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歌舞伎・文楽などの伝統芸能を材料にして、「日本のこころ・芸のこころ」を、民俗学的・歴史学的あるいは心理学的に、さまざまな角度から考えていくメール・マガジンです。

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2009/07/19

メルマガ「歌舞伎素人講釈」第253号

********************平成21年7月19日発行***
   
                               ◎
      メルマガ「歌舞伎素人講釈」  第253号     ◎ 
                                        
     ◎       連動ホームページ: http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/
    ◎
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こんにちは、吉之助です。

本号は二本立てでお届けします。まず「アジタートなリズム~歌舞伎の台詞術を
考える」の第5回目では文化文世期の鶴屋南北のフォルムを考えます。「アジタ
ートなリズム」は「歌舞伎素人講釈」ではもっとも長い論考になります。次回は
黙阿弥の七五調を取り上げる予定です。

ふたつめは昨年11月歌舞伎座での「寺子屋」の観劇随想ですが、内容としては
前号での「義太夫狂言のフォルム」に関連するものです。

ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

アジタートなリズム
~歌舞伎の台詞術を考える (第5回)

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○アジタートなリズム・その21:南北劇のリズム・1

江戸時代の庶民文化の隆盛期と言えば前期の元禄文化・後期の化政文化(文化
文政期)ということになりますが、歌舞伎作品から見ると・このふたつは若干
様相が異なるように吉之助には思われます。まず元禄文化(元禄年間は168
8年~1703年)ですが、これは上方が中心になります。元禄期は社会構造
の大枠がほぼ固まった時期であり・社会倫理道徳の基礎が出来上がった時期で
もあります。逆に言えば生活のリズムは 次第に固定されてきて・逆らわずにル
ール通りにやっていれば何の支障もなく事は運ぶのですが、個人の自由はだん
だん利かなくなってきて・人々は窮屈な気分を感じ始めた時期でもありました。
江戸創成期に巷に跋扈したかぶき者たちは寛文期に幕府の弾圧によって姿を消
します。このような窮屈な気分がイライラ・モヤモヤした疎外された気分を生
み出すのです。かぶき者たちの「かぶき的心情」は違った形で受け継がれてい
くことになります。江戸の荒事・上方の和事は江戸人と上方人の気質によって
ちょっと見は違った印象を呈しますが、現象的にまったく同じ気分・心情から
発したものであることが先の荒事と和事の台詞のリズム解析からはっきりと分
かります。(これについては本稿11節~17節を参照)

一方、文化文政期(1804年~1829年)には上方経済が衰退に向かい、経
済の中心が江戸に次第に移っていきます。化政文化では中心が江戸になります。
この時期の鶴屋南北の作品を見ると・その台詞のリズムの様相がまったく異な
るようです。南北劇の台詞には「しゃべり」の復権がはっきり聴き取れます。
南北劇では義太夫が使用されないというのも常識ですが、これは南北が江戸の
戯作者である(つまり上方発の義太夫節にそれほど親近感がない)という背景
とともに、ある意味において芝居を音楽の呪縛から解き放つこと(脱義太夫)
を志向しているように も感じられます。つまりこれは台詞の様式性が比較的弱
いということであり、リズム面でのアジタートな要素もまた弱いということで
す。また「しゃべり」の復権ということになれば、場所が江戸であるからして
・芝居のなかに関東方言・アクセントとしては「頭打ち」(言葉の最初の音に
アクセントが付く)が強くなる傾向になるのもごく自然のことです。このよう
なことから察せられるのは、文化文政期の江戸庶民の精神の状況は・江戸時代
260年ほどを通じ・もっとも良好であったということです。もちろん全然ス
トレスが掛からないということはいつの時代にもあり得ません・どの時代にも
何らかのストレスがありますが、これは相対的なものでもあります。歌舞伎の
台詞様式をいろいろ見ていくと・文化文政期の江戸庶民の精神はもっとも健康
的であったというのが吉之助の所感です。

恐らく巷の通説ではその逆になると思います。南北劇は残虐でドギツクて、趣
向本位で・刺激的であるとされています。江戸庶民もそのような娯楽を大いに
求めたとされています。このような通説は、南北劇の台詞のリズム解析によっ
て否定できます。文化文政期の江戸の庶民はとても健康な精神を持っており、
その考え方も常識的です。この視点から南北作品の読み直しを計る必要がある
と吉之助は思います。 ですから南北の綯い交ぜの趣向も別視点で読むべきでしょ
う。別稿「世界とは何か」でも引用しましたが、ドナルド・キーン先生は次の
ように 指摘しています。

『文化文政期の南北あたりの歌舞伎は非常に残酷ですけど、それは当時の生活
の鏡だとは思えないのです。よく芝居は生活の鏡だといいますけれど、僕はそ
れは嘘だと思います。生活といちばん関係のないようなものになることが多い
のじゃないか。それはネガみたいなものです。(中略)本当に刺激の多い激し
い時代には、全く牧歌的というか、非常にきれいな田園風の芝居や文学が出て
くる。ナチス時代のドイツはいろんな人を殺していましたが、文学の方はたい
へん健全です。眼が明るく輝いているような人物ばかり出ていました。』(ド
ナルド・キーン/安部公房との対談:「反劇的人間」・中公文庫)

これはキーン先生の指摘がまったく正しいのです。南北劇の台詞は様式性が弱
く、「しゃべり」の復権が志向されています。このような健康的な視点から南
北劇を読んでみたいと思います。

○アジタートなリズム・その22:南北劇のリズム・2

南北劇の台詞が写実な「しゃべり」の芸・つまり生世話に根差していることは、
新劇俳優が南北を演じた場合でも・さほど違和感を感じないことでも分かりま
す。新劇俳優の南北の台詞は確かに感触がさっぱりし過ぎる感じで・抑揚にも
うちょっと膨らみを持たせてくれないと面白みが出ないよと不満を覚えないこ
ともないですが、実は感触としては 「さっぱり」の方が南北本来の味に近いの
です。吉之助が歌舞伎を本格的に見始めた昭和50年代前半には・南北は歌舞
伎でもまだ上演が多くなかったせいか、役者が台詞のリズムにうまく乗れない
で詰まる場面を舞台で見ることがよくありました。また大向こうが掛け声の間
合いを見事に外すこともしばしばありました。 これは現代の我々がもう少し後
の時代の黙阿弥の台詞の技巧を歌舞伎らしい台詞の基準として擦り込まれてい
るせいで、 無意識のうちに南北を黙阿弥の間合いで処理しようとするからなの
です。(最近はそのような場面をあまり見かけませんが、逆に黙阿弥の方が怪
しくなってきたのかも知れませんね。)

南北は「四谷怪談」や「馬盥の光秀」などごく少数を除けば・江戸から現代ま
で継続的に上演されてきた作品は少ないのです。そのほとんどは大正期の二代
目左団次による復活上演をきっかけにした第1次南北ブーム、昭和40年代か
ら50年代前半の アングラ芝居をきっかけにした第2次南北ブームを通じて現
在の歌舞伎のレパートリーになっていったものです。ですから南北は様式的に
幕末で途切れてしまったというのが 実情です。現代においても南北の台詞は様
式的に正しく・つまり正しく生世話で発声されているとは言えません。多少で
も黙阿弥の技巧を加えて歌舞伎らしい感じに処理されているというのが本当の
ところです。この「歌舞伎らしい」というのが曲者でして、例えば「四谷怪談」
隠亡堀の場での直助権兵衛が伊右衛門に言う科白「女房が姉のお岩が敵、民谷
伊右衛門、イザ立ち上がって勝負なせ・・・トサ云うところだが、そこを云は
ねえの。その代わりはお前が・・・・」を「そこを云はねえその代わり」と七
五調に調子を整えるなどするわけです。「そこを云はねえその代わり」と言い
換えてしまうと・確かにリズムに乗って言いやすくなりますが、台詞は様式の
パターンにはまって・そこに時代の感覚が入り込んでくるでしょう。このよう
な些細な積み重なりが「四谷怪談」全体の印象に及ぼす影響というのは意外と
大きいものです。このため芝居が生世話の感触から離れてしまうわけです。「
隠亡堀」前半の様式めいた処理は後半の「だんまり」と違和感ないとお感じの
方がいるかも知れませんが・これはまったく逆でして、生世話が一転して時代
の「だんまり」に変化する落差の妙こそが南北劇の面白さなのです。

世話から時代への変化・あるいは時代から世話へ戻る変化の妙こそが南北の面
白さです。例えば時代を際立たせるために、その直前の世話をテンポを速めて
サッと切り上げて・次を時代に意識的にゆったりと引き伸ばすという技巧です
が、その基調になるのはもちろん写実の世話です。「桜姫東文章・山の宿町権
助住居」での清玄の幽霊に対する風鈴お姫(桜姫)の台詞を見てみます。

『コレ、幽霊さん、イヤサ、そこへ来ている清玄の幽霊どの。つきまとうよう
な性(しょう)があらば、ちっとは聞きわけたがいいわな。自らが先々を鞍が
えするも、そなたの死霊がつきまとうゆえ、馴染みの客まで遠くなるわな。エ
エ、人の稼ぎの邪魔をするのか。妨ぐるのか。最初はいとしやとも不憫なとも、
因果の道理と思いしに、毎夜の事ゆえ慣れっこになって、怖くないよ。幽霊も
そう足が近くっちゃア、飽きが来るよ。サア消えなよ消えなよ。夜が明けるよ。
幽霊が朝直しでもあるまいサ。消えな帰りな。エエ聞きわけの悪い。坊主客は
これがうっとうしい。桜姫の前生(さきしょう)は、稚児白菊かは知らねども、
こっちの知ったことでなし、いわば、そなたにこっちから、恨みこそあれ恨ま
るる、コレ話はねえよ。これじゃそっちがあんまり横というものだ。今こうし
たしがねえ身になっていると思って、自らをみくびってつきまとうか。世に亡
き亡者の身を以って、緩怠至極。エエ、消えてしまいねえよ。』

この風鈴お姫の台詞ですが、時代のお姫言葉の部分はテンポを遅くして様式的
な感触を持たせます(またトーンも時代物調に多少高く作ります)が、全体は
写実の「しゃべり」が基調になっています。ですから台詞の末尾はテンポ良く
世話に短く切り上げて・長く引き伸ばさない方が良ろしいわけです。最後の「
消えてしまいねえよ」も「シマイネエヨウ」と抑揚を付けて七語に揃えて時代
にゆっくり引き伸ばすのではなく、「シマイネエヨ●」とテンポ早く・寸足ら
ずで切る方が南北になるのです。どうしてそうなるのかは、このすぐ後に 幽霊
の清玄が赤子を指差す思い入れがあって風鈴お姫が桜姫の性根に戻って言う「
エ、ナ、ナ二、そんならこの子が妾(わらわ)が腹に誕生の。・・・」以下の
台詞の大時代の台詞につながっていくことでも分かります。舞台の雰囲気は こ
こで一気に時代に変化する ・つまり作品の基本構造である「隅田川の世界」に
戻っていく核心の場面であるわけですから、その直前は当然世話に引くのが定
石であることがお分かりになると思います

風鈴お姫のお姫言葉は滑稽味を醸し出します。それは生世話(写実)の世界の
なかに無粋にも時代(様式)の要素がしゃしゃり込むことに対する違和感という
ことです。このことを南北は趣向として・ 純粋に技巧の意味しか持たぬプロッ
トとして捉えることによって、実に健康的な感覚で処理しています。そうでな
ければ風鈴お姫と桜姫の人格はふたつに分裂してしまって・「どちらの人格が
真か嘘か」ということになってしまうのです。通常のドラマツルギーならばそ
ういう読み方になってしまうのは当然のことですが、南北の場合はそうではあ
りません。「どちらの人格も真」・そうでないならばむしろ「どちらの人格も
嘘」であると言うべきなのです。それが南北の趣向です。吉之助はそこに文化
文政期の江戸の庶民の健康な精神の証を見るのです。そのことが南北の台詞の
リズムから考察できると思います。


ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

○平成20年11月歌舞伎座:「寺子屋」

片岡仁左衛門(松王)、中村梅玉(源蔵)
坂田藤十郎(千代)、中村魁春(戸浪)

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吉之助はここ40年くらいの歌舞伎について・吉之助が生で見たすべての舞台
も含みますが、全体の印象としては重めで粘り気味であると思っています。も
うちょっと軽めで・テンポを早く持って写実の方に寄るのがたぶん歌舞伎の本
来の味だろうと思います。こうした現代の 重めの行き方は古典化のひとつの在
り方であり 、これは江戸と現代との感性的な隔たりを考えれば致し方ないとこ
ろがあります。その結果・現代歌舞伎はどちらかと言えば世話物よりも時代物
の方が安心して見られるということになるわけです。 それは例えば主人公の行
動に対する倫理的・感性的なギャップを「これは封建時代の芝居だから仕方な
い」と割り切ることで 、共感するのではなく同情することで理解するというこ
とです。共感するということは主人公の行動・感情に我が身を重ねることです
が、同情するというのはそれとはちょっと違います。「・・可哀想に」と言っ
て外側から主人公の行為を見るということです。確かにそういう鑑賞の仕方も
あるのです。また時代物というのは「主人公の犠牲を他者が然りと受け取る」
というのを基本構図に置くものですから、こういう他者的な観点はまあ古典的
な鑑賞法であると言えないこともありません。しかし、時空を越えて江戸の人
々の生き様をそこに現出させようという再現芸術の場合は、絵や文字を通して
見るのと違う生(なま)な瞬間があって然るべきでしょう。そういう意味で現
代の歌舞伎の時代物は「収まり過ぎ」ではないでしょうかねえ。

平成20年11月歌舞伎座の「寺子屋」の舞台は仁左衛門の松王・梅玉の源蔵
の配役で一応の成果を収めています。描くものは確かに描かれ、一応のカタル
シスは得られます。だからこれを平成歌舞伎の「寺子屋」とすることに別に異
存はありませんが、しかし、吉之助から見ると全体の感触・特に前半が滑らか
過ぎて粘って感じられます。音楽に例えればベートーヴェンのピアノ・ソナタ
でペダルを多用し過ぎに似ていると感じられます。ペダルを踏むとピアノの響
きが消されずに残ります。正確に言えばその響きは減衰しますが、通常よりも
響きの余韻がずっと長く残ります。その効果は響きが混じって微妙な色合いが
作りだせることです。逆に欠点はその裏腹で・旋律のなかの微妙なタッチを埋
めてしまって 、印象を滑らかに情緒的にしてしまうことです。ロマン派におい
てはペダルの使用が驚くべき効果を発揮 することがありますし、またそれを意
図して曲が書かれてもいます。しかし、ベートーヴェンの場合にはペダルの多
用は注意せねばならぬことです。ひとつにはベートーヴェンの時代のピアノは
機能的にそこまで行っていなかったという考証的な言い方もできますが、ベー
トーヴェンでペダルを多用することは曲想を情緒的に傾け・構造の縛りを弱め
ることになるでしょう。これはベートーヴェンのフォルムの問題なのです。

「寺子屋」前半・源蔵戻りの梅玉ですが、源蔵に「寺子を身替わりに立てて殺
すという非人間的な行為をしなければならない悲嘆は確かに感じられます。梅
玉にそこの不足があろうはずはありません 。しかし、「せまじきものは宮仕え」
という台詞廻しのなかに 、何だかその危機的状況に源蔵が酔っているような滑
らかな響きがあります。「ジタバタしたって・小太郎斬らなきゃならないんだ
から」というのが 、観客も巻き込んだ前提条件になっているのです。同じこと
が仁左衛門の松王にも言えます。小太郎を切るように 源蔵を追い込んで行って
・次に自分が首実検する段取りに行くまでの演技が実に滑らかです。その意味
では確かに巧いのですが、「無礼者めッ」の見得に我が子を身替わりに差し出
した親の悲劇的状況に松王が酔っているような印象があります。「私は子供を
身替わりにしなければならない可哀想な親なのよ」というのが観客も巻き込ん
だ前提条件になっているのです。つまり源蔵・松王ともに「寺子を殺さねばな
らない・我が子を殺さねばならない」状況への恐怖・あるいは追い込まれたと
ころから逆に「俺たちは生きる」という確信を得る過程が最初から消し飛んだ
ところからこの「寺子屋」が始まっています。だから「寺子屋」後半のいろは
送り ではその悲しみがそれなりの雰囲気になって現わるということも言えます
が、しかし、それでは所詮観客の同情の涙を誘うだけなのです。

「せまじきものは宮仕え」という台詞は宮仕えを否定するものでは決してあり
ません。そのせまじき行為をすることでしか宮仕えをするこの源蔵は「立たぬ」
というのです。その行為のために源蔵という男があるという事が台詞に示され
ねばなりません。松王の「無礼者めッ」の見得は・歌舞伎の入れ事ではありま
すが、これも同じです。身替わりという行為は松王・小太郎の親子が自分たち
のアイデンティティーを守る為の共同作戦であるということは別稿「身替わり
になる者の論理」でも触れました。「無礼者めッ」の見得の意味は、松王が親
の悲嘆を現してしまえば・身替わりの計略はバレてしまい・それは息子の死を
無駄にするということですから、松王は首実検で我が子の首を「菅秀才の首に
違いない」と冷徹に言い切らねばならない・逆に言えばそれによってしか松王
・小太郎の親子が「生きる」道はないということです。ですから吉之助に言わ
せれば・前半の源蔵・松王が状況に追い込まれていくことの切迫感・そして最
後の力を振り絞って「俺は生きるぞ」と叫ぶ熱さが欲しいのです。それを表出
するにはべダルの使用は禁物です。滑らかな・レガートな表現は排除せねばな
りません・前半の源蔵・松王も滑らかな要素を削ぎ落として・その演技はもっ
とゴツゴツした硬い感触であって欲しいと思います。

今回の「寺子屋」の舞台のなかでは藤十郎の千代だけが・唯一そのような感触
を感じさせます。悲しみをグッと内に秘めて・持ちこたえていることで、身体
全体から滲み出る悲しみが、我が子を殺すことで我が身が立つことの不条理を
訴えています。しかし、それは単なる悲しみではなく・同時にその不条理によ
って小太郎 は癒されているということも藤十郎は明確に表現しています。それ
は藤十郎の身体を殺した・無駄のない動きから出てくるのです。「・・然り、
しかし、それで良いのか」というところから時代物が始まります。

(本号に関連するサイト記事)
「身替わりになる者の論理」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin115.htm
「世界とは何か」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/butai63.htm

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○メルマガ「歌舞伎素人講釈」 不定期発行
○発行人:吉之助 http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/
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