2009/08/02
メルマガ「歌舞伎素人講釈」第254号
********************平成21年8月2日発行****
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メルマガ「歌舞伎素人講釈」 第254号 ◎
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こんにちは、吉之助です。歌舞伎の台詞のリズムを検証する「アジタートなリズ
ム」も連載6回目となりまして、本号では黙阿弥の七五調を取り上げます。この
黙阿弥の七五調の項がある意味では本論「アジタートなリズム」のクライマック
スということになりましょうか。というのは歌舞伎のリズムというのはいろいろ
バリエーションはあれど・すべて「アジタート」の概念の上を転回しているもの
なのですが、アジタートなリズムの最も洗練されたパターンは「揺れるリズム」
・つまり歌舞伎の台詞で言えば黙阿弥の七五調ということになるからです。
黙阿弥の揺れるリズムとは何か。それは以下をお読みいただきたいと思います。
ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
○アジタートなリズム
~歌舞伎の台詞のリズムを考える(第6回)
------------------------------------
○アジタートなリズム・その23:黙阿弥の七五調・1
まず最初に一般論として七五調を考えてみたいのですが、短歌や俳諧を例に挙
げるまでもなく・遠く神代の昔から七五というのは日本語によくマッチする形
式であるとされているわけです。日本語は言葉の調子を整えようとすると、そ
れは自然と七五の調子に極まってくるようです。謡曲においても、例えば「高
砂」での有名な『高砂や。此浦舟に帆をあげて。月もろともに出で汐の。波の
淡路の島影や。遠く鳴尾の沖すぎてはや住の江に着きにけり。』の文句は完全
に七五の調子になっています。人形浄瑠璃・歌舞伎においても台詞の調子の良
いところは大抵七五に成っていると言っても良いわけですし、役者の仕勝手と
して・台詞を七五に調子を整えて言い易くすることはしばしばです。
しかし、七五調の様式的な台詞ということになれば・それはまず黙阿弥の七五
調を指すということになると思います。何せあのベストセラー本「声に出して
読みたい日本語」(斉藤孝著)のトップは黙阿弥の弁天小僧の「知らざあ言っ
て聞かせやしょう」であるくらいです。それ以前の・例えば謡曲あるいは人形
浄瑠璃の詞章を「七五調の様式」として論じることはまったくないわけです。
それらは結果として七五に極まってしまった詞章であると考え られているわけ
で、それらを作者が意図的に七五調の様式で書いたものとは誰も見なさないわ
けです。それは正しい見方であると思いますが、そうすると幕末の・江戸歌舞
伎のまさに最後の最後になって・黙阿弥の「様式としての七五調」が成立した
ということになる。どうして歌舞伎の黙阿弥以前に七五調の様式が成立しなか
ったのでしょうか。そうであるならば黙阿弥の七五調の様式の台詞と、それ以
前の七五の調子に整った台詞を同じように捉えて良ろしいのでしょうか。
この疑問に解答を与えてくれる論文を・少なくとも吉之助は読んだことはない
ですねえ。一般に黙阿弥の七五調の様式の台詞は・それ以前の七五の調子に整
った台詞と同じ性質のものに理解されていると思います。 この考え方に沿うな
らば、自ずと七五の調子に極まってしまう日本語の性質を「七五調の様式」に
まで高めたのが黙阿弥の功績であるということになるのだろうと思います。フ
ーンなるほどねえ。で・・・それでどうしてそれが幕末の・江戸歌舞伎の最後
の最後に出なければならないのですかね。黙阿弥のもっと以前に七五調の様式
が歌舞伎に出てきても良いのじゃないのでしょうか。なぜ幕末江戸の七五調な
のでしょうか。そういうことを考えてみて欲しいと思うのですねえ。
結論から申し上げると、黙阿弥の七五調の様式の台詞と・それ以前の七五の調
子に整った台詞とはまったく次元が異なるものなのです。黙阿弥の七五調は伝
統の形式を表面として踏襲しながら、実はリズム的にまったく性質が違った要
素を持っているのです。それは「アジタート」(急き立てる)のリズムの概念
で解析されるもので、それこそが黙阿弥の七五のリズムを様式的にするもので
す。このことが分かれば、黙阿弥の七五調の様式が幕末の・江戸歌舞伎の最後
の最後に登場しなければならなかった・その必然が理解できます。別稿「黙阿
弥の七五調の台詞術」をご参照ください。
○アジタートなリズム・その24:黙阿弥の七五調・2
別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」において・黙阿弥の七五調のリズムは、七・
五のユニットを等分に取り・そのなかを七と五に割るリズムであること、した
がって七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムであることを考え
てみたわけです。このことは例えば昭和7年2月録音での六代目菊五郎の弁天
小僧の台詞でも聴いていただければ、簡単に分かることです。大事なことは一
音一音の刻みでリズムの差を計ろうとせずに、ユニットの長さで大掴みするこ
とです。7/7と5/5の差異など人間の耳に正確に感知できるものではないです。
大まかな枠でその差異を感知することです。七・五のユニットが同じ長さとい
うことを念頭に入れて・六代目菊五郎の弁天小僧の台詞を聴くと、実に台詞の
リズムが小気味好く耳に入ることに感心すると思います。そして五の部分が若
干緩やかに聴こえるはずです。これが正しい黙阿弥の七五調のリズムなのです。
現代の役者がしゃべる七五調を、同じように七・五のユニットが同じ長さとい
うイメージで聴いてみてください。多分五のユニットが早いように感じられる
と思います。実はこれは聴感上の錯覚で、これが吉之助の言うところのダラダ
ラ調の場合に起きる現象です。実はこれは七五の一音が同じ長さでダラダラと
続いており、結果として七・五のユニットが伸び縮みしているから起きる錯覚
なのです。ですから五のユニットが早く感じられるならばダラダラ調です。
黙阿弥の七五調が、七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムであ
るということは何を意味するでしょうか。この場合七のリズムを基調にして考
えなければなりません。七のユニットの早めのリズムは感覚的にタテ言葉のよ
うなものと考えてよろしいです。(注:「その19・義太夫狂言のリズム」で
のタテ言葉の項を参照ください。)つまり感覚として時代なのです。一方、五
のユニットは・同じ長さを五で割ってゆったりと回すので、ここが世話の感覚
になるのです。このことは例えば「浜の真砂と(七)/五右衛門が(五)/歌に残
せし(七)/盗人の(五)/種は尽きねえ(七)/七里ヶ浜(五)」の場合に、七の
部分を若干高調子に声を持ち(すなわち時代の感覚)、五の部分は低めに持つ
(つまり世話の感覚)となることでも分かるはずです。ですから黙阿弥の七五
調というのはそのなかに時代と世話の揺り返しのリズムというものを持ってい
る のですが、大事なのは五の部分(世話)なのです。しかし、ユニットとして
は等分に出てくるので・全体の感覚はインテンポになっており、それが古典的
な様式感覚を聴く者に与えるということです。
昭和10年代半ばだと思いますが、 六代目菊五郎が「十五代目羽左衛門の黙阿
弥の台詞廻しは世話でなくて・あれは時代世話だ」という趣旨の発言をして物
議を醸したことがあったそうです。十五代目羽左衛門の台詞が世話でないと切
り捨てたわけではなかったようですが、「親父(五代目菊五郎)の言いまわし
とは違う」というニュアンスは確かにあったようです。ご存知の通り・ 十五代
目羽左衛門は五代目菊五郎の甥っ子であり、五代目菊五郎の役柄は実子である
六代目菊五郎と・十五代目羽左衛門のふたりによって継承されました。ふたり
の芸風には微妙な差があって・役どころもあまり勝ち合った印象がありません
が、世間は六代目菊五郎が「生世話の本家はあっちでなくて・こっちだよ」と
言ったという風に受け取ったようで、橘屋贔屓は大いに腹を立てたようです。
しかし、遺された録音を聴いてみれば六代目菊五郎の言いたかったことはよく
分かります。十五代目羽左衛門の台詞はもちろん見事なものです。しかし、十
五代目羽左衛門の台詞はダラダラ調とまでは行きませんが、全体にテンポが 滑
らかで・高調子であり、七のユニットに比重が掛かって・様式的な・つまり時
代の感覚に傾斜していると思えるからです。これでは世話ではなく・時代世話
だと批判したくなる気持ちは吉之助にはよく理解できます。五代目菊五郎は実
子の六代目菊五郎の台詞を聴いても分かる通りで・「六代目は五代目とどこが
似てるかって・・それは声です」というくらいですから、五代目菊五郎が低調
子の人であったことは間違いありません。だから低調子のところに世話(写実)
の感覚があるのです。だから五のユニット(ゆっくり)の部分の言い回しこそ
黙阿弥の七五調を世話の感覚に引く・とても大事な部分となるのです。
一方、現行のダラダラ調は「黙阿弥の七五調は歌うもの」という先入観から来
たもので、わらべ歌にあるような日本古来の二拍子のリズム感覚を基調にして
います。そして七のユニットの方に比重を置いて、ここを高調子で抑揚を付け
て歌おうとします。「歌う」ということは様式的に反写実な行為ですから、自
然と感覚は時代の方に向くことになります。つまり現行のダラダラ調は、本来
写実を志向すべき黙阿弥の七五調を理念としてまったく逆の方向(時代の感覚)
に引いていることになります。
十五代目羽左衛門の台詞は様式を織り交ぜた台詞回しとして確かにそれなりの
評価ができるものだと思います。これは大正期の歌舞伎の保守化現象の流れの
ひとつとして検証ができるでしょう。しかし、十五代目羽左衛門の台詞回しが
現行のダラダラ調の原型になっていることも確かなのです。こういうことにな
るのは本稿冒頭(「その1・リズムの緩急」)で引用した折口信夫の指摘した
通り「歌舞伎ほど台詞のエロキューションに頓着しない芸能は珍しい」という
ことにあるのです。 歌舞伎はフォルムに応じたリズムで台詞をしゃべるという
感覚に実に鈍感であり、役者の自分勝手な言いまわしを「味がある」・「調子
が良い」などと言って許してしまう。役者も劇評家も 観客もそうですから、何
が正しいフォルムかなんてことはすっかり忘れられているのです。基準は自分
が好きか・嫌いかだけ。だから「黙阿弥の七五調は歌うもの」などという誤解
が罷り通ります。
昭和7年の六代目菊五郎の弁天小僧の録音では南郷を男女蔵(三代目左団次)
がつきあってますが、これは世話のお手本がすぐ横にいるというのにダラダラ
調です。まあそういう役者もいますね。六代目菊五郎の側近では、吉之助がよ
く知っている晩年の二代目松緑も十七代目勘三郎も残念ですがダラダラ調で、
芝居はもちろん巧いものでしたが・七五調の台詞はいただけませんでした。恐
らく彼らの脳裏にあったお手本は十五代目羽左衛門の台詞回しであったでしょ
う。そっちの方がどうしても派手で良く思えるのですね。しかし、菊五郎劇団
の生き字引と言われた十七代目羽左衛門はさすがに六代目菊五郎のリズムをし
っかりと継いでおりました。
現代の役者では当代・十代目三津五郎の七五調は正確なもので、さすが大和屋
は伝承がしっかりした家だなあと思います。当代・十八代目勘三郎もなかなか
良いです。恐らくお祖父さん(六代目菊五郎)の録音をよく聴いているのだろ
うと思います 。これは親父さんよりずっと正しい七五調です。ただし勢いが良
過ぎる感じがしますね。吉之助としては全体をもう少しゆっくりめに持って・
五の部分に写実のニュアンスを加えることをお勧めしたいのですが。他の役者
については・・・・まあ触れないことにしておきます。
○アジタートなリズム・その25:黙阿弥の七五調・3
黙阿弥の七五調のリズムとは七・五のユニットを等分に取り・そのなかを七と
五に割るリズムであること、つまり七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺
れるリズムです。「三人吉三」での有名なお嬢吉三の長台詞(ツラネ)を見て
みます。
『月も朧(おぼろ)に白魚の、篝(かがり)もかすむ春の空。冷たい風もほろ
酔ひに、心持ちよくうかうかと、浮かれ鳥(からす)のただ一羽。塒(ねぐら)
へ帰る川端で、棹(さお)の滴(しづく)か濡れ手で泡。思い掛けなく手に入
る百両。(御厄しませう、厄落とし厄落とし)ほんに今夜は節分(としこし)
か。西の海より川のなか、落ちた夜鷹は厄落とし。豆沢山に一文の、銭(ぜに)
と違った金包み。こいつァ春から、縁起がいいわへ。』(「三人吉三廓初買」
・大川端のお嬢吉三の長台詞)
この場合、「月も朧に(七)/白魚の(五)/篝もかすむ(七)/春の空(五)」
となり、ユニットを揃えれば・七が早く・五がゆっくりとなる揺れるリズムと
なるわけです。前節で触れた通り、これを時代と世話の揺り返しであると考え
るならば、七のユニットがやや高調子となり・時代の部分になるわけですが、
ここが大事なのではありません。ここで張り上げて歌おうとするからダラダラ
調に陥るのです。この台詞が世話の台詞だということを忘れてはなりません。
世話の台詞 ・つまり写実の重きを置かねばならぬのですから、五のユニットの
方が大事なのです。この部分はテンポとしては若干ゆっくりめになり、ここを
世話に低調子で・写実にあっさりと処理することで、時代と世話の様式の揺ら
ぎが際立つということです。ですから黙阿弥の七五調は歌うものだというのは
大きな誤解です。
揺れるリズムとは、どういう気分を表現するものでしょうか。揺れるリズムと
は典型的なロマン的心情のリズムです。それはしばしば幻想的で優雅なイメー
ジで捉えられますが、実はこれは緩慢なストレスが掛かった状態であり・ユラ
ユラと物憂げで・明確な形を取り得ない気分です。だんだんとテンポが速くな
り・やがて猛烈な最高速度に達する極度な興奮状態(すなわちアッチェレラン
ドのリズム)を示すこともなく、かと言って・リズムが遅くなり・やがて沈静
していく状態(すなわちリタルダンドなリズム)を示すこともなく、どっちつ
かずに微弱な興奮と沈静の波が交互に慢性的・かつ緩慢に続くのです。
お気付きかと思いますが、このような気分は元禄期の荒事・あるいは和事のリ
ズムともそのイライラしたところのアジタートな気分において根本で共通する
ものです。しかし、荒事の場合は・台詞は時にブツブツ切れ・時に大絶叫・時
には速度を上げてまくし立てるという風にストレスが適度に弾ける場面がある
のです。和事の場合にもフラリフラリと・時に右に行き・時に左に大きく振れ
ながら・それで適度な発散はしているわけです。和事でも時にカツンと来るこ
とはあるのです。 ところが黙阿弥の七五調の揺れるリズムの台詞ではそのよう
なリズムの破綻の場面が乏しいと思います。ストレスが弾け・イライラ気分が
発散されるところがない。上記のお嬢吉三の長台詞を見れば、台詞の破綻(アク
セント)は「厄落とし厄落とし」という舞台脇からの掛け声によって付けられ
ており、お嬢吉三の台詞自身から破綻が発するのではないのです。掛け声が終
わると、お嬢吉三はまた同じリズムで滔々と台詞を続けます。閉塞した気分は
揺れながら漂い・決して解決されることがありません。
揺れるリズムとは典型的なロマン的心情のリズムであると申し上げました。西
洋音楽では揺れるリズムの音楽は19世紀半ば過ぎから盛んに現れます。その
典型的な音楽形式は舟歌(バルカローレ)です。例えばオッフェンバックの歌
劇「ホフマン物語」の第2幕・ベネチアの歓楽街で歌われる有名な「ホフマン
の舟歌」です。「ホフマン物語」はあらかじめ消え去ってしまった愛・求めて
も実現しない愛を描いています。詩人ホフマンが愛する女性は人形(オランピ
ア)であり・娼婦(ジュリエッタ)であり、真実愛する女性(アントニア)は
死んでしまいます。ホフマンは愛するものを手にすることはできません。です
から「ホフマンの舟歌」は 幻想的で美しい旋律ですが、描いているものは死ま
たは虚無なのです。もうひとつ、舟歌では水のイメージが非常に大事です。こ
れもまた死のイメージに深くつながっています。世紀末美術で盛んにとりあげ
られたもので水に関連する題材(モティーフ)のひとつに、恋人ハムレットへ
の恋に悩乱したあげく・気が狂って河に落ちてしまったオフィーリアの死体が
河面を静かに流れていくものがあります。ですから舟歌の揺れるリズムは水の
イメージ・死のイメージなのです。
このことは黙阿弥の七五調を考える時に重要な示唆があると考えねばなりませ
ん。幕末期の黙阿弥の作品(すなわち四代目小団次との提携期である)はどれ
も隅田川のイメージと切り離すことはできないからです。例えば「忍ぶの惣太」
・「三人吉三」・「弁天小僧」・「十六夜清心」・「鋳掛け松」です。黙阿弥
の世話物の舞台となる浅草と隅田川周辺というのは、江戸の二大悪所と言われ
た吉原遊郭と芝居小屋があり、そこは徳川幕府によってまさに「他界」として
位置付けられた地域でした。(別稿「監獄都市・江戸の都市構造」を参照くだ
さい。)また江戸時代には隅田川では実際身投げが多かったようで、「三人吉
三」でも土左衛門伝吉という人物が登場します。伝吉は和尚吉三の父親ですが
昔は盗賊で、 その後改心して隅田川に浮いた水死者を引き上げては埋葬するこ
とをするようになって、それで誰とはなく彼を土左衛門伝吉と呼ぶようになっ
たという設定になっています。(別稿「生と死の境」を参照ください。)黙阿
弥の七五調の揺れるリズムの背後には つねに水のイメージ・死のイメージがつ
きまといます。そこまで考えれば黙阿弥の七五調がどうして幕末期の・江戸歌
舞伎のまさに最後の最後になって誕生したのか・その理由が明確に分かるはず
です。それは 袋小路に追い込まれた幕末江戸の閉塞した気分を反映しているの
です。
お嬢吉三になったつもりで・奪った刀(庚申丸)を手にして隅田川に向かって
ポーズを取って・明るく輝く月を見上げながら長台詞(ツラネ)を言う場面を
想像してみてください。 隅田川はゆったりと流れて、その波は静かに揺れてい
ます。河面には月の光が反射して・それがユラスラと幻想的な光景を見せてい
ます。向こう岸の街の明かりも河面に静かに揺れています。それを見ながらお
嬢吉三が気持ちよく「月も朧に/白魚の/篝もかすむ/春の空」と台詞を言う時、
そのリズムは美しくユラユラと 河面に揺れるのです。これが本当の黙阿弥の七
五調のイメージなのです。
○アジタートなリズム・その26:黙阿弥の七五調・4
黙阿弥の七五調にはストレスが弾けてリズムが破綻する内的要因が見当たらな
いようです。お嬢吉三の長台詞を見れば、台詞の破綻は「厄落とし厄落とし」
という舞台脇からの掛け声によって付けられており、お嬢吉三の台詞自身から
破綻が発するのでは ありません。このことは波のように揺れるリズムの特性に
よります。舟歌ではありませんが・同じく揺れるリズムを持つ代表的な旋律を
例に挙げますと、ワーグナーの楽劇「ジークフリート」第2幕の「森のささや
き」の場面がそうです。ドイツの深い森のなかで・風に静かに揺れる木々のざ
わめきが聴こえてきます。それはジークフリートにとっては顔を知らない母の
胎内にいるような安らぎを覚える心地良さです。ところが、そこに突然小鳥の
声が響きます。小鳥の声はジークフリートに新たな冒険・旅立ちを示唆します。
小鳥の声に誘われるかのようにジークフリートはブリュンヒルデの眠る炎の山
への歩みを始めます。この場合も小鳥の声が破綻の外的要因として働いていま
す。
小鳥の声は二通りの意味を持ちます。ひとつは母の胎内に留まっていれば確か
に安心・安全ではあるのですが、それはジークフリートが原始状態・あるいは
愚鈍な隷属状態に留まることであり、さらなる成長をするために男は歩みを進
めねばならない、小鳥の声は旅立ち・冒険を即す知恵の声であるということで
す。 それは「汝、目覚めよ」という声なのです。もうひとつは、ジークフリー
トが荒波のなかに乗り出していく時、彼は否応なしに世間の権謀術数のなかに
巻き込まれ、それはもしかしたら 最終的に彼を悲劇を導くことになるかも知れ
ないということです。事実ジークフリートは炎の山へ歩み・そこで妻となるブ
リュンヒルデを見出すのですが (そこまでは良いのですが)、続編の「神々の
黄昏」ではハーゲンの陰謀に巻き込まれて・殺され、その死はやがて神々の世
界の破滅を導くことになります。ですから小鳥の声は 彼を破滅へ導く声かも知
れないのですが、同時に一旦それを聞いてしまったら・ジークフリートを内側
から突き動かす強い強制力を持つ声でもあるのです。
お嬢吉三の長台詞での「厄落とし厄落とし」という声にもドラマ的な意味を感
じます。この時にお嬢吉三が手にしている刀(庚申丸)と・そして百両こそが、
まさしくこの「三人吉三廓初買」のドラマ全体を動かし・その後の三人の吉三
郎の運命を引きずりまわす元凶だからです。するとこの時の「厄落とし厄落と
し」は「そんなもの(厄)は早く捨ててしまえ」という天の警告なのかも知れ
ません。それを捨てなかったから三人の吉三郎は悲劇に向かうとも言えそうで
す。この声はまだ主人公を改心させるだけの力は持っていないようです。
しかし、黙阿弥・特に幕末期の四代目小団次との提携作品においては、偶然の
外的要因が主人公の心境変化の大きなきっかけとなって、そこから他動的に変
心していくものが実に多いのです。「十六夜清心」では隅田川の岸で清心は死
のうとしますが、「・・・ちょっと待てよ」と言って変心します。主人公の変
心を即す伏線となるものは、その前に奏でられる清元の旋律です。よそ事浄瑠
璃的に使われているその清元は、その情緒纏綿たる雰囲気によって清心の世俗
への執着を引き出しています。「鋳掛け松」で松五郎は橋の上から船上でドン
チャン騒ぎをやっているのを見て頭に来て「あれも一生、これも一生・・・」
と言って変心してしまいます。偉そうに言っても・どちらの変心も盗賊になる
だけのことです。その先に待っているのは破滅でしかありません。彼らはその
正体をまだはっきりと認識してはいません。しかし、彼ら は 「汝、目覚めよ」
という声を確かに聞いたのです。
但し書き付けますと、「十六夜清心」の清元や「鋳掛け松」のドンチャン騒ぎ
が直接的に「汝、目覚めよ」と言うメッセージを含んでいるわけではありませ
ん。主人公のなかに無意識的な形で 状況に対する憤懣がずっと渦巻いており、
それがある些細なきっかけで化学反応を起こすように目覚めるのです。それは
主人公の内的な変化ではありますが、他動的としか言いようのない変化なので
す。
このような偶然の外的要因をきっかけに主人公が他動的に変化するドラマは、
幕末江戸の閉塞した気分から来るものです。それは緩慢なストレスが掛かった
状態であり・ユラユラと物憂げで・明確な形を取り得ない気分を醸し出します。
それは台詞としては独特の揺れるリズムを持つ七五調となって現れ、ドラマツ
ルギーとしては他動的な 変心という設定となって現れます。どちらも表裏一体
で切り離せないものです。(この閉塞した時代の空気を打ち破ったのが黒船と
いう外的要因であ ったことは決して偶然ではありません。 結局、そういう形
でしか明治維新はならなかった。このことは「歌舞伎素人講釈」のテーマでは
ありませんが、日本人として考えておくべき歴史的な課題です。)
このことは別稿「黙阿弥のトラウマ」でも触れました。黙阿弥個人の段階とし
ては・ライバル瀬川如皐に水をあけられ・隅田川に身投げしようかと思いつめ
・街を当てもなくさまよった若き日の体験から来るように吉之助は想像します。
橋から身を投げようかとユラユラ揺れる河面を見つめていると、そこに街の灯
かりが揺れています。どこからかドンチャン騒ぎも聞えて来ます。 愉しそうな
小唄や三味線の音も聞こえて来たでしょう。死を考えている黙阿弥にとってそ
れは煩い・イライラしたしたものにしか聞こえないのですが、実はそれが黙阿
弥の意識を世間の方に・生きる意欲の方へ繋ぎ止める働きもしているのです。
「あれも一生、これも一生・・・」ということを若き黙阿弥も考えたかも知れ
ません。そこで黙阿弥は盗賊になろうとはもちろん思いはしなかったのですが、
多分何かの強い破壊衝動は感じたと思います。自らは明確な形を取り得ない七
五調の揺れるリズムに「汝、目覚めよ」という旋律が重なる瞬間です。その瞬
間をきっかけにして、ドラマは内側から動き始めます。黙阿弥のドラマをその
ように理解したいと思います。
○アジタートなリズム・その27:黙阿弥の七五調・5
黙阿弥の七五調はそのすこし前の瀬川如皐の「与話情浮名横櫛」(切られ与三
郎)の台詞とはアクセントがちょっと違っています。与三郎の有名な科白「し
がねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、め
ぐる月日も三年(みとせ)越し・・・」 では、「しがねえこいの/なさけがあ
だ/いのちのつなの/きれたのを」という風に、すべて ユニットの頭にアクセン
トが付きます。これは関東方言の「頭打ち」のアクセントです。「切られ与三
郎」の成功は人気の美男役者・八代目団十郎の魅力によるところも大きいので
すが、関東なまりの科白が写実を感じさせたことも大きな魅力であった のです。
最近の与三郎の台詞を聞くとねっとりと引き伸ばす感じでやられることが多い
ですが、本来この台詞は「しゃべり」・写実の要素が強いものです。
一方、黙阿弥の「七五調」を見ると、お嬢吉三の科白「月も朧に白魚の篝(か
がり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持ちよくうかうかと・・・」
では、「つきもおぼろに/しらうおの/かがりもかすむ/はるのそら」という風に、
七五のユニットの二字目にアクセントが付きます。これは「二字目起こし」と
言って、上方のアクセントです。黙阿弥に強い影響を与えた四代目小団次は江
戸生まれですが・大坂の小芝居で長く修行をした役者であり、芸風も科白廻し
も上方仕込みでした。小団次が好んだ竹本・清元など浄瑠璃の多用も上方修行
の賜物ですが、音曲はすべて二字目起こしの原則に沿っていますから・下座音
楽との整合性を取るために科白もやはりその原則に沿わなくてはならないこと
になります。
このことは黙阿弥の七五調が如皐よりも音曲(様式)の方に若干寄っていると
いうことを示していますが、しかし、これは黙阿弥の七五調が写実から離れた
ものだということを意味しません。むしろその逆であると思います。台詞を下
座音楽から浮き上がらせる為に、台詞はより強く写実を志向せねばならぬと考
えるべきです。様式の乖離感覚を出す為に台詞は さらに写実を志向すると言っ
てもよろしいのです。黙阿弥の登場人物を内的に突き動かす力は、七五調のリ
ズムのなかに沸々としています。これが七五調の揺れるリズム・微弱な興奮と
沈静の波が示すものです。状況に対する憤懣はアイドリング状態で主人公の心
のなかに渦巻いており、「汝、目覚めよ」というきっかけの声さえあれば、そ
れは一気に噴き出すのです。台詞のなかの反音楽的な要素・反様式的な要素 こ
そドラマを内面から突き動かすものです。だから七五調の五のユニット・すな
わち写実を表現する要素が重要になります。なぜならば黙阿弥の芝居は世話物
なのであり・世話とは写実を志向するものだからです。
七のユニットはタテ言葉に似て・時代の感覚があるということを先に書きまし
たが、そうすると五のユニットは同じ長さのなかに5音しか入らないのだから
・つまりそこに2音分の余裕があるわけです。この余裕を使って・如何に して
世話の表現をたっぷり加えるかなのです。「月も朧に/白魚の」の「白魚」とい
う言葉・あるいは「篝も霞む/春の空」の「春の空」という言葉にどういうニュ
アンスを入れるかは、黙阿弥の七五調を写実にするための大事なポイントです。
また「月も朧に白魚の」で台詞が切れて・ ここで息継ぎが入るのではありませ
ん。ここで区切ってしまうから台詞が意味をなさなくなり、黙阿弥の台詞は音
楽美だなどという誤解が生じます。「月も朧に白魚の篝も霞む春の空」まで が
ひとつの台詞なのですから、それは一気に流れるように言わねばなりません。
「白魚」をたっぷりと言って「の」を次のユニットにスムーズに繋げるのです。
「の」を引き伸ばして詠嘆調にしてはいけません。すべての語句は「春の空」
に掛かるのですから、そのように聴こえるようにリズムを組み立てるのです。
「春の空」 で大事になるのは「春の」の言い回しです。そこに春という季節の
のったりとした雰囲気が欲しいわけです。ですから五のユニットのなかのリズ
ムは一様なインテンポ になるのではなく、語句とその意味によって微妙かつ自
在の伸縮があるのです。そこに写実の工夫があるわけです。
(本号に関連するサイトの記事)
「黙阿弥の七五調の台詞術」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh6.htm
「監獄都市:江戸の都市構造」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/shasin17.htm
「生と死の境」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin73.htm
「黙阿弥のトラウマ」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/butai27.htm
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