2009/05/31
メルマガ「歌舞伎素人講釈」第250号
********************平成21年5月31日発行***
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メルマガ「歌舞伎素人講釈」 第250号 ◎
◎ 連動ホームページ: http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/
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○ちょっと変った視点の江戸都市論
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こんにちは、吉之助です。本号は記念すべき250号です。メルマガ「歌舞伎
素人講釈」は2001年1月が最初の発行なので、9年半かかったわけです。
個人発行メルマガでここまで続くのもそうは多くないことなので、これもみな
さんのご声援の賜物だと思います。サイトの方も併せて・まだまだ続きます。
変らぬご愛顧お願いします。
さて、本号は前号に引き続き・歌舞伎のリズム論の2回目をお届けします。
ーーー<今回の話題・1>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「歌舞伎素人講釈」講話会のお知らせ
詳細はサイトのご案内をご覧ください。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/ml2.htm
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「歌舞伎素人講釈」講話会を2回シリーズで行なう予定です。これは吉之助の
主催する研究会みたいなものです。
第1回テーマは「歌舞伎における古典的なフォルム」(仮題)です。
歌舞伎のなかの古典的な要素・バロック的な要素は裏腹に出ますが、今回は特
に古典的な側面に焦点を当てて考察する予定です。今回はまずクラシック音楽
など音源をお聞きいただき ・そこから歌舞伎の台詞のリズム解析を行なうとい
う手法を取ります
。
第1回:6月27日(土)午後2時〜午後5時
第2回:7月25日(土)午後2時〜午後5時
場所はどちらも:喫茶店「ルノアール」ニュー銀座店の会議室を使用します。
費用は未定ですが、コーヒーなど飲み物込みで2000円内(一回当り)で
収めます。
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1)「歌舞伎素人講釈」講話会を行なう予定です。これはこれまで10回にわ
たり開催してきた公開講座とは趣きを多少改めて、「歌舞伎を材料にして色々
考える」という「歌舞伎素人講釈」のコンセプトを全面に出して・より深く広
く歌舞伎以外のことまで話が広がる研究会(セミナール)みたいなものにした
いと思っています。江戸時代に「講」とか「連」とか言っていたものに似た感
じでしょうかね。
2)講話会でも吉之助の話が中心になることは変わりありませんが、吉之助の
一方的な講演ではなく、参加者の対話・反応を取り入れながら進める形を取り
たいと思います。内容はひとつのテーマを2〜3回でひと区切りとしますが、
場合によって回数追加する形を考えます。 内容は歌舞伎をきっかけにしますが、
吉之助のことですから・歌舞伎外のことも含めて多岐に渡ります。
3)これまでの公開講座でも・リズム論など実験的なテーマを取り上げたこと
があり、その成果は後に「左団次劇の様式」・あるいは現在連載中の「アジタ
ートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」などの論考になって現れまし
た 。その時よりも内容はより掘り下げた・実験的な形にするつもりです。 談
話のなかで参加者の方々からの反応をいただきながら、吉之助の今後の研究の
参考にしていきたいということもあります。
4)講話会は「歌舞伎素人講釈」のコンセプトに共感し・歌舞伎をきっかけに
してその周辺をいろいろ考える方の横のネットワークを作ることを目的として
います。「歌舞伎を愉く見ればそれで良し」というコンセプトでなく・「 吉之
助と一緒に愉しく勉強をしていく会」ですので、そこのところはご注意いただ
きたいと思います。
5)継続的に・かつ積極的にご参加いただける方を望みます。今回のテーマは
2回シリーズ(予定)ですが、日程の関係 などでどちらか一方でしか参加でき
ない方ももちろん歓迎ですが、原則として2回の講話会だけでなく・それ以降
の講話会にも継続的にご参加くださる意志のある方を望みます。
6)継続的にご参加いただける講話会メンバーについては・ゆるい形での組織
化を考えていますが、現在のところは構想の段階です。
7)この講話会は吉之助の個人的な・非営利の催しです。
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(ご参加申し込み)
1)上に書きました通り長く継続的に講話会にご参加いただき、これから歌舞伎・
その他について吉之助と一緒にいろいろ勉強していきたいとお考えの方のご参加を
歓迎します。もちろんそれぞれにご都合のあることですから・参加義務付けではな
いですけれど、これから継続的にご参加の意志のある方を望みます。参加のお申し
出をいただいた方には、今後のスケジュールが決まったところで早めに日程のご連
絡をメールを入れるなどいたします。
2)「参加者の対話・反応を取り入れながら」と書いてますが、別にパフォーマン
スしていただくわけではないです。しかし、みなさんのご感想やご経験などお話い
ただくことは吉之助にとってはこれからのサイト発展の原動力になることなので、
多少「参画」の要素を加えたいと思っています。
3)参加したいけど・上記2回のうちの片方の日程が都合悪いという方がいらっし
ゃれば、その旨をお申し出ください。別に2回参加が義務というわけではありませ
ん。
4)継続的にご参加いただける講話会メンバーについては・ゆるい形での組織
化を考えていますが、現在のところはみなさんの意見などいただきながら、
より良い形を考えたいと思っています。
5)参加申し込み・あるいはお問い合わせなどは、
kabuskm@yahoo.co.jp
へメールください。これまでの公開講座にご参加ではなかった方(初めての方)
は、簡単な自己紹介か・講話会に興味持った理由などお書き添えください。
*戴いたアドレスは吉之助からの連絡用に保管をしますが、それ以外の用途で
使用することはありません。
ーーー<今回の話題・2>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アジタートなリズム
〜歌舞伎の台詞術を考える (第2回)
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○アジタートなリズム・その7:あらかじめ失われたもの
「歌舞伎素人講釈」では19世紀末西欧で流行したジャポニズムは単なる物珍
しさ・エキゾキシズムからのものではなく、「江戸の精神的状況が19世紀の
西欧の状況を先取りしていた・だからこそ江戸の芸術が彼らにとっての道しる
べとなった」ということを提唱しています。(別稿「19世紀における西欧芸
術と江戸芸術」をご参照ください。)このことは逆に言えば19世紀西欧の精
神状況と・17世紀日本の精神状況がある点において相似形となっていること
を意味 します。ですから歌舞伎の表現のある部分を・逆にロマン派芸術での事
象から読み解くことも可能だということです。なぜそうなるのかと言えば、ど
ちらも同じ心情から発する芸術であるからです。 だから歌舞伎を論じるなかで
オペラを引き合いに出すことは吉之助のなかでは必然性があるわけです。
まず19世紀西欧芸術についてちょっと考えます。吉之助は産業革命とフラン
ス革命によって西欧の人々の生活・精神状況が劇的に変化したことが、19世
紀のロマン派芸術に大きな影響を与えたと考え ています。例えばフランスの中
世史家ジャック・ル・ゴフは中世は19世紀初めに終わると言う「長い中世」
の概念を提起しています。その理由をル・ゴフは「この頃まで人々の生活はほ
とんど変わっていないから」と言 うのです。(ジャック・ル・ゴフ:「中世と
は何か」・藤原書店)19世紀西欧の精神状況は大体次のようにイメージでき
ます。ひとつは人権思想により・人々のなかに権利 と自由の意識が目覚めたこ
とです。その一方で産業の発展により人々がパーツ扱いされる要素が増えてき
ました。またウイーン体制後の西欧は一気に反動化して・とても窮屈になって
いきます。この相反した要素が強いストレスを生 み、「得られるはずだったも
のが失われてしまった」という感情を引き起こします。フランス革命以前の古
典派芸術においては「未だ得られないものに対する憧れと希望」があり、フラ
ンス革命以後に急速に反動化する時代にあるロマン派芸術においては「あらか
じめ失われた ものに対する失望と諦め」があるのです。この心情は19世紀か
ら20世紀になって更に強くなっていきます。この心情が音楽・特にリズム面
にどのように反映されるかは・これから本論で検討していきます。
一方、江戸芸術の場合は江戸初期のかぶき者の「生きすぎたりや」という心情
がその契機となります。それは「 この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしま
った・俺はもっと早く生まれるべきだった・この時代は俺が生きるべき時代で
はない」という失望と諦めの感情です。(別稿「いきすぎたるや」を参照くださ
い。)安土桃山期のダイナミックな変革な機運が江戸期になって急速に冷え込
み・ 社会が固定化していきます。つまり江戸のかぶき者が求めるものは「あら
かじめ失われたもの」です。江戸の若者の心情は19世紀西欧の精神状況と と
てもよく似ており、時代的に見ればそれは100〜150年程度早いことにな
ります。もちろん西欧の音楽と日本の歌舞伎とは表現技法が異なることはもち
ろんです。しかし、その表現ベクトルが向く方向は 「あらかじめ失われた・生
き過ぎたるや」という心情であり、同じ心情が反映する芸術はその気分におい
て似ることは間違い ありません。人間の感じることなんて古今東西そう変るも
のではないのです。
○アジタートなリズム・その8:かぶき的心情のリズム
作家五木寛之氏が「現代は鬱の時代である」ということを最近よく仰っていま
す。五木氏は『鬱病と言えば・何をやるにも気が滅入るとか・やる気が出ない
とか・とかくマイナスイメージで考え勝ちで すが、「鬱」という字は鬱蒼たる
森林とか・鬱乎たる噴煙とか、物事が盛んに湧き上がる・エネルギーが内部に
沸々としているようなホットな状態を言うのである、自分は鬱だなどと言う方
はその胸のなかに秘めた心情が強くて・ただそのエネルギーの持って行き場所
が見つからないので悩んでいるだけで、それは決して 異常なことではない」と
いうことを講演会で仰っていました。これは非常に大事なことで、ロマン的心
情の「求めているものが既に失われてしまったという思い」あるいは「生き過
ぎたるやという思い」 も決して投げ槍な・捨て鉢な気分なのではありません。
それは何かの障壁があって自分の生きる意味が容易に見出せない・そのために
自分のなかの旺盛なエネルギーを振り向けていく方向をなかなか見出せないと
いう状態なのです。それが憤懣となって・時として奇矯な行動になって現れた
りします。したがって、そのようなロマン派の時代の気分は芸術作品には後ろ
から背中を押されるようなイライラした急いた気分・どこかしら落ち着きがな
い・一箇所に止まることがないソワソワした気分になって現れ ます。
吉之助は ロマン的心情の典型的な作曲家はロベルト・シューマンであろうと思
います。ロマン派の芸術家はその時代(19世紀)の鬱の心情を描き出すため
に・ある意味での狂気を必要としました。狂気を得るためにベルリオーズは阿
片に走ったりしましたが、しかしベルリオーズはやっぱり正気の人でした。シュ
ーマンは必死で正気に留まろうとして、 ついに狂気に引きずりこまれた人でし
た。その意味でシューマンは最もロマン的な心象を持つ作曲家でありました。
ところで若きシューマンの作品に「謝肉祭」作品9があります。作曲は1834年
から35年ですから、1810年生まれのシューマンの二十代半ばの初期の作品です。
この「謝肉祭」は20曲の小曲が連なって・カーニバルの仮装のように次々と表
情を変えて繰り広げられるパレードのような作品で、これは吉之助の大のお気
に入りです。その「謝肉祭」の第12曲に「ショパン」と題される夜想曲風の短
い曲があります。これはシューマンが高く評価した 同時代のピアニスト・ショ
パンに対する尊敬の表れです。この楽譜冒頭にシューマンが「アジタート」と
指定を記しています。 「アジタート」とは「気ぜわしく」あるいは「急き立て
るように」という意味です。具体的には微妙に速くなっらり遅くなったりする
波のようなリズムのことですが、音符で その微妙なところを記載できるもので
はありません。それでシューマンは楽譜にアジタートと記しているのです。(
別稿 「吉之助の音楽ノート・シューマン:「謝肉祭」をご参照ください。)
吉之助がとても興味深いと感じるのは、この第12曲「ショパン」が醸し出す揺
れるような気分をシューマンが「アジタート」と記したことです。普通に「気
ぜわしく」・「急き立てるように」と 言うのならばもっとグイグイと力で押す
ような曲想をアジタートと指しそうに思います。例えば「クライスレリアーナ」
作品16の冒頭の速いテンポでうねるような旋律をアジタートというのならば、
それはよく分かる気がします。これももちろんアジタートなのですが、この「
ショパン」のような微妙な波のようなリズムをシューマンがアジタートと呼ん
だということが吉之助のとても新鮮な衝撃でありました。そのような視点で改
めて「謝肉祭」を聴くと、シューマンは別にアジタートと記しているわけでは
ないですが、吉之助には「気ぜわしく」あるいは「急き立てるように」聴こえ
る箇所が「謝肉祭」には随所に出てきます。付点付き音符で飛び跳ねるような
リズム(「アルルカン」や「踊る文字」)、突然断ち切るようにフォルテで切
れる旋律( 「ピエロ」や「コケット」)、押しては引きながら次第に高まって
いき・また引いていくリズム(「キャリーナ」)、突然急加速するリズム(「
フィリスティンたちを討つダヴィッド同盟の行進」の中間部)などです。もち
ろんシューマンの作品の随所に同様の表現が見られますし、さらにはその後の
ロマン派の作品 にはこのような表現が頻発してきます。
音楽に興味ない方は細かいことは気にせずに「歌舞伎素人講釈」が提唱するか
ぶき的心情とはまさにロマン的心情であり、その気分はアジタートなリズムに
よって表現されるということを要点として理解して欲しいと思います。アジタ
ートなリズムに一定なものがあるわけではありませんが、その代表的なパター
ンは急加速(あるいはその反対としての急減速)、急停止・あるいは急に大声
を出して切る、遅くなったり・速くなったりしてリズムが揺れる、ピョンピョ
ン跳ねる、グイグイ押すなどです。以後の章において歌舞伎の台詞のなかにそ
のようなリズムの表れを見ていきたいと思います。
○アジタートなリズム・その9:台詞の基本は写実である
歌舞伎の台詞のなかのリズムのアジタートな要素を考える時に留意すべきこと
がいくつかあります。 ひとつは手垢が付いた現実の舞台での役者の台詞に惑わ
されないで、作者の書いた台本の台詞とその言葉・それだけを考察の手掛かり
にすることです。これは現代の役者の台詞回しが間違っているということでは
ないのですが、何らかのバイアスが掛かっていることも事実なのです。ですか
らあの役者の台詞回しに感激したからそれが絶対正しいなどと思い込まない方
が良いと思います。作者が台本に書き記した言葉がそう発声して欲しいと望ん
でいるところの・自然な抑揚とリズムをまず虚心に検証して・そこから現代の
役者の台詞回しを見直してみれば、現代の役者の様式の引き出しが意外と狭い
ということにお気付きになると思います。それらは遡ってもせいぜい幕末辺り
までのテクニックなのです。
もうひとつは芝居の台詞の根本を常に写実(リアル) の方に置くべきであると
いうことです。芝居の台詞は決して音楽ではありません。「台詞を歌う」とい
うことがよく言われますが、台詞が音楽的であることは望ましいことですが、
台詞がリズムや音調に支配されるならば・それは本末転倒です。 様式化したリ
ズムや抑揚のために台詞が観客に言葉の意味を正しく伝えられないならば、ま
ったくナンセンスです。ですから言葉が内的に望んでいる抑揚とリズムを役者
が感じ取って・そこから言葉が自然に涌き上が ってくる時に、台詞は観客に意
味を正しく伝えることができ・また音楽的な感興を与えることが出来るのです。
それが出来ないならば役者は台詞を音楽的にしようなどと思わず に、むしろひ
たすらリアルに徹した方が良ろしいのです。ですから台詞の意味を無視して杓
子定規にリズムに台詞を当てはめ ようとしてはなりません。ところが現実の舞
台では器楽的な様式概念のなかに歌舞伎の台詞を押し込めたような台詞回しを
しばしば耳にします。吉之助がダラダラ調と非難するところの七五調の台詞回
しなど はその典型です。そのようなことにならないために芝居の台詞は写実(
リアル)が根本であることを肝に命じておく必要があります。
「歌舞伎素人講釈」は「歌舞伎はもともと写実を志した演劇であったが・それ
が女優を奪われることによって写実の本質が裏切られた演劇である」というこ
とを重要な史観としています。歌舞伎という演劇自体が「生きすぎたりや」と
いうかぶき者の気分を根底に強く持つ演劇だということです。それはかつて失
われた写実の理想を求めつつ・それゆえにやむを得ず様式化するのです。です
から歌舞伎の台詞 は内的には常に写実を志向するものです。それが非写実の要
素(すなわち様式)に引っ張られることにより引き裂かれます。歌舞伎の台詞
のなかのリズムのアジタートな要素はこのことを示すものです。
本稿ではほぼ時代に沿って歌舞伎の台詞を順に検討していきますが、ひと口に
江戸時代と言っても1603年(慶長8年)〜1867年(慶応3年)までの
長い期間ですから、 江戸時代がずっと一様な鬱の状態にあったわけではなく、
その鬱の気分にはとてもゆっくりした波があるのです。鬱の状態が強い時期も
あるし・そうでない時期もあって、その波がゆっくりと交互に来ます。またそ
の症状はいろいろな現れ方をします。例えば元禄期は鬱の状態が強いと 吉之助
には感じられます。ところが同じく町民文化の隆盛期であるとされる文化文政
期の方は鬱の症状が軽いと感じれます。文化文政期は多少躁の気配さえありま
すが、まあこれは鬱の裏返しと考えられなくもありません。そのような 時代の
気分の違いが近松門左衛門と鶴屋南北の作品の対比から浮かび上がってきます。
これは同時代の絵画や文学などさまざまな事象を俯瞰することでさらに裏付け
られるでしょう。その時の政治・経済などの状況を踏まえながら・その時代の
気分を読んでいく必要があります。 芝居は興行ですから、時代の気分を敏感に
反映するものです。芝居の台詞のリズムもまた時代の気分を映し出すのです。
ーーー<今回の話題・3>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
吉之助の雑談・2編
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○「アジタートなリズム」成立の背景
ただいま連載中の「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」は、
その構想自体は本サイトを始めるかなり以前から吉之助のなかにあったもので
す。しかし、歌舞伎の台詞を西洋音楽視点で解析する手法は既成概念からする
と突飛な発想ですから・サイトで発表する素地がまだできていなかったのと、
歌舞伎の様式をひとまとめにするキーワードが見つからなかったので、これま
で掲載を見合わせていました。吉之助がキーワードを「アジタート」とするこ
とに決めたのは平成18年秋のことで、その後・平成20年春に「歌舞伎の台
詞のリズム論」の新歌舞伎の項が「左団次劇の様式」として出来上がりました。
「左団次劇の様式」はもともと「歌舞伎の台詞のリズム論」のなかで時代順に
様式を並べた・その最終章になるはずだったものでして、それが分量が多くな
ったので先に独立して出来上がったものです。新歌舞伎のリズムが比較的単純
なので・様式的に解析がしやすかったこともあります。その後・本サイトに歌
舞伎とオペラの対比など西洋音楽関連の記事もかなり増えてきたこともあり、
そろそろ「歌舞伎の台詞のリズム論」を書く環境も十分出来上がったというこ
とで、今回の連載に踏み切りました。したがって本来は現在連載中の「アジタ
ートなリズム」をお読みになってから・「左団次劇の様式」を読んでいただけ
ば、初代団十郎の荒事の台詞から二代目左団次の新歌舞伎の台詞まで・歌舞伎
の台詞の様式すべてが「アジタートなリズム」の概念の周囲を展開しているこ
とが見えるように全体が構想されているわけです。
キーワードを「アジタート」に決めたのは平成18年秋と申し上げました。そ
のきっかけは当時NHK教育テレビで放送されたミッシェル・ダルベルトによる「
スーパー・ピアノ・レッスン」です。この時のレッスンでダルベルトはリスト
のロ短調ソナタや・シューマンの「謝肉祭」などを取り上げました。これは吉
之助にとってとても得るところのあった番組でしたが、その「謝肉祭」の第12
曲「ショパン」でのことです。生徒の方がこの部分をほぼイン・テンポで弾き
出し始めたのです。楽譜では波のように上下するノクターン風の左手の伴奏が
八分音符の流れで示されています。この部分を楽譜通りに素直に弾いたわけで
す。するとダルベルト先生がそれを制して、「この曲はシューマンのショパン
に対する尊敬を表しているのですが 、あくまでシューマンの視点から見たショ
パンなのですから・ショパンのノクターンのように弾いてはいけません。そこ
にシューマン的な気質が表われなくては。そのヒント が楽譜冒頭に記されたア
ジタートという表記ですよ。」という意味のことを言って、「ショパン」冒頭
を弾いてみせたのです。これがゆっくりと速く遅く・揺れる波のように動くリ
ズムです。その瞬間に吉之助の脳裏に「アジタート」で歌舞伎の台詞の様式す
べてがひとまとめに出来るというアイデアが閃いたわけです。
別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」は本サイトの最初期の論考になりますが、こ
こで(7)の部分を早く・(5)をゆっくりの繰りかえしのリズムが「七五調」
の基本リズムであることを考察しました。実はこれはシューマン:「謝肉祭」
の第12曲「ショパン」のアジタートなリズムとまったく同じパターンなので
す。揺れるリズムは幻想的で優雅なイメージで捉えがちですが、実は緩慢なス
トレスが掛かった状態であり・ユラユラと物憂げで・明確な形を取り得ない気
分 を表しています。つまり強度としてはごく弱いものですが・慢性的かつ持続
的なアジタートなのです。これが揺れるリズムのイメージです。その典型的な
形式は「舟歌(バルカローレ)」でいろんいろな作曲家が舟歌を書いています。
最も有名な舟歌は もちろんショパンのものです。とても魅力的な作品ですね。
歌舞伎の台詞で言えば・もちろんお嬢吉三の「月も朧に白魚の・・・」です。
ゆったりと流れる隅田川の川面に映える月の光のユラユラする場面を想像しな
がら「月も朧に白魚の・・・」を呟いてみてください。これがホントの黙阿弥
の七五調のリズムなのです。 しかし、現実の歌舞伎の舞台でそのような川面に
揺れる月の光を感じさせるお嬢吉三を、残念ながら吉之助は見たことがありま
せん。揺れるリズムは吉之助の頭のなかだけで響いています。
○世話物の根本は写実である
『世話物っていうものは人間描写なんでしょう。その面白さでしょう。だから
僕は黙阿弥は世話物じゃないと思う。「三人吉三」なんか、時代物だな。「月
も朧に白魚の・・」、人間がそこに出てませんよ。』(宇野信夫の対談:「世
話物談義」・「演劇界」昭和57年7月号)
劇作家・宇野信夫氏は「昭和の黙阿弥」と呼ばれたものですが、どうもご本人
は黙阿弥がお嫌いであったようです。宇野氏の黙阿弥論はここでは置くことに
して(これについては別稿「写実の黙阿弥のために」をご参照ください)、「
世話物っていうものは人間描写なんでしょう・その面白さでしょう」というの
は宇野氏の 仰る通りだと思います。世話物の根本はシリアスな人間描写・写実
(リアル)ということです。しかし、最近の歌舞伎はこのことを忘れているの
ではありませんか。最近の世話物を見れば・どこか芝居が滑稽に傾くものが多
いようです。例えば「加賀鳶」の按摩道玄ですが、道玄だけではありません。
「髪結新三」・「魚屋宗五郎」・「 筆屋幸兵衛」にしても・何と「十六夜清心」
でさえ何だか滑稽に傾いてはいないか。昔が良かったなんて言うつもりはない
ですが、二代目松緑の道玄も・十七代目勘三郎の新三も確かに愛嬌の要素はあ
って客席は沸いてはいましたが、滑稽ではありませんでした。最近の歌舞伎の
世話物では愛嬌と滑稽の区別がついていないような感じですねえ。
世話物における愛嬌とはどういう意味を持つものでしょうか。このことは別稿
「和事芸の起源」において考察した「作り物語」であることの言い訳(逃げ)
は滑稽味・諧謔味という形をとることが多いという折口信夫の説明とそっくり
同じことが言えます。つまり舞台において真実を描写すること・シリアスにな
り過ぎるのをちょっと軽い調子で「いなす」・それが世話物の愛嬌なのです。
とことんシリアスになり切れない・そこまで人間描写を徹底的に追求できない
・そこに歌舞伎の世話物の限界はあるのですが、世話物の演技をどこにスタン
スを置くべきかは明らかです。それは写実・シリアスの要素であるのは当然の
ことです。それが世話物というものなのです。まあそこのことは別の機会に詳
しく論じることにします。
五代目菊五郎の道玄は愛嬌があったそうです。なるほど見た印象はそうであっ
たかも知れません。しかし、五代目菊五郎の道玄の本領は決して愛嬌にあるの
ではありません。五代目菊五郎は「村井長庵のような悪人が演りたい」と言っ
て黙阿弥にこの芝居を書いてもらったのです。人殺しの場面で犯人の人柄がユ
ーモラスだと言って笑える道玄なんぞ・吉之助なら見たくはないですねえ。殺
し場に道玄の愛嬌が見えるならば、それは極悪の余裕を気取った道玄の「いな
し」なのです。そうやって凄惨な殺し場の緊張をふっと解く・その「いなし」
の微妙な息つかいが世話の感触を生み出すのです。それが五代目菊五郎の芸な
のです。舞台の表面の面白さばかりに目が行っていると、そういう当たり前の
ことが分からなくなってきます。いつの間にか愛嬌を見せることが芸の目的に
なってしまう。ついには滑稽なのが道玄という役だと思い込んでしまう。役者
もそうだし、見る側・劇評家もそんな感じですねえ。世話物とは シリアスな人
間描写・写実(リアル)に根差すものであるということを想起して欲しいと思
います。このままだと遅かれ早かれ本物の世話物は消えていくでしょうねえ。
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