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2005/05/15

■幕末マガジン■

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  【幕末マガジン】 //  2005/5/15 //  Published by RyoMaX

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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

┣【1】日本初の株式会社「兵庫商社」
┣【2】幕末日本のきら星 <第二回:前原巧山>
┣【3】江藤新平の司法省設置構想  (第4回)

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■日本初の株式会社「兵庫商社」  (執筆者:Mr.萌咲)
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坂本龍馬が率いた海援隊は、日本で初めての株式会社であるとよく言われる。し
かし同時期に海援隊以上に現代の株式会社に近い組織が作られていたのをご存知
だろうか。
「株式会社」とは、複数の出資者から資金を集め、この出資金により事業を運営
する組織を指す。海援隊への出資元は土佐藩であり、ある意味「公営」の組織で
あった。それに対し、商人など多数の出資者により設立された組織がある。これ
が、幕臣勘定奉行の小栗上野介が作った「兵庫商社」である。小栗上野介は、製
鉄から造船までを手がける横須賀製鉄所の建設、語学学校の設立など常に先見性
を持ちそれを実行した幕臣の中で最も有能な人物であるが、通商に対しても例外
ではなかった。
では、小栗は兵庫商社にどのような仕事をさせようとしたのか。慶応3年(1867)
の4月に出された建議書を簡単にまとめると以下の通りである。
「外国人居留地設立に20万両必要となる。また運上所(今の税関)、波止場の
建設、西国街道の付替え(外国人との衝突を懸念した迂回道路の設置)などに多
額の費用が掛かる。居留地の経費は、諸外国からの居留地の賃貸料にてまかな
う。運用所も税金でまかなうが、当面は約90万両が必要である。この金は、大
阪商人20人を選んで出資させる。港の収入を30万両とすると3年で返済が可
能である。更に、ガス燈や郵便を経営することにより、利益を得る。」
出資者は、まず鴻池屋の山中善右衛門など大阪商人20人であったが、その後兵
庫の廻船業北風壮右衛門など兵庫の豪商が加わり、最終的には100人規模の出
資者が集まった。兵庫商社は、武士、町人、百姓の区別無く出資が出来、利益は
出資額に応じて均等に配当すると取り決めた。まさに株式会社であった。
商社の事務は、大阪の中之島近辺に置かれた。また兵庫開港後には、兵庫の運上
所にも事務所が置かれた。当面の業務は、開港準備金の90万両の調達と出資金
に見合った金札の発行だった。開港準備金は集まったのが1万両強、金札発行も
発行計画100万両に対して実際は1万両のみと運用が軌道に乗らないうちに、
王政復古・幕府崩壊となってしまったため、事業が中止された。事業は中止され
たままで、新政府はこの兵庫商社を引き継いだ形跡はない。
残念ながら幕府崩壊により兵庫商社の運営は約半年間のみとなってしまったが、
株式会社としての活動だった。
当時「カンパニー」という単語は、「株式会社」を指すのではなく「貿易と金融
を行う会社」を指していたようである。海援隊は、慶応3年4月設立で、兵庫商
社より設立が早かったため、海援隊は「日本最初のカンパニー(貿易と金融を行
う組織)」で、兵庫商社が「日本最初の株式会社(複数の民間人からの出資を受
け資金運用をする組織)」ということになるのである。

参考文献
「神戸の歴史」 落合重信著
「坂本龍馬と海援隊」 坂本藤良著
「神戸市史 産業経済編」 神戸市
「小栗上野介の生涯」 坂本藤良著

執筆者メールアドレス
moesaki@sky.sannet.ne.jp
執筆者HP
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/

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■幕末日本のきら星 <第二回:前原巧山>  (執筆者:半平太)
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<前原巧山(まえはら こうざん)> (1812年−1893年)
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★ここが「きら星」 → 日本で2番目となる「蒸気機関」を「ほぼ個人の独学」
           で製作し、蒸気船の動力として使用される。

前原巧山は、幕末四賢侯の一人、伊達宗城が藩主である宇和島藩に生まれ、父
没後の後を継いで、家業である回船問屋を営んでいました。が、ほどなく没落。
器用な手先を利用して様々な雑業をこなしながら生活していました。刻み煙草、
仏具、具足、提灯・・・などの製作。しかし生活は苦しくその日をやっと凌ぐ
という有様だったようです。当時の名前は嘉蔵(かぞう)。典型的な器用貧乏
である嘉蔵の名前は、宇和島本町界隈の職人の間では、その手先の器用ぶりを
まずまず知られていたようです。

そんな嘉蔵の生活には直接関係のない場所で、時代は大きく動いていました。
ペリー来航、開国、外国文化の流入、攘夷熱・・・。そんな激動の世の中、嘉
蔵の住む宇和島藩藩主:伊達宗城は、非常なる先進的な考えの持ち主で、西洋
文化・技術の吸収に、並々ならぬ熱意を注いでいました。幕府政治犯である蘭
学者:高野長英を匿い、蘭学の翻訳や砲台の設計を行わせ、また、緒方洪庵の
適塾出身で長州藩の医者であった村田蔵六を招聘し、蘭学の翻訳・教授や西洋
軍艦の研究を行わせたりしていました。

そんな中、伊達宗城は西洋式「火車」の研究を部下に命じます。見たことも聞
いたことない西洋式火車。誰に研究させるか・・・。そこで白羽の矢がたった
のが器用貧乏で名前の知れらた「嘉蔵」でした。嘉蔵は、網曳き用のじくろか
ら発想して外輪車の模型をつくり宗城に提出します。その外輪車の模型が宗城
の目にとまって、二人扶持五俵の御船手出勤の身分となるのです。一介の貧乏
職人から一夜にして武士になる。破格の出世でした。

御船手出勤の身分として、蒸気船を作るための「蒸気機関」の製作を命ぜられ
た嘉蔵でしたが、製作には困難を極めました。長崎へ三度も出張して「バッテ
ーラー」「マグネット」の構造を学び、蒸気機関や船体構造について意欲的に
研究しました。その結果として、1856(安政3)年から翌年にかけて鋳物
の蒸気機関を作りましたが実験に失敗。散々の不評をかい「おつぶし方」の異
名をとりました。そこで、当時蒸気船を建造中であった薩摩藩に研究に行った
のでした。

ここで少し薩摩藩の蒸気機関〜蒸気船への取組みに触れます。

薩摩藩では名君:島津斉彬のもと、早い時期から熱心に蒸気機関の研究を行っ
ていました。オランダで1837年に出版されたフェルダム著「水蒸気盤精説」
を入手して、1848(嘉永元)年に幕府天文方翻訳員・箕作阮甫(みつくり
げんぽ)に翻訳を依頼します。1849(嘉永2)年に翻訳書「水蒸船説略」
が完成し蒸気機関の研究を開始しました。斉彬が藩主になった直後の1851
(嘉永4)年2月に江戸田町の藩邸で肥後七左衛門・梅田市蔵らに、5月には
鹿児島で肥後七左衛門・宇宿彦右衛門らに蒸気機関の雛形を製造を命令します。

こうして1851(嘉永4)年の冬に、鹿児島城内の製煉所で蒸気機関の雛形
製造が始まり、約8ヶ月で完成し、続いて江戸と鹿児島で同時に蒸気機関の製
造が始められました。そしてついに1855(安政2)年7月、江戸で蒸気機
関が完成し、この蒸気機関を鹿児島から廻航させた「越通船」に搭載し、8月
23日に日本初の蒸気船「雲行丸」を竣工させ試運転に成功したのです。

この藩をあげて「蒸気機関・蒸気船」の研究〜製作に取り組んでいる薩摩藩に、
嘉蔵は教えを請うため出張します。この薩摩藩で蒸気機関の製作現場などを見
学させてもらい、独学に近い形でこれまでの自己研究の欠点の見直し、新たな
技術を習得するのです。そしてついに1859(安政6)年2月、村田蔵六が
設計した洋式船の船体に、嘉蔵の製作した蒸気機関を搭載して「蒸気船」を作
り上げます。そして見事日本で2番目となる「蒸気船」の試運転に成功したの
です。

海外留学もせず専門書も持たずに、ほとんど独学(見学から学び創造する)で
蒸気機関を研究・開発し、ついに蒸気船を動かす動力を作り上げた一介の職人
嘉蔵。嘉蔵はこの巧を賞され、三人扶持九俵・譜代の身分となったのです。
このころから「喜市」と改名し、晩年は号の「巧山」を名乗ります。歴史上で
はこの号「前原巧山」として名が残っています。

作家:司馬遼太郎は「幕末の宇和島藩が独力で蒸気船を造ったのは、現在の宇
和島市が人工衛星を打ち上げるようなものだ」と語っています。巧山の成し遂
げたことがどれだけ凄いことかわかる言葉です。

巧山はこのほか、木綿織機、ミシン、砲台や小銃。雷管、藍玉、パンの研究に
も異才を示しました。元「器用貧乏」の面目躍如ですね。明治に入ってからは、
表舞台からは身を引き、野川で悠々自適の生活を送ったのでした。

前号で紹介した「洋式帆船製作者:上田寅吉」が、初代工場長を務めた「横須
賀海軍工廠」などに出仕していれば、まだまだ活躍できた気がしてなりません
が、なんともサッパリとした身の引き方ですね。そこらあたりが嘉蔵〜前原巧
山の魅力かもしれません。


ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします。→ kazu-ni@est.hi-ho.ne.jp

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■江藤新平の司法省設置構想  (第4回)  (執筆者:松ノ落葉)
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江藤は前号で述べた「政治制度上申案箇条」の第1項に国法会議を提示してこれを
開催することを主張していた。

もちろんこの会議の主役は江藤で、右大臣三条実美に提出した「国法会議ノ議案」
には「政府ト其国民トノ交際ハ国法ヲ以テ」整えるとし、「民ト民トノ交際ハ民法ヲ以テ」
整え、国法と民法の施行の成否が「国家富強盛衰ノ根元」であるとし、9月18日に
発足した民法会議を成就させるためにも、民法の根本にあたる国法の確定が急務
であると主張した。
「国法会議ノ議案」は全部で14項目あるが、司法関係は下記の2項目。

○行政立法司法ノ事

○裁判ノ事
 一 刑法聴訟ノ事
 一 大裁判所ノ事並官員職掌
 一 中裁判所ノ事並職掌
 一 裁判所ノ事並職掌
 一 郡坊裁判所ノ事並職掌

その他、12項目を簡単に紹介すると

○土地人民ノ事
○朝廷及官省地方官ニ懸ル事
○議院ノ事
○地方議院ノ事
○教化ノ事
○会計ノ事
○兵備ノ事
○水利堤防ノ事
○水陸両路ノ事
○工部ノ事
○教育並済貧ノ事
○政典変革ノ事

稲田正次著「明治憲法成立史」(上)に、明治元年、神田孝平訳「和蘭政典」(オラ
ンダ憲法)の目録が掲げてあるが、「国法会議ノ議案」の項目と比較すると明らかに
酷似していることがわかる。稲田正次氏は「異なっている点は当時の日本の実情
にあわせた点すなわち、府藩県云々、皇族華族士族平民云々、家禄云々、太政官
云々、位階云々などであった。」としている。ただし、「和蘭政典」を全て借用したわけ
でなく、きちんと彼独自の内容を盛り込んでいたことを付け加えておく。

国法会議は明治3年11月27日、第1回の会議が開催され、天皇親臨の下に右大
臣三条実美、大納言徳大寺実則、嵯峨実愛、参議大久保利通、木戸孝允、大隈
重信、広沢真臣、副島種臣、制度取調御用掛後藤象二郎、大学大丞加藤弘之、大
史楠田英世、権大史長ひかる(廿の下に火)、そして中弁江藤新平であった。
国法会議は、明治3年11月27日の第1回の他に、同年中は12月2日と同7日に
開催されている。松尾正人著「明治初年の国法会議」(『日本歴史』412号)によ
ると、11・12両月の国法会議では、「行政立法司法ノ事」が主に議事されたよう
である。
国法会議を主導した江藤の手元に「国法」と表記された文書が残されており、
「天皇独裁」、「君権」が掲げられているが、行政・立法・司法の三権に関する記述
もある。江藤の見解をまとめたと思われる「国法私議」に「天皇独裁」と三権との
関係が明示されている。大納言岩倉具視に呈した意見書や「政体案」でも「天皇
独裁」の記述があったが、天皇独裁でも行政・立法・司法が明確に分立していないと
「万機混雑」するので、三権分離すべきという江藤従来の基本姿勢は変わっていない
ことがわかる。
明治3年の国法会議は、天皇独裁下での「君権」、行政・立法・司法の三権分立を
推進することの確認、が主な議事内容であったといえる。
最後に先述の「国法」に三権についての記述を紹介しておこう。

「制法ノ権
 此権 主上ニアリ
  制法ノ権細分シテ三トス
  一 議ヲ起スノ権 主上及三職ニアリ
  一 議スルノ権 議院ニアリ
  一 議ヲ決スルノ権 主上ニアリ
行法ノ権
 此権 主上及ヒ太政官ニアリ
司法ノ権
 此権 主上及ヒ法官ニアリ」

制法(立法)権が議案の提出・審議・決議に3分され、議案提出の権限は天皇と三
職(右大臣・大納言・参議のこと)、審議の権限は議院、決議の権限は天皇、行政
権の権限は天皇と太政官、司法権の権限は天皇と刑部大輔(明治2年7月8日、
刑法官を廃し刑部大輔に改称)ということだろう。「国法」において江藤は既に行
政・立法・司法の三権を分立するだけでなく、その役割も明確に規定していたので
ある。

しかし、国法会議は翌4年に入り、「土地人民ノ事」を審議したが、次第に会議が流
れることが多くなり、結果として1月27日の審議が最後の国法会議となった。「国
法会議ノ議案」での司法関係2項目のうちの1つ「裁判ノ事」についての審議は開か
れなかった。国法会議が自然消滅した理由は、政府首脳の東京不在であったことが
大きな原因として挙げられる。また、参議広沢真臣の暗殺という事件が国法会議中
の1月9日に起こったことも、会議を継続して続けることが困難になった一因といえ
る。日本で最初の国法会議は中途で挫折した格好となったが、先述の稲田正次氏
も国法会議を「これはやや具体的な形における憲法制定論の最も早いもの」である
とし、「廃藩前において彼がかような主張をしたことは注目すべき」であると評価し
ている。当時の不穏な政情に翻弄されて、いつしか立ち消えになってしまった国法
会議であったが、君主国家と三権分立の制定に奔走した江藤の功績は非常に大き
いものであったことは間違いないであろう。

参考文献

「明治初年の国法会議」 松尾正人著 (『日本歴史』412号)
「江藤新平」 毛利敏彦著 中公新書
「明治国家の形成と司法制度」 菊山正明著 御茶の水書房
「江藤南白」上 的野半介 南白顕彰会
「明治憲法成立史」上巻 稲田正次著 有斐閣
「明治天皇紀」第二 宮内庁 吉川弘文館
「司法沿革誌」 司法省編纂 法曹会

ご意見・ご感想はこちら saga@ace.ocn.ne.jp まで 

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