2009/04/26
メルマガ「歌舞伎素人講釈」
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メルマガ「歌舞伎素人講釈」 第248号 ◎
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こんにちは、吉之助です。三号にわたって続いた「盟三五大切」に関する随想も
やっと後編完結となりました。過去「弁天小僧」やら「四谷怪談」・「忠臣蔵」
などを逍遥しましたが、後編で「盟三五大切」の名前がやっと出てきました。
これで南北の綯い交ぜの手法について・大雑把な考察ができたかなと思います。
後編も思ったより長くなってしまって・場合によってはこれを2回に分けるか
とも思いましたが、どうにか1回分で収めました。
さて、詳細は決まりましたら・改めてお知らせしますが、6月と7月末に「歌
舞伎素人講釈」講話会を二回シリーズで行う予定です。これはこれまで10回
行ってきた公開講座よりも・対話性の強い形とすること・内容としては「歌舞
伎を材料に考える」コンセプトをより強くする形を指向しています。まあそう
いうわけで・興味おありならば、ご参加ください。
ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「世界」とは何か (後編)
〜平成20年11月歌舞伎座:「盟三五大切」
片岡仁左衛門(源五衛門)、尾上菊五郎(三五郎)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
5)
平成20年11月歌舞伎座での「盟三五大切」ですが、仁左衛門の源五兵衛・
菊五郎の三五郎・時蔵の小万という好配役にもかかわらず・幕切れが何ともフ
ニャッとした締まりのない出来でありました。これでは南北の綯い交ぜ・複数
の「世界」を混ぜ合わせてまったく別の様相のドラマを作り上げるという面白
さは到底味わえません。 この幕切れでは、在り来たりの男女の色恋沙汰のあげ
くの殺人劇の・取って付けたようなオチにしか見えません。三五郎が愛する女
房を殺されて怒 り狂って源五兵衛と立ち回りかと思いきや、その殺した男が主
人筋だと分かると騙りを働いたことを悔いて・出刃を腹に突き立て罪を全て引
き受けるというのは ・予備知識なしでこの芝居をご覧になった方には「何だ?
この結末は・・・」と唖然とする結末だと思います。
どうしてこういうフニャとした結末になるのかと言えば、原因のひとつは出刃
を腹に突き立てた三五郎の述懐を聴いて・源五兵衛(=実は塩治浪士不破数右
衛門)が「 こりやかうのうては叶うまい」という台詞がないからです。さらに
幕切れで了心(=三五郎の父親であり・数右衛門の家来)が叫ぶ「「お立ち」
という台詞もありません。 もちろん脚本だけに問題があるわけではないですが、
これでは南北が仕込んだ「忠臣蔵」の世界が全然機能しません。この台詞のカ
ットが演出の織田紘二氏の意図か・あるいは仁左衛門・菊五郎の意図かは知り
ませんが、これは歌舞伎における「世界」の役割をまったく理解できていない
ということです。
別稿「人格の不連続性」で触れた通り・吉之助が「盟三五大切」を初めて見た
のは、昭和54年(1979)10月・国立小劇場での青年座(石沢秀二演出)
の舞台で 、この時の印象は鮮烈なものでした。吉之助は「新劇でこれだけ面白
い・ならばオリジナルの歌舞伎ならさぞかし・・・」と思ったものでした。そ
れは石沢演出でカットされた・新劇ではカットせずにはいられなかった・新劇
の立場からすれば決して共感できない「こりやかうのうては叶うまい」という
源五兵衛の台詞を実感を以って言えるのは歌舞伎だけだろうということでした。
それで吉之助は歌舞伎での上演を心待ちにしていましたが、その後に吉之助が
出あったいくつかの歌舞伎の「盟三五大切」の舞台で・青年座の舞台を乗り越
えたものはなかったと思います。今回のような「盟三五大切」のフニャッとし
た幕切れを見せられると、正しい歴史感覚と作品分析が出来る演出家を持たな
いとこれからの歌舞伎は駄目だなあという暗澹たる気分になりますねえ。
青年座での舞台で石沢氏が「こりやかうのうては叶うまい」という源五兵衛の
台詞をカットしたのは、当時(70年代)の学生運動の「反体制」の雰囲気が
残っていた時代の新劇の 考え方からすれば当然のことでした。当時は「こりや
かうのうては叶うまい」は、家来は主人の犠牲になるのが当たり前だと言わん
ばかりの台詞に聞こえた のです。忠君愛国思想は体制からの押し付けの論理で
ある・赤穂浪士の仇討ちとは体制賛美の象徴であるというのが、当時の・第二
次鶴屋南北ブームの時期の作品解釈でした。こうした見方に対して歌舞伎は何
ら反論ができませんでした。反論すればするほど反動的で時代遅れで古臭いと
思われるのが怖かったのかも知れません。今回の歌舞伎の「盟三五大切」を見
ると、70年代の新劇視点に未だに反論ができぬまま・何やら自信無げに南北
をやっている感じです。怖くって「こりやかうのうては叶うまい」なんて台詞
はとても言えませんという感じです。しかし、歌舞伎役者は「こりやかうの
うては叶うまい」の台詞を自信と確信を以って言えなければならぬのです。鶴
屋南北は確かにこの台詞を書いたのですから。江戸の人間の生き様をしっかり
と見せねばならぬのです。
「盟三五大切」大詰・愛染院門前の場を見てみます。自分が殺したのは家来で
ある了心の息子の女房であったこと・彼らが自分を騙かったのも実は主人の仇
討ちのための資金を用立てる為であったことを知った源五兵衛は自らの行為を
悔いて「身共へ忠義を却って恨み今更思えば恥ずかしい。これみな武士のある
まじき、女に迷ひし白痴ゆえ。その言い訳には腹切るぞ」と言って腹を切ろう
としますが・了心に止められます。その時・部屋の隅に置いてあった早桶から
腹に出刃を付き立てた三五郎がよろめき出て、「親仁がお主の旦那さま、知ら
ぬこととてあのしだら、申し訳には・・」と出刃を引き回します。これを見た
源五兵衛が「こりゃかうなうては叶うまい」と言うのです。この後、三五郎の
述懐が続きます。「・・あなた様に、多くの人を殺させた、元の起こりも私し
ゆえ、その言い訳に切ったる腹、くたばりまするをまだしもの、お命代わりと
思し召し、(中略)義士に加はり亡君の、存念晴らさせ、あなたにも、忠義の
武士と末代まで、その名をあげてくださりませ。」これを聞いた源五兵衛は「
その志しあるなれば、死ぬに及ばぬものなるを、あつたら若者見殺しに・・・」
と言い、「我も騙かる夫婦の者、憎しと思う念も晴れ、用金揃えて、この身の
詫び言・ ・」と仇討ちに出立する決意をします。
そこへ火事装束の塩冶浪士の仲間たちが唐突に・何の前触れもなく登場します。
彼らは高師直館に討ち入るべく数右衛門を呼びに来たのです。何と芝居のなか
でそれまで大工左官・あるいは商人で登場していた者たちは、実はすべて身分
を隠して潜伏していた塩冶浪士であったことがここで明らかになります。幕切
れの割り科白には次のようにあります。( )内は役名です。(台詞は三一書
房版・鶴屋南北全集・第4巻を参照しています。)
『(鉄)古主の鬱憤散ざん為、大工左官と様を変え、(市)或いは商人、日雇
取り、皆この辺に徘徊なすも、(辰)これ皆義士の棟梁たる、大星殿の指図に
依り、数右衛門どの迎えの為、(鉄)塩田、倉橋、前原はじめ、義士の輩参り
し上は、大望即ち今日今宵。(市)門出を祝して、(皆々)ご用意あれ。(源五)
然らばこれより同道いたして、(了心)本望達するめでたき門出。(三五 郎)
我はこのまま、あの世の門出。(源五兵衛)臨終称念。(了心)お立ち。(源
五兵衛)まず今日はこれぎり。』
この幕切れをどのように考えれば良いでしょうか。まず注意すべきことは「盟
三五大切」 では筋の途中で源五兵衛(=数右衛門)と家来了心との会話・ある
いは了心と息子三五郎との会話のなかでこの芝居が「忠臣蔵」の世界のなかに
あることは 何度も出ており、観客は承知のことだということです。だから別に
幕切れに突然「忠臣蔵」が出てきて・アッとどんでん返しの結末になるわけで
はないのです。ただし、この男女の色恋沙汰の殺人劇の行方が「忠臣蔵」とど
う絡んでくるかは最後まで分かりません。この芝居が「忠臣蔵」の世界である
ことの意味は最後の最後になって明らかになります。
幕切れを順を追って考えます。前述の通り・「愛染院門前」の場ですべての真
相を知った源五兵衛(=数右衛門)は腹を切ろうとして・自分が代わりに腹を
切ると言う了心に止められ、ふたりが刀を奪い合っているところに「お待ち遊
ばせ旦那さま、親仁さま、云い訳あり。」という三五郎の声あり、早桶から三
五郎が現れて「親仁がお主の旦那さま、知らぬこととてあのしだら、申し訳に
は・・」と言い、その 時の反応として「こりゃかうなうては叶うまい」という
源五兵衛の台詞が引き出されているのです。つまりこの場面で源五兵衛は自分
の罪を悔いているということです。これが認識の第1になります。ここでの源
五兵衛の悔恨を素直に受け取れない方は多いと思いますが、吉之助は源五兵衛
が腹を切ろうとしたのは本心からだと考えます。源五兵衛と父親が刀を奪い合
っているのを見て、三五郎が早桶のなかで腹を切るからです。
次に三五郎夫婦が源五兵衛から金を騙り取ったのはすべて親のため忠義のため
であり、主人数右衛門が立派に仇討ちを貫徹できるようにするためでした。と
ころが源五兵衛と数右衛門がたまたま同一人物であったために悲劇が起きたの
です。三五郎は父親に勘当された前歴を持つわけですが、真人間に戻りたいが
故に忠義であろうという気持ちがなおさら強いのです。また最後に真相を知っ
た時・そこで絶望してすべてを投げてしまえば、それまでの苦労は水の泡にな
って・女房子供の死も無駄にすることになります。ですから三五郎は最後まで
忠義であり続けようとしています。自分の忠義の行為を貫徹させるためには、
主人数右衛門が仇討ちの列に加わって・忠義の武士と末代までその名を挙げて
くれれば、それで家来としての自分の忠義は貫徹されるわけです。これが認識
の第2です。
そう考えれば源五兵衛の「こりゃかうなうては叶うまい」という台詞はふたつ
の意味があることが分かります。ひとつは「三五郎のような忠義の若者ならば
・この真相を知って生きてはおれまい・主人の代わりに自分が腹を切るという
こともまた忠義の行為である・忠義の家来はまったくこうでなければならない」
ということです。源五兵衛は三五郎の徹底した忠義に心の底から感服している
のです。だから「こりゃかうなうては叶うまい」という言葉が思わず出るので
す。もうひとつは、このような台詞が思わず出るということは、この時点で源
五兵衛は主人の立場に戻ろうとしている・つまり数右衛門に戻ろうとしている
ことが明らかです。すなわち「忠義の家来というものはまったくこうでなけれ
ばならぬ」というならば・「忠義の家来を持つ主人もこうでなければならぬ」
ということになるからです。これは家来三五郎の忠義の行為を主人数右衛門が
しっかり受けとめる覚悟があるということです。それが源五兵衛の「こりゃか
うなうては叶うまい」という台詞の意味です。
「その志しあるなれば、死ぬに及ばぬものなるを、あつたら若者見殺しに・・
・」というような台詞は時代物によくある台詞で すが、現代人には「家来を犠
牲にしておいて・いけしゃあしゃあとよく言うよ」と感じる方が多いと思いま
す。例えば「寺子屋」で菅秀才の言う「われに代わると知るならば、この悲し
みはさすまいに、可愛いの者や」です。この台詞を聞いて「それじゃあ小太郎
の代わりにお前死ねば良 いじゃん」と思う方はたぶん歌舞伎にご縁はないでしょ
う。菅秀才は「自分の代わりに家来を死ぬような事態になってとても悲しい」
と感じており、心底感謝をしているのです。 この若君の言葉によって悲しみは
浄化されるからです。こういう台詞は素直に読まねばなりません。
そのような源五兵衛と三五郎の言葉に感応するが如く・幕切れに「忠臣蔵」の
仲間たちが続々と現れます。しかも彼らはそれまでの芝居のなかで大工左官・
あるいは商人で登場していた者たちです。彼らは一部の連絡係を除いて・お互
いの素性を知らなかったでしょう。素性を隠して巷に潜伏しながら、ある者は
師直の動静を探り、ある者は由良助の心中を図りかねて悩んだり・怒ったり、
ある者は脱落し、ある者は源五兵衛(=数右衛門)のようにとんでもないこと
を仕出かしていたのです。しかし、由良助から「集合」の指示が下り、いよい
よ師直館に討ち入る時が来たのです。源五兵衛が巷で起こした事件の罪は三五
郎がすべて背負ってあの世へ行き、源五兵衛は赤穂義士として出立していきま
す。
6)
「人ひとり殺せば犯罪者だが、千人殺せば英雄だ」と言ったのはチャールズ・
チャップリンであったかと思います。バートランド・ラッセルも「人ひとり殺
すのが罪ならば、千人殺すことは千倍罪が重い」ということを書いていたと思
います。その指摘は確かにその通りだと思いますが、しかし、千人殺した事実
があり・千倍の罪を背負って・それでもなおかつ彼が「英雄」と呼ばれる場合
があることを歴史は教えています。歴史が教えるところは大いなる誤認である
のでしょうか。ならば歴史が教えるところの「人の偉大さ」とは何かというこ
とをもう少し考えてもよろしいのではないでしょうか。「三国志」を見れば(
これはまあ正史とは言えませんが)、英雄関羽はバッタバッタと敵を切り殺
し・いったい何人殺していることでしょうか。曹操は野望を以って天下を我が
物とせんとする人物ですが、決して悪人に描かれているわけではありません。
「三国志」のなかで戦闘で何十万人死んでいるか分かりませんが、その物語か
ら立ち現れてくるイメージは何かということです。関羽も・曹操も血まみれた
殺人者に過ぎないと断じるならばつまらぬことです。
「四谷怪談」と同じく・「盟三五大切」も「忠臣蔵」の世界に仕組まれていま
すが、時代に対する世話・建前に対する本音、あるいは非人間性と人間らしさ
との対立構図というステレオ・タイプな解釈のために、その幕切れが正しく理
解されていません。そこに感じられるのは「こりゃかうなうては叶うまい」と
いう台詞をきっかけに源五兵衛が不破数右衛門という本来の人格に立ち戻るこ
とに対する根強い不信感です。このような木に竹を接ぐような人格の「人格の
不連続」という歌舞伎の手法が、どれほど独自性があり・衝撃的で・インパク
トのある演劇手法であることか・そのことが理解されていないのです。ですか
らこの「不自然さ」は「忠臣蔵」の忠義の論理に対する鶴屋南北の批判である
ということになるわけです。義士だの何だの言っても・所詮は徒党を組んだ血
塗られた殺人集団であると南北は言いたいであると・そういうことになるので
す。しかし、ホントにそうなのでしょうか。
三五郎は女房小万を使って・源五兵衛という愚かな男から金を巻き上げまし
た。これが主人数右衛門となったく別人物ならば・三五郎は「天晴れ忠義の家
来だ」と主人に褒められるのでしょうが、やっていることは強請り騙りに違い
ありません。怒り狂った源五兵衛に女房子供を殺されるのも強請り騙りの報い
とすれば仕方ないことです。これ自体は市井の三面記事的事件に過ぎません。
南北は源五兵衛は赤穂義士数右衛門が巷に潜伏している時の仮の名前だと書き
換えてしまいました。これにより芝居の筋がメビウスの帯のようによじれなが
ら・循環することになります。
並木五瓶の「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ」は、寛政7年(179
5)1月江戸・都座での上演。この作品は五人斬りという猟奇事件を題材にして
いますが、登場人物の心情を極めて自然に描き出したことで歌舞伎史を通じて
の世話物の傑作とされています。「五大力恋緘」の初演には・当時41歳の南
北もスタッフとして参加していました。その30年後・南北71歳の時に「五
大力恋緘」の「五大力」の世界を借りて、これに「忠臣蔵」の世界を綯い交ぜ
して「盟三五大切」を書き上げたのです。本作は文政8年(1825)9月に
江戸・中村座で初演されました。
これは大事なことですが、「盟三五大切」の登場人物はみな「忠臣蔵」の世界
から発するのであって、その逆ではないということです。江戸の市井の人物を
突然鎌倉や室町時代の架空の設定のなかに放り込んでいるのではないのです。
「忠臣蔵」も元禄15年(1703)の事件を「太平記」の架空の設定に放り
込こんでいるわけでややこしいですが、文化文政期においては「忠臣蔵」はも
はや古典であり・彼らは遠い過去からやって来た人物という印象が強かっただ
ろうと思います。「盟三五大切」は「五大力恋緘」の筋を表面上あまり崩さず
に取り入れており・幕切れで唐突に「忠臣蔵」が出てくる感じですが、吉之助
はこの幕切れについては・タイムマシンで遠い過去からやって来た「忠臣蔵」
の人物たちが・文化文政の現在にやってきていろいろトラブルを巻き起こした
あげく・急に呼び出しが掛かって全員過去に戻ってしまうようなイメージを持
ちます。
「かぐや姫」のラスト・シーンを思い出していただきたいのですが、かぐや姫
と結婚しようとさまざな男たちが珍妙な騒動を引き起こしますが・突然月から
お迎えがやってきて・かぐや姫は去ってしまいます。「これまでの愚かしい騒
動は一体何だったんだ」と一同呆然とするラストですが、「盟三五大切」は実
にこれによく似た幕切れです。お呼び出しはもちろん由良助から掛かっていま
す。「これ皆義士の棟梁たる、大星殿の指図に依り、数右衛門どの迎えの為、
塩田、倉橋、前原はじめ、義士の輩参りし上は、大望即ち今日今宵。門出を祝
してご用意あれ。」とあります。由良助がデウス・エクス・マキーナであると
いうことは言うまでもありません。
先に述べた通り・「忠臣蔵」の本質は由良助が担うもので、そのドラマの核心
は「由良助は何を考えているのか・それは誰にも分からない」ということにあ
ります。由良助が何を考えているか分からないから、周囲の者たちはあれこれ
思いを巡らせて右往左往しているのです。「盟三五大切」のドラマもまたそう
で、登場人物のほとんどが「忠臣蔵」から発しながら市井に在って・彼らは連
携もせず・バラバラで・互いに助け合いもせず、それぞれが自分で考えて自分
なりの忠義をしています。要するに良かれと思ってそれぞれが勝手に動いてい
るわけです。だから資金集めのために強請り騙りをしたら・その被害者が主人
だったということも起きてしまいます。これは悲劇であると同時に傍から見れ
ば滑稽なことでもあるのです。それが各地から様々な素性の人が流れ込んでき
て・誰もその人の本当のことを知らないし・知ろうともしない大都市江戸の宿
命なのです。そこに文化文政期という時代の一面が現れています。(これはま
た現代にも通じるところです。)
思えば「忠臣蔵」物にはいろんな系譜がありますが、歌舞伎の人物にはそれぞ
れキャラクターの色分けがありまして佐藤与茂七といえばいつでも色男・モテ
男、潮田又之丞はいつも病気で寝ているし、不破数右衛門はいつでも粗忽者・
無骨者であると決まっています。史実の不破数右衛門も何の理由か家来を斬っ
て閉門を仰せつかった経歴があり、武勇優れるが・危うい気質の人物だと見ら
れたようです。また苗字が荒事の歌舞伎十八番の「不破」を連想させるせいも
あると思います。「五大力」の世界を借りて・五人斬りなんてことをやらかす
のは、四十七士の中ならばこの男しかおらぬということになります。だから南
北は「五大切」の世界に数右衛門を放り込んで・源五兵衛を名乗らせているの
です。これは「やつし」の趣向です。
「やつし」の代表例はもちろん「廓文章」の伊左衛門です。そのため高貴な者
・富裕な者が零落してうらぶれた演技をする和事が「やつし」であると思い込
んでいる方が少なくありませんが、そうではありません。もっといろいろなパ
ターンがあります。「やつし」の本質とは、本来の自分ではない仮面の人生を
自分は生きざるを得ないということです。そのために本来の自分を発揮できな
い憤懣や・自分自身を偽っているという罪悪感に責められているという状況を
演劇的に見せるのが「やつし」なのです。だから荒事の「やつし」もあります。
「助六」がそうです。「やつし」は鬱病・自殺者が激増している現代において
一層クローズアップされる現象であることは言うまでもありません。それは現
代病と言うべきものですが、それが歌舞伎の「やつし」に既に現れているので
す。(言い換えれば、このことは江戸時代がすでに近代であるということの確
かな証拠となります。)
「五大切」の世界に数右衛門を放り込んで・源五兵衛を名乗らせていることが
既に「やつし」です。源五兵衛が酒色に狂い・金を使い果たすのも、本来の自
分が発揮できない(早く討ち入りして武勇を奮いたいのに・いつまでたっても
由良助がその意思を示さない)という憤懣であり、自分自身を偽っている(し
たくてしている放埓三昧ではないが・それゆえ飲まずにはいられない)という
罪悪感からであるということです。三五郎からして見れば、こういう奴こそカ
モだと思われたのです。だから悲劇が起こるのですが、しかし、三五郎は悪い
ことはしても・その行為が忠義に発しているという意識は決して捨てませんで
した。その一途さが最後に源五兵衛を本来の数右衛門に引き戻す奇蹟を引き起
こすのです。「こりやかうのうては叶うまい」という台詞はその転換点を示す
もので、歌舞伎でしかあり得ない・物凄い台詞だと思います。
話があちこち飛びますが、真山青果の「元禄忠臣蔵・大石最後の一日」におい
て・男の成りをして屋敷に入り込み・磯貝十郎左衛門に会おうとする娘おみの
の台詞を思い出します。
『一端の偽りは、その最後に誠に返せば、偽りは偽りに終りますまい。実(ま
こと)のために運ぶことも、最後の一時を偽りに返せば、そは初めよりの偽り
でございましょう。(中略)十郎左さまにさえお目にかかれば、やがて必ず誠
に返してお目にかけます。十郎左さま方便の偽りも、おみのは誠に返してお目
にかけます。どうか、どうか十郎左さまに、お引きあわせを願い上げます。』
詳細は別稿「内蔵助の初一念とは何か」をお読みいただきたいですが、偽りも
・罪悪も一時に実(まこと)に返してみせることが可能なのです。現実には難
しいことかも知れませんが、文学や芝居のなかではその奇蹟を引き起こすこと
が確かにできるのです。「盟三五大切」の幕切れをそのように読んで欲しいも
のだと思います。
(本号の記事に関連するサイトの記事)
「人格の不連続性」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/butai3.htm
「内蔵助の初一念とは何か」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin79.htm
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