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2008/09/07

日刊 なら情報! Vol. 3077

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       日刊  なら情報!!     2008.9.06  Vol. 3077
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ニュース・イベント・寺社の紹介等など、奈良に関する各種情報の中から、
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 ◇◆◇ 「第18回 宝蔵院流槍術興福寺奉納演武会!」 ◇◆◇
   http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/080927kohfuku.html


1 趣   旨
宝蔵院流槍術は、柳生流剣術と共に奈良が発祥の武道で武道です。その流祖は覚禅
房胤栄(かくぜんぼう いんえい)といい宝蔵院に住んでいました。
胤栄は450年前の人で、槍の修練に努め、猿沢池に浮かぶ三日月を突き鎌槍
(かまやり)の技を工夫し、宝蔵院流を創めたと伝えられています。
宝蔵院は興福寺の子院で、現在の国立奈良博物館旧館のあたりにあり、その道場
では明治の始めまで、実際に稽古が続けられていました。
宝蔵院流の槍は、通常の素槍に対し鎌槍と称する十文字形の穂先に特徴があります。
この鎌槍を活かして攻防に優れ、当時としては画期的な武器として「突けば槍 
薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにもはずれあらまし」との歌が伝えられ、江戸
時代を通して全国を風靡し、日本を代表する槍術として発展しました。
私どもは、宝蔵院流槍術を発祥の地奈良において後世に永く伝え、槍術文化の普及
発展を図るために、秋の恒例行事として宝蔵院ゆかりの興福寺の仏前に奉納し、
併せて多くの方々にご観覧いただく第18回目の奉納演武会を開催します。

2 主   催   奈良宝蔵院流槍術保存会
           http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/

3 後   援    法相宗大本山 興福寺
          財団法人 奈良市武道振興会
          社団法人 奈良市観光協会

4 開催日時    平成20年9月27日(土)13:00〜13:45

5 会   場   興福寺東金堂   奈良市登大路町(五重塔 北隣) 

6 次   第   演武奉納
          立会 宝蔵院流高田派槍術第二十世宗家 鍵田忠兵衛

          1 宝蔵院流高田派槍合せの型 表十四本
            鎌槍 免許   西生利浩 ・ 素槍 免許 美馬博幸
            鎌槍 免許皆伝 尾野好司 ・ 素槍 免許 土屋明洋
           2 宝蔵院流高田派槍合せの型 裏十四本
                    鎌槍 免許皆伝 榎浪伸和 ・ 素槍 免許 若林幹雄
                    鎌槍 免許皆伝 粕井隆  ・ 素槍 免許 長田眞男
                   3 宝蔵院流高田派槍合せの型 新仕掛七本 
                    鎌槍 宗家代行 一箭順三 ・ 素槍 免許皆伝 前田繁則
                   4 閉 会             

7 観   覧      無 料

8 摩利支天石法要 興福寺三重塔前
                  http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/marisiten.htm
                  平成20年9月27日(土)14:00〜

          ★ この情報は、宝蔵院 さんから頂きました。


   ◆ イベント情報、HP・サークルの紹介など
      みなさんからの書きこみお待ちしております。
     http://www2s.biglobe.ne.jp/~n-emiko/keijiban.htm


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  ★    ◇◆◇  <なら・今日の歴史>  ◇◆◇    ★
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大同五年(弘仁元年、810)九月六日
 平城上皇、平城京への遷都を命じる。
 生来病弱であられた平城(へいぜい)天皇は大同四年四月一日に退位され、
弟の神野親王に位を譲られた。嵯峨天皇である。当時は上皇の御所が一定して
いなかったため平城上皇は平安京の中を転々とした後、旧平城宮に御所を建て
ることとなり、側近のものと共に平城宮に遷られた。嵯峨天皇は兄を尊び皇太
子には兄の子高岳(たかおか)親王を立てたほか、兄の希望は何でもかなえる
ようにした。こうして最初のうちは表面上平穏に見えた。
 ところで平城上皇は延暦十七年(798)頃に妃としてかつて長岡京造営の
責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の孫娘を迎えられた。その時
娘と共に皇太子に近づいたのが藤原薬子(ふじわらのくすこ)であった。その
妃以上に薬子を寵愛する有様を嫌った桓武天皇により彼女は放逐されたが平城
の即位と共に呼び戻され、その寵愛を独占する状態であった。
 平城京に遷られた後も上皇のお側には薬子があり、何もかも思い通りになる
状況であった。嵯峨天皇もこれを何とかしたいと思いながらも兄への遠慮から
結局はなすがままになっていた。まるで平城上皇のいる平城京と嵯峨天皇のい
る平安京の二箇所に朝廷がある状態であった。
 そうして薬子の野望はいよいよとどまることなく、彼女の勧めによって平城
上皇は父の開いた平安京から平城京へ再び遷都することを命ずるに至った。こ
こに至って嵯峨天皇も遂に覚悟を決め、平城京を再び造営するため、と称して
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らに「人夫」を与えて派遣した。藤
原薬子の乱の勃発であった。
(日本後紀)

          ★ この欄は狸さん(oodanuki@yahoo.co.jp)の投稿によるものです
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