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幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

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2005/06/26

■幕末マガジン■

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  【幕末マガジン】 //  2005/6/26 //  Published by RyoMaX

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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

┣【1】神戸海軍操練所・前後のはなし 網屋吉兵衛その1
┣【2】幕末日本のきら星 <第三回:下岡蓮杖>
┣【3】江藤新平の司法省設置構想 (第5回)
┣【4】イベント情報

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■神戸海軍操練所・前後のはなし 網屋吉兵衛その1  (執筆者:Mr.萌咲)
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勝海舟や坂本龍馬らが活躍した神戸海軍操練所は文久3年(1863)に建設計画が出
され、元治元年(1864)開校、慶応元年(1865)閉鎖と活動期間はわずかなもので
あった。疾風の様に神戸にやってきて疾風のように去っていった神戸海軍操練
所。その活動期間の前後にも、操練所にまつわるドラマが展開されている。この
コーナーは、あまり知られていない「神戸海軍操練所・前後のはなし」を紹介する。

◆網屋吉兵衛その1◆

文久3年(1863)4月23日、大阪湾一帯の砲台の建設状況などを視察した将軍徳川家
茂は、神戸の小野浜に上陸し、勝海舟の神戸海軍操練所建設案を聞かされる。こ
のとき、海舟の横に70歳をこえる老人の商人が同席していた。商人が徳川将軍に
謁見するなど異例中の異例だった。
徳川家茂:「余は、この地を外国人と交易する開港場としたいと考えているが、
どう思うか?」
老人:「六甲や摩耶の山から吹き降ろす風は波を高めず、沿岸も水深が深いため
船の港にはとても優れている場所です。」
家茂が意見を求めるこの老人は、いったい誰なのか・・・。

彼の名は「網屋吉兵衛」。吉兵衛は、天明5年(1785年)に神戸二ッ茶屋(今の元
町)に呉服商の五男として生まれた。20代で父親の呉服商を継いだ後、足袋を縫
う機械を考案し足袋の生産量を増やすなどして、商人としての活動はとても順調
だった。しかし吉兵衛には、夢があった。それは「船蓼場(ふなたでば)」を建
設することだった。当時の北前船などは当然木造船だが、海水に長期間浮かべて
おくと船食い虫が発生し、これを放っておくと船の寿命が縮んでしまう。対処方
法として、船を陸揚げして船底をいぶして船食い虫を駆除するのだ。この船食い
虫を駆除するための今で言うドックのことを「船蓼場」と呼ぶ。

当時、神戸・大阪には船蓼場がほとんど無く、現在の香川県多度津にあるのみ
で、常に込み合っていたらしい。ここで、吉兵衛は船蓼場を神戸に建設すること
により、わざわざ香川まで出向いていた神戸の船乗りの負担を軽減すること、船
蓼場を運用して利益を得ることを夢見続けていた。

夢を見続けること数十年、吉兵衛は68歳になって船蓼場建設に踏み切った。これ
まで蓄積してきた私財を投げ打し、借金をしての事業だった。
船蓼場が完成したのが安政3年(1856)、 3年の歳月を費やした。吉兵衛は既に71
歳となってしまっていた。このころ、神戸の港には外国船の入港が目立ってきて
いた。また日本の藩船も外国で作られた船を使用するようになっていた。いわゆ
る黒船は、船底は金属で出来ており、船食い虫への対処が必要ないのだ。船蓼場
の事業は、神戸近海の船主には大変歓迎されたものの、大繁盛までは行かず、こ
れまで蓄積された巨額の借金を完済するまでには成らなかった。

借金の返済が滞り続けるある日、吉兵衛に対し江戸奉行所から出府命令がでた。
江戸の呉服問屋からの仕入金の返済が滞り、訴えられたのだ。

- - - 続く - - -


ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします 
執筆者メールアドレス
moesaki@sky.sannet.ne.jp <mailto:moesaki@sky.sannet.ne.jp>
執筆者HP
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/

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■幕末日本のきら星 <第三回:下岡蓮杖>  (執筆者:半平太)
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<下岡 蓮杖(しもおか れんじょう)> (1823年−1914年)
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★ここが「きら星」 → 日本人で最初の営業(商業)写真場・写真館を開業する。

幕末の写真家といえば、坂本龍馬・高杉晋作・木戸孝允など、明治維新立役者の
肖像写真を撮影した長崎の「上野彦馬」が有名ですが、日本人として一番最初に
営業写真館を開業したのは、今回取り上げる下岡蓮杖です。ちなみに下岡蓮杖が
開業したのが1862年5月、上野彦馬が開業したのが1862年12月です。

(だからといって、下岡蓮杖のほうが偉くて上野彦馬の方が下だ、というわけで
 はありません。どちらも素晴らしく凄い人物です。念のため・・・)

下岡蓮杖は、下田にある浦賀船改御番所問屋勤務の桜田家の三男に生まれました。
13歳の時に画家を志し江戸に出仕、狩野薫川の門に学びました。その江戸遊学
中に薩摩屋敷にあった銀板写真を見て衝撃を受け、写真技術を習得することを志
したと言われています。

その写真技術を習得するために蓮杖は、アメリカ人と接触しようと考えました。
まず浦賀奉公所の足軽になり機会をうかがいます。しかしながら思うような成果
を上げることができずにいたところ、思わぬ情報が飛びこんで来ます。故郷の下
田が正式に「開港」され、アメリカ領事館が出来たのでした。蓮杖はすぐに行動
にでます。幼なじみである「お吉」(「唐人お吉」で有名なお吉だと言われてい
る)を通じて、アメリカ公使のハリスに接触することに成功し、そのハリスを通
じて、アメリカ通詞でオランダ人のヒュースケンの給仕として働く機会を得たの
です。

しかし蓮杖の幸運は長くは続きません。ヒュースケンに写真技術の基礎を教わっ
たものの、ヒュースケンは写真の専門家ではないために、詳細まで教わることが
出来なかったのです。また写真に使用する薬品類の製造技術などは持ち合わせて
おらず、「自力で写真を撮影できる技術」を習得することは到底無理でした。

その後蓮杖は、写真技術を有する外国人を求めて横浜に出ます。その当時横浜は、
外国人居留地もでき国際都市の様相を呈してきた時期で、外国人と接するにはも
っとも適した街だったのです。横浜での蓮杖は、アメリカ人のショイヤーという
人物のもとで働いていましたが、このショイヤーのもとに逗留していたカメラマ
ンの「ウンシン」から、写真機材一式を譲り受ける幸運に遭遇したのです。

(「ウンシン」とは蓮杖の残した史料に記述された名前で、プロシアの遣日使節
 団に雇われたアメリカ人カメラマンの「J.ウィルソン」ではないかという説
 が有力であると言われている。)

アメリカの写真機材一式を手にして大きく前途が開けた蓮杖でしたが、それから
が大いなる苦労の連続でした。写真撮影に使用する「薬品類」は、譲り受けた分
量しかないのです。それを使い終わったらもう写真を撮影することは出来ません。
蓮杖が手にした写真機は「湿板写真機」といわれるタイプで、ヨウ化カリウム、
臭化カリウム、ニトロセルロース、エーテル、ヨウ化銀、チオ硫酸ナトリウム等、
非常に人体に有害な薬品を必要とし、また撮影プロセスも複雑でした。

蓮杖はそれから3年弱の期間、その薬品生成、配合技術、撮影プロセスの研究に
没頭し、有毒薬品の影響で度々体を壊したといいます。また仕事もせずに写真の
研究に没頭するわけですから、当然ながら経済的に困窮し、食うや食わずの生活
を余儀なくされたのは想像に難しくありません。

しかしついに念願の写真撮影に成功します。1862年(文久二年)のことでし
た。早速蓮杖はその年の5月、横浜野毛町に日本で初の営業写真館「全楽堂」を
開業するにいたるのです。

最初は客足がなかった写真館も、根っからのアイデアマンだった蓮杖は外国人に
着物を着せたり絵師の腕を生かして日本の景勝地の背景画を書いたりして、外国
人の心をつかみ店は大繁盛しました。1967年(明治元年)には、弁天通りに
店を移転させ、こちらでも大隆盛を極めました。

蓮杖はこの後、石版印刷、喫茶店、ビリヤード、牛乳製造、馬車屋などの文明開
化の時代に最先端の事業を興し、国際都市横浜の礎を築いていきましたが、一時
は降盛を極めた諸事業も陰りをみせ始め、16年間の横浜生活の後に53歳で、
東京・浅草に移り住みました。

浅草では、油絵茶屋などを開き電車の模型を作ったり、蒸気機関車の模型や空に
上がると音を出すアドバルーンなどの話を読売新聞(明治十一年)に書いたりす
るなど世間をにぎわせました。晩年、写真館の背景画を専門に書くなどして大正
三年、92歳で波乱万丈の生涯に終止符を打ちました。 

夢を実現するために、どんな苦難にもあきらめずに頑張り続けた結果、夢の実現
に加え大いなる富を築いた下岡蓮杖ですが、なにかと合理主義・目先主義になり
がちな現代人にとって、非常に参考になる人生と言えるかもしれません。


ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします。→ kazu-ni@est.hi-ho.ne.jp

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■江藤新平の司法省設置構想  (第5回)  (執筆者:松ノ落葉)
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明治3年秋から明治4年前半期は、廃藩への気運が高まった時期でもあった。「藩
制」施行後、諸藩における藩体制崩壊の現象が明白となり、さらに3年11月に起き
た日田県騒擾などの反政府運動や農民一揆が頻繁に起きるようになり、これらが
政府首脳の危機意識を強める結果となり、廃藩の実行が不可避となった。
4年2月上旬、帰京した岩倉・大久保らは、三藩献兵の受け入れと反政府運動の弾
圧の強化とともに政府改革が急がれることになり、政府改革の内容は大久保利通
が岩倉具視に提出した覚書(「大久保利通日記ニ」明治3年10月10日条)に修正
を加えたものが該当すると思われる。

まず、左右大臣を一人ずつ、他に3人以内の准大臣を置く、大納言と参議は廃止さ
れ、諸省の卿が従来の参議を兼任するような感じにする、兵部省を陸軍・海軍両省
に分ける、中務省を新設し、宮内省を宮内寮として中務省の管下に置く、駅逓・土木
を合わせて1省にし、当分の間民部省に合併すること、弾正台と刑部省を合わせて
司法台を置き、一等裁判所とすること、神祇伯(神祇官長官)を大臣が兼任し、中務
卿を准大臣が兼任すること、等が挙げられる。もちろん大久保単独のアイデアでない
ものもあり、例えば弾正台と刑部省を合わせて司法台を置き、一等裁判所とする、と
いう意見は言うまでもなく江藤の構想である。

ところが、木戸孝允がこれに反対し、政府改革の進行は4年6月になってもなんら
進行しなかったのである。この間、西郷隆盛と大久保は木戸孝允1人を参議とし、
改革をスムーズに実行する態勢を整えようと工作していた。板垣退助もこれに賛成
したようである。板垣が賛成した理由について、「佐佐木高行日記」で次のように推
測している。板垣はかねてからの持論である「各藩ノ大参事ニ議事ヲ起サシメ、天下
公論ニ帰ス」るようになれば、薩摩藩も私論を主張するわけにもいかなくなるであろ
うし、木戸1人が参議となれば、「必ス木戸一人ニテ天下ノ大基軸ヲ運ラス」には
力不足であるため、「議事ヲ起スノ論ヲ唱」え、初めて板垣のかねてから主張する
公論に基づく政治体制の樹立をはかれる、と読んだからであろうとしている。
しかし木戸は、責任が重いとして参議就任を固辞し続け、西郷・大久保らもあの手
この手を使って木戸説得を試みるが、なかなか木戸は承諾しなかった。

6月23日、大久保は西郷に対して、木戸とともに参議となることを勧め、西郷もこ
れ に同意したため翌24日、大久保は木戸を訪問し、西郷との同時就任を伝え、
木戸の説得を試みた。「大久保日記」では木戸は謙遜しながらもこの件を承諾して
くれたと解釈しているようだが、反対に「木戸孝允日記」の25日条で、宿志を達し
たため、この機会に勇退しようかと思っていたようである。
しかし、木戸の参議就任を承諾したと解釈した大久保はすぐに三条・岩倉に報告し、
参議以下、諸省少輔以上の全員罷免と西郷・木戸の参議任命、及び少輔以上の
人選を政府が行うよう具申した。
新人事は外務卿に岩倉具視、大蔵卿に大久保などが任命されたが、宮内省関係
以外は華族の登用はなく、政府首脳で華族出身は三条・岩倉以外1人もいなくなっ
た。

この後、政府改革は精力的に進められ、司法関係では7月9日、弾正台と刑部省
の廃止、代わって司法省が設置され、最高責任者である司法大輔には佐佐木高行
があたることになった。

参考文献

「江藤新平」 毛利敏彦著 中公新書
「大系日本国家史」4(近代1) 東京大学出版会
「保古飛呂比」 佐佐木高行日記五 東京大学出版会
「大久保利通日記」ニ 日本史籍協会編
「木戸孝允日記」ニ 日本史籍協会編

ご意見・ご感想はこちら saga@ace.ocn.ne.jp まで 

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■イベント情報
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京都国立博物館 特別展覧会

「 龍馬の翔けた時代 -その生涯と激動の幕末- 」
7月16日(土)〜8月28日(日)
坂本龍馬の生涯と激動の幕末に焦点をあてた特別展覧会が開催されます。
 展示の中心は、龍馬が家族や友人へ書き送った書簡類や、薩長同盟の記録、
大政奉還の後に記した「新政府綱領八策」、海援隊の活動記録、そして慶応三年
(1867)の龍馬の死を物語る遺品類等。
 また、黒船来航に混乱する人々の様子や、龍馬の生まれ育った土佐の風土を
示す捕鯨図などの絵画作品、幕末の京都を舞台とした様々な事件争乱を描いた
絵巻や瓦版、さらに幕末期の美術作品なども展示予定です。

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