2008/09/21
メルマガ「歌舞伎素人講釈」第236号
********************平成20年9月21日発行***
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メルマガ「歌舞伎素人講釈」 第236号 ◎
◎ 連動ホームページ: http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/
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こんにちは、吉之助です。本号は前号に引き続きサイトの「吉之助の雑談」に連
載中の本年8月歌舞伎座の「野田版・愛陀姫」に関する論考ですが・当初予定よ
り長くなったので・三回に分けてお届けします。本号でお届けする中編は音楽に
ついての言及が多くなったため、参考にYouTubeでの音源にリンクをつけていま
す。
大事なことは、演劇に使われる音楽というのは舞台の情緒を盛り上げるためだけ
に使われるものではなく・音楽の構造を利用することでドラマを観客により立体
的論理的にドラマを印象つけることができるということです。実はこれはオペラ
の音楽だけのことでなくて、歌舞伎での義太夫もそういう論理構造を非常に強く
持っているものなのですが・まあそのことは別の機会に書きます。まずは野田秀
樹氏の音楽の使い方を材料にして、音楽の論理性を考えてみたいと思います。
ーーー<今回の話題>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「アイーダ」と「愛陀姫」(中編)
〜平成20年8月歌舞伎座:「野田版・愛陀姫」
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○「アイーダ」と「愛陀姫」・その6:時代物の骨格
平成20年8月歌舞伎座の「野田版・愛陀姫」は野田秀樹・勘三郎の三番目の
提携作品で、ヴェルディの歌劇「アイーダ」からの翻案です。前2作の「研辰
の討たれ」と「鼠小僧」は世話物でしたが、今回の「愛陀姫」は時代物という
点でも興味深いところです。舞台を見ると祈祷師の使い方・台詞のスピード感
などに野田演劇らしい面白さが見えますが、主要人物の台詞は原作オペラの歌
詞 を細かいところまで取り入れており、大筋ではオペラを忠実に置き換えた印
象が強いようです。その分・前2作と比べると遊びが少なくなって、シリアス
な感触に仕上がっているので野田・勘三郎で大いに笑おうと歌舞伎座に来られ
たお客はお気の毒でしたね。しかし、前2作とは違う野田氏のトーンの微妙な
変化が吉之助には興味深く感じられました。 今回の「愛陀姫」のなかで野田氏
が原作「アイーダ」から改変した部分に野田歌舞伎の特質が出ていると思うの
で、本稿ではそこに焦点を絞って考えます。
まず出版されたばかりの「愛陀姫」脚本(「野田版歌舞伎」・新潮社)の結末
部分を読んで・なるほど野田氏は巧いこと考えたものだと思いました。実は吉
之助は本を読む時に・ いきなり冒頭から読み始めることをせずに・最後から読
んだり・途中を見たり ・つまみ読みをよくするものですから、「愛陀姫」を結
末から見てまず感心したわけです。濃姫が祈祷師に裏切られて・織田家に嫁ぐ
べしというご神託を突きつけられて、「私が嫁いでもこの国(美濃)に決して
争いが絶えることのないように」と呪いの言葉を吐く最後の場面のことです。
史実に拠れば・濃姫の嫁ぎ先の織田信長が後に美濃に攻め入って・この国を滅
ぼすことになるのです。だから架空のお話はここで歴史の大きな流れのなかに
乗ってくることになり、時代物の構造のなかにはまってくるわけです。
例えば「実盛物語」の最後で「その時は実盛が鬢髪を黒に染め、若やいで勝負
をとげん、坂東声の首とらば、池の溜まりで洗うて見よ、いくさの場所は北国
篠原、加賀の国にて見参見参」と 実盛が言う時に九郎助住居の場の架空の出来
事から28年後の史実に向かって・まっすぐな線がスッと見えてくるのと同じ
ことが意図できます。もっとも実盛の逸話は当時の江戸の民衆にとっては常識
というべきものでした。濃姫と信長の結婚に現代の観客がどういうものを見る
かは分かりません。その辺は幕切れで誰かの口から美濃の将来を憂えるような
台詞を吐かせる工夫が必要かなと思いますが、「愛陀姫」は時代物の本歌取り
のトリックは一応取れてると思います。
なお「濃姫」というのは織田家に嫁いでからの敬称でして・結婚前は道三のも
とで鷺山殿と呼ばれていたのが史実です。有名な逸話にある通り道三は信長を
大変に気に入っており、 道三は息子義龍(道三実子ではなかったとの有力説あ
り)より・むしろ信長の方に若き日の自分を見ていたようにも思われます。実
際、信長の美濃攻めは自分こそ美濃の正統な後継であると主張する印象が強い
ものでした。信長と濃姫との間に子供はありませんでしたが、夫婦仲は良かっ
たと言われています。また信長は合理主義者で・神仏や占いなど信じないよう
なイメージがありますが、実は信長は伊東法師という有力な陰陽師を軍配師と
して抱えており、軍の勢いや戦の日取り・天気などを占わせて、これを参考に
して戦術をたてたのです。これは当時の大名ならば誰でもそうでした。そうい
う史実はあるようですが、大筋において「濃姫の嫁ぎ先が実家に攻め入って・
美濃の国を滅ぼすことになった」という未来を時代物の骨格に置くことは納得
できることです。
いずれにせよ「愛陀姫」脚本の最後の場面だけ抜き出して読むならば(ただし
最後の場面だけを読めばの話です・その理由は後で触れます)・歌舞伎の時代
物としてさほど違和感はなく・ エジプトから戦国日本への置き換えはまずよく
出来ていると吉之助は思います。しかし、実際の舞台を見ると、いくつかの問
題があって「愛陀姫」は骨太い時代物の印象を与えることが出来ずに終わって
います。どうしてそうなってしまったのか。吉之助はそこに良くも悪くも野田
歌舞伎の特質を見る気がするのです。
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その7:分裂した他者
ヴェルディは教会(宗教としてのキリスト教ではなく・権力構造としての教会)
に対してあまり良いイメージを持っていなかったようです。例えば「ドン・カ
ルロ」の異端者処刑の場面などに・そうしたヴェルディの不信感が現れている
かも知れません。晩年ヴェルディは故郷のバルマに病院を寄付しましたが、毎
朝夕行われる院長の回診に聖職者が付いて回ると聞いて・これを即刻やめるよ
うにと手紙を書いています。しかし、ヴェルディが敬虔なカトリック教徒であ
ったことは疑いありません。でなければあれほど素晴らしい「レクイエム」は
書けません。ヴェルディが嫌ったのは世俗の権力構造としての教会です。
このことは「アイーダ」を考える場合に大事なことです。「アイーダ」での政
治と宗教を分けて考えてはいけません。オペラを観ると・祭司長ランフィスの
方がエジプト王より偉そうであり、宗教が世俗権力より大きな力を持っている
ように見えます。しかし、これは宗教が政治を牛耳っているのではなくて、宗
教が政治と一体化しているからです。古代エジプトは宗教国家だからです。天
は神イシスが司り・地は王(ラー)が支配することは神により認められている
という世界構造があったわけです。実はこの構造はプロイセン国王ウィルヘル
ムにおいても同じでした。ウィルヘルムは19世紀の「遅れてきた絶対君主」
です。絶対君主制全盛期(代表的なのは もちろんフランスのルイ14世・イギ
リスのエリザベス1世)においては天は神が治める・現世は神によって君主が
治めることが認められているという世界観があり、民衆はその世界観に統治者
の正当性を見たのです。これは18世紀の世においては当たり前のことでした。
しかし、19世紀末になってウィルヘルムがまだ大真面目に時代遅れの主張を
しているから・ いろいろ物議を醸すわけです。しかし、現代においても形を
変えながら統治者は何らかの大義を求めており、権力の本質的なものは何も変
わっていません。宗教とか・国家という範疇を越えて、「アイーダ」では個人
と対峙し・個人の尊厳を脅かす他者的な存在 (状況)が明確に意識されていま
す。
一方、野田歌舞伎においては・見定められるべき対象(他者的存在)が分裂し
ていると吉之助には感じられます。 つまり、個人と対峙するものが分裂してお
り、吉之助から見ると対象が定まらないように感じられます。しかし、たぶん
分裂した対象の片割れが「大衆」であることは間違いありません。これは言う
までもなく野田演劇の重要なキーワードです。例えば「研辰」では仇を討つ者
と討たれる者に対して、大衆はきまぐれで・その時の気分によって反転する・
行き当たりばったりで・実に無責任な反応を示します。その変化する気分 はそ
の時々の大衆の正直な気持ちではあるのです。しかし、その行動や言動には一
貫性がありません。しかも大衆の反応は辰次や平井兄弟が引き起こしているよ
うに見えて・実はそうではなく、予想できない大衆の反応によって辰次も平井
兄弟も振り回されているという構図です。そのため筋はさらにねじれて・よじ
れていくことになります。そこが野田歌舞伎の面白さのひとつです。
このような大衆によって生み出される筋の捻じれで観客を笑わせながら・野田
氏は「笑っている観客のあなたも大衆のひとりなんだよ」という批判をちょっ
ぴり交えています。しかし、野田歌舞伎は完全な大衆批判にはなっていません。
というより野田氏 には大衆を批判する気は全然ないだろうと思います。吉之助
はそこが野田氏の優しさであり 、もしかしたらそこが弱さでもあるかなと思い
ます。野田氏は最後にホロリと涙する場面を作って・大衆を主人公に対して同
情させて・大衆を許してしまうからです。つまり、状況に追い駆けまわされ・
時に追い詰められる主人公を見てワイワイ囃し立て・けしかけていたはずの大
衆が、最後に主人公の真情にホロリと涙することで・それまで 騒ぎに加担して
いた大衆の責任も帳消しにされてしまう。だから大衆は死んでいく主人公に対
して後ろめたさを感じなくて済む。観客の皆様は「ああ面白かった」と安心し
てお帰りいただける・というわけです。これが「研辰」や「鼠小僧」のパター
ンではなかったでしょうか。「愛陀姫」 でも祈祷師を登場させて・世論を操る
場面が出て来ます。シリアスタッチなので・前2作ほど大衆があまり前面に出
てはいませんが、本質的なところは同じです。
「野田版・研辰」が大衆批判でないならば・見定めるべき対象が実は大衆でな
いのならば、それでは辰次は何と対峙しているのか。何が分裂した他者のもう
ひとつのパーツなのか。吉之助はそこが問題になると思います。忠義批判か・
封建批判か・お上批判か・あるいは他のことなのか。仇討ち芝居を平成の世で
やる意味は何か。ところが「野田版」ではずっと「大衆」でワイワイ騒いでき
たものだから、最後になって対象が明確に見えてこないのです。
木村錦花の原作を見れば・もともと町人であった辰次が武士になって・ 身丈に
合わない生活を始めて・いじめられ・怒ったらまたやり返されて、これが大正
14年に上演された背景がこの時代のどうにもならぬ状況と重なることが明ら
かです。そこに時代の気分を重ねて見る必要があります。そこを理解すること
で「研辰」は平成の芝居にもなるのです。もちろん 優れた書き換え狂言という
ものは原作の気分をどこかに引き継いでいるもので、「野田版」も実はそのは
ずです。しかし、「野田版」の場合は「大衆」が先行し・対象(他者)の像が
分裂している為に、観客から見ると他者の姿がぼやけて しまって・明確に対象
が定まらないということが問題かなと吉之助は思っています。
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その8:センチメンタルな音楽の使い方
このことは観客をホロリと涙させて・主人公に同情させてしまう最後の場面の
音楽の使い方に端的に現れます。「研辰」の場合はマスカー二の歌劇「カヴァ
レリア・ルステカーナ」間奏曲・今回の「愛陀姫」ではマーラーの交響曲第5
番・アダージェットです。驚くほどセンチメンタルな使い方がされています。
美しく・切なくもある旋律が醸しだす表層的な情感(ムード)だけを利用した
音楽の使い方です。
しかし、音楽は(そうでない音楽ももちろんありますが)・特にロマン派音楽
の場合はその旋律の背景につきまとう文学的修辞を切り離して考えることはで
きません。歌詞を伴わない純器楽作品の場合 は、このことはなおさら重要です。
音楽の持つ文学的修辞とは音楽の構造が生み出す純粋に観念的なものであり、
それは文学的・あるいは時に視覚的でもあります。だからその音楽を「ロマン
派」と呼ぶのです。言うまでもなくロマン(浪漫)とは小説・物語のことを言
います。映画にクラシック名曲を使ったものは少なくありませんが、その忘れ
がたい場面においては旋律の醸しだす文学的修辞 とドラマの主題が分かちがた
く結びつき、相乗効果的な劇的効果を生み出すものです。
それにしても「愛陀姫」の最終場面は、そこまでヴェルディの「アイーダ」の
音楽を劇中でふんだんに使っているのだから・そのまま最終場面もヴェルデイ
の音楽を使えばそれで済むのに、わざわざマーラーに差し替えた処置には驚き
ました。マーラーのアダージェットは本当はこんなセンチメンタルな音楽では
ないのですが 、ここではそういう使い方がされています。野田氏だけではなく
・日本の演劇では音楽を情緒的に・表層的に使われているケースが少なくあり
ません。音楽の持つ文学的修辞を論理的に利用するということがあまり見掛け
られないのです。日本演劇は音楽をもっと論理的に駆使できるようにならない
といけないと思います。例えばヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」でのマ
ーラー:アダージェットの使い方、コッポラ監督の「ゴッド・ファーザー・パ
ート3」でのマスカー二:間奏曲の使い方を見れば、音楽がドラマと密接に結
びつき・論理的に使われているかがお分かりになるはずです。もし「愛陀姫」
がミラノで上演されることがあるならば・観客から間違いなく腐ったトマトを
投げつけられることを野田氏は覚悟した方が良いです。あそこの観客は怖いん
ですよ。
「愛陀姫」での音楽の使い方は最終場面以外のところでは・そう悪くはないも
のです。これはヴェルディの音楽がドラマに緊密に結びついているのですから
当然です。凱旋シーンでのヴェルディの音楽はわざとチープに使われていて・
オペラファンには憤慨する方もいるかも知れませんが、ヴェルディが凱旋シー
ンを異常に肥大化させたことの意図を知っていれば・これはヴェルディ自身も
認めるだろう音楽の使い方だと吉之助は思います。コンヴィチュニー演出でも
凱旋シーンは軽薄な馬鹿騒ぎにわざと仕立てていました。「愛陀姫」に象の戦
車が登場することも吉之助には気になりません。これはこれで良いと吉之助は
思います。しかし、「愛陀姫」の最終場面がマーラーなのはまったく良ろしく
ないと吉之助は思います。
もちろん野田氏が「愛陀姫」の最終場面の音楽をマーラーに差し替えたのは彼
なりの考えがあってのことだろうとお察しはします。「愛陀姫」の最終場面は
原作と結末が違っていますから、 濃姫が呪いの言葉を吐いて・憤りを胸に秘め
て終わる場面にヴェルディの清らかな祈りの旋律が合わないと野田氏は考えた
のかも知れません。死に行く愛陀姫・憤りを胸に秘めて去る濃姫の対比をつけ
るのにもうちょっと引き裂かれた音楽が欲しいということで・「それならばマ
ーラー」となったのかも知れません。いちおう野田氏の立場になって考えてみ
ればそういうことになりますが、吉之助はマーラーの音楽が「愛陀姫」の最終
場面でドラマと結びついて論理的に鳴っていると は到底思えないのです。とて
もセンチメンタルな音楽の使い方がされています。ここに野田歌舞伎のもうひ
とつの問題が見えます。つまり、観客をホロリと涙させて・主人公に同情させ
て、主人公が追い込まれた状況に対して観客が真剣に向き合うことを邪魔する
ということです。悪く言えば観客の目を本質 と違う方向へ反らさせると言うこ
とです。それは野田氏が音楽の持つ文学的修辞を論理的に使えていないせいだ
と吉之助は思います。
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その9:ヴェルディのリアリズム
「アイーダ」最終場面の地下墓場の石室に閉じ込められて死を待つアイーダと
ラダメスの二重唱「さようなら、大地よ、さようなら、涙の谷よ・・」は、先
に触れたドナルド・キーン氏の回想のなかで・トスカニーニが「この場面は悲
しみじゃない、喜びだ、無上の喜びなんだ!」と叫んだ・その旋律です。この
旋律はとても単純なものですが、短いフレーズが浮かんでは止まり・また浮か
んでは止まるという動きを見せながら・ 静かに展開していく ものです。それ
はゆっくりとした呼吸の動きを示しています。息を吸う場面でフレーズがふっ
と止まるのです。閉ざされた地下の墓室にいるアイーダとラダメスが・呼吸し
ながらだんだん酸素がなくなって・二酸化炭素が充満していって・次第に息が
苦しくなって・意識が遠くのいていく情景をヴェルディは実に正確に音楽で描
写しています。やがてアイーダとラダメスの声は聞こえなくなります。最後に
地上で喪服を着て・ラダメスの冥福を祈るアムネリスの声が唱和します。
旋律が醸しだす表層的な情感(ムード)を聞けば、この旋律はもはや生の執着
を捨てて来世に喜びを見出そうとする・静かな祈りの音楽に聞こえるかも知れ
ません。その要素はもちろんあります。そのことはアイーダとラダメスは苦し
い息のなかでも・決してもがいたり暴れたりしていないことで分かります。し
かし、ヴェルディは音楽のなかにちゃんと凄惨な「死」を書き込んでい ます。
死は彼らにとって甘美なものであって・歌唱はもちろん美しく歌われなければ
なりませんが、ヴェルディは「しかし、所詮それは死だ」ということを冷徹に
見据えています。これがヴェルディのリアリズムです。しかも残酷なほど・事
実を冷徹に直視しようとするリアリズムです。つまり、「アイーダ」最終場面
は非常に静かで清らかに聞こえますが、実は引き裂かれた音楽なのです。この
リアリズムは近松が「曽根崎心中」において・お初徳兵衛の心中場面を次のよ
うに描写していたことを思い出させます。 これが歌舞伎とオペラとの類似性を
考える時の大きな手掛かりであることは言うまでもありません。近松のリアリ
ズムとヴェルディのリアリズムはまったく同じなのです。
『眼(まなこ)もくらみ、手を震い、弱る心を引き直し、取り直してもなお震
い、突くとはすれど、切っ先はあなたへはずれ、こなたへそれ、二・三度きら
めく剣の刃、あっとばかりに喉笛に、ぐっと通るが、南無阿弥陀、南無阿弥陀、
南無阿弥陀と、刳り越し、刳り越す腕先も、弱るを見れば、両手を伸べ、断末
魔の四苦八苦、あはれと言うもあまりあり』 (「曽根崎心中」)
アイーダとラダメスの最後の二重唱が引き裂かれた音楽であることは・その旋
律だけであると聞き逃してしまいそうですが、ヴェルディはこの二重唱にふた
つの旋律を重ねて・その本質をより鮮明にする工夫をしています。ひとつはど
こか遠くからこの地下の墓室にまで聞こえてくる祭司たちの音楽です。それは
アイーダとラダメスにとってもはや空虚で残酷な音楽にしか聞こえません。も
うひとつはまったく別の意味を持ちますが、地上で喪服を着て・ラダメスの冥
福を祈るアムネリス が・アイーダとラダメスの歌に唱和する声です。その音楽
の引き裂かれた本質は地下墓室のアイーダとラダメス・地表にたたずむアムネ
リスという二重舞台によって視覚的にも実現されています。「アイーダ」上演
はコンヴィチュニー演出のような例外もありますが・ 最終場は二重舞台を使う
のが普通であり、それが台本のオリジナルの指定です。
「アイーダ」が観念的に「トリスタン」の影響を受けていることは先に触れま
した。実は「トリスタン」の模倣ではない・ヴェルディ独自のものがこの最終
場面の音楽にはっきり出ています。それはアイーダとラダメスの声が途切れた
音楽をアムネリスが引き継 いで曲が終わることです。「トリスタン」のイゾル
デの愛の死の最後でマルケ王が唱和するエンディングはあり得ません。アムネ
リスの声ををどう読むかということです が、これはアムネリスは「ラダメスよ、
あなたは死んでいくけれど・私は生きていきます」と言っているわけです。独
身を貫くか・尼になるのか・別の男と結婚するのか・幸せになるのか・不幸に
なるのか・ それは分かりません。そこに聞く者の想像の余地を与えていますが、
アムネリスがこれからも生きていくことは間違いありません。
「愛陀姫」の結末は原作と濃姫(アムネリス)の描写に確かに大きな相違があ
ります。濃姫は「私が嫁いでもこの国に決して争いが絶えることのないように」
と呪いの言葉を吐きます。ヴェルディの祈りの音楽 は「愛陀姫」の結末にそぐ
わないように思うかも知れませんが、 ヴェルディの書いた二重唱の旋律は実は
引き裂かれており・その本質において「愛陀姫」の時代物の結末に十分耐え得
るものだと吉之助は思います。ただし結末の濃姫の言葉の意味合いは変える必
要がありますが。そのことは後で考えることにします。
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その10:たそがれの音楽
マーラーの交響曲第5番・第4楽章(アダージェット)はルキノ・ヴィスコン
ティ監督の映画「ヴェニスに死す」に使われたおかげでマーラーの旋律のなか
で最も有名なもの になっています。マーラーの音楽については聖と俗の対立と
いうことがよく言われます。その言い方は正しいですが、そういうことからす
れば・このアダージェットは最もマーラー的でない楽章であると言えます。第
5楽章中間部においてアダージェットの旋律がカリカチュア的に回想されます。
マーラーにおいては美しい旋律はそのような形で自虐的に現れ・哀しい歌を歌
うけれど決して持続することなく・断片化せざるを得ないのです。これがマー
ラー的な聖の旋律の扱い方です。逆に言えば第5楽章で回想されるために・ひ
とつの楽章をかけて前の楽章 で聖の要素的なものを提示しているわけです。こ
れはイレギュラーなケースと見なければなりません。それは一刻(いっとき)
の幻想なのです。マーラー自身は第4・5楽章をまとめて・第5交響曲の第3
部という位置付けとしており、ふたつの楽章は切れ目なく演奏されます。アダ
ージェットそれ自体では音楽は完結しないと見るのが本当のところだと吉之助
は思います。
吉之助の聴くところではマーラーのアダージェットは「たそがれの音楽」です。
泉鏡花の考察で「たそがれの味」ということを書きました。たそがれに昼と夜
の境目はありません。そのような中間の世界に いつ入ったのかも分からないし、
気が付いたらそこにいるという感じです。そこは本来対立するはずのどちらの
要素も共存・交流するところの緩衝地帯なのです。
『このたそがれ趣味は、単に夜と昼との関係の上にばかり存立するものではな
い。宇宙間あらゆる物事の上に、これと同じ一種微妙な世界があると思ひます。
例へば人の行ひにしましても、善と悪とは、昼と夜のやうなものですが、その
善と悪との間には、又滅すべからず、消すべからざる、一種微妙なところがあ
ります。善から悪に移る刹那、悪から善に入る刹那、人間はその間に一種微妙
な形象、心状を現じます。』 (泉鏡花:「たそがれの味」」・明治41年3月)
しかし、マーラーのアダージェットが引き裂かれていないのではありません。
「ふたつの感情に引き裂かれている」と言う本質はマーラーの大事なキーワー
ドです。マーラーは現世的な未練に非常に強く引かれています。死を意識すれ
ばするほど・生がより一層いとおしく感じられ ます。楽しかったあの頃の思い
出・遂に実現できなかった若き日の夢や憧れ、そのような想念がマーラーの心
の底から浮かんでは消え・消えてはまた浮き上がる・そして哀しく歌う・時に
は狂おしいほどに身をさいなむ。マーラーのアダージェットはそういう音楽で
す。映画「ヴェニスに死す」 の最後のシーンで海岸の岸辺で太陽に向かってギ
リシア神話のアポロンのポーズを取るタッジオを見ながらアッシェンバッハが
こと切れます。この場面でのアダージェットの旋律が映像と分かちがたいほど
痛切に印象的に響くのは、ヴィスコンティがその旋律の文学的修辞を正しく利
用できているからにほかなりません。ベニスとはヨーロッパ人にとって 煌びや
かな過去の輝き・そしてもう取り戻せないあの日々なのです。
*映画「ベニスに死す」最終場面
http://jp.youtube.com/watch?v=FTP7XFVGnxQ
吉之助はマーラーの音楽を愛すること人後に落ちませんが、アダージェットの
旋律は「愛陀姫」の結末にまったくそぐわないと感じます。境目がない「たそ
がれの音楽」のなかに は愛陀姫と濃姫の二重舞台で象徴される対立構図がまっ
たく聴こえないことです。マーラーのアダージェットは確かに引き裂かれた音
楽ですが、生に引かれ・死に引き裂かれるふたつのベクトルは自分の心の内部
にあってせめぎ合い・ひとつをふたつに引き裂こうとする力です。それは「愛
陀姫が聖・濃姫が俗」と言う視覚的な割り切り構図と全然合わないものです。
「愛陀姫」において・このアダージェットの旋律は一体誰のために奏でられて
いるのでしょうか。愛陀姫と駄目助左衛門のためならば、ふたりは楽しかった
語らいの日々でも思い浮かべながら・現世への未練に引かれながら死んでいく
ということなのか。濃姫のためならば、ついに恋は叶わなかったが・駄目助左
衛門と結婚することを夢見たあの日々を思い出しながら・織田家への虚しい婚
礼の道を歩むということなのか。吉之助にはそのようにしか聞こえませんがね
え。吉之助が音楽が驚くほどセンチメンタルに使われていると言うのはそこの
ところです。
「愛陀姫が聖・濃姫が俗」の割り切り構図はまあそれはそれとしても、舞台上
に見える対立構図の裂け目を音楽でどう陰影を付けてより立体的に見せるかと
いうことが肝心です。そういう音楽の使い方になっていないと思います。むし
ろその逆で音楽が愛陀姫と濃姫の対立構図を弱め・他者的存在の影を弱め・観
客に問題の本質を意図的に見せないようにしているとさえ思われるセンチメン
タルな音楽の使い方です。これではヴェルディの「アイーダ」の最後の二重唱
をマーラーにわざわざ差し替えるだけの劇的必然がまったく見えません。
○「アイーダ」と「愛陀姫」・その11:リアリズムの音楽
「野田版・研辰」の幕切れではマスカー二の歌劇「カヴァレリア・ルステカー
ナ」・間奏曲が使われています。討ち果たされた辰次の死体が舞台に横たわる
なかで流れる音楽が とてもセンチメンタルに聴こえます。討手の平井兄弟が「
急に国に帰るのが嫌になった・人を殺したような気がする云々」と会話したり
するせいもありますが、さきほどまでのドタバタも怨みも消えてしまって・ど
こか「恩讐の彼方に」的な幕切れです。まあ昨今「カヴァレリア」間奏曲はヒ
ーリング音楽に使われるようですから・この幕切れに違和感を感じる方 はあま
りいないかも知れませんが、吉之助の耳には音楽がひどくセンチメンタルに聴
こえます。
マスカー二の歌劇「カヴァレリア」はイタリアのシチリア島の農村を舞台にし
た人情悲劇です。トゥリッドゥは村の娘サントゥッツァと婚約しますが、かつ
ての恋人ローラを忘れられず・逢引を重ねます。ローラはトゥリッドゥに自分
のところに戻ってくれと懇願しますが・彼は聞かず、ローラは怒って・ローラ
の夫アルフィオにこのことを告げます。この場面の直後に幕を下ろさないまま
無人の舞台に流れるのがこの間奏曲です。後半の場面ではアルフィオがトゥリ
ッドゥに決闘を申し込み・トゥリッドゥは殺されます。
ここでの間奏曲の役割のひとつは前場の雰囲気を沈静化して・後半への気分転
換のためのものです。間奏曲の清くひたすらに美しい旋律がこの後の惨劇の血
生臭さを際立たせて・より劇的な効果を増すということです。もうひとつの間
奏曲のとても重要な意味は、間奏曲の清らかさというのはシチリア島民の素朴
な聖母マリア信仰と強く結びついており・そこに救いを求める・許しを求める
切実な気持ちが渦巻いているということです。そのような美しい間奏曲がこの
人情悲劇の幕間で流される時、それは たんなる癒しの音楽では決してあり得な
いのです。歌劇「カヴァレリア」はヴェリズモ・オペラ(現実主義・自然主義
のオペラ)です。ヴェリズモ・オペラとしての「カヴァレリア」の意味を考え
れば、その間奏曲にはひたすらに救いと平安を願う気持ちと 、しかしその気持
ちが強ければ強いほど・それはこの世において実現されることはないだろうと
いう絶望が一層強くなるという・相反した感情が交錯する形で出ているという
ことです。それが「カヴァレリア」間奏曲の持つ有り得ない美しさとなって現
れるものです。ですから先ほどのマーラーのアダージェットと同様に「カヴァ
レリア」間奏曲も 引き裂かれており・しかもそれはそれ自体で完結しておらず、
その後の惨劇によってその意味が補完されるのです。「カヴァレリア」間奏曲
の美しさの後に 必ず残酷な現実が待っているということです。「カヴァレリア」
間奏曲を演劇で使用する時、このことがとても大事です。
*映画「ゴッド・ファーザー・パート3」最終場面
http://jp.youtube.com/watch?v=tgYnp8bsX-Q
このことをフランシス・コッポラ監督の「ゴッド・ファーザー・パート3」の
最終場面で見てみます。主人公のマフィアの親分コルリオーネが敵に襲われ・
その巻き沿いで彼の最愛の娘が死にます。ここでコルリオーネの脳裏に娘の思
い出・さらに自分の若き日の思い出(愛の日々)の映像がフラッシュバックで
出てきて、コルリオーネの孤独な死で映画が終わります。実は映画のこの場面
に も「恩讐の彼方に」的なセンチメンタル感じが少しあって・吉之助はコッポ
ラのコマ割りに問題が若干なくもないと思いますが、歌劇「カヴァレリア」の
意味を知るならば・もちろんコッポラの意図は明らかです。マフィアにシチリ
ア島の出身者が多いことはよく知られています。「カヴァレリア」はご当地オ
ペラであり・この曲が「ゴッド・ファーザー」に使われていること自体に暗喩
があり、西欧の観客はそのようにこの場面を見るのです。
「ゴッド・ファーザー」 ではマフィアの親分が主人公で・作品中では敵対する
人物・役に立たない人物・裏切り者などが親分の指示によって情け容赦なく・
虫けらのように次々と殺されます。殺された者たちにも妻があり・子供がいた
はずですが、彼らの嘆きは全然描かれていません。そのようなマフィアの親分
に・最愛の娘が殺された といって・大悲劇の主人公然と泣き叫ぶ資格などあろ
うはずがないのです。娘はマフィア抗争の犠牲者のひとりに過ぎませんし、娘
の死も自らの孤独の死も所詮身から出たサビです。そう考えれば「ゴッド・フ
ァーザー・パート3」の最終場面で「カヴァレリア」間奏曲が流れて・主人公
コルリオーネの死で終わる意味は明らかです。それは「救いはこの世にはない
・苦しみは死を以って終わる」ということです。死は単なる終わりに過ぎない。
これがマスカー二のリアリズムであり、コッポラのヴェリズモです。
ですから「野田版・研辰」で「カヴァレリア」間奏曲をどうしても使うならば、
吉之助なら・辰次が刀を研ぎながら「死にたくねえ・散りたくねえ・・」とつ
ぶやく場面でこの曲を使いますねえ。その方が曲の文学的修辞に沿うのです。
そしてその後で辰次が殺される場面は残酷なリアリズムで処理して・しかも幕
切れはあっけなく終える・平井兄弟の「国に帰りたくなくなった云々」の台詞
はカットする方が曲の余韻がはるかに生きてくるのです。日本の芝居でクラシ
ック音楽がよく使われるのは経費節約のため(オリジナル曲を作曲してもらう
には経費が掛かる)からかなと も思いますが、出来合いのクラシック音楽を舞
台音楽に利用するのは実はとても難しいことです。それには音楽に対する理解
力とセンスがとても要求されます。クラシック音楽・特にロマン派音楽は文学
的修辞と強く結びついていますから、ドンぴしゃり効果的に使える場面はおの
ずと限定されてくるからです。 巧く使えるならば効果は抜群ですが。ですから
日本の演劇が世界に通用するようになるためにも、演出家は旋律の持つ文学的
修辞を理解して・もっと論理的に音楽を使えるようになって欲しいと思います。
○「アイーダ」と「愛陀姫」・補足:ヴェルディの音楽
YouTubeの音源はいつまであるか分かりませんが、実際の音楽を聴きながらヴェ
ルディの音楽構造をちょっと考えてみたいと思います。(文中のタイミングは映
像での表示時間です。)
*1949年のトスカニーニによる「アイーダ」演奏会式上演の映像
http://jp.youtube.com/watch?v=L6kyk8AkdWs
まず1949年のトスカニーニによる歴史的な「アイーダ」演奏会式上演から
前奏曲を取り上げます。ヴェルディは「アイーダ」のために大規模な序曲を書
かず・ごく短い前奏曲を冒頭に置 きました。まず冒頭(0秒〜)に弦によるシ
ンプルで美しい旋律が奏でられます。祈りの感情にも似た旋律がやがて二本に
分かれて(15秒〜)絡み合うように静かに流れます。冷たい空気が感じられる
室内楽的な旋律は閉鎖された空間を 想起させます。それは明らかに第4幕での
ふたりの最後を暗示しており、冷たい石の墓室のなかで静かに眠るアイーダと
ラダメスの魂を古代から呼び出しているかのよう です。これは近松が「曽根崎
心中・観音巡り」においてお初の霊魂を呼び出す仕掛けをしたのとまったく同
じです。ふたつの魂は呼び出され・寄り添いながら少し高まって・また静まり
ます。ここ には確かに平安が感じられます。しかし、すぐに別の旋律が現れま
す。(1分11秒〜)これは第2幕の凱旋の場でも使われる祭司たちの合唱の
旋律です。これは世俗の象徴で あり・個人と対峙するものを表わします。その
旋律は最初は静かに奏でられていますが、次第に高まっていくとともに強く鋭
角的なリズムと音階が底から現れます。(1分29秒〜)この音階はごく短い
ものですが、無機的で強烈に響きます。まだ調性の枠のなかにある旋律ですが、
もう少しで無調になりそうな可能性を も秘めています。それは状況(他者的存
在)がこちらに向かって突然悪意を以って牙を剥き出すように感じられます。
この非人間的状況に対抗して・これを力づくで押さえ込もうとするかのように
冒頭の祈りの旋律が変形して現れます。(1分37秒〜) しかし、その旋律は
冒頭のように静かに奏でられるのではなく・明らかに強いストレスが掛かって
おり・歪んでいます。その旋律は「祭司たちの旋律は私たちが聴きたい旋律で
はない」と叫ぶアイーダとラダメスの声なのです。こうしてふたつの旋律の対
立のなかで、個人と・その尊厳を奪い取ろうとする存在との戦いが二度繰り返
されて短い前奏曲が終わります。
*1961年のNHKイタリアオペラでの「アイーダ」第4幕映像
http://jp.youtube.com/watch?v=62PN2RWIsRE
次に1961年のNHKイタリアオペラでの「アイーダ」第4幕・裁判の場を取り
上げます。シミオナートのアムネリスは谷崎潤一郎や武智鉄二が絶賛したもの
です。アムネリスが舞台に立ち・裁判は舞台裏で行われているという構図は、
舞台で見えないドラマの進行を傍らで右往左往するヒロインの心理変化で表現
していくヴェルディお得意の手法で・ヒロインの劇的表現力が要求される場面
です。この手法が 表すものは主人公がその最も大切とする者を守るために何ら
直接的関与ができない状況に置かれているということです。そこに圧倒的な状
況に対する無力感というものが表現されています。(同様の例として「トロヴ
ァトーレ」第4幕のレオノーラの「ミゼーレレ」 を挙げておきます。)まず司
祭たちがラダメスに「釈明せよ」を迫る場面の非情な音楽(3分30秒〜)が
秀逸です。ここで咆哮する金管はあの豪華絢爛たる凱旋行進曲での金管と同じ
響きであることに注意せねばなりません。 つまりこのことから逆にあの凱旋行
進曲に対するヴェルディの意図が明らかになります。ラダメスに対する問い掛
けは3回繰り返されます。ラダメス死刑の判決に怒ったアムネリスが祭司長ラン
フィスに怒りと呪いをぶつける場面 (7分27秒〜)は「アイーダ」の最も劇
的なシーンです。ここでのアムネリスの旋律は力強く・輝かしいもので、彼女
の心情は一点の曇りもないことを示しています。 この場面の管弦楽の伴奏はリ
ズムが踊っており・アムネリスを持ち上げるようにオケ全体が共感しているこ
とがお分かりになるでしょう。(この点については後ほどさらに詳細に検討し
ます。)対するランフィスの「彼は死なねばならぬ」という言葉は空しく響く
ばかりです。アムネリスが「呪いがあなたたちの上にあるように!」と叫んで
崩折れる場面の管弦楽の後奏(9分43秒〜)はとても印象的です。重いリズ
ムの上に・管の高いヴィヴラートが重なります。その割れた響きは権力が「働
け・働け、われらに逆らった者はみなこうなるのだ」とあざ笑うかの如くです。
それは後のショスタコービッチの交響曲のなかに出てきてもおかしくない未来
性を秘めた響きなのです。
(以下・次号の後編につづく)
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