2009/03/22
メルマガ「歌舞伎素人講釈」第246号
********************平成21年3月22日発行****
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メルマガ「歌舞伎素人講釈」 第246号 ◎
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こんにちは、吉之助です。東京ももうすぐ桜の季節になります。サイト「連載
コーナー」の方では「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズム論」をゆっ
くりと連載中です。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/rensai1.htm
さてメルマガの方はちょっと間があきましたが、本号は昨年11月歌舞伎座の
「盟三五大切」の舞台に関する随想の前半部分です。ただし、吉之助の随想は
劇評ではありませんので・舞台のことは材料に過ぎません。本稿前半部分に
「盟三五大切」が一切出てこないで・「弁天小僧」や「四谷怪談」の話ですが、
いずれ後半部分で「盟」のことが出てくるはずです。まだ全部書けていないの
ですが、そうでないと本稿は終われません。本稿お読みになればお分かりに
なりますが、本稿前半部分はすべて「盟」幕切れを論じるための前座として書
かれています。歌舞伎における「世界」とは何か・ということが本稿のテーマ
です。
ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「世界」とは何か (前編)
〜平成20年11月歌舞伎座:「盟三五大切」
片岡仁左衛門(源五衛門)、尾上菊五郎(三五郎)
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1)
平成20年5月歌舞伎座の「弁天小僧」通しの舞台についての観劇随想で・菊
五郎の弁天小僧の演技が時代に傾斜して重いということを書きました。「弁天
小僧」の正式な外題は「青砥稿花紅錦画」と言いますが、最後の極楽寺山門の
場面で青砥左衛門藤綱が登場することで分かる通り・時代の設定が鎌倉時代と
なっています。青砥左衛門は鎌倉時代の実在の人物で、幕末江戸では大岡越前
守と並ぶ名奉行と言われていました。江戸時代は幕府の規制によって同時代を
題材にした芝居はできないことになっていましたから、黙阿弥はここで幕末の
泥棒たちを登場させるのに・鎌倉時代の架空の出来事に設定したわけです。そ
れでは「弁天小僧」は時代物なのでしょうか。見取りで見る時には「浜松屋」
はもちろん世話物に決まってますが、通しの場合であるとこれはハタッと考え
てしまうところがあります。序幕・新清水・初瀬寺観音の場は明らかに「新薄
雪物語・花見」の場から採られていますし、幕切れ ・極楽寺山門の場も「楼門
五三桐」から採られています。役者としては全体の整合性が気になるのか・「
弁天小僧」も通し上演になると自然と時代に傾く傾向があるようです。恐らく
菊五郎の弁天小僧が時代に重い感触になったのもその辺を考慮してのことかも
知れません。勘三郎が通した時にもそんな気配があったと思います。
確かにいろいろ考え方はあると思いますが、吉之助は「弁天小僧」は基本的に
やはり世話物として捉えた方が良かろうと思います。白浪五人男はモデルはそ
れぞれですが・みな幕末の盗賊であり、観客はもちろん鎌倉は江戸・稲瀬川は
隅田川・極楽寺は浅草寺だと思って芝居を見たわけです。日本駄右衛門は実在
した盗賊がモデルで・本名は浜島庄兵またの名を日本左衛門と言いました。弁
天小僧菊之助は黙阿弥が両国橋で 見掛けたという女物の着物を着た美青年をモ
デルにしたと言われます。つまり今で言えば渋谷か六本木辺りにいそうなちょ
いとイケ面の優男なのです。
そのような幕末の盗賊たちが鎌倉時代に突然放り込まれて一体どうなるのかを
考えて見ます。楼門の上で浜島庄兵が大時代の衣装を着て・歴史上の大泥棒の
石川五右衛門を気取って「絶景かな・・絶景かな」と言う時、それはちょっと
ミスマッチなのです。浜島庄兵がそんな大層な泥棒でないことを当時の人々は
みんな知っているからです。「アイツ、大物気取りでいい気分になっちゃって
・・」とちょっとクスッと笑ってしまうところがあります。「弁天小僧」に散
りばめられた時代物のパロディというのはみなそういうもの なのです。稲瀬川
の勢揃いというのもそうで・名乗りのツラネで幕末のアウトローのカッコよさ
と言われますが・まあそう考えても決して間違いではないですが、つまらない
コソ泥たちが一生懸命意気(粋)がっていることの可笑しさというのが本当の
ところだと思います。幕末江戸の泥棒たちと鎌倉時代・青砥左衛門という「世
界」の二重構造がそういうズレを起こさせるのです。ですから登場人物が時代
の感覚の方にぴったり納まり過ぎてしまうと、「弁天小僧」のホントの面白さ
というのは出てこないわけです。
歌舞伎の「世界」とはどういう意味を持つのでしょうか。お上の規制があるの
で同時代の事件をそのまま描けないから・黙阿弥は方便として架空の出来事に
仕立てて勧善懲悪のパターンで逃げを打ったということでしょうか。建前とし
てはそれももちろんあります 。しかし、歌舞伎の「世界」がひとつの作劇の概
念として定着した後においては「世界」のハンデを逆手にとって作劇に利用す
るという積極的な意味をそこに見出しても良い はずです。「世界」の積極的な
意味とは、その意味が明らかになった時・「そうでなければ叶わない」と誰も
が納得する結末に芝居を至らしめるということです。「弁天小僧」の場合で言
えば・青砥左衛門が登場し「潔く縄に掛かれ」と言われた時に、駄右衛門がこ
の名奉行に捕まるのならそれも仕方がないと誰もが納得するということです。
青砥左衛門は正義の人であり・曲がったことは決してしない人であり・情もあ
って公正なお裁きをしてくれる名奉行であると江戸の人々は信じていました。
青砥左衛門に「縄に掛かれ」と言われたならば・悪人は誰でも素直に 観念して
縄に掛かり・その罪を償わなければならぬのです。この時、正しい意味におい
て善は栄え・悪は滅びるのです。なぜならば青砥左衛門がそういう「世界」の
人だからです。黙阿弥は幕末の世に青砥左衛門のような公正なご政道を渇望す
る(今はそのような公正な世の中ではない)ということを訴えているのかも知
れません。あの謹厳実直な黙阿弥が単純な泥棒賛美の芝居を書くはずはないと
思います。歌舞伎の「世界」は江戸の庶民の倫理観に根差しているのです。
2)
「弁天小僧」の「世界」のことを考えましたが、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」
になるとさらに事情が複雑になります。つまり「四谷怪談」は時代物か・それ
とも世話物(生世話)なのかということです。そのポイントは「四谷怪談」と
並行進行する「仮名手本忠臣蔵」との兼ね合いをどう位置付けるかということ
です。「忠臣蔵」に沿ってドラマ構造を考えるならば時代物、「忠臣蔵」と概
念的に対立するものと見なすならば世話物と見ること ができると思います。ま
あこれは読む視点によって見えるものが違うかも知れません。演技様式的に「
四谷怪談」を生世話と分類するのはごく自然なところですが、「四谷怪談」が
時代か世話かという問題はその根本にあるドラマ構造に係わる重要な問題 だと
思います。
吉之助は別稿「時代物としての四谷怪談」で書いた通り・「四谷怪談」を時代
物として捉えたいと考えています。「東海道四谷怪談」は文政8年(1825)
7月に江戸中村座で初演されましたが、その時は2日掛かりで「仮名手本忠臣蔵」
とテレコで上演される形態が取られました。ところで広末保先生は「四谷怪談
〜悪意と笑い」(岩波新書)の最終章で「伊右衛門は死んだか」として「四谷
怪談」の幕切れについて次のように書いています。
『物語の結びとしては伊右衛門は死んだと誰しもが思うだろう。だが感覚的に
は伊右衛門は死にきらないままの宙吊り状態でそこに止まっている。(中略)
表に表れた筋書きを額面通りに受け取れば、「忠臣蔵」の義士・与茂七によっ
て(伊右衛門は)否定され克服されたことになる。「四谷怪談」の「忠臣蔵」
崩しがもう一度ひっくり返されたことになる。これでは何のための「四谷怪談」
だったか・訳が分からなくなる。』(広末保:「四谷怪談〜悪意と笑い」(岩
波新書)
注意せねばならぬことは広末先生は「四谷怪談」を単体で読んで・伊右衛門と
与茂七がきっと向き合って幕となる・この幕切れで上記の文章を書いていると
いうことです。現在「四谷怪談」で見られる幕切れは確かにこの形態です。し
かし、文政8年(1825)中村座での初演の時は、この形のまま舞台が廻っ
て・「忠臣蔵」の十一段目(討ち入り)に転換したのです。その討ち入りの場
面には与茂七が四十七士のひとりとして登場する わけですから、その前の場で
伊右衛門を討ち漏らしたままで・与茂七が師直屋敷への討ち入りに駆けつける
はずがありません。伊右衛門は間違いなく討たれたのです。南北がそのように
書いたことは疑いありませんが、その結末では広末先生が言うように「何のた
めの「四谷怪談」だったか訳が分からない」ということに本当になるのでしょ
うか。そのことを論じるためには「世界」の持つ意味を考えねばなりません。
「世界」とはその作品がその上に立脚するところの世界観のことを言います。
その「世界」は作者・役者・観客・そして支配者にも共有される価値観・倫理
観の上に立つものです。それは確かにお上(支配者)の側から見て納得が行く
ものですから、その枠のなかで芝居が展開するのならば・まあ許容してやろう
と支配者が考えるところの・ひとつのレトリックであるのです 。と同時に作者
・役者・観客にとっても「然り」と思える何かを示してもいるのです。「忠臣
蔵」の世界は武士が武士であるために・つまり自分が自分であり続けるために
守らねばならない誇り・意地があるということを描いています。江戸の民衆は
仇討ちというものを武士 が愚かな意地を張った・詰まらない行為だと考えたわ
けではありません。赤穂義士の仇討ちは人間のドラマだと・町人の我々の生き
方にも通じる美しいドラマだと見たのです。そうでなければ赤穂義士のドラマ
があれほどいろいろ形を変えながら・今日これまで民衆に愛され 続けてきた理
由が説明できるでしょうか。「四谷怪談」は「忠臣蔵」と対立しているのでは
なく・互いに補強し合い・共鳴しているのです。「四谷怪談」はそのような「
忠臣蔵 」の世界観の上に立っているわけです。
「四谷怪談」で伊右衛門と与茂七がきっと向き合って幕となる・その幕切れに
ついて考えてみます。「四谷怪談」単体での上演ならば・「まず今日はこれ切
り」という形となりますから、伊右衛門が討たれる場面がないわけで・これだ
けだと「伊右衛門はまだ死んでいない」と言い張ることが出来るかも知れませ
んねえ。これに似た幕切れとして「曽我の対面」・「絵本太功記・十段目尼崎」
などが挙げられます。これらの幕切れは「勝負はお預け・引き分け再試合」と
いうことなのでしょうか。決してそんなことはありません。工藤が曽我兄弟に
・光秀が久吉に討たれることは歴史が語るところの史実だからです。結末は誰
の目にも明らかなのです。ここにおいて観客は神の視点に立ちます。
これはこのように考えれば良いと思います。ホメロスの叙事詩「イーリアス」
はトロイ戦争を描いていますが、ギリシアの神々はそれぞれがトロイ方・ギリ
シア方に加担しており、贔屓の 勇者がピンチになるとそれとなく手助けをした
り・加勢をしたりします。しかし、運命の秤が一旦カタンと音を立てて下がる
と、「ああもう私の力ではどうすることもできない」と神は悲痛な叫び声を上
げます。その勇者の運命は決まったのです。歌舞伎の「まず今日はこれ切り」
という幕切れはそのように運命が決せられた状況においてのみ行われるもので
す。ですから「対面」で富士の裾野で後日対面せんと言っても・ 次に会った時
に工藤が曽我兄弟に討たれることはもう決まっているのです。「太十」で互い
の運は天王山で決しようと言っても・次の戦いで光秀が久吉に討たれることは
もう決まっているのです。だから安心して・ここは「これ切り」にしてやろう
というのです。そこに予祝性があるわけです。(別稿「曽我狂言のやつしと予
祝性」をご参照ください。)伊右衛門が無残に討たれる場面を描かないのは・
言ってみればそこに余韻を持たせているのです。絵巻物の余白のようなもので
す。作劇上から言えば人気役者が殺される場面はなるべく描かない(どうして
も殺さねばならぬ場合はその後に別の人物で化粧を直して登場する)という約
束でもあります。
やったことの是非はともかくとして・伊右衛門が「忠臣蔵 」の世界の価値観・
倫理観に反抗を試みたという見方も確かに出来ないことはないでしょう。しか
し、大詰めに義士・与茂七が登場し・伊右衛門が討たれることで・捻じれた世
界は「忠臣蔵 」の世界へ一気に収斂されていきます。これは「然り。そうでな
ければ叶わない・そうでなければ芝居は終われない」という結末です。これは
作者・役者・観客・支配者に共有される価値観・倫理観の上に立つものです。
そうなることですべてが落ち着くのです。 しかし、そこで伊右衛門の行為の余
韻がちょっぴり残るのです。「然り・・・しかし」ということです。ここで観
客は初めて伊右衛門の行為を思いやる余裕を持つことができます。
「然り、しかし・・・」ということが時代物の場合は大事です。「思いやる」
ということは、「忠臣蔵」のドラマも決して綺麗ごとではなく・いろんな苦労
もあったし・犠牲もあったし・脱落者もあったであろうという陰の部分をちょ
っぴり考えてみるということです。正義を貫き・守らねばならぬものを守り抜
くために、その陰にそれなりの苦労と犠牲があるということのは当然だからで
す。「忠臣蔵」を見てみれば・「六段目」において由良助は不祥事を犯した勘
平を涙ながらに死に追いやり、「七段目」では由良助は裏切り者の九太夫を殺
し・もう少しでお軽も殺されるところでした。また「九段目」では由良助は本
蔵を死に追いやっています。由良助は「主君の仇討ちを遂行することで、私は
これからどれだけの罪を犯さねばならないのか・私はどれほどの苦しみを味あ
わねばならないのか」ともがき苦しみながら、目的に向かってひた進 みます。
(このことについては別稿「九段目における本蔵と由良助」をご参照ください。
) 「四谷怪談」はこのような「忠臣蔵」の陰のドラマを世話のタッチで描いて
いるわけです。「四谷怪談」はアンチ忠臣蔵・ 由良助批判のドラマではありま
せん。なぜならば伊右衛門に正義がないからです。観客が伊右衛門に賛同する
ことはあり得ません。なぜならば「世界」を負っているのは由良助からです。
「赤穂義士だってひと皮剥けば伊右衛門と同じ殺人者である」と言う方がいま
すが、次元が全然違います。由良助と伊右衛門の行為を同列に論じることはで
きないのです。
伊右衛門の悪の魅力になおも未練を感じる方はこんなことを考えてみたら良い
と思います。昨今は新聞の三面記事に残虐な事件がよく載りますねえ。具体的
なことはここでは挙げませんが、まったく犯人に同情の余地はありません。し
かし、ちょっと視点を変えてみればそれらの犯罪は社会の歪みから来るものだ
と言う見方もできなくはありません。社会の矛盾・格差・差別・貧困・あるい
は生い立ち、そんなところから転落して・追い込まれてそのような犯罪に走っ
たのかも知れません。それならばその犯罪は社会 の歪みの産物であり・犯人は
その被害者であり同情の余地がある、犯人は社会の不正 ・病根を訴えていると
考えることもできるかも知れません。まあ確かにそうかも知れませんねえ。し
かし、同時代の犯罪の場合にはそういうことを言うのに躊躇するところがある
と思います。そういう議論は弁護 人さんの仕事にしておくとして、一般の人は
罪を憎み・犯人を憎む気持ちの方がやはり強いだろうと思います。それは今と
いう時代の醜く・汚く・嫌な部分を見せ付けられてやり切れない気分になるか
らです。そういう 嫌なものはあまり見たくないのです。「この世の中どこか間
違ってるなあ」とはチラッとそう思う。しかし、裁くべきものはしっかり裁い
てくれないと困るわけです。そうでないと社会が成り立たないからです。同時
代的に悪人・伊右衛門を考えた時に文化文政期の江戸の町人が感じたことも多
分そんなところだったろうと吉之助は思います。江戸の町人は常識人だと思い
ます。もちろん鶴屋南北もです。
『文化文政期の南北あたりの歌舞伎は非常に残酷ですけど、それは当時の生活
の鏡だとは思えないのです。よく芝居は生活の鏡だといいますけれど、僕はそ
れは嘘だと思います。生活といちばん関係のないようなものになることが多い
のじゃないか。それはネガみたいなものです。(中略)本当に刺激の多い激し
い時代には、全く牧歌的というか、非常にきれいな田園風の芝居や文学が出て
くる。ナチス時代のドイツはいろんな人を殺していましたが、文学の方はたい
へん健全です。眼が明るく輝いているような人物ばかり出ていました。』(ド
ナルド・キーン/安部公房との対談:「反劇的人間」・中公文庫)
キーン先生の指摘はとても重要だと思います。南北作品を論じる時に現代人は
その残酷性・猟奇性にとかく目が行き勝ちです。そこにアウトローの魅力・反
体制的な危険な匂いを感じるかも知れません。 まあそういう要素も全然ないと
は言いませんが、実はそれらは芝居のスパイスみたいなものです。スパイスの
匂いは観客を非日常的な危険な世界へ誘ってくれます。しかし、江戸の庶民は
芝居で危険な匂いを楽しんでも、明日からは社会のルールをしっかり守って・
真面目な市民生活を送らなければならないのです。明日からまた同じ生活が始
まります。伊右衛門が「仇討ちなんてご免だ・忠義なんて真っ平だ」と言った
としても、観客はそんなことに同調するわけには行かないのです。裁くべきも
のが正しく裁かれることで社会は健全に機能するのです。それで芝居は「然り。
そうでなければ叶わない」というものになるのです。文化文政期は江戸時代の
なかで ・もちろんそれなりの制約があったにしても・最も庶民がその自由を謳
歌できた幸福な時期であったと思います。そのような文化文政期の江戸の庶民
の健康な精神を念頭に入れれば、南北のバランス感覚・ 芝居を楽しむ江戸の庶
民のバランス感覚がお分かりになるだろうと思います。
(この稿つづく)
本稿に関連するサイトの記事
「時代物としての四谷怪談」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin103.htm
「九段目における本蔵と由良助」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin113.htm
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