2009/01/04
メルマガ「歌舞伎素人講釈」第242号
********************平成21年1月4日発行****
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メルマガ「歌舞伎素人講釈」 第242号
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明けましておめでとうございます。「歌舞伎素人講釈」は9年目に入ります。
250号発行も間近になってきました。手前味噌ですが・個人発行のメルマガで
このくらい続く例もそうないことですから・これもみなさまのご支援あってのこ
とと御礼申し上げます。今年もよろしくお願いします。
さて歌舞伎座改築に向けて「さよなら興行」がスタートしました。本拠地が変る
とオーケストラの響きが変る如く・歌舞伎も小屋が改築されれば必然的に変質し
ます。ですからある意味で歌舞伎はいま転換点に差し掛かっているということで
すかね。そのことがそのうち明らかになるでしょう。そういうわけで本号はサイ
ト「歌舞伎素人講釈」の連載から「歌舞伎の平面性〜次元の乖離」をお届けしま
すが、今日の歌舞伎のことを考えるヒントのひとつになるかと思います。
本稿は長すぎでメルマガ一回分の許容量をはみ出しましたので・本日は前半部分
来週に後半部分をお送りします。
ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
歌舞伎の平面性〜次元の乖離 (前半部分)
平成20年(2008)5月・ベルリン・平成中村座:「夏祭浪花鑑」
中村勘三郎(団七九郎兵衛)、中村橋之助(一寸徳兵衛)・笹野高史(義平次)
串田和美演出
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○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その1
別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ」において歌舞伎の照明のことを考えました。
現行の歌舞伎の舞台を見ると・影を消してしまう特殊な照明が施されており、
役者の立体感が意識的に消されています。これは電気照明だからこそ可能にな
った技術で、もちろん江戸時代にはあり得なかったもので した。ならばホント
の歌舞伎は蝋燭照明だった江戸時代の陰影がある舞台にあり、現行の影のない
歌舞伎の舞台はウソだということでしょうか。舞台は明るければ良いという単
純な考えでいるうちに、いつの間にやら役者の影を消してしまって・次いでに
江戸時代の芝居のニュアンスも消してしまったということでしょうか。それは
違うと吉之助は思いますねえ。
このことを考えるには江戸時代の芝居絵・つまり浮世絵を見れば良いのです。
浮世絵には影がまったく描かれていません。当時の劇場の自然光や蝋燭による
照明では役者の影を消すことは不可能であり、舞台に陰影があったことは確実
です。それでは浮世絵師たちは嘘を描いたのでしょうか。そうではないでしょ
う。絵師たちは彼らの眼に映った真実を絵に描いているのですから。「あまり
に真を描かんとて・・」と評された写楽でさえ役者絵に影を描いていません。
このことは非常に重大なことだと吉之助は思います。ならば絵師たちが見た歌
舞伎の真実とは何か・ということを考えなければなりません。 そこから次のよ
うに言えると思います。浮世絵師たちが真実を描いたのならば、江戸時代の蝋
燭照明では実現しようとして出来なかったものが・電気照明の発展によって初
めて可能になったということです。歌舞伎の真実が現代の電気照明によって遂
に視覚的に明らかになったということです。歌舞伎の照明が完成したのはつい
ちょっと前・そんな昔のことではない わけです。
歌舞伎では電気照明によって役者の影が消され・役者の立ち姿の視覚的な立体
感が消されることは、歌舞伎の平面性が歌舞伎の真実に大きく係わっているこ
とを示しています。もちろん役者はアニメーションではありませんから・ 現実
に平面ではあり得ません。陰影を消されることで・舞台面において視覚的に平
面的な印象に変えられるということです。舞台における「平面性」とは何であ
りましょうか。立体性を持つ物体が陰影を持つことは自然なことです。ですか
ら影を持たない物体は不自然であるということになるでしょう。つまり歌舞伎
の舞台においては三次元空間に視覚的に二次元的な役者が存在するという不自
然な事態が現出することになります。そこに次元の乖離感覚があるのです。こ
の乖離感覚こそが歌舞伎の真実に係わるものです。
乖離感覚は実は歌舞伎の至るところに見られるものです。見得とは役者の動き
にストップモーションを掛けることで、その感情表現に強烈なズレを生み出そ
うとするものです。隈取りとは化粧に人工的な彩色を施すことで、役者の風貌
に自然ではあり得ない強烈な印象を加えるものです。人形振りとは役者が普段
の人間に見られない機械的な動きをすることで、人間を背後から操る強力な存
在があることを観客に悟らせるものです。荒事で役者が声を高く張り上げる誇
張された発声はこの世のものとは思えない圧倒的なパワー(御霊)の存在を感
じさせます。ですから我々がそれが歌舞伎的なものだと感じ・歌舞伎と新劇と
を分け ていると感じる演劇的な要素はすべて乖離感覚に関連するものです。こ
れらすべてが二次元的な感覚であることが言えます。
例えば見得が二次元的な技法であることはロシアの映画監督エイゼンシュタイ
ンが「歌舞伎の見得は映画で言えばクローズ・アップだ」と言ったことを考え
ればよく分かります。(別稿「見得〜クローズアップの技法」をご参照くださ
い。)カメラが被写体にググッと近づいていくと、被写体の背後の風景は次第
に失われていくことになります。つまり画面の奥行き(立体感)は次第に失わ
れます。さらにカメラが近づけば被写体で画面は一杯になり・被写体の立体性
も失われ、画面は違う有様(ありさま)に変貌していくことになります。映画
のクローズアップで表現されるものは感情の視覚的な実現であって、それは二
次元的な感覚なのです。歌舞伎の見得も同様であると看破したエイゼンシュタ
インはやはり只者ではありません。
隈取り・人形振り・荒事の発声が二次元的な技法だということは・その演技が
不自然であるという意味を観念的に考えてみれば分かります。自然という印象
は曲線的で滑らかであり・ある幅の揺らぎと散らばりを持つものです。不自然
で人工的なものはその反対の印象で、直線的で鋭角的であり・局所的な一点に
パワーが集中するものです。直線(不自然なもの)は曲線(自然なもの)に対
して・横の軸はあるが縦の軸がないことで分かるように、不自然なものは自然
なものと並べた場合に次元が欠落した印象を見る者に与え ます。つまり隈取り
・人形振り・荒事の発声という不自然な技法には次元が欠落した感覚があるの
です。それは自然な演技と並べたところで提示された時に初めて意味を持つも
のですから・ そこに次元の乖離感覚があるということが演劇的にとても重要に
なるわけです。
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○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その2
歌舞伎の平面性とは厳密に言うならば「欠落感覚」であると言えます。しかし、
見得や隈取り・荒事の発声など表現はそれぞれ独自の座標を持っており・次元
が微妙に異なるものですから、これらの欠落感覚をひとつのイメージで括るな
らば・立体(三次元)的な世界に対する平面性(二次元)の乖離だということ
になります。これが歌舞伎の表現の本質であり・歌舞伎らしさの根源です。
しかし、歌舞伎的な表現の次元の欠落は三次元的な演技(まあ自然な写実の演
技と考えてよろしいでしょう)と並列的に提示されて初めて観客はその乖離性
を感知できるのです。見得の本質はその形を見ているだけではその平面性の十
分な理解ができません。ドラマのなかで・その見得の前後の演技の流れのなか
で捉えなければ見得の本質は見えてこないのです。見得は前後の演技の流れの
上でこそ平面性を以って屹立 するとも言えますし、見得の平面性を際立たせる
ために前後の演技の段取りをそのように構築していかねばならないとも言えま
す。そうした歌舞伎の平面性がどういう意味を持つかは今後の機会に考えたい
と思います。本稿においては歌舞伎の舞台面の視覚的な立体性が歌舞伎の持つ
平面性の本質にどのような影響を及ぼすかを考えます。
実際、舞台の印象は照明によってかなり大きく左右されるものです。例えば本
年(2008)8月の北京オリンピックでのチャン・イー・モウ監督演出によ
る開会式式典は実に素晴らしいものでしたが、あれは照明の特殊効果なしで成
立しないものでした。昼間の自然光線のなかであの式典を見たならば・その印
象は随分と違ったものになったでしょう。これはイーモウ監督の演出を貶めて
いるのではなく・その演出コンセプトのなかの照明の比重がもう半分以上だと
思えるほどでした。現代演劇において照明が持つ表現の可能性はそれほど大き
なものです。
古典歌舞伎の舞台をちょっと見ただけでは・ただ舞台を明るくして役者の影を
消しているだけで・何かしているように見えないでしょう。しかし、実は陰影
を消すことで・舞台面は視覚的に平面的な印象に変えられているのです。つま
り、江戸時代の自然光や蝋燭照明ではあり得なかった・舞台の視覚的な平面感
覚の表現が現代の電気照明で可能になった のです。歌舞伎独特の照明によって
・あの奥行きがなくて平べったい定式の舞台装置あるいは歌舞伎役者の表現の
本質がより鮮明に浮かび上がってきます。江戸時代を遠く離れて歌舞伎の表現
が次第に風化して行くことは時間の必然のように我々は思い勝ちですが、いや
実は現代の方が歌舞伎の表現が進化した要素だってあるわけです。
古典歌舞伎に舞台装置の立体性を持ち込んだ場合にどうなるかを考えてみます。
「忠臣蔵」四段目の城明け渡しの場面の引き道具で城門がずっと奥に引かれる
と、歌舞伎座ってこんなに広いんだなあと改めて驚きます。しかし、こうした
奥行きのある舞台を見ると、どこかいつもの歌舞伎ではない新劇的な感覚に違
和感を感じてしまいます。これは明治30年(1897)6月歌舞伎座「裏表忠
臣蔵」で九代目団十郎が由良助を演じた時の演出が残ったもので、実録風「忠
臣蔵」を目指したところから発想されたものでした。 明らかに明治の近代演劇
の思想から来たものです。
しかし、奥行きのある舞台で由良助が主人の血の付いた九寸五分を手にして「
血に染まる切っ先を打守り・拳(こぶし)を握り・無念の涙はらはら・判官の
末期の一句五臓六腑にしみ渡り・・・」と 号泣する場面を見れば 背景の城門
は観客の脳裏から消し飛んでしまい、由良助の無念さ・怒りだけが迫ってくる
でありましょう。普段とは違う写実感覚のある舞台に・歌舞伎の様式的な演技
が全然負けていません。むしろ立体性のある舞台の上で由良助の演技が浮き上
がるように・その表現の独自性を主張しています。この乖離感覚こそが歌舞伎
の本質です。ちなみに昭和3年(1928)8月に二代目左団次がモスクワで
歌舞伎を演じた演目のなかに「忠臣蔵・大序〜四段目」があってエイゼンシュ
タインはこの舞台を見ています。この門外での由良助の演技は見得というもの
と は違いますが、しかしそれが観客に与える心理的効果は見得とまったく同じ
です。「歌舞伎の見得は映画で言えばクローズ・アップだ」と言ったエイゼン
シュタインの言葉を聞けば・彼が由良助の演技のなかにも平面性を感知したこ
とは明らかなのです。
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○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その3
歌舞伎は巡業でさまざまな場所で上演を行い・花道のない場所で興行を行うこ
ともしばしばで・そのせいか段取りを その場に合わせて適当にちょこちょこ変
えることに対する抵抗が歌舞伎役者にはあまりないようです。悪く言えば型(
演出)に対して厳格でなく・いい加減である。良く言えば柔軟性・適応性があ
ると言うことです。歌舞伎の場合は能狂言のように舞台の規格にこだわるとい
うことがありません。そう考えれば明治に入って西洋演劇思想の洗礼を受け・
時代遅れの遺物 と揶揄されながら・歌舞伎が定式の平面的な舞台装置をここま
で守ることが出来た方が奇蹟のように思います。それは結局、定式の装置でな
ければどうも「歌舞伎らしく」見えないという・その一点にあったと思います。
明治以降の観客は歌舞伎がリアルな舞台になるのを拒否したのです。そこに歌
舞伎の美学があるわけです。どうして「・・らしく」見えないのか・「・・ら
しい」とはどういうことなのか・そういうことを考えてみる必要がありそうで
す。
ところで平成8年(1996年)5月に鹿児島県の硫黄島の浜辺で勘三郎(当
時は勘九郎)が「平家女護島・俊寛」を演じたことがあり・テレビでもその模
様が放映がされました。平成中村座・コクーン歌舞伎などを始める以前の勘三
郎の挑戦でした。俊寛僧都が流された因縁の地で・自然のなかで近松のドラマ
を演じるのは勘三郎にも万感の想いがあったようです。上演は日が暮れてから
行われたので自然光ではなく・ライトアップされたために背景の自然感が減殺
された面があって、せっかく硫黄島の荒々しい岩肌の絶壁が背景にあったのに
・それが見えなかったのはとても残念でしたが、野外芝居の感触を多少は感じ
ることが出来ました。下手に海岸があるために演技の手順は変わるところがあ
りましたが・全体として現行と同じ型で演じられました。赦免船が遠ざかって
いくあたりはリアルそのものでしたが、その光景もまったく不自然に見えませ
んでした。印象的であったのは自然のなかでも歌舞伎の演技が負けることなく
・その様式性がよく映えたことです。ライトアップされているためにその辺が
確認しにくいのですが、役者が自然の光景に溶け込むということがなく・ドラ
マの輪郭が浮き上がって見えてきます。
このことは吉之助にとても良いヒントを与えてくれました。結局、歌舞伎の様
式性は反自然を指向しているということです。創設期の歌舞伎は写実を指向し
たわけですが、幕府の規制により女優は奪われ・さまざまな制約を受けて・歌
舞伎はその理想を自ら裏切る形で様式化していきます。その相反した表現ベク
トルに歌舞伎のバロックな面があるのです。反自然とは・先に触れた通り・自
然に対する欠落感覚・つまり表現の平面性を指向するものです。江戸時代の自
然光あるいは蝋燭の照明による上演においては立体性(影はそれが立体である
ことの証なのです)を取り去ることは不可能でしたから、視覚的な面において
平面性(反自然)を実現することはなかなか困難なことでした。ですから歌舞
伎の平面性は舞台面においては奥行き・高さのない定式の舞台装置に現れたの
です。演技面においては平面性は見得・隈取りなどに最初に現れました。その
ような平面性の世界のなかで写実(世話)の表現を絡ませることで芝居が生き
てくる・写実の表現を生かすために歌舞伎の世界はあらかじめ歪んでいると言
うことです。
以上のことから吉之助は次のように考えています。歌舞伎が立体性を持った写
実の舞台装置で上演されることはそれはそれでも別に良いのです。しかし、立
体性のある舞台のなかで写実の演技を指向 したのではそれは新劇と変わらない
ものになってしまいます。歌舞伎が歌舞伎らしくあり続けるためには、歌舞伎
役者の演技は意識的に様式性を強める必要があります。そうでなければ「・・
らしさ」は失われてしまうのです。歌舞伎の欠落感覚・平面性をどこかに強く
保持しなければなりません。それが歌舞伎の「・・らしさ」の根拠であるから
です。
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○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その4
本年(2008)5月・ベルリンで行われた平成中村座での串田和美演出・勘
三郎の「夏祭浪花鑑」の映像を見ながら・舞台の平面性を考えてみます。芝居
が始まる前から 祭礼気分で観客席通路を役者たちが歩き回り・時には観客と談
笑したりするのは・コクーンなどでもおなじみの趣向ですが、歌舞伎が初めて
のドイツ人にとって異国の江戸の雰囲気に引き込まれる効果があって・それは
楽しいものであったでしょう。額縁に囲まれた舞台を観客席から切り離された
ところからご拝見するような芝居では、このような親近感は生み出せません。
日本人は今も紙と木で作った家に住んでいて・男はサムライみたいなカッコし
て・女はゲイシャガールのカッコして・と思っている方が西洋にはホントに多
いです。ベルリンにはソニー・センターがありますから日本のビジネスマンを
見る機会は多いはずですが・西洋人にはこっちの方が案外イメージ通りで・親
しいかも知れません。まあ日本は友達・ずっと昔の江戸も友達という感覚も悪
くはありませんが、しかし、役者の平面性は失われてしまいます。吉之助の考
えでは、芝居の始まる前は役者が通路を歩き回るお祭りの趣向は大変結構だと
思いますが、芝居が始まって役者が舞台に上がったら・次元が変わったことを
役者ははっきり 示さねばならぬと思います。これは演じる場所がベルリンだろ
うが・渋谷であろうが関係ないことです。
串田演出の「夏祭」は・同じ串田演出の「法界坊」なども同様ですが、ある場
面においては「コメディー・お江戸でござる」を思い出させます。「お江戸で
ござる」をご存知ですか。 1994年から2004年にかけてNHKで放送さ
れた時代劇バラエティーです。誤解がないように・吉之助は馬鹿にして言って
いるのではありません。「お江戸でござる」は肩の凝らない楽しく良く出来た
娯楽番組で した。しかし、歌舞伎役者が演じる「夏祭」が「お江戸でござる」
と同じ感触では困ると思いますねえ。串田・勘三郎の主張は舞台に居る人間も
観客の私たちと同じ人間だということだと思います。その意図を理解しないわ
けではないですが、しかし、「歌舞伎は友達・江戸は友達」という感覚は観客
席の空間との亀裂を埋める働きをします。そのために歌舞伎の平面性は失われ
・結局江戸風俗の新劇と言うのと大して変わらない印象になってきます。そう
ならないためには、いったん舞台に上がったら・役者は 通路で観客と談笑して
いたのとは全然違う演技をせねばなりません。「オッ舞台に上がったらあいつ
らは違う」という感じを観客に与えなければなりません。さすが伝統演劇は違
うということを見せなければ・歌舞伎じゃないと思います。
例を挙げれば三婦内の場において・義平次が琴浦を預かると言って駕篭屋を連
れてきたということを三婦女房が団七に言う場面です。勘三郎の団七は「義平
次」という名前が出た時点で扇子の手を止め・「あっ」という表情をして・さ
らに「・・しもた」という表情をして落ちつかず・もう後の話が聞いていられ
ないという感じです。まあ確かにリアルな写実の演技であると言えます。しか
し、これでは新劇役者が着物を着て時代劇しているのとまったく変わりがあり
ません。化粧が違う・着物の着こなしが巧い下手という・そういう次元の違い
でしかない。ここは三婦女房が台詞を言い終わるまで・団七は扇子を扇ぎなが
ら「暑いな・暑いな・・」とやっていて、台詞が終わってから「エッ・・」と
いう表情で反応を示せば歌舞伎の演技になるのです。そういう時間的に乖離し
たリアルでない演技を見せることで・ドラマの局面の変化がはっきり見えてく
るのです。団七にとってその存在を脅かす大変なことが起きかかっているとい
うことです。 この印象から団七の演技はこの後の通路での決まり(通常は花道
七三で行う)へ向けて構築されていくのです。団七の見込んだ先に「破滅」が
見えなければなりません。
「長町裏へ・・」で団七が駆け出して・行く手を見込んで通路で決まるその形
・踏み出す時の脚の使い方は勘三郎は力感があって実に素晴らしく・さすが天
才だと唸らせます。それは確かにそうなのですが、それまでのリアルな写実の
演技の流れのなかで・この形はドラマとしてどういう意味を持つのでしょうか。
「さあこれが歌舞伎だぞ」と言わんばかりの形(見得)です。「これはもとも
とが人形芝居だったんだって。なるほどそんな感じだねえ」などとドイツ人も
感心しそうな動きですが、吉之助にはその見得が見得のための見得としか見え
ませんねえ。見得をするからこの芝居は歌舞伎だというための見得だと思いま
す。芝居の次元の亀裂というのはそこに在るというものではありません。最初
に身体に感知されない微振動としてあり・さらに鯰が暴れだすような不穏な予
兆としてあり・そして地面を揺るがす大振動としてあり・その結果が地面がパ
ックリと割れる亀裂となって現れるのです。さらに言えば・それは亀裂だけで
終わるのではなく・何度かの余震(振動)も伴うものです。ですから次元の乖
離 は現象としてではなく・動きあるいは流れのなかで捉えなければなりません。
見得はその前後にその段取りが取れていることで・ドラマの流れのなかに位置
付けられるのです。これが見得という技法の正しく近代演劇的な理解であるべ
きです。ですから・見得に入る以前のドラマの流れをどう構築していくかが大
事です。その流れの構築のための ひとつの方法が団七の扇子の件です。
写実の演技に亀裂を入れる方法は実は些細な工夫で済むことで、別にこうやら
ねば歌舞伎にならぬという決まった手法があるわけではありません。ちょっと
した様式的な仕草を入れるだけで・演技の印象は全然変わってきます。そこは
役者の工夫次第です。ちなみに昭和55年9月歌舞伎座での先代勘三郎の「夏
祭」(吉之助は生の舞台を見ましたが)この映像が 手元にあるので・これを見
比べてみると、先代は先ほど吉之助が先ほど言ったような扇子の使い方はして
いません。全体の段取りとしては先代と当代はあまり違わないようです。先代
も当代よりは抑えた演技ですが、三婦女房の台詞の途中で扇子を止めて・表情
を変えています。しかし、見た印象はかなり違います。これは舞台装置とか・
相手役との兼ね合いもあります。団七だけの問題ではありません。当代の「夏
祭」の場合は舞台装置に立体感があるもので・芝居全体が写実めいているので、
役者の動きに平面感が出てこないのです。こういう場合は勘所では演技に様式
による切れ目を普段よりも強く意識しなければ演技に乖離した印象が出てきま
せん。定式の舞台ならば先代のような演技がその写実味が十分良い 感じになる
のです。しかし串田演出の奥行きのある舞台装置ならば・同じ段取りを取った
のでは環境に演技が減殺されます。三婦女房の台詞の途中で扇子を止めるくら
いの様式的な要素を入れて・ バランスがちょうど良くなるのです。そうするこ
とで芝居は様式の方へ引き戻され・そこに乖離感覚が生まれて・演技はぐっと
歌舞伎らしくなってくるし、「長町裏へ・・」での見得がドラマの流れのなか
へ自然と位置付けされていくことにな ります。要するに歌舞伎を現代に生かす
ために・変えても良いところはどんどん変えても良いのですが、歌舞伎が歌舞
伎であり続けるためにどこを頑固に変えないか・どこを守らねばならないか・
さらに歌舞伎であることをどのように逆主張していくべきか・そこのところの
方法論が、串田・勘三郎の舞台は甘いと吉之助は思います。そういう目で見る
ならば、些細なところで気になるところが随所にあります。
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○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その5
ご存知の通り・歌舞伎は閉鎖的な世界でして、約束事や文献的知識も必要な歌
舞伎において部外者が演出することは至難なことです。歌舞伎の世界で平気で
演出ができた部外者は武智鉄二くらいのものです。それも手放しで受け入れら
れたわけではありません。また定式の舞台装置で演技手順の些細な部分を手直
しすることはかえって仕勝手の横行を許すようなことになりかねないので十分
な注意が必要です。別稿「空間の破壊」において触れましたが、部外者が歌舞
伎を演出して勝負するならば一番勝ち目のある方法は舞台空間を破壊し・まっ
たく新しい舞台装置で演出することです。装置を一新してしまえば・当然演技
手順は変えざるを得ません。それは自分の領域に敵を引き込む戦法です。歌舞
伎の空間を破壊さえすれば部外者にも勝機はあるのです。ですから串田氏が平
成中村座やコクーンの舞台に立体性・写実性を持ち込むのは当然のことです。
例えば「三人吉三」の終幕「火の見櫓の場」のシンプルな装置 とスピード感あ
る演出はなかなか新鮮なものでした。舞台は絵面ではないけれど・かぶき的な
エネルギーが出ていたと思います。それが舞台を確かに歌舞伎にしていました。
今回の串田演出「夏祭」の「九郎兵衛宅の場」では下手から強い照明を当てて
・家の奥に強い西日が射し込む感じを巧く出しています。この照明は観る者を
ハッとさせます。通常の歌舞伎の照明であると・季節が夏であることが舞台面
から感じにくいからです。役者が眩しそうに上をちょっと見上げて・扇子を掲
げながら歩く演技は夏の強い太陽光線を表現するものですが、空調の効いた観
客席では それがどうもピンと来なくなっています。串田演出の照明はそういう
ことを思い出させます。それは悪くないのですが、この奥行き(立体性)と写
実性が出た舞台面で役者をどう動かすかが問題になると思います。
「九郎兵衛宅の場」で徳兵衛がある意図を以ってわざと団七女房に言い寄り・
団七がそれに怒って喧嘩になろうとするところへ・三婦が止めに入る場面を見
てみたいと思います。ここで三人は絵面に決まり・リズミカルな長台詞の啖呵
を吐く歌舞伎らしい様式的な場面です。この場面で串田氏は西日の照明をその
ままにして・さらに正面から強い照明を加えます。それまでの西日の写実の印
象を犠牲にした・この処置は何を意味するのでしょうか。正面から照明を当て
ることで・役者の影は消されて舞台面は平面的になってきます。「三人の役者
の演技により強いインパクトを与えるため」かも知れません。しかし、これは
吉之助から見れば真相は逆で・そう串田氏が説明するかどうかは分かりません
が、串田氏は意識するか・しないかは別にして・この場面での役者の演技に歌
舞伎らしいインパクトが足りないと感じたから・正面から照明を当てる処置を
したのです。吉之助が見るに・この場面での勘三郎らの演技は侠客 (正確には
市井のならず者であり侠客とはちょっと違いますが)の荒々しい気風と迫力を
出そうとする余り・台詞が崩れて正しい発声のリズムになっていません。勢い
はあるけれど、唾が飛びそうな写実の台詞回しです。その表情も眼を吊り上げ
・眉を動かし過ぎです。要するにこれは歌舞伎というよりは・歌舞伎風味の新
劇的な演技なのです。だから西日が射した写実味がある舞台面との乖離とイン
パクトが足らぬことになる。つまり歌舞伎らしい感じがしない。それで串田氏
は当初のコンセプトを修正して・正面から照明を当てる応急処置をしたと推察
します。
役者の立場から見れば・舞台面は写実がコンセプトなのだから・普段の演技よ
りも写実性を少し加えればちょうど様式的に良いだろうという感覚があるのか
も知れません。しかし、それでは新劇役者の時代劇とあまり変わらぬことにな
ってしまいます。それでは歌舞伎役者がそれをやることの意味がありません。
定式の歌舞伎の舞台ではあり得ない奥行き(立体性)を持った舞台では、役者
は普段よりもっと強い様式性を意識した演技をせねば写実の舞台に負けてしま
います。そこに乖離感覚・すなわち歌舞伎らしさが出てこないのです。三人が
絵面で決まるまでの様式的な段取りを慎重に 積み上げていかねばなりません。
恐らく部外者のこうした演技の段取りや台詞回しの細かい指図は歌舞伎の世界
ではアンタッチャブルで・串田氏にはできないでしょう。そこは勘三郎が仕切
らねばならぬ仕事であるはずです。
「夏祭」に様式的な演技が出てくることの「不自然さ」ということを考えてみ
ます。「夏祭」は世話物ですから写実を志向するものです。人形浄瑠璃原作で
すからその音楽的な様式を引き継いでいますが、地狂言にするならば本来そう
いう要素は捨て去っても良いものです。こうした様式的な表現を歌舞伎の「夏
祭」が後生大事に保持していることには重要な意味があります。団七・徳兵衛
たちを取り巻く社会の義理とか意地とか言うものは、彼らの行動をがんじがら
めに縛るものです。それは 確かに非人間的な要素である・と同時に彼らの「男」
はそれによって成り立ち・それによって鼓舞されるものでもあるのです。それ
は常々吉之助がかぶき的心情と呼んでいるもので、「それこそが俺が俺である
ことの証だ」と感じさせるものです。写実であるべき世話物「夏祭」に出てく
る様式的な不自然な表現はそのような背景から出てくるものです。ですから「
九郎兵衛宅」においてもこれが歌舞伎であることを誇示するかのように三人が
絵面で決まり・様式的に台詞を言うというのではなく、「登場人物の心情にお
いて彼らは様式的に極まる」と観客に感じさせる演技でなくてはなりません。
それが歌舞伎らしさということです。
(本号の内容に関連するサイトの記事)
「舞台の明るさ・舞台の暗さ」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh51.htm
「見得〜クローズアップの技法」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/shasin35.htm
(以下後半部分へ続く)
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