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歌舞伎・文楽などの伝統芸能を材料にして、「日本のこころ・芸のこころ」を、民俗学的・歴史学的あるいは心理学的に、さまざまな角度から考えていくメール・マガジンです。

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2009/05/17

メルマガ「歌舞伎素人講釈」第249号

********************平成21年5月17日発行***
                                ◎
                               ◎
      メルマガ「歌舞伎素人講釈」  第249号  

     ◎       連動ホームページ: http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/
    ◎
************************************

○折口信夫に関する本2冊

かぶき讃 (中公文庫)折口 信夫
価格:¥ 1,000(定価:¥ 1,000)
http://www.amazon.co.jp/dp/4122044618/ref=nosim/?tag=kabusk22-22

執深くあれ―折口信夫のエロス山折 哲雄
価格:¥ 1,680(定価:¥ 1,680)
http://www.amazon.co.jp/dp/4096261165/ref=nosim/?tag=kabusk22-22


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こんにちは、吉之助です。本号より現在サイトに連載中の「アジタートなリズム
〜歌舞伎の台詞術を考える」を分割してお届けすることとして、今回はその
第1回です。本号の内容の一部は2年ほど前の公開講座で実験的にご披露した
ものです。また新歌舞伎の様式については「左団次劇の様式」という論考で
昨年春のメルマガでお届けをしました。したがって、今回の論考では歌舞伎の
荒事から・黙阿弥の七五調までの様式を年代順にざっと見ていくことになります。

下記にご紹介する「歌舞伎素人講釈」講話会は・従来の公開講座をより掘り下げ
た内容にするつもりです。歌舞伎とその周辺を吉之助と一緒に継続的に勉強して
いきたいと思う方は、これを機会に是非参加ください。

ーーー<今回の話題・1>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「歌舞伎素人講釈」講話会のお知らせ

詳細はサイトのご案内をご覧ください。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/ml2.htm

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「歌舞伎素人講釈」講話会を2回シリーズで行なう予定です。これは吉之助の
主催する研究会みたいなものです。

第1回テーマは「歌舞伎における古典的なフォルム」(仮題)です。

歌舞伎のなかの古典的な要素・バロック的な要素は裏腹に出ますが、今回は特
に古典的な側面に焦点を当てて考察する予定です。今回はまずクラシック音楽
など音源をお聞きいただき ・そこから歌舞伎の台詞のリズム解析を行なうとい
う手法を取ります
。
第1回:6月27日(土)午後2時〜午後5時

第2回:7月25日(土)午後2時〜午後5時

場所はどちらも:喫茶店「ルノアール」ニュー銀座店の会議室を使用します。
費用は未定ですが、コーヒーなど飲み物込みで2000円内(一回当り)で
収めます。

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1)「歌舞伎素人講釈」講話会を行なう予定です。これはこれまで10回にわ
たり開催してきた公開講座とは趣きを多少改めて、「歌舞伎を材料にして色々
考える」という「歌舞伎素人講釈」のコンセプトを全面に出して・より深く広
く歌舞伎以外のことまで話が広がる研究会(セミナール)みたいなものにした
いと思っています。江戸時代に「講」とか「連」とか言っていたものに似た感
じでしょうかね。

2)講話会でも吉之助の話が中心になることは変わりありませんが、吉之助の
一方的な講演ではなく、参加者の対話・反応を取り入れながら進める形を取り
たいと思います。内容はひとつのテーマを2〜3回でひと区切りとしますが、
場合によって回数追加する形を考えます。 内容は歌舞伎をきっかけにしますが、
吉之助のことですから・歌舞伎外のことも含めて多岐に渡ります。

3)これまでの公開講座でも・リズム論など実験的なテーマを取り上げたこと
があり、その成果は後に「左団次劇の様式」・あるいは現在連載中の「アジタ
ートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」などの論考になって現れまし
た 。その時よりも内容はより掘り下げた・実験的な形にするつもりです。 談
話のなかで参加者の方々からの反応をいただきながら、吉之助の今後の研究の
参考にしていきたいということもあります。

4)講話会は「歌舞伎素人講釈」のコンセプトに共感し・歌舞伎をきっかけに
してその周辺をいろいろ考える方の横のネットワークを作ることを目的として
います。「歌舞伎を愉く見ればそれで良し」というコンセプトでなく・「 吉之
助と一緒に愉しく勉強をしていく会」ですので、そこのところはご注意いただ
きたいと思います。

5)継続的に・かつ積極的にご参加いただける方を望みます。今回のテーマは
2回シリーズ(予定)ですが、日程の関係 などでどちらか一方でしか参加でき
ない方ももちろん歓迎ですが、原則として2回の講話会だけでなく・それ以降
の講話会にも継続的にご参加くださる意志のある方を望みます。

6)継続的にご参加いただける講話会メンバーについては・ゆるい形での組織
化を考えていますが、現在のところは構想の段階です。

7)この講話会は吉之助の個人的な・非営利の催しです。

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(ご参加申し込み)

1)上に書きました通り長く継続的に講話会にご参加いただき、これから歌舞伎・
その他について吉之助と一緒にいろいろ勉強していきたいとお考えの方のご参加を
歓迎します。もちろんそれぞれにご都合のあることですから・参加義務付けではな
いですけれど、これから継続的にご参加の意志のある方を望みます。参加のお申し
出をいただいた方には、今後のスケジュールが決まったところで早めに日程のご連
絡をメールを入れるなどいたします。

2)「参加者の対話・反応を取り入れながら」と書いてますが、別にパフォーマン
スしていただくわけではないです。しかし、みなさんのご感想やご経験などお話い
ただくことは吉之助にとってはこれからのサイト発展の原動力になることなので、
多少「参画」の要素を加えたいと思っています。

3)参加したいけど・上記2回のうちの片方の日程が都合悪いという方がいらっし
ゃれば、その旨をお申し出ください。別に2回参加が義務というわけではありませ
ん。

4)継続的にご参加いただける講話会メンバーについては・ゆるい形での組織
化を考えていますが、現在のところはみなさんの意見などいただきながら、
より良い形を考えたいと思っています。

5)参加申し込み・あるいはお問い合わせなどは、

kabuskm@yahoo.co.jp

へメールください。これまでの公開講座にご参加ではなかった方(初めての方)
は、簡単な自己紹介か・講話会に興味持った理由などお書き添えください。

*戴いたアドレスは吉之助からの連絡用に保管をしますが、それ以外の用途で
使用することはありません。


ーーー<今回の話題・2>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

アジタートなリズム
〜歌舞伎の台詞術を考える (第1回)

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○アジタートなリズム・その1:リズムの緩急

「歌舞伎素人講釈」において・歌舞伎と並んでクラシック音楽が柱であること
は本サイトを長くお読みの方はご承知のことと思います。実は歌舞伎評論以前
の吉之助は音楽評論を考えていた時期があり、歌舞伎よりもクラシック音楽の
付き合いの方が長いわけです。音楽の経験が吉之助の歌舞伎の見方に反映して
いることは明らかです。まあ多少の誤解を恐れずに言えば・吉之助の歌舞伎の
見方は明らかに西洋視点ですし、そこに吉之助の独自の視点があると思ってい
ます。ですから吉之助は台詞のリズムの緩急がとても気になります。音楽にお
いてリズムはフォルムを決めるための重要な要素です。旋律を歌う時に息に微
妙な緩急がつく・テンポが変化する・あるいはバランスが変化するということ
でフォルムは驚くほど大きく変化するものです。まあ試しにシューベルトの歌
曲を何人かの歌手で聴き比べてみてください。同じ歌詞を・同じ楽譜で歌って
いるのに ひとつとして表現が同じことがありません。リズムや緩急のちょっと
した変化でこれほど多様な表現が可能なことに驚きます。

このことは芝居の台詞でも同じなのですが、台詞のリズムの緩急という問題に
歌舞伎の方はちょっと疎いのではありませんか。台詞の緩急が歌舞伎の台詞の
フォルムの要素として 強く意識されておらず、役者それぞれの自己流(よく言
えば自分なりの工夫)で済まされているように思われます。また観客もそれで
良しとしているようです。歌舞伎では「一声二眼」とよく言います。というこ
とは台詞回しを役者の魅力の第一とするはずです。しかし、実際には歌舞伎役
者で名調子と言われる人には悪声の人が少なくありません。折口信夫はこう書
いています。

『これだけは恐らく、歌舞伎芝居に限った欠点として反省して良いことだと思
うが、歌舞伎ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。調子が良いという批
評は声がよいということを意味するはずだのに、歌舞伎俳優の調子のよいと言
われている優人には、かなりの悪声の人がいた。抑揚頓挫が、ただしく旧来の
発声の型に入っているものを、ほめて言う場合に言われることもある。そうで
なくとも歌舞伎ほど聞きづらい声の役者を、名優のなかに持っていたものはな
いであろう。』(折口信夫:「花の前花のあと」・昭和26年)
*折口信夫:「花の前花のあと」はかぶき讃 (中公文庫)に収録

折口信夫は「歌舞伎芝居のなかに近代的精神を・あるいは新劇的生命を生かす
にはどういう風にすれば良いかという問題を若い人から与えられたので興味を
持ってこの文章を書き出した」と書いています。正しい発声ができないという
ことは正しい台詞術が身についていないということです。ですから折口は台詞
のエロキューションに歌舞伎の問題点を見ているわけです。 折口は歌舞伎は発
声が良くないという不満を周囲によくこぼしていました。このことは歌舞伎で
は正しい発声や台詞術があまり顧慮されていないことを示しています。明治4
0年に欧米演劇視察旅行から帰ったばかりの二代目左団次と小山内薫との対談
を読んでも、歌舞伎は明治の昔からそうだったことがうかがわれます。

小「サラ・ベルナールの芝居をみたかね。」
左「「レ・ブッフォン」というのを見ました。」
小「巧かったかね。」
左「声のいいのには、実は感心しました。」
小「僕も日本で西洋人の芝居は1・2度見たが、当たり前の台詞を言っている
のを聞いても、まるで歌を聴いているようだというが本当かね。」
左「まったくそうです。それというのもまったく声の練習が積んでいるからで
す。私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大き
く開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、
日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてく
るのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうの
だ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。 」
(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版「演劇新潮」)

この対談を読めば・左団次が西洋人の台詞の音楽的なことに実に素直に感動し
ていることが分かります。後年の新歌舞伎の左団次の台詞回しはこの感動から
生まれたのです。このことを考えに入れれば新歌舞伎の様式の根源的なところ
が分かってきます。(別稿「左団次劇の様式」をご参照ください。) それにし
ても歌舞伎では発声法はもちろんですが・「台詞の調子の良し悪し」がリズム
の緩急に関連して論じられることがほとんどないようです。そのくせ歌舞伎の
台詞は音楽的だとみな言っています。歌舞伎の台詞が音楽的だと言うなら・音
楽のように台詞を発声するというのならば、台詞の緩急に注意を払わないのは
変なことだと思います。そういう変な見方が歌舞伎ではまかり通っているので
す。

○アジタートなリズム・その2:台詞が内包するリズム

今でも必ず行われるものかどうか知りませんが、興行前の顔合わせで台本が役
者に配られる時に・狂言作者が役者の前で台本を読みあげる「本読み」という
儀式があります。大きく間を取って芝居するように台本を読むわけではなく、
あくまで本読みですから聴く者に大雑把なイメージを与えるべく早めの速度で
事務的に読み飛ばしていくのです。儀式ではありますが、作者にとっては「自
分はこういうつもりで芝居を書いた・この役はこういう風に演じて欲しい」と
いうことを役者に伝えられる唯一の機会でもあります。本読みが巧いというこ
とは狂言作者にとっては大事な素養でした。本読みのせいで役者から物言いが
付いてトラぶることもしばしばでした。黙阿弥はこの本読みがとても巧い人 だ
ったと言われています。黙阿弥の本読みを聞いて・ある役者が「これは良い役
をもらった」と喜んだけれども、実際演ってみるとそんなに良い役ではなかっ
たというような笑い話も残っています。しかし、考えようによっては黙阿弥が
本読みした通りにできなかったその役者が駄目だったのではないでしょうかね
え。

坪内逍遥も本読みの巧い人でした。「桐一葉」が初演されたのは明治38年の
こと(執筆はそのずっと前で明治27年)ですが、これが歌舞伎が座付き狂言
作者以外の外部の作家の作品を上演した最初のこと・すなわち新歌舞伎の最初
になります。顔合わせの時に役者たちは「どこの誰だか知らぬ外部の作家に歌
舞伎が分かるのか」という雰囲気であったそうです。ところが並み居る役者た
ちが逍遥の本読みを聞いて吃驚してしまったのです。なにしろ逍遥は九代目団
十郎の大ファンで・片桐勝元に団十郎を想定してこの芝居を書いたのです。団
十郎は明治36年に亡くなって・団十郎に上演してもらうことは叶いませんで
したが、逍遥はその団十郎の息で本読みをしたのです。役者たちは「芝居をよ
く知っている偉い先生だなあ」と感心して・神妙に役を勤める気になったそう
です。もし逍遥の本読みが下手だったならば、その後の新歌舞伎の道程は10
年かそこら遅れたかも知れません。

逍遥の本読みの録音は結構残っています。早稲田の演劇博物館に行けば「沓手
鳥孤城落月」の音源(昭和6年10月ポリドール録音)などを簡単に聴くこと
ができますから是非聴いてみることをお勧めします。間合いを取らずにサッサ
と読んでいるので・芝居っ気というものをあまり感じないですが、勘所におい
てのリズムの力強さ・抑揚の巧さは逍遥の本読みの確かさを示すものです。一
方、五代目歌右衛門(淀君)・十五代目羽左衛門(秀頼)・七代目中車(氏家
内膳)の豪華顔合わせの「沓手鳥孤城落月」の音源(昭和6年ポリドール録音)
も残っていますが 、これを聴くと歌右衛門の台詞はさすがに当たり役のことで
もあるし・なかなかのものですが、羽左衛門も中車も脚本の様式を理解せずに
自分勝手にしゃべっていてひどいものです。特に中車はこれでいいのかと思う
ような・旧態依然のだるい台詞回しで・がっかりします。この録音について逍
遥が日記(昭和6年6月21日の項)に「試聴してその拙きと・イキの合わぬ
に呆れる」と書いて いるので笑えます。まったく逍遥の言う通りです。

三島由紀夫も本読みの巧い人でした。新版・三島由紀夫全集に「我が友ヒット
ラー」を朗読した録音が収録されています。昭和43年10月に神田駿河台の
劇団浪漫劇場事務所での顔合わせで本読みした時の録音です。これもかなり早
めのスピードで読み飛ばしていますが・途中でトチるとか・詰まるとか・言い
直すとかまったくないもので感心させられます。ヒットラーとレームの対話の
口調を変えてみせたりして・役を色分けして、ちゃんと芝居になっています。
そこに作者が「この芝居はこうして欲しい」というものが確かに伝わってきま
す。(三島は歌舞伎の本読みもしましたが、このことについては機会を改めて
触れます。)

「自分で書いた台詞なんだからトチらないのは当然だ」と言う方は芝居の台詞
の秘密が決して分らないでしょう。台詞が内包する息のリズムを感知して・そ
の通りにしゃべっているから 台詞回しに無理が無い・だからトチらないのです。
もちろん上記の場合は自分のリズムから発した台詞をしゃべっているからトチ
らないということですが、つまり作者にはそれぞれ台詞の独自のリズムがある
ということなのです。そのリズムを理解すれば、誰でも無理のない自然な台詞
をしゃべることができるし、無理がないから決してトチったり・詰まったりす
ることはないのです。黙阿弥には黙阿弥の・逍遥には逍遥の・三島には三島の
息 のリズムがあるのです。究極には作者のそれぞれの息のスタイルを突き詰め
るということが演じる者の課題であるべきです 。しかし、作家別はともかく・
歌舞伎のなかにあるいつくかの様式をおおまかに捉えて描き分けることくらい
はしてもらいたいものです。歌舞伎役者はその辺を何でも自分流のスタイル に
引き寄せてひと色に処理してしま ういい加減なところがあると思います。しか
も、それが役者の味だとか独特の調子だとか言って世間に容認されているわけ
ですから劇評家や観客の方も甘いわけです。そこで本稿においては 大雑把にい
くつかの歌舞伎の様式を取り上げて、そのリズムを考えてみたいと思っていま
す。

○アジタートなリズム・その3:内的必然のリズム

リズムを考える時に押さえておかなければならない点があります。音楽では「
リズム」・「テンポ」という言葉を通常同じような意味合いで使います。強い
て言えばリズムは打ち込み(拍)を意識し・テンポは速度(前進することを前提
とした間)を意識しているということが言えますが、これは表裏一体のもので
・両者を分けることはできないものです。一般的な傾向としてリズム・テンポ
という時にメトロノームが打つ機械的な拍子をイメージすることが多いと思い
ます。例えば現代のもっとも優れた指揮者のひとりバレンボイムは次のように
語っています。

『問題は今日の音楽批評の世界で自由が語られる時、それは速度の自由・テン
ポの自由にほとんど限定されていることだ。演奏に対して「彼のテンポは柔軟
だった」とか、「とても厳格だった」という批評がなされるとき、それが暗示
するのは「彼は厳格だった・それゆえ彼は分析的で妥協がない」あるいは「彼
のテンポは柔軟だった・それゆえ彼はロマンティックで感情的だ」ということ
だ。』(ダニエル・バレンボイム:エドワード・サイードとの対話:「音楽と
社会」)

音楽批評がテンポのことに神経質なのは、音楽において客観的に(データ的に)
語れる指標がそれしかないせいもあります。フレージングのニュアンスがいか
に素晴らしくても・それを「旋律の立ち上がりの何秒目の部分の音色が・・」
と言っても所詮印象に留まって・いまひとつその感動を文字で伝えきれないも
どかしさがあります。「彼のテンポは・・」・「演奏時間は・・・」と言うと
何となく客観的に批評しているような風になります。テンポはメトロノームで
計れるからです。もちろんそのテンポの受け取り方は人それぞれですが、論じ
合える客観データがあると感じられる。これが批評の根拠になるわけです。と
ころが批評されるバレンボイムの側からすると、そんなの全然意味ないという
ことになるのです。

ここでの問題はテンポをメトロノーム的な・機械的で一定の・それゆえ客観的
な指標としてしばしばイメージすることにあると思います。むしろテンポは心
臓の鼓動のイメージで捉えた方が良いのです。同じ心臓のドキドキでも、落ち
着いた時はゆっくりと・興奮すれば早く・びっくりした時はいきなり跳ね上が
ります。同じドキドキでも心理状態によってそれは微妙に伸縮するのです。テ
ンポとは内的世界において相対的であるということです。リズムをそのように
考えたいと思います。

演奏が始まったら指揮者は振り出したテンポをそのまま一定に保つものだと杓
子定規に考えてはいけません。もちろんフォルム感覚を生み出す根本はそこに
あるわけで、テンポが大きく乱れるとフォルム感覚は正しく維持できません。
20世紀前半の名指揮者トスカニーニは「イン・テンポ」の代表的な指揮者で
した。確かにトスカニーニはリズムの刻みを前面に出し・リズムが生み出す推
進力を一貫して維持するので・そのような印象が強くなりますが、実は曲の旋
律のさまざまな場面で曲想に応じて微妙にテンポを伸縮させており、メトロノ
ーム的なテンポの維持を決してしていません。それでなければあのようなカン
タービレの力強さが生まれるはずはないのです。そのテンポは内的必然におい
て 微妙に伸縮するが・その音楽的密度は一定に保たれている・だから「イン・
テンポ」の印象が生じるということです。トスカニーニ以後に彼のスタイルを
引き継いだ指揮者たちの多くはそのことを表面的に模倣しました。それで「イ
ン・テンポ」は振り出したテンポをそのまま厳格に保つというイメージになっ
てしまったわけですが、先駆者であるトスカニーニは実はそうではありません。

別稿「左団次劇の様式」においてトスカニーニのことに触れました。二代目左
団次の芸風はトスカニーニと同時代的に論じられます。二拍子のリズムの刻み
を前面に出し・その推進力で一気に駆け抜ける二代目左団次の台詞のリズムも
同じように考える必要があります。芝居の台詞が音楽的だと感じることがあり
ます。それは台詞回しに微妙な節付けがされているとか・音程を以って歌うよ
うに発声されるから音楽的であるということではないのです。特に黙阿弥の七
五調の台詞の劇評などでしばしばそのようなことが書かれますが、その言い方
はどこか間違っています。それは台詞と音楽の類似性を外面的な要素として受
け取るからです。音楽ではないはずの芝居の台詞が音楽的であると感じるなら
ば、その表現要素のなかに内的な共通項があると見なければなりません。台詞
回しの息の内的緊張と・微妙な息の伸縮が一定の相関関係と波長をなしている
と明確に感じられる時、 その時に観客はその台詞回しが音楽的であると感じる
のです。

○アジタートなリズム・その4:リズムをユニットで捉える

リズムを考える時に押さえておかなければならない点をもうひとつ挙げます。
それはリズムを刻み(拍)で捉えるのではなく、ユニットで大きく捉えること
です。これは音楽の場合で言えば「小節」という場合が多いですが、さらに小
節をまとめた「中小節」・あるいはさらに「大小節」という場合があり、さら
に大きなまとまりになれば「楽章」・「全曲」にまて至る・そのようなユニッ
トです。

例えばメトロノームの場合で言えば、目盛りを100に合わせた時のテンポは
一分間におよそ100拍を打つ速度で・これを「テンポ100」と呼びます。
このテンポが数%ぶれたとして、この差異を感知することは実はプロの音楽家
でも容易なことではありません。メトロノームの刻むリズムをじっと聴いてい
ると、何だかテンポがだんだん速くなるような錯覚に襲われることがあります。
実際・同じリズム・パターンが延々と続く曲では、テンポが次第に上がってし
まうということがプロの演奏でもしばしば起こります。こういう場合の対処法
は拍の刻みに正確を期することに意識の多くを置かないことで、どちらかと言
えば旋律の始めから終わりまでのユニットを一定に保つという意識で演奏する
ことです。次に引用するのは三味線の名人鶴沢道八の言葉ですが、吉之助が言
うところのユニットとまったく同じことを道八が語っています。(この問題は曲
あるいは芝居のバランス感覚にも通じるのですが、本稿ではリズムに話題を限
定します。別稿「芝居のバランスを考える」を参照ください。)

『義太夫の三味線で足取が重要なことはお話しするまでもないことです。世話
時代の弾き分け、文章のすがたを弾き表すのは第一に足取です。これは一寸口
ではうまくいひ表せませんが、例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺ある
としますと、その一尺のものを等分に割らずあるところは一寸五分、あるとこ
ろは三寸二分、また次には五寸、その次は四分……といふ風に辿つて、結局は
一尺のものに納めるのが足取で、その割り方、辿り方によつてその場その場の
すがたが表れて来るのです。一尺のものを一寸づゝ十に等分する場合もないこ
とはありませんが、まづ少く、何時でも等分ではそれは足取といへません。で
すから同じ一つの「フシ」でも足取をつけ変へると全く別のものになります。
』(鴻池幸武:「道八芸談」より)

「例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと」、西洋音楽で四
分の四拍子と言えば・一小節を一尺として・そのなかに四分音符が四つあると
いう状態を足取りとするということです。ですからユニットの観点から捉えれ
ば西洋音楽と邦楽が違うと感じたことは、吉之助の場合はまったくありません。
西洋音楽の場合はたまたま定間の足取りの意識が強いだけのことだと吉之助は
考えます。次に九代目団十郎が六代目菊五郎に踊りの極意を語った言葉を引用
します。

『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まって
いる定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸
をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六
代目尾上菊五郎:「芸」)

団十郎の言うところは、ユニットを正確に一定に保つことができるなら・その
なかの刻みを比較的自由に持っても・それで形式感は出せるという考え方です。
もちろんこれは決して簡単なことではないので、上手にやらな ければユニット
自体のバランスが狂ってきます。こうなると全体の足取りが揃ってきません。
しかし、折口信夫が言ったことですが、六代目菊五郎がタンタンタンと踊りこ
んでいって・舞台の端もうちょっとと言うところでピタリと決めて見せる・こ
の感覚は「菊五郎の科学性」だと言って良いと 折口が言っています。それは菊
五郎にも折口にも共通した正しいユニット感覚を持っているからです。このこ
とは台詞のリズムを考える時の非常に重要なヒントとなります。

○アジタートなリズム・その5:足取りについて

九代目団十郎の「間(ま)」についての考え方をもう少し考えます。

『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まって
いる定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸
をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六
代目尾上菊五郎:「芸」)

これは一尺をユニットと考えればよろしいのですが、原則的にはそのなかのリ
ズムの割り振りに多少自由度を持たせても・最後に余った長さをチョイと合わ
せて(足して・あるいは引いて)「一尺にぴったり合わせることができるなら
ば」それで良いということです。ただし、前提となることは踊り手にも・観客
にも・そこに共通した「一尺」という感覚が存在することです。そうでないと
「やった・決まった」という感覚にはな りません。観客は「あいつは何ヘマや
ってんだ」と感じることになります。ですからその場に共通のユニット感覚を
どう持たせるかということです。結局テンポが速い・遅いという感覚は、何か
基準があって・それに比べて速い・遅いという判断になるわけです。ですから、
まずその場に居合わせた者(演者・観客)の共通した速度バランスの基準をど
う提示してみせるかという問題です。それが足取りの問題ということになりま
す。

『私たちの西洋音楽ですが、人間の声を犠牲にして楽器を強調したために、音
楽として語るという私たちの感性はほぼ消し去られていますね。しかし、実際、
語られた言葉こそがどんな時でも音楽、純然たる音楽なのです。それは歌の形
式です。嘘だと思うならどの時点でもいいから話す速度を遅くしてみれば良い。
自分が歌っているのが分かるでしょう。その一瞬に持続するどんな言葉も歌な
のです。これは明らかなのですが、過去四・五世紀に渡り、私たちの西洋音楽
では、いくつかの効果を加速させて、通常の語りのレヴェルをはるかに凌駕し
てしまいました。独奏の効果を発揮する場面で名人芸的な楽器を際立たせたこ
とは、アラビア人や中国人が夢にさえ見ない行為でした。彼らはあらゆる音楽
的効果を日常の話言葉に従属させたがりますから。そして今、西洋世界の私た
ちは、むしろそういう方向に動いていると思うのです。シェーンベルクの業績
はその方向における大きな一歩です。』(マーシャル・マクルーハン:グレン
・グールドとの対話「メディアとメッセージ」・1965・「グレン・グール
ド発言集」に収録)

マクルーハンはメディア理論で知られるカナダの文明批評家ですが、同じくカ
ナダのピアニスト・グールドとの対話のなかでマクルーハンはとても重要な指
摘をしています。19世紀の西洋音楽は概念的に若干行き過ぎたところがあっ
て、通常の語りのレヴェルを器楽的な効果に従属させようとする傾向があった
かも知れません。その概念に現代の我々はどうしても捉われるところがあるの
で、「音楽的」というイメージをしばしば器楽的な・すなわち五線譜的な考え
方で捉えてしまい勝ちです。二拍子は日本のわらべ歌の伝統的なリズムではあ
るのですが、 そのため明治においてはそれがメトロノーム的な二拍子で理解さ
れてしまうことになりました。例えば「鉄道唱歌」・「きーてきいっせいしん
ばしをー」の二拍子のリズムです。吉之助は現代の黙阿弥の七五調をダラダラ
調と呼んでいますが、そのリズムの起源がここにあります。これは七五調を無
意識のうちに器楽的な二拍子で 捉えているのです。

ですから非西洋音楽においては、マクルーハンが指摘する通り ・「彼らはあら
ゆる音楽的効果を日常の話言葉に従属させたがる」のですから、歌舞伎の台詞
のリズムを考える時も、台詞のエロキューションを器楽的に捉えるのではなく
・もっと柔軟に捉えるべきなのです。そのためにはまずリズムを「ユニット」
で捉えること・そしてユニットのなかをある程度自由な息に持たせることです。
そうすると大事なのは正しい足取りということになるのです。これがあって初
めて歌舞伎の台詞は正しい意味において「音楽的」ということになります。吉
之助が本稿で言うリズムとはそういう意味だとご理解ください。

○アジタートなリズム・その6:歌舞伎の台詞のバロック性

ピアニスト園田高弘氏が作曲家諸井誠氏との往復書簡のなかでショパンの演奏
法について語っています。園田氏によれば・ショパンの場合・楽譜に記された
リズムは決して一様な形態を意味するものではなく・テンポ指示ですらそのお
およその目安に過ぎない・このことが十分に理解されていないというのです。
そのためショパンの装飾音は得てしてあまりにも早くブリリアントに誇張して
弾かれるか・単なる装飾音として機械的無味乾燥に弾かれるかのどちらかだと
園田氏は言います。その論拠として園田氏は音楽学者ハインリッヒ・シェンカ
ーの「バッハの装飾音について」という考察を挙げています。

シェンカーが言うところは『バッハの作品に向けられる非難のひとつは装飾音
が多すぎるということである。これは当時のクラヴィコード(ピアノの原型)
の性能の貧弱さから来るものだと一般には考えられている。しかし、時代が下
ってショパンやシューマンの 時代のピアノと比較したらどうか。楽器の性能は
音量も響きも機能的に格段に進歩したにも係わらず、ショパンの装飾は少なく
なるどころか・とてつもなく多く豊かになっている。 つまり、これは楽器自体
の本来の要求であるのだ。装飾音はクラヴィコード演奏の本質的な要素だと考
え・装飾音をそのまま旋律要素と捉えることでバッハの新しい解釈が可能とな
る』ということです。園田氏はこのシェンカーの説を踏まえて、ショパン演奏
の場合でもそれぞれの装飾音はその楽節の意図・表情付けによって、早く・遅
く・短く・長く・演奏されるべきであると主張しています。(園田高弘・諸井
誠共著「ロマン派のピアノ曲〜分析と演奏」・音楽之友社)
園田高弘・諸井誠共著:ロマン派のピアノ曲―分析と演奏

まずシェンカーの主張・ロマン楽派に至って装飾音はますます豊かに絢爛豪華
になっていくということは、別稿「バロックに関する対話」 でも触れた通り・
芸術の変遷をバロック的な要素と古典的な要素の間での「揺らぎ」と見なし、
ロマン派芸術は古典派の形式を崩していくことで表現の自由を得るが・次第に
そのバロック的な本質が露わに現れるという経過を取るという吉之助の考え方
に完全に合致する考え方です。ショパンの旋律の微妙なニュアンスはバロック
的な表現要素として捉えることが出来ると思います。

シェンカーの主張でもうひとつ大事な点は(園田氏にとっては当たり前のこと
なのでこの点に言及していないのですが)、「装飾音はクラヴィコードという
楽器自体の本来の要求である」ということです。これはピアノだけがひと りで
音楽の世界を作ることができるということです。他の楽器においては無伴奏チ
ェロ・ソナタなどとか若干の例外はありますが・ ほとんどピアノなどの共演者
を伴う室内楽であり、ひとりで音楽を作ることは唯一ピアノだけが可能なので
す。オーケストラのルバート・アッチェレランドがどれほど即興的に聴こえよ
うが・それは入念なリハーサルの産物であり、指揮者が思い付きで極端なこと
をしようとすればアンサンブルは崩壊してしまいます。ピアニストだけが旋律
の微妙な表情付け、早く・遅く・短く・長くを自分だけの意志で自由自在に・
しかも即興的に操ることができます。 逆に言えばピアノ作品には作曲者の時代
の気分を直接的かつ濃厚に盛り込むことができるということです。このことは
ロマン楽派の作曲家の多くが優れたピアノストでもあったこととも密接に関連
します。

長々しく音楽論を前座に置きましたが、台詞は対話の場合ももちろんあります
が・役者がひとりでしゃべることが芝居の基礎となるのです。ですから俳優(
歌舞伎役者だけではなく)は台詞を音楽的に響かせるためには台詞の意味と息
を理解し、それに応じた微妙な表情付けを早く・遅く・短く・長く付ける技術
を修得せねばなりません。それがすなわち台詞のエロキューションの問題とい
うことです。 こうすることでバロック的な歌舞伎の本質が台詞のリズムに現れ
ます。

折口信夫が指摘する通り 、日本の演劇では台詞のエロキューションの問題が伝
統的になおざりにされてきました。歌舞伎においては台詞のエロキューション
をフォルム(様式)という概念で理解する習慣が欠けています。作者・成立年
代によってフォルムを明確に演じ分けるというところまではとても至っていま
せん。今の歌舞伎役者が持っているのはせいぜい幕末歌舞伎の様式のいくつか
で、それらを巧く使いこなして切り抜けているのが現状のところです。しかし、
実のところは様式ということならばすでに黙阿弥でさえ様式として正しく演じ
られない事態にまで歌舞伎は至っています。(このことについては後で考えま
す。)新劇においては歌舞伎(旧劇)を否定することにやっきになっているう
ちに・様式の否定が写実だという誤解を無意識のうちにしてきました。ですか
ら新劇からアングラに至るまで多くの俳優がただ早口で怒鳴っているような印
象です。さすがに主役級にはまともな方がいますが・それはご本人の素養がた
またま良かったからで、台詞訓練として理論系統立ったものは確立されていな
いようです。こういう集団のなかに歌舞伎の方が入ると・もう歴然とした力量
の差を感じますが、それは歌舞伎役者が完璧でないにしても演技様式をそれな
りに持っているからです。しかし、折口の言う通り・「歌舞伎芝居のなかに近
代的精神を・あるいは新劇的生命を生かすにはどうすべきか」ということを考
えるならば、台詞のエロキューションは避けて通れない問題になるわけです。

(本号の記事に関連するサイトの記事)
「左団次劇の様式」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geitohito23.htm
「芝居のバランスを考える」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh24.htm
「バロックに関する対話」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh38.htm

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