作だった。この「定制」によって、判事、検事、弁護士といういわゆる
法曹三者の仕組みと役割が正式に定められ、日本の近代司法体制の骨組みが整えられ
た。ここに、日本史上初めて行政と司法の区別が明確にされ、司法権独立の
礎石が据えられ、「法の支配」実現への巨歩が力強くスタートしたのである。

このように司法制度の建設に努める傍らで、江藤は、人民権利保護のために様々な手
立てを工夫し、実施した。例えば人身売買の禁止、仇討ちの禁止など、あるいは有名
な「司法省達第四十六号」で地方官が人民の権利を損なったときは裁判所へ訴えるこ
とができるとしたこともそうである。

 明治6年(この年から新暦となる)初め、江藤が太政大臣三条実美にあてて司法の
意義を論じた長文の意見書があるが、その冒頭で、「国の富強の元は国民の安堵にあ
り、安堵の元は国民の位置を正すにあり」と、いみじくも述べている。すなわち、国
家繁栄のためには国民が安心して暮らせるようにすべきであり、国民が安心して暮ら
せる元は「国民の位置を正す」つまり国民の権利義務が国家によって保障され法的に
確定していることだと。言い換えれば、法的権利義務の確定によって国民が安心して
生活できることこそ国家富強の根元だ、という論理である。新しい国つくりの鍵はま
さに司法の整備による人権の確立だというのが、江藤の固い信念だったのである。

 初代司法卿江藤新平の超人的大奮闘のおかげで、日本人の人権と日本国の司法権は
名実ともに画期的前進を遂げた。19世紀後半、近代日本の草創期にかくも素晴ら
しい天才的司法卿に恵まれたのは、われわれ日本人全体にとって大きな幸運だった。


おわりに 

ところが、その後江藤の運命は急転した。明治6年4月には政府最高位の参議に就任し
たが、10月に西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣ら各参議とともに政府から
退いた。「明治六年政変」である。「人権の父」の下野は日本国民全体にとって計り
知れない一大損失だった。

この政府首脳大分裂事件は、長い間「征韓論政変」と呼ばれ、征韓論の西郷隆盛派と
非征韓論の大久保利通派との衝突によって引き起こされた事件で、江藤はそれに連累
したのだとされてきた。ところが、そのような解釈は、歴史の事実と食い違ってい
る。そもそも、この時期に参議筆頭西郷隆盛が閣議など公的な場で征韓を主張したこ
とを示す証拠は発見されていない。逆に西郷が閣議で朝鮮国との平和的道義的交渉を
主張したことを示す確実な証拠がある。要するに、征韓論政変説は事実の検証に耐え
られない妄説である。政変の真相は、深刻な権力闘争つまり岩倉具視・大久保利通コ
ンビによる政敵追放の陰謀だった。詳しくは拙著『明治六年政変』(中公新書)を参
照いただきたい。

無法にも政府を追われた江藤は、板垣退助らとともに「民撰議院設立建白」を掲げて
自由民権運動を旗揚げした。

ところが、その直後明治7年2月のいわゆる「佐賀の乱」に巻き込まれて、江藤は不幸
な最期を遂げたのである。実はかれは、退官後間もなく東京郊外の豊島郡柏木村(現
在は新宿区)所在の広大な旧大名下屋敷跡地を購入していた。ここに青少年教育の学
校を設立するつもりだった。この一事だけでも、かれに反乱の意図がなかったのは明
白だ。

   真相は、不穏な動きをみせる佐賀士族を鎮撫するために江藤が帰郷したのを、
邪推した大久保利通が、まだ反乱行為が起きていないにもかかわらずいきなり軍隊
を送ったからだ。佐賀士族は自衛の抵抗を余儀なくされ、江藤は反乱首謀者の濡れ
衣を着せられて死刑に処せられたのである。「人権の父」の不慮の死は日本人全体
にとってこの上ない痛恨事だった。

とはいえ江藤新平がこの世を去って130年、かれが苦心して蒔いた人権の種はいまや
立派に花開き、その不滅の功績は日に日に輝きを増している。いまこそ「人権の父」
への思いを新たにし、その生涯かけた理想を全員で受け継いでいこうではないか。

【参考文献】毛利敏彦著『江藤新平』(中公新書)1987年、増訂版1997年、

 筆者紹介 

 毛利敏彦(もうり としひこ) 

略歴
1932年生まれ。九州大学大学院博士課程修了、法学博士
(専攻・日本政治史)。
大阪市立大学教授・法学部長、広島市立大学教授・国際学部長等歴任。

現在
大阪市立大学名誉教授、明治維新史学会顧問(元・会長)等。

主著
『明治維新政治史序説』(未来社)、
『明治六年政変の研究』(有斐閣)、
『大久保利通』
『明治六年政変』
『江藤新平』
『台湾出兵』
(以上、中公新書)、
『岩倉具視』(PHP研究所)、
『明治維新の再発見』『明治維新政治外交史研究』
(以上、吉川弘文館)等。

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■イベント情報
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◇全国初の龍馬座像

 座った姿の坂本龍馬像が完成―。京都市東山区の霊山歴史館が龍馬生誕170
年を記念して龍馬銅像を作成。
龍馬の立像は全国のゆかりの地に建立されているが、座像は初めて。
来月13日から京都市東山区の霊山歴史館で開く特別展「龍馬とめぐる人びと」で
一般公開される。
会期は11月20日まで。

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                             END

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