2009/01/11
メルマガ「歌舞伎素人講釈」第243号
********************平成21年1月11日発行****
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メルマガ「歌舞伎素人講釈」 第243号
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こんにちは、吉之助です。本号は前号に引き続き・「歌舞伎の平面性」について
の論考の後半部分と・併せてサイト雑談コーナーでの関連記事をお届けします。
ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
歌舞伎の平面性〜次元の乖離 (後半部分)
平成20年(2008)5月・ベルリン・平成中村座:「夏祭浪花鑑」
中村勘三郎(団七九郎兵衛)、中村橋之助(一寸徳兵衛)・笹野高史(義平次)
串田和美演出
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○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その6
串田版「長町裏・義平次殺しの場」は感心する部分とそうでない部分があって
評価がなかなか難しいところです。まず感じることは串田版は泥田を本格に作
り・義平次に笹野高史を起用して・これは徹底した写実を指向するのかと思い
きや、これに反して殺し場を暗闇にして・黒衣が面明かりを持ち出しておどろ
おどろしい雰囲気を出し、さらに義平次を殺した後・バッと舞台を明るくして
・祭囃子が近づいてくるという風で・その場その場の効果はなかなか巧いもの
ですが、演出コンセプトとして一貫性に欠けるように思えることです。殺しの
段取りは従来の歌舞伎とさほど変わるわけでもなく、その辺の細かいところは
勘三郎にお任せをして・照明効果で変化を付けたということかと思います。ま
あいつもの歌舞伎と違うものを見せようとしているわけですから目くじら立て
るのも野暮ですが、黒衣の面明かりも含めて・この照明は手法としてシュール
なものでかぶき的とはちょっと言い難い感じがします。いや歌舞伎の技法とい
うのは確かにシュールな一面を持っており・その点に共通項がないわけではな
いので、串田氏の照明技法も義平次殺しの暗いドロドロした情念を巧く表現し
たと好意的な評価ができないことはありません。そのため吉之助はこれを歌舞
伎でないと断定するのは躊躇しますが、しかし、吉之助は歌舞伎のシュールは
明晰なもので 、ドロドロしたものではないと思っています。
義平次殺しは前場「三婦内」に「早暮れ近く」という文句があり、そこからさ
ほど時刻は経っておらぬので・夕方のことです。夏の夕方のことですから・周
囲はまだ明るいと考えて良いです。だから西日の明るいなかで殺しが行われる
のが本来であるし、この後で宵の祭囃子が来ることを考えても・殺し場を漆黒
の闇にしてしまうことは写実とは言えません。 しかし、義平次殺しは明るい舞
台で行われるのがふさわしい・そのように作者は芝居を書いていると吉之助が
考えるのは別の理由に拠ります。
団七はもともと浮浪児で・それがいかさま師の老輩義平次に拾い上げられて育
てられて・そこの娘と出来てしまい、肴のふり売りしていたものが喧嘩で名を
売って、色町で武家奉公人を斬って入牢したという設定になっています。また
徳兵衛も備中玉島を脱走して一時は非人の群れに入った喰いつめ者で、喧嘩の
尻押しに買われたり・いかさま師です。義平次から見ると団七は浮浪児であっ
たのを拾い上げてやったことでもあるし・娘の連れ合いでもあるし、団七を応
援してやればよさそうなものですが、これが全然そうではないのです。この根
性の捻じ曲がった老人は「お前ばかりにいい目見させてたまるか・格好付けや
がって・誰の世話になったんじゃい」という感じで団七の足を引っ張り続けま
す。義平次には底辺を這いずり回った人間の強烈な僻みと妬みと醜さがあり、
そこから抜け出そうとする団七を邪魔することしか考えていません。そのしが
らみが結局、団七を絡め取ることになるわけです。
団七から見ると義平次は自分の過去を握っている男です。団七は義平次に恩義
がありますが、それは団七にとって一番思い出したくない過去です。その忌ま
わしい過去が自分を襲ってきます。つまり団七がここで向き合っているのは義
平次であると同時に・向き合いたくない自分の忌まわしい過去なのです。消し
去らねばならないものが団七に目の前にありありと見えています。だから団七
は義平次を殺すのです。義平次殺しが明るい場所で行われなければならない理
由はそこにあります。鳴り響くお囃子のリズムはそれが公然の場所で行われて
いる・いつ誰が来てもおかしくない場所で行われていることを示しています。
しかし、この時の団七にとってもうそんなことはどうでも良い・消さねばなら
ぬと見込んだものは消し去らねばならない・殺すべき対象は明確である・お囃
子のリズムさえ自分をけしかけているようにさえ感じられる・義平次殺しはそ
ういう場なのです。推理小説には功なり名遂げた人物が自分の忌まわしい出目
だか過去だかを知っている人物に脅され・これを殺すという設定のものが数多
くありますが、義平次殺しもまたそうです。
このことは状況は異なりますが・ビゼーの歌劇「カルメン」最終場面を思い出
させます。「カルメン」最終場面は吉之助の知る限りほとんどの舞台で「自分
と一緒に暮らしてくれ」とホセがカルメンに迫り・カルメンがこれを撥ね付け
て・指輪を投げ捨てる場面で、闘技場から勝利した闘牛士を称える合唱が聞こ
えてきますが・舞台上には 主役ふたりしか登場しません。ホセがカルメンを殺
して「俺を捕まえてくれ」と叫ぶと急にぞろぞろと野次馬が出てきて・ホセを
取り囲みます。考えればこれはちょっと奇異なことで、実際のことならば闘技
場の周囲は物売りとか子供とか・最初から人間で溢れているはずです。ホセの
カルメン殺しは本当はそういう公衆の場で行われているはずなのですが、殺し
の場面においては周囲が消えています。ホセにはカルメンしか見えていません。
カルメン殺しにはスペインのギラギラとした太陽の輝きと・強烈なリズムとい
う明晰な印象が必要です。なぜならばホセの殺したカルメンはホセのすべてで
あり ・これまでの堕落した過去のすべてであり、つまりこの場でホセが向き合
っているのは明確に自分自身にほかならないからです。
このような類似は決して偶然ではありません。「カルメン」の19世紀西欧の
浪漫的心情と・「夏祭」での団七の義平次殺しのかぶき的心情はまったく同じ
バロック的な感性から発するものだからです。だから義平次は自分にまつわり
つく嫌な奴だから殺した・自分の正義の邪魔をする悪い奴だから殺した・男の
生き面を割ったから殺したというのは実は表面的なことで・もし団七が裁判で
殺しの正当性を主張するならばそういうことを言うでしょうが、この芝居の題
名の「夏」というものが示すイメージ・「強烈な太陽光線・いらだつような暑
さ」が示すものはそれとはまったく異なるものです。団七の殺すべき対象は日
に照らされたように明確に見定められています。義平次は明るい場所で殺され
てこそ歌舞伎にふさわしいと吉之助は思います。
義平次殺しの場面を明るくすべきか・暗い方が良いかと言うことはどちらが正
しいとか・間違っているとかいう問題ではありません。それは手法の相違と言
うべきですが、まあこの点で串田氏と吉之助とは歌舞伎のイメージに違いがあ
ることは確かですねえ。 ここにも立体性と平面性の問題が絡んできます。「強
烈な太陽光線・いらだつような暑さ」を考えれば・ここでは逆に平面性の方が
歌舞伎のリアルさを持つのです。串田版を見ていると・暗がりのなかで面明か
りでボーッと照らされた義平次の表情が深層心理の闇のなかから浮き上がって
くる亡霊のようにも見え、それが歌舞伎の何ものかを表現して興味深いことを
吉之助は認めないわけではありません。それは表現者としての串田氏の立場か
らすれば当然あり得ると思いますが、様式からみればそこには明晰さ がなく・
ドロドロと粘った感触に感じられます。これは 江戸のかぶき的感性から遠いも
ののように吉之助には思われます。乖離した感性のザラザラとした粗い感触を
見せてくれるものではなく、やればやるほど歌舞伎のリアル さから離れていく
感じがします。むしろ義平次に留めを差した後・黒幕が落ちて・舞台がパッと
明るくなり・祭連中がなだれ込んで来る場面に明晰さとかぶき的な感触が満ち
溢れています。
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○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その7
毎回話題になる串田・勘三郎の「夏祭」の幕切れは、今回は捕り手に追われた
団七(勘三郎)と徳兵衛(橋之助)があちこち逃げまわり・やがて高い壁に行
く手を阻まれて 逃げ場を失い万事休すとなったところで・「まず今日はこれ切
り」という形でした。これはベルリンの壁のことを指しているのでしょう。自
由を求めて生きるかぶき者を阻むものを指しているとも考えられます。
吉之助がベルリンを訪問したのは1979年3月のことでした。当時は米ソ冷
戦時代でしたから、東西ベルリンは壁で分断されていました。ベルリン訪問の
目的はベルリン・フィルを聴くこともありましたが、もちろんベルリンの壁を
見ることでした。行ったのはチェック・ポイント・チャーリー (米軍が管理す
る東西ベルリンの関所のあだ名)に程近いフリードリッヒ通りの壁であったと
思います。あれは「壁」とひと言で言いますが、(場所にもよると思いますが)
むしろ堤防だか橋頭堡の感じでありました。高い壁の向こうの多分100メート
ル近くコンクリートで固められたただの平地で、あちこちに鉄条網が転がされ
ていました。さらに向こうにも高い壁がありました。監視台には兵士がいて、
脱走者を見つければ機関銃で撃つという態勢です。それでも脱走を試みる者が
絶えなかったというのだから驚きです。しかし、吉之助が行った日はのどかな
もので、展望台から手を振ると・向こうで銃を肩にした東ドイツの兵士が手を
振って応えるみたいな風景でした。国境というものが海の上にしかない日本人
にはこれは想像を絶する光景です。「何だ、これは。何が同じ人間を隔ててい
るんだ」という言いようのない怒りが腹の底から涌いてくるようでした。のん
びりした光景だけに・余計にその理不尽さが身に沁みました。しかし、ベルリ
ンが「のんびり」というのは表面上のことで、ベルリン・ドイツ・オペラを観
て吉之助がホテルへ帰る途中でしたが、暗い路上で吉之助の足音を聴いて数名
の人間がワッと蜘蛛の巣を散らすように逃げたのにはこちらの方が襲われるか
と思ってビックリしました。どうやら彼らは共産主義のプロパガンダ・ポスタ
ーを貼っていて慌てて逃げたのです。ドーベルマンを連れた警官たちがクーダ
ム(西ベルリン繁華街)の店をガサ入れしているにも出会いました。ベルリンは
やっぱり東西陣営がパチパチと火花を散らす最前線であったわけです。
1963年6月26日、西ベルリンを訪問したケネディ米大統領は「自由を求
める者は皆、ベルリン市民である。私も一人のベルリン市民である(Ich bin
ein Berliner )」と演説しました。吉之助がベルリンに行った1979年には、
10年後にこの状況が解消するなどとはとても想像が出来ませんでした。当時
ベルリンの壁は決して越えることのできない障害や永遠になくなることのない
大きな障害のたとえとしてしばしば使われたものです。1979年に伝説的な
ロック・グループ・ピンク・フロイドが発表したアルバムに「ザ・ウォール」
というのがあります。学校教育や社会の中での抑圧・疎外感を「壁」に例えて
います。「壁」はいろんな観点から冷戦時代を考えるキーワードでした。
冷戦時代にあって「壁」にはふたつの意味がありました。ひとつはネガティヴ
な意味ですが・個人を引き裂き・分け隔てる非人間性としての「壁」です。そ
こには圧倒的な力を持つ存在があって、それが個人を抵抗しようもない力で抑
圧します。 これは個人から見れば抵抗・反抗・反体制の象徴です。もうひとつ
はポジティヴな意味で・いつかはこれを乗り越えてみせるという「壁」の存在
があるから、自分もこれに対抗する形で・自分のなかの力を高めていけるとい
うものです。
1989年のベルリンの壁崩壊は予想も付かない形で起こりました。非常に幸
運なことでしたが、一滴の血も流さずにベルリンの壁は崩壊しました。このこ
とは良い意味においてベルリンの壁をベルリン市民に記憶させています。それ
は「ついに乗り越えたもの・自由の信念においてついに崩壊させた無用の長物」
なのです。この勝利の余韻は未だ続いており、現在のベルリンは建設ラッシュ
が続く・ヨーロッパのなかで最も活気のある街です。
そう考えれば串田・勘三郎のベルリン版「夏祭」のエンディングは、ベルリン
っ子にその意味はもちろん分かるでしょうが・30年前ならいざ知らず・イン
パクトが足りなかったと思います。現在のベルリンっ子にとっての「壁」とい
う意味を正しく体現できていないのであるなあ。このなかにかぶき者の精神と
共通したものがあるのではないでしょうか。「壁」とは場における乖離そのも
のであり、歌舞伎はそれと明晰に対峙せねばなりません。万事休して逃げるの
を諦めるということはあり得ないのです。逃げ切るか・そうでなければぶちあ
たって死ぬしかない・それがかぶき的心情です。吉之助ならツルハシ持ち出し
て壁をぶっこわして・団七と徳兵衛は壁の向こうに逃げちゃうエンディングに
したいと思います ねえ。かぶき者は規制や柵をぶっこわして・自由を求めて明
日に向かってひた走る。それが今のベルリンにふさわしいエンディングであっ
たと思います。
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○(付記)かぶき的感性の明晰さ
別稿「歌舞伎の平面性〜次元の乖離」において・かぶき的感性の明晰さについ
て考えました。「歌舞伎素人講釈」ではこれまでも 「科学性」とか他の言葉で
何度か同様なことを取り上げていますが、「明晰さ」という言葉を使ったのは
今回が初めてであったかも知れません。「夏祭浪花鑑」が描くところの「強烈
な太陽光線・いらだつような暑さ」は団七九郎兵衛が状況から抜け出そうと必
死であがいているのに・理不尽にも彼の願望を邪魔するものを明確に照らし出
しています。それはドラマ上では義父・義平次という形で現れています。団七
にとって義平次が自分にまつわりつく嫌な奴だから殺した・正義の邪魔をする
悪い奴だから殺した・男の生き面を割ったから殺したというのはドラマの筋と
しては確かにそういうことですが、もっと深い意味で義平次は団七にとっての
シーニュ(象徴)なのです。団七はそれが身分社会・差別社会の閉塞した状況
から来るという明確な社会的視点を持っているわけではありません。そういう
視点は江戸の庶民には残念ながらまだないのです。それは明治以後のことにな
ります。しかし、団七は自 らの上昇願望を理不尽に邪魔して・自分の足を引っ
張る障害が存在していることをはっきりと意識しています。それはイライラ・
鬱憤という形で団七のなかに実体をなさないまま に渦巻いています。その鬱憤
が義平次という攻撃目標をシーニュとして捉えるのです。そうでなければ団七
が義平次を殺すことは決してできません。対象は明確に見据えられています。
それはいつの日かかぶき者たちが手に入れることになる社会的視点の萌芽です。
「夏祭」の明晰さはそこから来ます。
串田版の「夏祭・義平次殺し」で暗がりのなかから義平次の顔が面明かりで鈍
く照らし出される・その光景は深層心理の闇の奥から亡霊が手を伸ばしてくる
ようで・それはそれで興味深いものです。しかし、この感覚はある意味で「怪
談」風です。それは既に社会的視点を手中にした側から見た「夏祭」の解釈と
してあり得るものです。そちらの側から見れば身分社会・差別社会の閉塞した
状況はどろどろとした底なしの闇に見えるでしょう。しかし、それはかぶき的
感性からするとちょっと様相が異なるものです。かぶき者から見ればそれはあ
る種の「壁」なのであって・壁の向こうに明るいものが意識されているのです。
それをぶち壊せばその向こうに明るいものがあると見えるのです。それがかぶ
き的感性の明晰さとなって現れるものです。ですから歌舞伎の様式としては「
義平次殺し」は明るい舞台で行われるのがふさわしいと吉之助は思います。こ
のことは巷間十分に理解がされていないと思います。「四谷怪談」や「累(か
さね)」にしても近代的感性が入り込んで演出が混乱しています。歌舞伎の明
晰さはこれから十分に検討されねばならない課題だと思います。(このことは
いずれ別の機会に考えます。)
昨今は江戸ブームということが言われますが、江戸文化研究はそれを明晰さの
面から捉えることと、暗い面というとちょっと語弊がありますが・どちらかと
言えばドロドロとした暗く湿った草双紙趣味から捉えるのととふたつの行き方
があると思います。しかし、 昨今の江戸の文学・演劇研究は後者の側面にやや
偏り過ぎている印象を吉之助は受けます。江戸文化の明晰さのことをもっと考
えつつ・バランスを取っていく必要があると思います。江戸を草双紙趣味で捉
えることは懐古趣味としては面白いですが、 現代の我々にとって前向きで未来
志向的な意味を持たないと思います。江戸のかぶき的心情の明確さということ
が分かれば、「夏祭」をニューヨークやベルリンの観客にも「団七は我らの同
時代人」と感じさせるものがあることが分かってくるはずです。団七の視点は
未来に向いているのです。
(本号の内容に関連するサイトの記事)
「舞台の明るさ・舞台の暗さ」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh51.htm
「見得〜クローズアップの技法」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/shasin35.htm
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まだ構想の段階なので何も書いていませんが、本年はできればオン・デマンド
出版にて書き下ろし本を出したいと考えています。そちらに労力を取られると
思うので・サイトの更新メルマガの発行頻度は若干減るかも知れません。本の
出版の件は出来ましたらご案内をいたします。
サイトでは近松の「ふたり静胎内さぐり」についての論考をゆっくりと連載
しています。この記事は「ふたり」と「さぐり」の漢字がメルマガでは正し
い表示ができないため・サイトのみの記事としてメルマガではお届けをいたし
ません。サイトの方でお読みください。
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○メルマガ「歌舞伎素人講釈」 不定期発行
○発行人:吉之助 http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/
このメールマガジンは、下記のシステムを利用して発行しています。登録の解
除・変更は下記にてお願いします。
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