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歌舞伎・文楽などの伝統芸能を材料にして、「日本のこころ・芸のこころ」を、民俗学的・歴史学的あるいは心理学的に、さまざまな角度から考えていくメール・マガジンです。

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2008/10/05

メルマガ「歌舞伎素人講釈」第237号

********************平成20年10月5日発行****
   
                               ◎
      メルマガ「歌舞伎素人講釈」  第237号     ◎ 
                                        
     ◎       連動ホームページ: http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/
    ◎
************************************

こんにちは、吉之助です。すっかり秋になりましたねえ。本号は本年8月歌舞伎
座での「愛陀姫」の観劇随想の三回目・後編をお届けします。当初予定よりも
長いものになってしまいました。「愛陀姫」には他にも触れたい点がありました
が、本論は歌舞伎の悲劇を焦点にしていますので・それはまた別の機会にしたい
と思います。

なお次号は「本朝廿四孝・十種香」に関する論考をお届けする予定です。

ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

「アイーダ」と「愛陀姫」(後編)
〜平成20年8月歌舞伎座:「野田版・愛陀姫」

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○中幕:シミオナートのケルビーノ

谷崎潤一郎や武智鉄二がシミオナートのアムネリス(ヴェルディの「アイーダ」
)に六代目菊五郎の芸風に通じるものを見出したことは別稿「シミオナートの
アムネリス」で触れました。昭和の最高の芸の目利きである谷崎や武智がそう
感じたということは とても大事なことです。この逸話は芸の真理はジャンルを
問わず何か共通したものがあるということを改めて思い起こさせます。六代目
菊五郎の芸を知ろうとすれば芸談・文献に頼るしかなく・映像ならば「鏡獅子」
しかまともなものはないわけですが、シミオナートの歌唱から類推してみるこ
とだって可能なわけです。キーワードは「かっきりしていて・規格正しい芸風」
ということです。

シミオナートのケルビーノ
http://jp.youtube.com/watch?v=sSNKuv1zxog&feature=related

かっきりとしたシミーナートの芸風はアムネリスの映像でもよく分かりますが、
もしかしたらこちらの映像の方がさらに分かるかも知れません。1956年・
第1回イタリア・オペラでのシミオナートのケルビーノ(モーツアルト:「フ
ィガロの結婚」)の映像です。ここで聞かれる有名なアリア「恋とはどんなも
のかしら」ですが、まだ知らぬ恋に憧れる少年の内心を歌うもので・傷つきや
すい心情を表現するようにナイーヴな感覚で歌われることが多いものです。い
かにも少年の役を歌う女性歌手の歌唱という感じですかねえ。もちろんそれも
悪くはないですが、シミオナートのケルビーノにハッとさせられるのは、ここ
には力強い「男性のケルビーノ」がはっきり聴こえることです。 ケルビーノの
直向(ひたむき)さ・情熱の強さが感じられます。ケルビーノは「フィガロの
結婚」では主役ではありませんし・このことは格別の意味を持たないように見
えますが、「フィガロ」原作のボーマルシェが書いた続編「罪の母」ではケル
ビーノは伯爵夫人と出来てしまうのです。モーツアルトがそこまで意識してア
リアを書いたかどうかは分かりませんが、そう考えればこの場面でのケルビー
ノと伯爵夫人との出会いはとても意味があるわけです。多分天才モーツアルト
はそのアリアのなかにケルビーノの人生を映し出したのです。まだ若くて青臭
いし・見た目はなよなよしているので・みんなにからかわれていますが、「見
かけは頼りなくたって・僕だって男の子なんだ」というところがこのシミオナ
ートのケルビーノだととてもよく分かります。このことが大事なのは・こうし
たとんがった感覚が「フィガロ」のもつ革命性・民衆の目覚めというところの
感覚にどこか深いところでつながるからでして、それがこの場面を「フィガロ」
のなかで最も忘れがたく美しいものにしているわけです。

この印象はひとつには若干早めのキビキビしたテンポのせいもありますが、こ
のテンポはこの時代(50〜60年代)にはよくあるテンポで・シミオナート
にだけ特徴的というわけではありません。大事なことはきちんとリズムが取れ
て・旋律線が明確で無駄なところがない・シンプルさが際立つ歌唱であるとい
う ことです。つまり声に強弱を付けたり・テンポを揺らしたりする技巧に頼ら
ずに・無駄な表現の技巧を排除して・旋律そのものの魅力で直截的に聴き手に
迫ろうという感覚です。その結果・ケルビーノのアリアから「僕だって男の子
なんだ」という本質がホントに何気なくすっと立ち現れるのです。シミオナー
トのかっきりしたシンプルな芸のなかから役の本質が抽出されたように現れま
す。谷崎や武智がシミオナートに見出したものはそうした芸です。そんなこと
を考えながら六代目菊五郎の舞台を想像することは楽しいことですね。


○「アイーダ」と「愛陀姫」・その12:「アイーダ」のかぶき的心情

「アイーダ」の最もドラマチックな場面はアムネリスが祭司長ランフィスに怒
りと呪いをぶつける場面であることは既に述べました。この場面のアムネリス
の台詞こそ「アイーダ」の核心の台詞です。

『あの方は生きながら墓に埋められるのですと・・・おお、無慈悲な人たちよ。
あの方の血にも飽きたらないで・・天の従者と自らを呼ぶのか。祭司たちよ、
あなた方は罪を犯したのです。血で飾り立てた卑しき虎よ。あなた方は大地と
神々を侮辱したのです。(中略) 祭司の長よ、お前が殺してしまうあの人は、
ご存知のように、かつて私が愛した人なのです。あなた方は罪なき者を罰した
のです。むごい人たちよ、呪いがあなたたちの上にあるように。天の復讐が降
るでしょう。』(第4幕第1場)

このアムネリスの歌詞で最も大事な箇所は「お前が殺してしまうあの人はかつ
て私が愛した人なのです」という部分です。アムネリスが「かつて私が愛した
人」と過去形で言っている点にも注目したいと思います。この時点でアムネリ
スはラダメスを諦めたということです。恋を諦めたなら・アムネリスはラダメ
スにどんな判決が下ろうが知らぬふりしていればいいはずです。ところがアム
ネリスは「ラダメス死刑」の判決に烈火の如く怒ります。実はアムネリスが祭
司たちを糾弾する言葉は特殊な論理構造を持っています。

それは『私(アムネリス)は強く正しい人を愛す=私はラダメスを愛している
(愛していた)=ラダメスは正しい人である=神は正しい人を愛する=神は正
しい人を罰することは決してしない=だからラダメスを罰する祭司たちの判断
は 絶対間違っている=だから祭司たちは呪われるべきである』という絶対の論
理です。

これは全然理屈になっていない理屈です。「それはお前の思い込みだ」と簡単
に否定できそうなものですが、心情から発した熱い理屈であるがゆえに・他人
がこれを否定することは絶対にできないのです。アムネリスに理屈で応戦して
も無駄です。アムネリスにとって・ラダメスが断罪されることは「この人を愛
した私」が断罪されることと同義だからです。ここではラダメスと「私」が一
体化しています。「・・・と(und)」の心情があることが誰の目にも明らかで
す。事実アムネリスに対して ランフィスは「彼は死なねばならぬ」と空しく繰
り返すだけです。無視することだけがランフィスにできることです。

「・・・と(und)」の心情については別稿「近松心中論」のなかで触れました。
『大坂商人の男徳兵衛と・この男を愛した私お初』というお初の心情が、無残
にボロボロにされた徳兵衛のアイデンティテイーを回復させるためにふたりが
心中に向かうという行為に明確なメッセージを与えます。

『徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとし
ぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものな
れども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しな
なるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも
生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは。』(曽根崎心中)

アムネリスの「・・・と(und)」の心情はお初の場合とまったく同じです。ア
ムネリスとお初が違うのは、お初は「私たちは正しいのだから・より鮮烈に生
きるために・私たちは死ぬのだ」と徳兵衛に言うのですが、アムネリスの方は
「あなた(ラダメス)は正しいのだから・その潔白を示すためにあなたは生き
ねばなりません」とラダメスに言うことです。しかし、これは心情の表出方向
が異なるだけで・大した違いではないのです。アムネリスとお初の性格はとて
もよく似ています。お初とアムネリスの言い分が逆であっても全然不思議では
ありません。結末がちょっと変わるだけのことです。ここで大事なことはお初
の主張も・アムネリスの主張もどちらも「かぶき的心情」から発する言葉だと
いうことです。重要なのは個人と・個人を押さえつけようとする状況との対立
関係がはっきり意識されていることです。

一方ラダメスと一緒に死ぬことになるアイーダは控え目な女性で・お初のよう
に積極的な主張はしませんが、その内側に熱い心情を秘めています。アイーダ
は主張らしい主張はしませんが、地下墓室にひとりで先に忍んで待っていて「
私の心にはあなたの罪の宣告が分かっていましたから、あなたのために開かれ
ていたこの墓のなかに、私はそっと忍び入りました・・・」と言います。アイ
ーダもまたラダメスと「・・・と(und)」 の心情で強く結びついているわけで
す。アイーダの心情もまた「かぶき的心情」です。ですからその結果はお初の
行為と同じ結末(心中)になります。ドナルド・キーン氏が「アイーダ」と「
曽根崎心中」にまったく同じドラマツルギーを見た根拠がそこにあります。 


○「アイーダ」と「愛陀姫」・その13:本歌取りのポイント

祭司たちを糾弾するアムネリスの言葉は理屈ではなく・熱い心情から発してい
ます。心情からの言葉に対処することは出来ません。どう説得されようがアム
ネリスにとって「ラダメスが正しくて・祭司たちは間違っている」のです。こ
れに対して祭司長ランフィスは黙殺で答えます。これは「恋に狂った小娘の迷
いごと」として片付けておかねばなりません。それは神の代理人であるランフ
ィスと・世俗の権威であるエジプト王(アムネリスの父)との妥協でもありま
す。

しかし、もしランフィスが気の短い男ならば、怒ってアムネリスに「ご神託を
否定するお前を神は絶対許すことはしない」と言い出して・彼女に罰を与える
(王女であるから死刑にするわけにはいきませんが ・まあ謹慎というところか)
という展開も考えられないことはありません。そうなってもアムネリスは決し
て屈しないでしょう。なぜなら「正しい男ラダメス・・・と・この男を愛した
私」はかぶき的心情によって結び付けられておりその潔白を示すために私は生
きる」というのがアムネリスの生き方だからです。ですからアムネリスはこれ
から誰とも結婚せずに喪服を着て暮らすのか・他の誰かと結婚させられてしま
うのか・幸せになるか・不幸になるかは分かりません。しかし、それはどちら
でも良いことです。これからもアムネリスが生きて続けることは疑いありませ
ん。

先行作を翻案する場合・筋のどの部分を変えても良いというわけではありませ
ん。どこを変えても良いならば・始めから自分のオリジナルを書けば良いので
す。どこを変えて・どこを変えなかったか ・そこが大事です。それによって作
者が先行作をどのように読んだか・改作のオリジナリティがどのくらいあるか
・そこに改作者の力量が出ます。翻案の面白さはそこにあります。和歌の本歌
取りで「これは巧いなあ」と感嘆する歌は、必ずこの骨格に元歌の何かがはっ
きりと分かるものがあり・筋を強引に書き換えるようなことは決してし ていな
いものです。そしてある箇所をちょっと置き換えることで・元歌の描いたもの
とまったく違う様相を展開してみせるのです。あるいは元歌と全然違う道程を
取る風を見せておいて・最後に元歌とぴったり合わさった結論に達してしまう
という手法もあり得ます。本歌取りには・このふた通りの手法があります。歌
舞伎の書き換えはまさに本歌取りの伝統を継ぐものですが、前者の例は「義経
千本桜・渡海屋〜大物浦」(言うまでもなく謡曲「舟弁慶」の書き換え)など
歌舞伎には数知れ ないほどあります。後者の例はあまり多くはないですが、「
忠臣蔵」を本歌に置いた鶴屋南北の「東海道四谷怪談」・「盟三五大切」など
がこれに当たります。

「アイーダ」では祭司たちを糾弾するアムネリスをランフィスは黙殺し・事は
それで終わります。しかし、アムネリスが何らかの形で怒ったランフィスに罰
せられ・アムネリスが世を呪いながら幕が終わるという形も考えられないわけ
ではありません。それでもヴェルディの作意が損なわれることは全然ないでしょ
う。ヴェルディの作意が個人と・個人の尊厳を奪い取る状況との対立構図にあ
るからです。「アイーダ」と結末の様相は大きく異なりますが、「リゴレット」
や「トロヴァトーレ」のような悲惨な結末に「アイーダ」を持っていくことも
十分可能なのです。本歌取りのポイントは祭司たちを糾弾するアムネリスの強
いかぶき的心情を転機に・どうやって筋をひっくり返すかです。「愛陀姫」脚
本を読むと・野田氏はこの本歌取りのポイントを確かに探り当ててはいます。
「アイーダ」の筋を翻案するならばその ポイントは確かに濃姫の「その人は私
がかつて愛した人じゃ」の台詞の箇所です。しかし、「愛陀姫」を実際に通し
て見れば・骨太い時代物の印象に至らずに終わっています。それはどうしてな
のか・その点をさらに考えます。

「愛陀姫」のこの後の濃姫の件はとても興味深い展開を示しています。濃姫が
祈祷師のご神託を否定すると、祈祷師は濃姫を裏切って・「濃姫は織田家に嫁
ぐべし」というご神託を濃姫に突きつけます。さらに祈祷師は父・道三に対し
て「濃姫を選ぶか・ 我らを選ぶか」と迫り、道三は仕方なく祈祷師を選んで・
濃姫に織田家へ嫁に行けと言います。濃姫は「私が嫁いでもこの国に決して争
いが絶えることのないように」と呪いの言葉を吐きます。濃姫の愚かさが、清
らかに死んで行く愛陀姫と駄目助左衛門と対照されるというわけです。これは
原作の結末とは違いますし・観客が濃姫に対して共感できない結末ではありま
すが、それなりに対照が効いていて・最後の場面だけを抜き出して読むならば
野田氏の本歌取りの手法として認めて良いものだと思います。吉之助が最初に
脚本の結末の部分だけ をつまみ読みした時に感心したのはその点でした。それ
なのに「愛陀姫」が骨太い時代物の印象に至らないのは、どこかにドラマの悲
壮感を削ぐものがあるせいだと吉之助は感じます。その理由のひとつが最終場
面の音楽のセンチメンタルな使い方にあることは先に触れた通りですが、もう
ひとつ作劇上の問題が潜んでいると吉之助は思います。これも野田歌舞伎の特
質から発するものだと思われます。


○「アイーダ」と「愛陀姫」・その14:悲劇の構造

「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」というアムネリ
スの台詞は「ラダメスと・その彼を愛した私」という「・・・と(und)」で結
び付けられている心情から発せられているということは先ほど考察しました。
この心情は王女という立場から発せられたものではありません。世俗的権威が
宗教的権威と対立する形で発せられている発言ではないのです。それはひたす
らに個の心情であり、その一方で利害打算がないためにひたすらに無私です。
それはかぶき的心情から発せられた台詞です。

「愛陀姫」の濃姫も「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なので
す」というアムネリスと同じ台詞を確かにしゃべっています。しかし、よく読
めば発言の意味合いが全然違 っています。濃姫の発言は熱い心情の台詞になっ
ていないのです。濃姫は領主の娘として・その世俗的権力を以って祈祷師のお
告げを頭から無力化しようとしています。「領主の娘の私が言うのだから黙れ、
お前たちを雇った私が言うのだから黙れ」ということです。これならば相手は
いくらでも反論の方法があります。祈祷師は「これまでのお告げはみなその通
りに実現してきたではないか」と言い返し、「神の僕(しもべ)である我々と
・娘とどちらを選ぶか」と領主・道三に迫ることになります。結局、濃姫は祈
祷師に「お前は織田家へ嫁に行け」という形でやり返されることになります。

どうしてこういう展開になってしまうかと言えば、それは「愛陀姫」冒頭にお
いて街角でを祈祷をしていた彼らを斉藤家へ引き込み・自分の都合の良いご神
託をさせようと仕組んだことから始まっています。つまり濃姫の駄目助左衛門
に対する恋自体がいかに真実なものであっ たとしても、濃姫は自分の恋を自分
で虚偽の作り物にしてしまったのです。濃姫が「あの祈祷師たちのご神託は嘘
じゃ、なぜならあの神託は私が呼んで彼らに言わせたものだから」と言うこと
は出来ないのです。それは濃姫自身の恋も作り物 だと認めることになるからで
す。ですから「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人じゃ」という
濃姫の発言は、アムネリスが言う時のように他人に否定ができない力強い 心情
の台詞になり得ないのです。「お前は織田家へ嫁に行け」というご神託に濃姫
は反抗できないことになります。

「愛陀姫」が骨太い時代物の結末にならないのはそのせいです。「あの人はか
つて私が愛した人じゃ」という発言に対して祈祷師たちが怒って「お前は織田
家へ嫁に行け」という神託を濃姫に突きつけること自体 には問題ありません。
それは展開としてあり得ることですし、「アイーダ」を書き換えるならばポイ
ントはそこしかありません。問題は最後に織田家に嫁ぐことになった濃姫が「
私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」と呪いの言葉を
吐 くに至る心情の裏付けがまったく見えないことです。濃姫が世を呪う心情展
開をしてくための状況が正しく設定できていないと思います。ですから濃姫が
「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」と言う台詞が
とても唐突に不自然に 感じられます。

野田氏は恐らく濃姫が祈祷師を使って世論を操作して・状況を自分の良い方向
へ引き込もうと画策したところが、増長した祈祷師に反抗されて・それが無残
に失敗に終わる悲劇(?)にしたかったのかなと推察します。マスコミによる
世論操作の悲劇ということですかね。吉之助はそういうのは悲劇だとは思いま
せんけれど、もしそうするならばいっそ喜劇に仕立てた方が野田氏の領分であ
ろうし・勘三郎のキャラも生きたと思いますけれどね。

悲劇にするのならば・濃姫が「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えること
のないように」という台詞を背負えるだけの重みを濃姫に与えなければなりま
せん。全世界に個人が対立するだけの根拠を示さねばなりません。しかし、祈
祷師を斉藤家に引き込んだのは濃姫でした。神託の内容を彼らにあれこれ指示
したのも濃姫でした。その祈祷師が増長して裏切ったからと言って、それがど
うして「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」という
台詞になるのですかねえ。恨むのなら祈祷師を恨むか・娘を捨てた親を恨めば
良いのです。それ以前に自分の愚かさを恨むべきです。それなのに「この国に
決して争いが絶えることのないように」などと呪われた美濃の領民こそいい迷
惑だと思います。これでは濃姫はにっちもさっちも行かなくなって「誰でもい
い」と叫んで刃物を振り回す昨今の愚か者と同じと言わねばなりません。そう
した現代的世相を「愛陀姫」で描くのが野田氏の意図なのでしょうか。

「愛陀姫」が骨太い時代物の印象にならなかった原因は、「愛陀姫」結末から
冒頭へ筋をさかのぼって見れば・明らかになります。濃姫が「私が嫁いでもこ
の国に決して争いが絶えることのないように」という台詞を背負うだけの状況
の重みが濃姫にないのは、「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人
なのです」という台詞で濃姫が領主の娘という立場を越えて・ひとりの女性と
して(まことの人間として)心情 を表現できていないからです。「お前が殺し
てしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」という発言が濃姫のまことの
心情から出た・一点の曇りなきものだということを観客が納得 できないのは、
濃姫の心情に偽りの影があるからです。そう考えれば濃姫が祈祷師を引き込み
・彼らにご神託をあれこれ指図するという冒頭設定に問題があることは明白で
す。濃姫は自分の恋を自分で虚偽の作り物にしてしまっているのですから悲劇
に主人公になる資格が濃姫にはないのです。濃姫にはその状況を世界苦として
背負い込めるだけの重みがない。「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶える
ことのないように」という台詞 が空しく響くだけです。「愛陀姫」は結末だけ
を見ればよく出来ているが・通してみればそうではないと吉之助が言うのはそ
のことです。つまり冒頭設定がうまくないからです。

もうひとつの問題は祈祷師に世論操作という役割を持たせているので、ここで
も対象(他者的存在)が分裂していることです。結局、濃姫が対峙するものが
愛陀姫なのか・祈祷師なのか・自分なのか・それとも他の何かが明確でなくな
っています。この結末では愛陀姫と駄目助左衛門の死の意味も見えなくなって
しまいます。しかし現代演劇の第一線の作家である野田氏にこのような悲劇構
造の欠陥が感知できないということはあり得ないので、これはやはり野田氏の
なかに「歌舞伎の悲劇 はこんなもの」的誤解が根底にあると吉之助は思わざる
を得ません。

○「アイーダ」と「愛陀姫」・その15:歌舞伎の悲劇はこんなもの

例えば「鎌倉三代記」で三浦之助がオロオロする時姫に対して「夫としての自
分を取るか・敵方である父親を取るか・さあさあ・・」と迫り、時姫がついに
「北条時政討ってみしょう」と言います。この場面は「鎌倉三代記」のクライ
マックスですが、もちろん時姫のこの決断が非常な重みを持つからです。「夫
を取るか・父を取るか」という問題はそのどちらをとってもそれなりの方向に
筋は展開できますので、その選択肢自体に正しい・間違っているということは
ないのです。「夫を取るか・父を取るか」という命題で大事なことは、片方を
取る選択をしたということは・片方を捨てる選択をしたということだというこ
とです。夫を取れば親に対して不孝となり・親を取れば夫に対して不忠となる
のです。それはどちらも時姫にとって許されないことです。つまり選択する行
為自体につねに負い目がつきまとい・それを振り切ってどちらかを選ぶ行為自
体がすでにドラマなのです。これが究極の選択ということであり、選ぶという
行為の内面にものすごい葛藤があるわけです。時姫がついに「北条時政討って
みしょう」という時、内面に凝縮されたエネルギーが外に向かって一気に解放
されます。そのエネルギーこそがドラマを展開させる原動力となるものです。

「北条時政討ってみしょう」の選択は時姫が周囲から強制されて・無理矢理さ
せられたものではありません。なぜならば「周囲から強制された選択」である
ならば、時姫はその選択に対して責任がないことになり ます。時姫はいつでも
「自分は言わさせられたのだからあの選択は無効だ」と主張して・選択を撤回
できる権利を留保できるからです。「父である北条時政討ってみしょう」とい
う選択に時姫が全面的な責任を持つから歌舞伎のドラマが動くのです。ですか
ら歌舞伎の悲劇というのは他動的なものではなくて、歌舞伎の登場人物は運命
に押し流されているように見えながら、核心の場面において・すべて自分の意
志で決断をしているのです。だからこそ歌舞伎は悲劇の印象を正しく観客に与
えるわけです。時姫は夫に押され・父親に流され・右に行ったり左に揺れたり
しているようですが、「北条時政討ってみしょう」はまさしく時姫自身の決断
であり・彼女がその責任を負うのです。「曽根崎心中」でもお初が「この上は
徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。・・オオ、その
はずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは。」と
叫ぶのは、お初・徳兵衛がいかに周囲に翻弄され・追い詰められようとも、最
後のところは自分で決める・この人生は自分たちのものだという意地の宣言に
他なりません。

「アイーダ」のアムネリスの場合を見てみます。「お前が殺してしまうあの人
はかつて私が愛した人なのです」という台詞がアムネリスの心情から発してい
ることは先に書いた通りですが、この発言はアムネリスが恋の苦しい葛藤のな
かから彼女が掴んだ真実として言われています。アムネリスがラダメスを愛し
てい たことは間違いありませんが、その周囲に王女としてのプライドや・アイ
ーダに対する嫉妬やらいろんな感情が渦巻いており・それが彼女をいろんな歪
んだ行動に駆り立てています。第4幕第1場でアムネリスは「この私があの方
を引き渡したのだわ、今となってはひどい嫉妬よ・お前を恨むわ、あの方の死
と、私の心との永久の戦いを命じたお前を・・」と言っています。そうした人
間的反省のなかから「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛した人なので
す」という台詞が出てくるのです。つまり、これ以前のアムネリスは恋心と嫉
妬によって他動的に動かされていた木偶に過ぎなかったのですが、「お前が殺
してしまうあの人はかつて私が愛した人なのです」と叫んだ時にアムネリスは
初めて真実の人間になったと見ることができます。つまり、歌舞伎の悲劇と同
じ過程を辿っていることが分かります。ですからアムネリスの「お前が殺して
しまうあの人はかつて私が愛した人なのです」はかぶき的心情の吐露です。ヴ
ェルディの音楽を聴けばそのこと が明白に分かります。

一方「愛陀姫」を見ると、濃姫は祈祷師を家に引き込み・ご神託にあれこれ指
図をして・ずいぶん積極的・能動的に行動しているように表面は見える かも知
れません。しかし、実は下されたご神託の通りに・あるいは父親の言葉通りに
沿って従順に動く態度を崩していないわけで・その行動に主体的なものが見え
ません。唯一主体的であるべき「お前が殺してしまうあの人はかつて私が愛し
た人なのです」という発言も、濃姫の場合は領主の娘・祈祷師たちの雇い主の
立場を抜けておらず 、またその行動自体が虚偽の作り物になっているので・結
局それは心情からの発言にはなり得ません。だからドラマを展開させるエネル
ギーを持たないのです。そして、濃姫は 祈祷師のご神託に何の抵抗もせず・織
田家に嫁いでいきます。結局、濃姫はドラマの一番肝心なところで決断 してい
ないのです。濃姫が主体的に行動して悲劇に堕ちて行くドラマなどありません。
「歌舞伎の悲劇とはこんなもの・主人公が他動的に流されて悲劇に落ちていく
もの」と野田氏は考えているとお察しをしますが、そこに 歌舞伎のドラマに対
する根本的な誤解があります。これでは悲劇として十分ではないのです。だか
ら「愛陀姫」は歌舞伎の時代物の骨太い印象を与えることが出来ないのです。

濃姫は祈祷師を家に引き込み・ご神託にあれこれ指図するという冒頭設定をや
めて、祈祷師は斉藤家に元から仕える者とでもして・ご神託と父親の言葉に濃
姫が翻弄されて 無邪気に一喜一憂 して大はしゃぎするという喜劇的な設定に
でもすれば前半の筋はいくらでも脱線できるし・勘三郎のキャラがずっと生き
たでしょう。これで結末のマーラーのアダージェットをやめれば、「愛陀姫」
は時代物の骨太い印象を与えることができただろうに。とても惜しいことをし
たと思います。


○「アイーダ」と「愛陀姫」・その16:心情のドラマ

野田氏の夢の遊眠社や野田地図の芝居を吉之助は生で見たことはありません。
いくつかの映像で知ってはいますが、吉之助は実は役者が世話しなく・右へ行
ったり・左へ走ったり・バタバタ落ち着かない芝居が好きじゃないのです。も
ちろんあれだけ ファンが多いお芝居ですから・現代を突く何かがあるに違いな
いと思いますが、吉之助にとって領域の異なるお芝居なのは確かです。吉之助
の関心は野田歌舞伎だけです。しかし、聞くところによれば野田氏の芝居は2
1世紀に入ってからトーンが変わってきたということが言われているようです。
その背景は察するしか ないですが、例えば「オイル」での次の台詞です。

『電話の向こうで人が溶けてあたしの耳に声が残った。石段に腰をかけていた
人が溶けて、その石の上にその人の声だけが残ったように、あたしの耳に声が
残った。電話の向こうで十万人の人間が溶けて、十万人の声があたしの耳に残
った。残った声は幻?・・・このオイルが幻だというのなら、それでもいいの。
幻のオイルを補給して、どうしても幻の零戦を飛ばしてやる。ヤマト、もう一
度教えて。復讐は愚かなこと?たった一日で何十万の人間が殺された。その恨
みは簡単に消えるものなの?一ヶ月しかたっていないのよ、あれから。どうし
てガムをかめるの?コーラを飲めるの?ハンバーガーを食べられるの?この恨
みにも時効があるの?人は何時か忘れてしまうの?原爆を落とされた日のこと
を。』(野田秀樹:「オイル」・富士の台詞・初演2003年4月)

富士(初演では松たか子が演じました)の台詞は確かに心情から発した台詞で
す。理屈からのものではなく・他人が否定できない個の心情からの台詞です。
「オイル」の台詞を知った時、「こういう心情からの台詞が書けるならば・野
田氏は歌舞伎が書ける」と吉之助は思いました。それで「野田版・鼠小僧」(
平成15年・2003年・8月歌舞伎座)にはかなり期待したのですが、これは
ちょっと残念な出来でしたねえ。吉之助が「愛陀姫」を見たのは・もちろんオ
ペラ原作であるせいもあります(歌舞伎とオペラは「歌舞伎素人講釈」の重要
なテーマですから)が、野田氏に歌舞伎を書ける資質があると思わなければ吉
之助は「愛陀姫」の舞台を見なかったでしょう。まあ少しづつコツはつかめて
きたようですから、野田氏の次作に期待をしたいと思います。

ところで、出版されたばかりの「野田版歌舞伎」(新潮社)の「あとがき」で
野田氏が「歌舞伎が大衆のものであるかということは・卑怯な言い方かも知れ
ないが・大衆の魂があるかどうかという問題である」という趣旨のことを書い
ています。吉之助は野田版歌舞伎を歌舞伎と認めますが、この文章を読むと野
田氏は歌舞伎の何たるか・自分にぴったりしたものをまだ見つけていないと感
じられます。だから「卑怯な言い方かも知れないが」という言い方が出てくる
のです。水戸黄門の印籠で頭から相手を押さえつけようとしているようで、野
田氏自身がその強引さを 羞じているような感じがあります。野田氏は作家です
から言葉の選び方には敏感だと思います。吉之助も批評をやりますから当然そ
うです。これは大事な点ですが、大衆は「魂」なんて用語は使わないのですよ。
「魂」という用語には建前が入っています。それは「ええカッコしい」の用語
です。それは体制側の用語なのです。大衆はやむにやまれぬその思いとか・引
くに引かれぬその辛さとか・思い切っても思い切られぬ切なさよとか・そう言
うのです。「歌舞伎素人講釈」ではそれらを「心情」と呼んでいます。もうひ
とつ、大衆と言って焦点をボカしてしまわないで ・個人の思いの強さをもっと
前面に出すことですかね。個人の思いを集団の思いとして書くことです。野田
氏が「歌舞伎には個人の熱い心情がある」と書けるようになった時に野田版歌
舞伎はホントの歌舞伎になることでしょう。


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