■幕末マガジン■
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【幕末マガジン】 // 2005/8/22 // Published by RyoMaX
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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。
┣【1】神戸海軍操練所・前後のはなし 網屋吉兵衛その3
┣【2】幕末日本のきら星 <第5回:浜田彦太郎(ジョセフ彦)>
┣【3】人権の父・江藤新平(2)(2002年5月15日配信済み)
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■神戸海軍操練所・前後のはなし 網屋吉兵衛その3 (執筆者:Mr.萌咲)
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勝海舟や坂本龍馬らが活躍した神戸海軍操練所は文久3年(1863)に建設計画が
出され、元治元年(1864)開校、慶応元年(1865)閉鎖と活動期間はわずかなもの
であった。疾風の様に神戸にやってきて疾風のように去っていった神戸海軍操練
所。その活動期間の前後にも、操練所にまつわるドラマが展開されている。この
コーナーは、あまり知られていない「神戸海軍操練所・前後のはなし」を紹介する。
◆網屋吉兵衛その3◆
網屋吉兵衛の営む神戸の船蓼場を興味深く見つめる男は、徳川幕府海軍奉行
並、勝海舟であった。
勝海舟は、この神戸が将来世界を代表する港となる可能性を見抜いていた。海岸
沿いの水深が深く大型船が寄港しやすいこと、西にある岬が西風を遮り強風が吹
きにくいことなど、大型港となる要素が揃っていた。そして海舟はこの場所をま
ずは海軍士官の養成拠点としたいとの思いを強く抱くようになったのである。
また海舟は、吉兵衛のこれまでの努力・功績にも大いに感動し、関心を持った。
海舟は吉兵衛を呼び、ぜひ船蓼場を借用したいと申し出た。しかしいくら幕府の
要職につく人物からの要請でも、容易に首を縦に振ることは出来なかった。命を
懸けて築いてきた船蓼場である。そう簡単には他人の手に渡すことは出来ないと
いう思いであった。海舟も負けずに吉兵衛を説得した。「吉兵衛さん、あなたに
ぜひ会ってもらいたい方がいるんだ。」
文久3年(1863年) 4月23日、将軍徳川家茂は、大阪湾周辺の海防状況の確認
のために神戸(兵庫)に上陸し、和田岬に建設中の砲台などの視察を行った。そ
して神戸の小野浜というところで昼食をとった後、勝海舟が一人の老人を連れて
接見に現れた。海舟の隣の老人こそ、網屋吉兵衛であった。
家茂「余はこの地を夷人と交易する港としようと欲するが、いかが思うや。」
吉兵衛「六甲、摩耶の山から吹きおろす風は沿岸の波を高めず、返って土砂を沖
合いに運び、また万代埋らぬ深海でございますから船舶の集散場所にはとても適
している地でございます。」
吉兵衛の腹は決まった。この船蓼場を将軍様のために有効活用してもらおう・・と。
また家茂も吉兵衛の説明に対しより一層の決意を固めたのであった。
翌4月24日には神戸海軍操練所設立の辞令が下った。更に3日後の27日に
は年間三千両の運営資金が捻出されることが決定し、建設は急ピッチで進められ
ることとなった。
吉兵衛の造った船蓼場はそのまま残し、修理場として用いられることとなった。
そしてその東隣には更に大きなドックを作り、沖には防波堤を建設した。更に東
には神戸海軍操練所塾生らが勉強を行う学舎も建てられた。その操練所で学ぶ諸
藩の志士達も集まってきた。土佐藩坂本龍馬、薩摩藩伊藤祐享、紀州藩陸奥宗光
など有能な志士達ばかりである。
急ピッチで進む操練所の工事現場の活気ある風景を視察するのが吉兵衛の日課と
なった。わくわくする思いがよみがえって来た。
- - - 続く - - -
ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします
執筆者メールアドレス
moesaki@sky.sannet.ne.jp <mailto:moesaki@sky.sannet.ne.jp>
執筆者HP
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/
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■幕末日本のきら星 <第5回:浜田彦太郎(ジョセフ彦)> (執筆者:半平太)
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<浜田 彦太郎(はまだ ひこたろう)> (1837年−1897年)
(米国名:ジョセフ彦)
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★ここが「きら星」 → アメリカ市民権を日本人として初めて取得。通訳として
日本開国に大きく貢献。日本で初めての新聞を発行し、
政治面・文化面から日本の近代化に寄与する。
今回紹介するジョセフ彦は、前号で紹介したジョン万次郎(中浜万次郎)と同じ
く乗船した船が遭難してアメリカに渡り、様々な知識を吸収してその後帰国。
日本の開国と近代化に大きく寄与した人物です。
このジョセフ彦。ジョン万次郎に比べて、イマイチマイナーで知名度が低い訳は
何故でしょう?。それはジョセフ彦は、開国の際「アメリカ人」としてかかわっ
たからではないでしょうか。しかし日本の開国に寄与した功績は、ジョン万次郎
と比べても何ら遜色ありません。そのあたりと彼の波乱に富んだ人生を少しでも
判り易く紹介できたらな、と思います。
ジョセフ彦は幼名を「彦太郎」といい、天保8年(1837年)8月21日、播
磨町古宮に生まれ、本荘の浜田で育ちました。嘉永3年(1850年)10月2
9日、江戸見物を終え、故郷への帰途、遠州灘にて暴風に遭遇し、太平洋を漂流
することになります。彦太郎13歳のときでした。
太平洋を漂流すること50余日、彦太郎ら17名はアメリカの商船オークランド
号に救われ、翌嘉永4年(1851年)2月にサンフランシスコに着くのです。
アメリカは、漂流した彦太郎らを日本へ送り帰し、国交開始のきっかけをつかも
うとし、翌嘉永5年3月、マカオでペリーの東洋艦隊に乗せる手はずをとりまし
たが、ペリーのマカオ来航が遅れたため彦太郎は再びアメリカに渡ったのでした。
単なる「人質」的に政治に関わる機会がつぶれたわけですが、この再渡米が彦次
郎の人生を大きく変えたといっていいでしょう。このときにペリーとともに日本
に帰国していれば、彼は単なる「漂流者」で終わったことでしょう。
再びサンフランシスコに着いた彦太郎は、税関長サンダースに可愛がられ、アメ
リカの中心であるワシントンや二ユーヨークに連れていかれました。彦太郎は、
二ユーヨークで初めて電信・ガス燈・汽車を見て驚き、また、ワシントンでは、
時の大統領ピヤ−スに謁見するという幸運に見舞われました。これは、アメリカ
大統領と正式に会見した「最初の日本人」という栄誉であったといいます。
その後彦太郎は、サンダースの援助でボルチモアのミッションスクールに入り、
聖書・英語・算数などを学ぶことができました。そして嘉永7年(1854年)
10月30日、熱心なキリスト教信者であったサンダース夫人の勧めで、カトリ
ックの洗礼を受けることとなったのです。この時、神父挙げたいくつかの名前の
うち、耳に快く響いた「ジョセフ」のクリスチャンネームを用い「ジョセフ彦」
と名乗るようになりました。また、帰国したとき、アメリカの国籍をもっていた
ほうが得策だとサンダースに勧められ、安政5年(1858年)6月30日、日
本からの帰化第一号としてアメリカの市民権を得たのでした。
ジョン万次郎のホイットフィールド船長と共通するものがありますが、彦太郎も
サンダース税関長という素晴らしい人物との出会いによって、素晴らしくも波乱
にとんだ人生を歩むこととなったのです。まさに奇跡の出会いですね。
安政6年(1859年)6月、21歳の青年紳士となったジョセフ彦は、神奈川
のアメリカ領事館通訳として、ハリスに伴われて開国した日本に帰国しました。
アメリカ人「ジョセフ彦」としての帰国です。彦の心中はいかがなものだったで
しょう。非常に複雑な心境だったことでしょう。幕末外交界の第一線に登場した
彦は、日米修好条約の実施、幕府の遣米使節の派遣などに奔放し、日本開国に大
きく貢献したのです。
しかし、攘夷浪人から外人としてねらわれ身辺が危くなったので、彦は文久元年
(1861年)に三度日の渡米(帰国?)をすることになるのです。
この三度目の渡米中に、彦はリンカ−ン大統領と会見しました。リンカーンは、
大きな手を差し出して握手し、夜明け前の日本についてさまざまなことを尋ねた
といわれています。こうして彦は、日本の歴史上の人物で、歴史に残る名大統領
リンカ−ンと握手したただ一人の日本人という事実を歴史に刻んだのです。
その後、彦は、リンカーン直伝の民主主義を、木戸孝充・伊藤博文に伝えました。
慶応3年(1867年)に、長崎に在住していた彦を訪ねた木戸と伊藤は、米英
の歴史・国家制度・政治内容などを質問し、彦からアメリカの民主政治の機構を
聞きます。この見聞が明治日本に与えた影響は大きなものであったと感じます。
南北戦争の動乱をあとにして再び日本に帰った彦は、元治元年(1864年)、
わが国最初の新聞「海外新聞」を発刊し、世の中の事実を国民に正しく伝えるこ
とに奮闘します。ジョセフ彦が「新聞の父」と呼ばれることになる業績です。
「海外新聞」は、二つ折りの半紙4・5枚をこよりで仮つづりしたもので、貿易
の状況と相場といった各国の二ユース、アメリカ史略といった読み物、在日外人
の広告などが載っていました。
「海外新聞」は、慶応2年(1866年)12月に彦が長崎に移るまで発行され、
手書き時代から木版印刷に移った後でも、26号を数えました。その後も彦は、
長崎で英国商館と鍋島家との間をあっせんし、高島炭坑の共同経営を成立させた
り、大阪造幣局をつくる世話をするなど、実業界の発展にも大きく寄与し、新生
日本の近代化に向けて八面六腑の活躍をしたのでした。
また彦の文化人としての業績に、二つの著書の出版があります。一つは文久3年
(1863年)に出版した「漂流記」で、もう一つは、彦の英文自伝「The
Narrative of a Japanese」です。
ジョセフ彦は明治30年(1897)12月12日、心臓病により60年の波乱
の生涯を閉じました。その晩年はジョン万次郎と同じように、不自由のないもの
であったようですが、その果たした功績を考えたとき、彦に対する評価は低すぎ
るといっていいでしょう。
ジョセフ彦が亡くなってから1年後、ジョン万次郎も生涯を終えます。数奇な運
命によってアメリカに渡り、その類まれな運、行動力、精神力によって日本の開
国に寄与した「2大漂流者」は、この明治30年代初年にともに亡くなり、明治
日本は軍閥主義へと突っ走っていきます。明治政府がもっともっと彼らを重用し
た政治を行っていたら、あの「暗い時代」はなかったかもしれません。
ジョセフ彦。もっともっと評価したい人物です。
ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします。→ kazu-ni@est.hi-ho.ne.jp
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■人権の父・江藤新平(2) (毛利敏彦) ※2002年5月15日配信済み
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3.新国家の骨組みつくり、民法、憲法
というのは、徳川三百年の江戸幕府があんなにあっけなく倒れるとは、大方の関係
者には意外な成り行きで、棚から牡丹餅の倒幕勢力は準備不足のままで政府を俄か作
りしなければならず、その組織は欠陥だらけで活動はもたついた。新政府最高首脳に
担ぎあげられたのは京都公家出身で明治天皇側近の右大臣(首相格)三条実美と大納
言(副首相格)岩倉具視だったが、不安な毎日を過ごしていた彼らの目に、佐賀で
華々しい実績をあげている江藤の姿が映らないはずはなかった。一刻も早く東京に
戻ってきてくれとの矢の催促に江藤も断りきれず、慌しく佐賀を去って明治2年11月
に出京した。
江藤は大弁(現在の内閣官房長官に相当)への就任を請われたが遠慮して、次席の
中弁を引き受けた。ここに中央政府における江藤の八面六臂の活躍が始まった。
まず江藤が手がけたのは、新国家の骨組み設計という基礎作業だった。かれは短時
日のあいだに、和漢の古典や西洋の制度などを参考にして、近代的な立憲制と三権分
立に則った国家体制の青写真を構想し、また各種官制類の立案に非凡な腕前を発揮し
た。迷走していた政府の動きは,江藤ならではの大車輪の活躍でようやく本格的軌道
に乗ることができた。政府当面の重要課題である廃藩置県への道筋をつけたのも江藤
だった。
また江藤は、早くも民法つくりに手をつけた。民法は近代社会になくてはならぬ基
本法規だが,もちろん日本にはまだなかったし、そもそも政府首脳の大多数は民法な
るもの自体を知らず、ましてやその必要について分かっていなかった。ところが江藤
は,明治3年に政府内に「民法会議」を設け、自ら議長となってお雇い外国人法律家
や学者、官僚たちを動員し、日本最初の民法編纂事業を開始したのである。
きっかけは洋学者箕作麟祥がもたらした知識だった。箕作は日本におけるフランス
学開拓者のひとりだが,幕府からフランス留学に派遣され、明治2年に帰国して政府
に出仕した。かれは当時もっとも完備しているといわれた「ナポレオン法典」(仏蘭
西法律書)を持ち帰っていたが,箕作が刑法の一部分を翻訳したのをたまたま江藤が
見て、その法的優秀さを直感的に理解した。その感覚の鋭敏さには驚かされる。そこ
で江藤は、フランス民法を模範にして新日本の民法を作ろうと発起した。江藤の精力
的な指導のもとで民法会議の作業は進み、翌明治4年には日本法史上に画期的な民法
決議79ケ条がまとめられた。実際に日本で民法が施行されたのは、それから27年後の
明治31年(1898)だったから,江藤は時代のはるか先を突進していたわけである。
さらに江藤は,民法と並行して早くも憲法の制定にもとりかかった。かれは、憲法
を「国法」と呼び、政府内に「国法会議」も設置して作業を開始した。もっとも国法
の方は民法の場合と違って諸般の事情から草案段階のままで中断せざるを得なかった
が、大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されたのが19年後の明治22年(1889)だった
から、これまた江藤のきわだった先駆性を表している。
このように中弁江藤は,政府の知恵袋としてなくてはならない存在であった。
4.教育は「西洋の丸写し」で
明治4年(1871)7月に廃藩置県,明治新政府の国家統治体制は新段階に入った。な
んでもござれの江藤は,今度は教育行政に引っ張り出された。このとき国家教育行政
は混乱の揚句に壊滅状態に陥っていた。国学派、漢学派、洋学派間の三つ巴の激しい
主導権争いに政府首脳は誰ひとりとして手がつけられなかったからだ。江藤はその騒
ぎを横目にみながら、文部省を設けて教育行政を再建すべきだと計画していたが、明
治4年7月の文部省発足とともに初代の責任者(文部大輔)となるや、学校教育の内容
は「西洋の丸写しにして施行すべきなり」と裁断、泥沼状態に一気にけりをつけた。
それは、良かれ悪しかれ近代日本の国民教育と学術文化のあり方(欧化の方向)を決
定した歴史的にして運命的な決断だった。その功罪をにわかに判断するのは困難だ
が、この荒療治以外には瀕死状態の国家文教体制を蘇生させる方法はなかったのでは
なかろうか。そして、これを断行できる腕力の持ち主は、政府ひろしといえども江藤
以外には見当たらなかったのである。
また江藤は,文部省は「全国の人民を教育して、その道を得せしむるの責めに任
ず」と定めて、国家が国民の教育に責任を負うという公教育の大方針を初めて明示し
た。この路線が「学制」を経て現在にまで至っているのは周知の通り。
要するに江藤が近代日本学校教育体制の根本方針を決めたわけだが,実は江藤が文
部大輔に在任したのはわずか17日間だった。江藤にとっては,文部省の方は
頼まれピンチヒッターのつもりだったのだろう。江藤が本来やりたかったのは、議会
制度の創設だった。そこで立法機関を予定されていた左院の第1号議員に自ら
就任し,左院の整備充実と議会への発展に情熱を注いだのである。つまり文部大輔は
いわば片手間だったにもかかわらず、余人にはとうていできない歴史的大仕事を
やってのけたわけであり、あらためて江藤の果断と辣腕には脱帽させられる。
さらに江藤は,教部省御用掛を兼ねて神社仏閣女人禁制撤廃などの宗教自由化も推
進している。
以上ざっとみてきただけでも、江藤は歴史に残る立派な業績を次から次へと挙げて
きたのだが、まだ「人権の父」としての畢生の大事業、つまり日本における司法権の
確立という不朽の大事業にまでは話が及んでいない。いよいよそこに話を進めよう。
(3)に続く
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【参考文献】毛利敏彦著『江藤新平』(中公新書)1987年、増訂版1997年、
筆者紹介
毛利敏彦(もうり としひこ)
略歴:1932年生まれ。九州大学大学院博士課程修了、法学博士(専攻・日本政治史)。
大阪市立大学教授・法学部長、広島市立大学教授・国際学部長等歴任。
現在:大阪市立大学名誉教授、明治維新史学会顧問(元・会長)等。
主著:『明治維新政治史序説』(未来社)、
『明治六年政変の研究』(有斐閣)、
『大久保利通』『明治六年政変』『江藤新平』『台湾出兵』(以上、中公新書)、
『岩倉具視』(PHP研究所)、
『明治維新の再発見』『明治維新政治外交史研究』(以上、吉川弘文館)等。
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END
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