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歌舞伎・文楽などの伝統芸能を材料にして、「日本のこころ・芸のこころ」を、民俗学的・歴史学的あるいは心理学的に、さまざまな角度から考えていくメール・マガジンです。

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2009/10/25

メルマガ「歌舞伎素人講釈」第258号

********************平成21年10月25日発行***  
                               ◎
      メルマガ「歌舞伎素人講釈」  第258号     ◎ 
                                        
     ◎       連動ホームページ: http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/
    ◎
************************************

こんにちは、吉之助です。

メルマガの間隔がちょっと間があきましたが、本号は村上春樹の小説「ねじまき
鳥クロニクル」に関する論考です。ただしそこは「歌舞伎素人講釈」ですから前
後に黙阿弥にこじつけた形になっています。まあこれはクロニクル的に小説の主
人公と江戸の黙阿弥を意識的に重ねた形にしていると思っていただきたい。本稿
はもともとメルマガのために書いたものではなく・サイト記事として書いたもの
ですが、自分で言うのは何ですがなかなか出来が良いのと、実は今後の「歌舞伎
素人講釈」で課題にしていきたい事項がいくつか含まれていますので、メルマガ
でお届けすることとしました。「その1」と「その2」に分かれていますが、
「その1」の方は「ねじまき鳥クロニクル」第1部・第2部を読んでいる途中で
書いたもの、「その3」は第3部を読み終わった後に書いたものです。その境目
に意味があるということです。

ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

村上春樹・または黙阿弥的世界・その1

------------------------------------

本年(平成21年)ベストセラー本ということになれば・それは村上春樹の小
説「1Q84」かと思います。この小説は第1部と第2部の2巻本から成ります
が、いずれ続編(第3部)が書かれるという予想が巷間かなり流布していまし
た。先日(9月17日)毎日新聞でのインタビューで著者自身がそれを認めて、
来年(平成21年)夏ごろ出版を目処に 第3部を執筆中であると語っています。
実は吉之助はこれまで村上春樹の作品を読んでいませんでした。もちろん名前
はよく知っていますし、どこかで何かの文章を目にしていることは間違いない
ですが、少なくとも小説を最後まで読み通したことはありませんでした。こう
いう批評サイトをやっているせいもありますが、吉之助はどうしても批評的 ・
分析的に小説を読んでしまう習慣が付いているので、現代作家(まあ現時点で
生きている同時代作家とお考えいただきたい)の純文学小説を読むのは吉之助
にはあまり居心地が 良くないのです。古典の場合だとそういうことは全然感じ
ないのですがね。同時代文学の場合は吉之助の方に同時代を把握することが十
分できている自信がないのか、作品を介して作者の世界と対峙するのにどうも
気が引けるところがあるようです。古典でも読み手と作者の対峙は当然ありま
すが、古典の場合は読み手の現代と作者の時代の乖離(差異)が手掛かりを与
えてくれます。過去はある程度の形になっていますから、作者の過去を通して
読み手も現代という自分が今にまさに生きている時代を逆照射することが可能
になってきます。吉之助の場合には古典を読みながら現代のことを考えるとい
う 思考回路になるようです。現在進行形の同時代作品であると、吉之助にはそ
のような読者としてのスタンスの取り方がちょっと難しい。同時代文学批評は
先鋭的な感覚と美意識を以って突っ張っている必要がありそうで、これはなか
なか疲れる仕事だと思いますねえ。まあ歌舞伎の批評でもやってるくらいが吉
之助にはちょうど良いのでしょう。

ところで文学に限らず・音楽でも芝居でもそうですが、難解な作品を理解する
ためには信頼できる批評家がその作品について書いた文章(批評)をじっくり読
んで・それを手掛かりにして理解していくというのも、有効かつ手早い手法で
あると言えます。言ってみれば「鑑賞には王道あり」ということです。こうい
う手法に反対の方がいるのは承知です。誰にでも・どんな場合にでもお奨めと
いうわけではありませんが、「この作品はどうにもこうにも理解できない」と
いう場合には・その作品を愚作だと決め付けることは決してせず、批評の助け
を借りながらでも・理解の取っ掛かりを付けるように・少なくとも批評家なら
ば出来る限りの努力をするべきです。吉之助もこの手法で多くの作品を自分の
ものにしてきました。ただし何がその人の理解の取っ掛かりとなるのかは、本
人にしか分からぬことです。

昨今は批評の世界に「駄作・愚作」という語句を実に安直に使う人が増えてい
て困ります。どんな作品でも作者は呻吟し・身を削りながら作品を書くのです。
ならば批評する者もそれなりの覚悟と努力を以って作品に対さねばなりません。
この世に自分の理解が及ばない作品はたくさんあると思いますが、駄作・愚作
というのは決して存在しないと思います。どうしても分からぬものは最初から
批評の対象にしない謙虚さが必要です。前述の通り「1Q84」を吉之助はまだ
読んではいませんが、吉之助が 本編読むより前に「村上春樹・「1Q84」を
どう読むか」という批評集(35人の批評家の文章を収録)を読んだのは、最
近は村上春樹がノーベル賞授賞の呼び声高いということもあるし・エルサレム
での「壁と卵」演説という話題もありましたから、吉之助の同時代理解のため
の地慣らしということでありました。どの批評もなかなか個性的で ・立場は賛
否それぞれであり、途中で討ち死にしてる方も敵陣にまで斬り込んでいる方も
いるようではあるが、みんな同時代に果敢に斬り込む意欲があるなあと感心し
きりでありました。

さて「1Q84をどう読むか」の批評のなかで特に吉之助の興味を引いたのは佐
々木敦氏の文章でした。居心地の良い自我のなかで自足していた「僕」が思い
がけない事件によって外界へ自己を展開することを強いられていく・そのよう
なパターンが村上文学だと世間では思われているが・実はそうではないと佐々
木氏は言うのです。村上文学の「主人公=僕」はひとの気持ちが分からない人
間である。自分が外界に対して不感症であることに本人は気が付いていて、こ
れではいけないと思う。そこで主人公は色々するのだが、やっぱり彼は変るこ
とはないと佐々木氏は言います。

『なぜ彼は変れないのか。それはつまり、実のところ、彼には何故「これでは
いけないか」のかさえ、本当はまったく分かっていないからだ。それが「人の
気持ちが分からない」ということなのである。だから彼には、分かった振りを
してみる・分かったことにしてみる、ということしか出来ない。そうすると何
だか自分でも、分かったような・分かっているような気がしてくるから不思議
だ。そしてここがポイントなのだが、そこに誰か(他者)がやってきて、こう
言ってくれるのである。「やっと分かったわね」と。でも本当は、彼は分かっ
てなどいないし、分かりたい気持ちがあったとしても、どうしても分かれない
のだ。』(佐々木敦:「リトル・ピープルよりレワニワを」 ~「村上春樹・「
1Q84」をどう読むか」に所収)

吉之助は村上春樹について予備知識を全く持ち合わせていませんが、吉之助が
感じたことは「これは黙阿弥とまったく同じだなあ・・」ということでした。
黙阿弥の主人公も、何だか漠然と「今の自分ではいけない」と感じており・変
りたいと感じているのですが、何をしたらいいのかを彼は全然分かっていない。
ところがそこに突発的な事態が起こって・状況は彼にとってとても悪い方に巻
き込まれていきます。「どうしてこうなっちゃうの」とボヤきながら、突然開
き直るような形で彼は決断するのです。大抵の場合彼は泥棒になっちゃうわけ
です。結局彼は破滅する破目になるのですが、その時に他者が登場して「君も
やっと真実が分かっただろ」と言うのです。でも彼には自分があのままでいて
良かったとはとても思えない。ホントは自分が何をしたかったのか・何をする
べきだったか も死ぬ間際までやっぱり分からない。疑問は最後まで重く残った
まま終わる。それが幕末期の黙阿弥のドラマなのです。時代背景もシチュエー
ションももちろん全然違いますが、この辺が吉之助が村上春樹を読む取っ掛か
りになるかなあ・・・と佐々木氏の文章を読んでそう思ったわけです。おかげ
さまで吉之助も「それならば村上春樹を読んでみようか」という気にやっとな
りました。

そこで最初の村上作品として吉之助が読み始めたのは「ねじまき鳥クロ二クル」
(1992~94年)です。この作品を選んだのは、ひとつには本作が当初は
2部構成で書かれて出版され・その1年後に続編の第3部が追加されたという
「1Q84」と同じ経過を辿っているからです。現時点ではまだ第2部を読んで
いるところですが、ここで本稿を書いているのは・全編読み終わった後では書
けないことがあるようだということで書いてるのです。作者解題をまず読んで
から作品を読み出した途中のご感想です(吉之助は同時代文学批評をする気は
ありません)が、この作品はとても面白いと思います。ノーベル賞に値するか
は分かりませんが(ノーベル賞がどういう基準を持っているのか分からないか
ら)、このような作品が世界中に読者を得ているのは素晴らしいことだと思い
ます。

吉之助が思うには「ねじまき鳥ク ロ二クル」は(他の村上作品も恐らく同様で
しょうが)文体は軽い感じに見えて・表面上テンポ良く筋が進むけれども、そ
の描いているものはとても重たいものであると強く感じます。主人公が対峙し
ているものの正体は分からぬが、それは主人公の胸に詰まる感じで重く圧し掛
かっており・ピリピリした感覚もあり、それは主人公に決定的な作用を及ぼし
ています。それは正体が分からぬからそう感じるわけで、正体が分かっちゃう
と第三者から見ると案外つまらないものであったりするので・これはエンディ
ングが結構難しそうです。そういうツマランものが個人を強く縛っているとい
うこともよくある話かと思います。しかし、それはそのツマランものと主人公
が対峙しているということではなく、実はそのツマランものは背後にあるもの
が操るツール(道具)に過ぎないのであって、その背後にあるものはやっぱり
分からないのです。吉之助が思うところではこの何かしら曖昧ではあるがグッ
と重く圧し掛かる感覚は現代作家には絶対的に必要なもので、これがあるから
村上春樹は世界に通用していると確信的に納得させられるものです。

これはまあ吉之助の村上春樹の黙阿弥的理解ということですが、「三人吉三廓
初買」の三人の吉三郎の物語(侠客伝吉因果譚)などはまったく村上的世界に
ありそうに思えます。(「十六夜清心」なども同様です。)三人 の吉三郎の物語
にもグッと胸のうちに重く圧し掛かる感覚があります。(本稿では話題として
外れますが、歌舞伎はこの感覚の表出のために世話の技巧を研ぎ澄まさねばな
らないことを言っておきたいですね。別稿「様式的に写実する」をご参照くだ
さい。黙阿弥の世話の感覚は村上春樹の軽い文体に通じるものがあるのです。)
ただし黙阿弥は「三人吉三」において並行する形になる文里女房・おしづの恩
愛の物語(通客文里恩愛噺)で見事に感覚的なバランスを取っています。他者
というものはどちらの表情も併せ持っているのです。どちらの表情を見せるか
は全然分からないのですが、それを相手任せにして・ただなす術もなく右往左
往するのではなくて、「もしこちら側がイ二シアティヴを取ることができるな
らば・・」と考えることはとても大事なことなのです。(別稿「因果の律を恩
愛で断ち切る」をご参照ください。)後者の筋は歌舞伎ではもはや顧みること
がありませんけれど、黙阿弥・あるいは幕末という時代を考える時に重要な意
味を持つのです。吉之助は「三人吉三」での作劇術の巧みさとともに・黙阿弥
の背後にあるものの重さを考えざるを得ませんでした。村上春樹は「ねじまき
鳥ク ロ二クル」第3部でどういう展開を見せるのでしょうかねえ。そんなこと
をフッと考えるのも、実に吉之助的思考ということになりますけどねえ。

(本稿は平成21月10月2日時点で書かれたものです。)

ーーー<今回の話題・2>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

村上春樹・または黙阿弥的世界・その2

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1)

「20世紀最大の奇蹟の人」とも呼ばれ・数々の予言で知られるエドガー・ケ
イシー(1877~1945)は・その当たったとされる予言も含めて・数多
い記録を残しましたが、そのなかでケイシーは自分は未来の映像を見ているの
ではなく・意識の世界のあるところに保管されている「アカシア年代記」(De
r Akasha-Cronik)という記録を読みに行って・そのなかの事柄をそのまま伝え
ているにすぎないということを語っています。「アカシア年代記」というのは
ドイツの神智学者ルドルフ・シュタイナーが語って有名になった概念ですが、
宇宙の誕生から終焉まで(つまり過去から未来まで)がデータバンクのように
記されたもので・すべての物事は年代記が記する通りに動 くと・古くから言い
伝えられているものです。ちなみに年代記(クロニクル)は一般に編年体で書
かれた歴史書のことを言いますが、まあイメージとして・その起源から終末ま
での出来事を時の流れに沿って記した記録と考えてよろしいでしょう。「アカ
シア年代記」などと言うとオカルトのようであり・未来はすべてあらかじめ決
められているのかと思うかも知れませんが、そうではありません。これについ
てはA・W・ゴムが言うことがまったく正しいと思います。

『神々は未来を知っているが、定めることはない。神々は次回のスコットラン
ド対イングランドのサッカー試合でどちらが勝つか知っている。だからと言っ
て、勝敗が選手たちの技術と気力と体調と、そして幾分かはツキ次第で決まっ
てくるという事情に何ら変わりはない。』(A・W・ゴム:「アリストテレスと
悲劇の人間像」(1962))

まあそれはともかく・もの書きが文章を書く時に各人それぞれ書き進めのスタ
イルがありますが、ひとつのスタイルとして頭のなかにある設計図(それはちょ
うどクロニクルのようなものです)に沿って、書くというより書き写す・ある
いは編集するという状態になることもあるものです。小説を書くのに熱気ある
いは勢いが必要なことも確かにあります。しかし、小説のタイプによってはそ
うではなくて・むしろその佇まいが大事になることがあります。形式あるいは
様式という言葉を使っても良いのですが、それだと何だか枠型(パターン)の
ようなイメージになりそうなので、ここではやはり佇まいということにしてお
きます。佇まいということは長い期間をかけて熟成される長編小説の場合に特
に大事なことです。作品が長大になればなるほど読者から構造は見えにくくな
ってきますから、その時に作品の流れを維持するものが佇まいなのです。長編
小説を執筆する時、推敲の段階で文章はいろいろ形を変え、時に筋が大幅に入
れ替わることがあります。しかし、作者は頭のなかに保管されているクロニク
ルに常に立ち戻って書き進めていきますから決して作品の内容はぶれることは
ありません。その時に作品の流れを整えるのが佇まいの感覚です。ですから 「
小説は筋(ストーリー)がすべてだ」とお考えの方は読み手の立場では多いと
思いますが、書き手にとっては実はそうではないのです。出版された時にたま
たまそういう筋で固定していたというだけのことです。別の筋を用いても同じ
内容 の作品がいくつも書ける・書き手にとっては両者に大した違いはない・そ
ういうものなのです。

2)

『「ねじまき鳥クロニクル」という作品は僕の作家としてのキャリアの中では、
ひとつの転換点として機能していると思う。つまりこの作品を書く前と、この
作品を書いたあととでは、僕の作家としてのあり方がずいぶん違っているとい
うことだ。「ねじまき鳥クロニクル」以降の僕の作品が、都会的なソフィステ
ィケーションや軽みを徐々に失う方向に向かっていったのは確かだ。そのかわ
り「何かと関わり合っていく」という意志のようなものが、登場人物の中に少
しづつ見受けられるようになっていく。』(「ねじまき鳥クロニクル」作者解
題)

村上春樹は「ねじまき鳥クロニクル」が作家としてのキャリアの中での転換点
であると自ら位置付けています 。吉之助は村上春樹の作品を「ねじまき鳥クロ
二クル」以外にまだ読んでませんが、作者の言う「転換点」が第3部執筆にあ
ったことは、これは作品を読めば吉之助にもはっきり分かります。この作品が
第1部・第2部で完結していたならば作者にその転換は訪れなかったと断言で
きます。それほど第1部・第2部と第3部の印象はかけ離れています。そこで
本稿では作者がなぜ「ねじまき鳥クロニクル」第3部を書かねばならなかった
かを考えてみます。吉之助は同時代文学批評はしないと言っているのに批評め
いて恐縮ですが、吉之助はねじまき鳥が何の象徴か・井戸は何を意味するかな
ど精神分析的な解釈に興味はないのです。そういうことは読む人によってそれ
ぞれ意味が変って良いものですから。本稿では作品の主題を論じるのではなく
・作者に第3部を 書かせた心情の在り処を考えたいのです。そのために内容に
多少立ち入ることになるでしょう。まず作者解題をもとに「ねじまき鳥クロニ
クル」の成立過程を簡単に追います。

・第2部まで全体がほぼ出来上がった状況で、まず第1部を文芸誌「新潮」に
1992年10号から93年8月号まで10回の連載。その間に第2部の推敲が
進められて、第2部とまとめて新潮社から単行本が刊行されたのが1994年
8月。作者は最初の一行を書き始めてからここまでに3年を要したと書いていま
す。
・第3部は作者の回想によれば1993年末頃から書き始められ、完成稿が上
がったのが1995年4月頃。1995年8月に新潮社から第3部刊行。

作者によれば「ねじまき鳥クロニクル」はもともと第1部と第2部で完成した
はずのもので、第3部は当初の構想のなかになかったものでした。ところが第
2部まで出来上がり・原稿を寝かせて・手直しを施しているうちに、作者のな
かに第3部を執筆しなければならないものが涌いてきたということです。とこ
ろで第3部が発表された後、第3部 について「突拍子のない結末」であるとと
まどう声や、第1・2部とのつながりの悪さを指摘する感想が巷間少なからず
あったようです。評論家吉本隆明は「消費のなかの芸」のなかで「第三巻は全
体的な印象で言えば親切極まりない解決篇ということである・親切すぎて蛇足
に近いと思われた」というようなことを書いています。確かに第3部は文体か
らして調子が前半と異なるところがあり・そのような印象を持つのも分からな
いこともありません。しかし、それは第1・2部と第3部をまとめて全体で連
続したひとつの作品として見ようとするからそう感じるのです。作者自身は次
のようなことを書いています。

『いずれにせよ長期的に見れば「ねじまき鳥クロニクル」第1部・第2部と第3
部とのあいだに1年あまりのタイムラグがあったという事実は、読者にはだんだ
ん忘れられていくだろう。新しい読者には、それは最初から「3部でひとつ」
という切れ目のない読み方をされていくだろう。僕としてはそれでまったく構
わないと思う。』(作者解題)

「3部でひとつ」で読んでもらって構わないと作者は言います。これは「製品
にお気付きの点あれば全面的に責任を持ちます」と言っているようなもので、
まあ作者の読者に対する優しさみたいなものです。しかし、うがってみれば・
これは作者のズルさかも知れませんねえ。エンタテイメントとして楽しんで読
む分には全然問題はありませんが、作者と対峙する真剣な読み方をする場合に
は1年あまりのタイムラグという事実を踏まえないと本作の印象はかなり様相が
変化すると思えます。そこのところは作者としては隠しておきたいのかも知れ
ません。

吉之助は第2部を読み終わった後で・しばらく時間を置いて、「ねじまき鳥ク
ロニクル」は第1部・第2部で完結したというイメージで・まず作品のことを
考えてみることにしました。作品のなかで仕掛けられた謎の大半が未解決のま
まで放置されているようです。これは吉之助にはとても奇妙な感覚でしたが、
謎を謎のままに残すというエンディングがどうも村上春樹好みのスタイルのよ
うです。それでは作品が閉じた(終結した)形がどこに見えるかと言えば、な
るほど登場人物のうち・加納クレタと笠原メイが主人公に別れを告げに来たこ
とで結末の段取りは確かに取られているのです。「さようなら、頑張ってね。
応援してるからね」という感じで周囲の人物が離れていくのです。そうやって
主人公はひとり取り残される。ひとりぼっちになった主人公は周囲の状況を改
めて見回します。夏の日のプールの水面に浮かびながら・主人公は「結局この
問題は自分自身の手で解決していかねばならないんだなあ」ということを考え
るのが第2部のエンディングです。ただし、この時点で主人公は闘争への決意
というところまで行っていないようです。「クミ子を取り戻すことは自分自身
が闘うことでしかなされないのだなあ」ということが自分のなかで次第に自覚
されてきたという状態です。このような形で小説が終わるのは吉之助も詰めが
甘い感じを多少持たないわけではないですが、まあこれは多分好みの問題に過
ぎないのでしょう。別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界」のなかで触れまし
たが、主人公は漠然と「 このままでは自分ではいけない」と感じており・変り
たいと感じてはいるのだが・何をしたらいいのか彼には依然として分からない
という第2部のエンディングは確かに村上春樹的な小説の閉じ方なのです。た
だし「ねじまき鳥クロニクル」の場合には満州国とノモンハンに絡む間宮中尉
の回想という非常に重苦しい筋が交錯するので、読み手に圧し掛かる感覚が作
品全体を通じて強く漂っています。状況がひたひたと主人公の足元に忍び寄り
・主人公をがんじがらめにする印象が作品の基調としてあります。これは正体
の知れぬ圧倒的な悪意・底なしの憎悪のようなものです。その重苦しい印象は
最後まで残ったままです。主人公はその悪意の存在を確かに感じ取っています。
しかし、第2部のエンディングの時点ではその正体は依然として分からないま
まであり、主人公はそれに反抗する決意をまだ剥き出しにしていません。主人
公がやがてその結論に至るであろうことはほのめかされていますが、それ以上
ではないようです。

ところが第3部では主人公が正体の知れぬ圧倒的な悪意に対し着々と戦いの準
備を進める強い意志が冒頭から感じられます。その方法で敵に勝てるのかどう
か分からぬが、とにかく主人公は闘う決意を明確に見せており、自分なりに敵
を追い詰める段取りを淡々と進めています。これが「ねじまき鳥クロニクル」
第1部・第2部と第3部の印象を決定的に分けるものです。ですから筋(スト
ーリー)的には連続しており・続編の体裁は取っていますが、吉之助には第3
部はほとんど別の作品と考えた方が良いくらいであると見えます。要するに第
1部・第2部と第3部の間にははっきりと大きな断層があるのです。これが1年
あまりのタイムラグが作品にもたらしたものです。「3部でひとつで読んでも
らって構わない」と作者が言うのは・別の筋でも同じ作品が書けるという書き
手の立場から見れば 第1部・第2部も第3部も質的に同じ位置に置かれるから
そんなものなのであるし、作者としてはそれが正直な気持ちであると思います。
しかし、書き手の核心に触れるためには第3部はストーリーが不連続な別の作
品であると考えた方がやはり良いように思います。

3)

第1部・第2部で仕掛けられたプロットの大半が未解決のままに置かれている
ことは先に触れました。なぜ妻のクミ子は突然家を出て行ったのか、義兄の綿
谷ノボルはその失踪にどこまで係わっているのか、主人公はどのようにしてク
ミ子を取り戻すつもりなのかなどという謎です。これらの謎の解明の糸口とし
て第3部を書き始めるのは続編である以上当然のことです。しかし、これらの
謎に決着を付けることが作者に第3部の執筆をさせた直接の動機ではないので
す。作者が第3部を書かせたものは全然別のところにあり、それが作者を内側
から突き動かして第3部を書かせたと思えます。吉之助は第3部の小説のスタ
イルが前半とまるで違ったものになっていることにちょっと驚きました。吉之
助は前半の第1部・第2部までだと評価を保留したい感じを多少持ったのです
が、第3部を読んで・村上春樹の作家としての技量は やはり卓越したものだと
確信せざるを得ませんでした。

第3部は主人公が義兄の綿谷ノボルと対決し・クミ子を取り戻すための闘いを
主筋としますが、間宮中尉と笠原メイの手紙が継続的に並べられ・これで三本
の筋が並行して進む形となっています。さらにナツメグの父親の南京の動物園
の虐殺のエピソードがありますが、これはまあ間宮中尉のエピソードの補完と
考えて良いでしょう。間宮中尉の手紙は満州国から終戦後にシベリア抑留とな
 り帰国するまでの回想が綴られており・事象としてはもちろん過去になります。
しかし、間宮中尉が手紙をしたためた時点からみれば主人公の時系列にまった
く沿っています。一方の笠原メイの手紙はまったく天真爛漫に自分の感じたこ
とを書き綴っており・主人公の闘争とまるで関係ありません。しかし、これも
笠原メイが手紙をしたためた時点から見れば主人公の時系列と並行しているの
です。これらの手紙は主人公の思考行動と関係ないところで書かれています。
しかし、何となく呼び合い・互いに引き合い・つながっている不思議な感覚が
あるのです。そして バラバラなのに何となく連動しているような感じがあり
ます。間宮中尉の手紙の内容はやりきれない絶望のなかで書かれたとても重苦
しいものですが、笠原メイの手紙を読むとその重苦しさから読み手はちょと和
らげられます。こうして 読み手は主人公とともに闘いへの新たな段階を一歩進
めることができる。そのような形で三本の筋が並行して作品が進みます。つま
り三人は離れてそれぞれバラバラに生きているのですが、何となくひとりぼっ
ちではなく・つながっている感覚があるのです。このうながっている感覚が最
後の最後に外界との交信を拒否して閉じこもっていたクミ子を感応させ・突如
クミ子を行動させることになります。クロニクル(年代記)というのは編年体
で記されたものを指すということは本稿冒頭で触れた通りです。同じ年に起こ
った事象は全然別個の事件であっても同じ位置に記すのがクロニクルです。そ
れらを時系列に並べてみた時に バラバラのパーツがつながってモザイク的に浮
き上がって見えてくるものから歴史というものを考えさせるのがクロニクルの
役割です。第3部はそのようなクロニクル的な構造を取っているのです。これ
は第1部・第2部にはあまり意識されていなかった構造です。このことが文章
の主格の変化に明確に現れます。第1部・第2部では「僕」という一人称で筋
がほぼ展開するわけですが、第3部では章ごとに主格がコロコロと変り・時に
誰が主体であるかが分からなくなってきます。実は主体の境目を曖昧にするの
が作者の仕掛けなのです。そして最後に大きな破局(カタストロフ)が来ます。
第3部の最後で主人公は水のない井戸から壁抜けし・綿谷ノボルとの闘いの行
動を起こすのですが、ここでそれまでの構造がすべて溶解して・ひとつになっ
てしまいます。このような仕掛けは意図してその通りに出来るような容易なも
のでは決してありません。

4)

破局(カタストロフ)と言うと第3部最後に暗闇のなかで主人公は義兄・綿谷
ノボルを殺し・クミ子を取り戻すことができた・これは勝利ではないのかと反
論する方がいるかも知れません。確かに小説的にはそれで決着が付いているよ
うに見えますが、吉之助にはこれはとても勝利には思えませんねえ。現実だか
幻想だか分からないところで主人公は憎しみの対象である義兄を怒りを込めて
野球のバットで叩き殺します。そのことで主人公は何かの一線を越えてしまっ
た・つまり主人公は暴力を振るった・殺人をしちゃったわけです。この事実に
その後の主人公は向き合わなければなりません。主人公はその罪を背負わなけ
ればならないのです。聞くところでは作者は当初の構想として・義兄殺害後の
主人公が水の湧き出した井戸のなかでおぼれ死ぬ結末を考えていたとのことで
す。選択肢としてその結末は当然あり得ることです。実際の小説の結末はクミ
子が義兄を殺し・その罪で収監されることになっていますから、クミ子が主人
公の罪を代わって背負う形になっています。このため主人公の背負うべき罪悪
感が希薄になったきらいはありますが、主人公の何かに感応してクミ子が 自ら
闘って失踪の状況から脱出したという結末はその後のふたりの未来に何かしら
希望を暗示しているようです。まあこの方が作品としては確かにオチが良ろし
いかも知れません。

ところで本稿では作者が第3部を書かせたものは第1部・第2部の謎の解明か
ら引き出されたものではないということを検討しているわけです。これは火山
が噴火して噴煙やら溶岩などを俊出させて一旦活動が納まった後、しばらくし
て別の離れた場所が隆起して地割れが起こりそこから噴火が始まるというよう
なものです。どちらの噴火も同じマグマ溜りから起きているのですが、外から
はまったく別の噴火と見えるし、事実そうなのです。吉之助がこの場所から別
の噴火が起こると感じるのは、第2部「予言する鳥編」の3章で主人公に対し
て失踪した妻クミコを捜すのはあきらめて離婚しろと迫る義兄・綿谷ノボルに
対して主人公が次のようにはっきり言い返す場面です。

『いいですか、僕はあなたが本当はどういう人間かよく知っています。あなた
は僕のことをゴミや石ころのようなものだと言う。そしてその気になれば僕の
ことを叩きつぶすくらい朝飯前だと思っている。でも物事はそれほど簡単では
ない。僕はあなたにとっては、あなたの価値観から見れば、たしかにゴミや石
ころのようなものかも知れない。でも僕はあなたが思っているほど愚かじゃな
い。僕はあなたのつるつるとしたテレビ向き、世間向きの仮面の下にあるもの
のことを、良く知っている。そこにある秘密を知っている。その気になれば僕
はそれを暴くことができる。白日のもとに晒すこともできます。そうするには
時間はかかるかもしれないけれど、僕にはそれができる。僕は詰まらない人間
かも知れないが、少なくともサンドバックじゃない。生きた人間です。叩かれ
れば叩きかえします。そのことはちゃんと覚えておいたほうがいいですよ。』
(「ねじまき鳥クロニクル」第2部・3)

後で主人公は「僕の言ったことはほとんどがはったりだった・僕は綿谷ノボル
の秘密なんて何も知らなかった」と白状しています。それにも係わらず主人公
がそのような言葉を義兄 にぶつけたということは、もちろん「コンチクショウ」
という感情が言わせているのです。この感情が第3部の火種に違いありません。
 第1部・第2部のなかではこの感情は義兄に対する主人公の得体の知れない不
快感として描かれており、明確に憎しみ・敵意として描かれているわけではあ
りません。しかし、この不快感は間宮中尉の満州での体験談と重なって第1部
・第2部全体に重く暗く圧し掛かっており、それが次第に主人公を追い詰めて
いきます。この不快感に対して主人公が「叩くならば叩きかえす」という反応
をするのが第3部ということです。「叩くならば叩きかえす」という行動に出
ることで主人公はある一線を越えるのです。ここに作者の論理展開のワープが
あります。作者は「ねじまき鳥クロニクル」が自らの作家としてのキャリアの
中での転換点となったと言っていますが、そうならば・作者がそう考えた転機
とは「叩くならば叩きかえす」という論理展開に違いありません。

ところで「叩くならば叩きかえす」という反応は単純かつ純粋な自己防御反応
であって、自分に向かってくる相手の手を無意識に振り払うようなものです。
それは自分に向かってくる敵意・憎しみの対象を意識してはいます。しかし、
彼にとってみればそれは彼が欲して取る敵意ではなくて、相手が向かってくる
から 無意識に防御的に取る敵意なのです。だから自分が悪いのじゃない・相手
が悪いからだという言い訳は立ちますが、叩いてしまえばそれは行為として同
じ次元に落ちてしまいます。結局、主人公は現実だか幻想だか分からないとこ
ろで義兄を野球のバットで叩き殺すのですが、ここで 主人公の立場が問われる
ところです。実は作者は妻クミ子失踪の筋に間宮中尉の満州での体験談を絶え
間なくクロニクル的に重ねていくことで、憎しみの方向を義兄・綿谷ノボルに
ストレートに向かないように工夫しています。よくよく読めば綿谷ノボルがど
れほどの悪なのか・そんな具体的なことはどこにも書いてありません。ただ間
宮中尉の回想に出てくる皮剥ぎボリスのイメージが鳴り響いて・それが勝手に
綿谷ノボルに重なっていくだけです。小説の筋としては義兄の殺害として決着
が付いているようですが、それさえも現実か幻想だかよく分かりません。です
から主人公の敵意・憎しみはある明確な対象に向かって放たれる個人的な敵意
・憎しみではなく、これは作品全体としてはもっと漠然として大きい全人類的
な敵意・憎しみなのです。そのなかで「叩きかえしてやりたい」という気持ち
が主人公に実に強く出ています。しかし、ホントに「叩き返して」良いかとい
うのはこれはまた別の話です。

ところでここまで敵意・憎しみと言う言葉を使いましたが、これは対象と方向
が明確な場合に使われる言葉で・小説の場合にはそうなるのはストーリー上仕
方がないことですが、吉之助 としては本当はここでは「憤(いきどお)り」と
いう言葉を使いたいところです。持って行き場のない怒り・身の置き場のない
ような憤懣が「憤り」です。第3部で主人公が感じている感情はホントは「憤
り」という言葉で表現するのがもっともふさわしいものです。それは時代や場
所を越えて、自分が理由もなく虐げられていることへの怒り、自分があるべき
状態で正しく納まっていないことへの憤懣です。これ以後このモティ-フが村
上作品を大きく転換させることになると思います。「最後の最後になっても自
分はどうして良いかやっぱり分からない」だけではなく、村上作品の主人公は
そのような閉鎖された状態に次第に「憤り」を感じるようになっていくでしょ
う。

このことは先日(2009年2月15日)でのエルサレム賞受賞での作者のス
ピーチによく表れています。「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れ
る卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」という言葉です。文学的 な表現で
すが、これは「僕は詰まらない人間かも知れないが、少なくともサンドバック
じゃない。生きた人間です。叩かれれば叩きかえします」という主人公の感情
と同じじところから出ています。ですから「ねじまき鳥クロニクル」以降 の作
家村上春樹は「叩くならば叩きかえしてやる」という憤りを描く方向に進んで
いくようにも思います。繰り返しますが、「叩きかえしてやりたい」と思うこ
とと 、ホントに叩き返すことはまったく別の次元の話です。「憤り」をどう持
ち続けるかということが大事なのです。

吉之助がこのようなことを考えるのは、本年(平成21年)ベストセラー本「
1Q84」の続編(第3巻)が来年夏ごろの出版を目指して目下作者が執筆中で
あるからです。「1Q84」については出版直後から第3巻執筆を予想する声が
 巷にかなりあって(ひとつにはそれは「ねじまき鳥クロニクル」という先例が
あったからですが)、その理由として「1Q84」全2巻に散りばめられた伏線
の多くが 解決されぬまま放置されているということがしばしば挙げられていま
す。まあ続編の筋の想像 は読者の知的お楽しみのひとつですから・それはご自
由になされば良いことですが、吉之助が思いますのは「1Q84」全2巻の解決
されないままの伏線の延長線上に第3巻が すんなりと立つはずはなかろうと思
います。またあってはならぬと思います。もちろん続編は前編の伏線を使って
書き出されるでしょう。しかし、延長線を引くことが続編の動機であるはずは
ありません。作品というのは必ずしもそのような流れの上で順序立てて出来る
ものではないのです。内側 に膨れ上がった熱いものが外殻の弱いところから裂
けて出てくるもの・そのようにイメージした方が良い場合があるのです。

「1Q84」はそれぞれの巻が24章で成り立っており・天吾と青豆というふた
りの主人公の章が交互に来るという構成を取っていますが、これはバッハの「
平均律クラーヴィア曲集」全2巻で長調と短調のフーガが交互に並べられて 各
巻24曲となる構成を模している そうです。いわば構成のなかに「完全」をイ
メージしているわけです。だから作者は全2巻で作品は完結という構想で書い
て おり、作者のなかではすべての決着が付いているはずなのです。その「完全
な構成」を第3巻を書いて自ら壊そうというのですから、これは作者は相当の
覚悟をしなければそれを書けぬはずであるし、またそうでなければ困るのです。
それは伏線の回収・謎の解決などという形で出る ものではないと思いますねえ。
まあ「ねじまき鳥クロニクル」第3部を見れば、「1Q84」第3巻でも作者は
そのような期待に応えてくるものと思います。

5)

ところで本サイトは「歌舞伎素人講釈」ですから・何でも歌舞伎にこじつける
ことで本稿を終わることにします。別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界」で
触れましたが、村上春樹の主人公も・黙阿弥の主人公も、何だか漠然と「今の
自分はこれではいけない」と感じており・変りたいと感じているのですが、何
をしたらいいのかが彼は全然分かっていない。ところがそこに突発的な事態が
起こって・状況は彼にとって非常に悪い方向に巻き込まれていきます。「何で
こうなっちゃうの」とボヤきながら、突然開き直るような形で主人公は決断す
るのです。このような突発的な事態はなぜ起こるのでしょうか。星占いも 四柱
推命学もバイオリズムも最悪の日なのか。思い出せばそんな日も思い浮かばな
いことはないですがねえ。

村上春樹関連の評論を読んでいて「日常性からの逸脱」という言葉を目にしま
した。また「パラレル・ワールド」という言葉も見かけました。要するに「平
凡な日常を流されるままに何となく生きてきた主人公がフトしたことで別世界
のなかに入り込み・・」という感覚だと言いたいのだろうと思います。まあそ
ういう読み方も確かにあると思いますが、吉之助は日常と異なる「非日常」が
別に存在するというのではなく、「この世界はもともと歪んでおり一定ではな
く絶えず揺れており・ある瞬間において世界はまったく別の様相に見える」と
いうのが村上ワールドであると思いますが、そうではないのですかねえ。吉之
助は黙阿弥も同じだと思います。黙阿弥の「十六夜清心・百本杭」で 清心は何
をやってもドジばかり・人を誤って殺してしまうわ・死のうとして川に飛び込
んでも死ねないわ。その清心が短刀を腹に構えたまま、「・・・しかし、待て
よ。人間わずか五十年、首尾よくいって十年か二十年が関の山。つづれを纏う
身の上でも金さえあれば出きる楽しみ」と言います。ここで世界がぐううーっ
と大きく転換します。世界はまったく違う様相を呈してきます。世界は何も変
っていない。しかし、主人公の内面の何かが変り始め たのです。だから世界が
変って見える。そういうことだと思いますねえ。いつぞや別稿「桜姫・断章」
で映画監督ロッセリーニの言葉を引用しました。

『人生におけるあらゆる経験には転機というものがある。それは経験あるいは
その人生の終わりではなく、あくまで転機だ。私の作品の結末はどれも転機だ。
そしてそこからまた始まる。しかし、何が始まるかは私にも分からない。』

「ねじまき鳥クロニクル」は第1部・第2部までであると、主人公は「変だな
あ・なんだか自分の周囲の光景が分かっているなあ」という状況で終わってい
るようです。まあこれが村上春樹的小説の閉じ方の通常パターンなのだろうと
思います。多分この作者はとてもシャイなのですね。しかし、「ねじまき鳥ク
ロニクル」第3部では「・・・しかし、待てよ」が確かにあると思います。こ
こにはっきりと転換点が見えます。これは黙阿弥的転換ではないでしょうかね。
作者の内的変化が作品の表面に尖がるようにはっきりと現れ始めた・吉之助に
はそのように感じられるのです。

(本稿は平成21年11月22日に書かれたものです。)

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